◆02今日まで私はドレイだった-Ⅳ パピルスの陰で
文字数 1,188文字
あたしの悩みなんかにかかわりなく、世界は一見、のどかだった。
空は青く澄み渡り、ナイルの流れは清々しく、風は優しい。葦は従順に、川風にそよいでいる。この美しい世界のいったいどこに、〝悪〟があるというのだろうか。
赤ちゃんを殺すほどの悪が――。
怒りが湧き上がってきた。
パピルスの森に身を隠し、葦の間に浮かんだ籠を見ていたら、とてつもない怒りが湧いてきたのだ。エジプト人はずるい、母は卑怯だ、父は情けない、アロンは勝手だ、そして――。
あたしは無力だ。
あたしの背丈の倍も、三倍も、高く伸びたパピルスの、太い茎を握りしめてあたしは泣いた。悔しくて、やるせなくて。
どうしてあたしたちは、こんなに貧しいんだろう。
エジプト人の女が誰しもつけている、きらきらしたビーズの腕輪を、あたしたちは手にできない。ヘブライ人というだけで。
なぜ? どうして?
寄留者 で、よそ者だから?
あたしたちの祖先は、カナンにいた羊飼いで、飢饉 にあってエジプトに逃れてきた。だけど無理やり押し入ったのではなく、先祖のヨセフが当時のファラオに許可をとