◆01それは心に起こる-Ⅱ ファリサイ人
文字数 2,388文字
神殿から夜明けの街を眺めていると、こちらへ続く、だらだらと長い上りの坂道に、下役たちが女を一人、引っ立ててくるのが見えた。
ひんやりと澄んだ空気のなか、境内 からは神聖な香 が漂ってくる。
角笛 の音も聞こえてくる。
夜明けとともに、朝の礼拝が行われているのだ。
眼下の街には、白茶けた四角い家がみっしりと建ち並んでいる。ゴルゴタの丘が構えるベセッタも、ヘロデの宮殿が残るシオンも、シロアムの池まで続く下の町も、どこも残らず日の光を浴びてきらめいている。
我がエルサレムは、美しく気高い街である。
「打ち合わせどおりだな」
俺の隣で、太った律法学者が縁なしの小さな帽子を頭にのせた。丈の長い黒衣をまとい、房付きの布を肩にのせた、見るからに暑苦しい風体の男だ。
後ろに控えていたファリサイ派の同士二人が待ちきれず、俺の横をすり抜けて、一行を迎えに急ぎ足で階段を下り始めた。俺もすぐさま後を追う。
我らが段を踏むたびに、金や銀の触れ合う音がかすかに響く。それぞれの首飾りや腕輪が揺れる音だ。心地よい富の音である。
階段を下り切って、下役らの一行と合流した。
下役は足を止めて一礼し、ぼろをまとった女の腕をつかんで、我らの前に引っ張り出した。
女は観念した様子で、従順である。うつむいているが、かなりの美女だ。
黒髪はゆるく波打ち、長いまつ毛の下には濡れた瞳、頬 はいかにもやわらかく、ふくよかな唇 はナツメヤシの実のように甘そうである。マグダラ、ダマスコ、あるいはネゲブ砂漠の向こうの血か。
瞬間、女のあえぐ顔が頭に浮かんだ。
闇に仄白 く浮かぶ乳房を手におさめ、すべらかな内股に押し入って黒髪を乱してやりたい。淫 らな欲望が胸に爆 ぜ、刹那 にそれは、女に対する怒りに変わった。
欲情を掻 き立てる女が悪い。
この女が悪い。
俺はファリサイ派だ。
律法を守り、いつもあなたに祈ってきた。あなたはご存知のはずだ。俺は決して悪くない。
俺は女を睨 みつけ、下役に質 した。
「現場に踏みこみ、目撃して捕らえたのだな」
「確かに」
彼は真面目に答えたが、口もとを卑猥 に歪 めた。
俺のなかで怒りの炎が燃え上がり、いまにも噴き出さんと逆 巻 いた。怒りの先はふしだらな女、女を買った男、女の裸を記憶した下役、この街を穢 して俺を惑わすすべてのものだ。
最近神殿の庭に陣取って、偉そうに教えをたれているあのみすぼらしい男もそうだ。
不義なもののすべてを、あなたに誓った義の炎で焼き尽くしてやりたい。
「なにをしている。早く来られよ」
階段の上で待っている律法学者が手招きした。
女は一度だけ顔を上げ、神殿を取り囲んでそそり立つ白壁に、祈るような視線を送った。
雨季が近いというのに、今日も雲一つない晴天である。日が高くなるにつれ、夜間に冷えた空気がじりじりと焼かれて熱を帯び、暑さが増してくる。
あの男は仮庵祭 を穢した。
ナザレから来たあの男だ。
弟子を連れ、神殿の庭で律法に反する教えをたれて、民の人気を得ているという評判の男!
我々の祖先ははるか昔、偉大なるモーセに率 いられてエジプトを脱出し、長く荒野 をさまよって天幕 に暮らした。
ようやくこのカナンの地にたどり着き、街を築いた今、年に一度、放浪の当時に思いを馳 せて皆が仮の庵 を建てて住む、それが仮庵祭である。
祭りは七日を通して行われ、その間、黄金の器でシロアムの池から水をくみ、神殿の祭壇に注ぐのがならわしである。
その神聖な行事を揶揄 してあの男は言ったそうだ。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」
自分をあなただとでも思っているのか! 高慢な言い草である。
民を騙 してエルサレムの秩序を乱す、あの男はとんでもない嘘つきだ。
そうでしょう、あなた。
さらに、あの男は律法を侮辱 したんですよ。
「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」と。
そんな弁を許せますか。
あんな生意気なやつは厳しく罰するべきなのに、あの男を捕らえるために赴いた下役や、ファリサイ派の議員であるニコデモまでが惑わされ、あいつの肩を持ったと聞く。
そこで我々の計画だ。
今日こそはあの男を訴えて、息の根を止めてやる。
姦通 の現場から引っ立ててきた女を突き出し、衆目の前でどうするべきか尋ねてやるのだ。
あの男がモーセの律法に従って「女を裁け」と答えれば、〝姦淫 した男女は、共に 石で打たれなければならない〟と定めるローマの律法に反する。逆に、「女を裁かなくてよい」と答えれば、〝姦淫してはならない〟とする、モーセの律法に反することになる。
あの男に、逃げ道はない。
神殿へ続く階段を一段上がるごとに、胸が高鳴る。
上り慣れた階段が、今日はやけに長く感じられる。
神殿の東にこんもりと盛り上がったオリーブ山をふと見ると、一面に繁るオリーブの木がたわわに実をつけている。
もうじき収穫が行われ、麓 の〝オリーブ油搾り場――ゲツセマネ――〟がにぎわうだろう。今日のこころみが首尾よく運べば、初搾 りのオリーブ油がとれる頃には、目 障 りなあの男の姿は神殿から消えている。
メシアであるはずがない。憎むべき、いかさま師だ。
そうでしょう、あなた。
ひんやりと澄んだ空気のなか、
夜明けとともに、朝の礼拝が行われているのだ。
眼下の街には、白茶けた四角い家がみっしりと建ち並んでいる。ゴルゴタの丘が構えるベセッタも、ヘロデの宮殿が残るシオンも、シロアムの池まで続く下の町も、どこも残らず日の光を浴びてきらめいている。
我がエルサレムは、美しく気高い街である。
「打ち合わせどおりだな」
俺の隣で、太った律法学者が縁なしの小さな帽子を頭にのせた。丈の長い黒衣をまとい、房付きの布を肩にのせた、見るからに暑苦しい風体の男だ。
後ろに控えていたファリサイ派の同士二人が待ちきれず、俺の横をすり抜けて、一行を迎えに急ぎ足で階段を下り始めた。俺もすぐさま後を追う。
我らが段を踏むたびに、金や銀の触れ合う音がかすかに響く。それぞれの首飾りや腕輪が揺れる音だ。心地よい富の音である。
階段を下り切って、下役らの一行と合流した。
下役は足を止めて一礼し、ぼろをまとった女の腕をつかんで、我らの前に引っ張り出した。
女は観念した様子で、従順である。うつむいているが、かなりの美女だ。
黒髪はゆるく波打ち、長いまつ毛の下には濡れた瞳、
瞬間、女のあえぐ顔が頭に浮かんだ。
闇に
欲情を
この女が悪い。
俺はファリサイ派だ。
律法を守り、いつもあなたに祈ってきた。あなたはご存知のはずだ。俺は決して悪くない。
俺は女を
「現場に踏みこみ、目撃して捕らえたのだな」
「確かに」
彼は真面目に答えたが、口もとを
俺のなかで怒りの炎が燃え上がり、いまにも噴き出さんと
最近神殿の庭に陣取って、偉そうに教えをたれているあのみすぼらしい男もそうだ。
不義なもののすべてを、あなたに誓った義の炎で焼き尽くしてやりたい。
「なにをしている。早く来られよ」
階段の上で待っている律法学者が手招きした。
女は一度だけ顔を上げ、神殿を取り囲んでそそり立つ白壁に、祈るような視線を送った。
雨季が近いというのに、今日も雲一つない晴天である。日が高くなるにつれ、夜間に冷えた空気がじりじりと焼かれて熱を帯び、暑さが増してくる。
あの男は
ナザレから来たあの男だ。
弟子を連れ、神殿の庭で律法に反する教えをたれて、民の人気を得ているという評判の男!
我々の祖先ははるか昔、偉大なるモーセに
ようやくこのカナンの地にたどり着き、街を築いた今、年に一度、放浪の当時に思いを
祭りは七日を通して行われ、その間、黄金の器でシロアムの池から水をくみ、神殿の祭壇に注ぐのがならわしである。
その神聖な行事を
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」
自分をあなただとでも思っているのか! 高慢な言い草である。
民を
そうでしょう、あなた。
さらに、あの男は律法を
「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」と。
そんな弁を許せますか。
あんな生意気なやつは厳しく罰するべきなのに、あの男を捕らえるために赴いた下役や、ファリサイ派の議員であるニコデモまでが惑わされ、あいつの肩を持ったと聞く。
そこで我々の計画だ。
今日こそはあの男を訴えて、息の根を止めてやる。
あの男がモーセの律法に従って「女を裁け」と答えれば、〝
あの男に、逃げ道はない。
神殿へ続く階段を一段上がるごとに、胸が高鳴る。
上り慣れた階段が、今日はやけに長く感じられる。
神殿の東にこんもりと盛り上がったオリーブ山をふと見ると、一面に繁るオリーブの木がたわわに実をつけている。
もうじき収穫が行われ、
メシアであるはずがない。憎むべき、いかさま師だ。
そうでしょう、あなた。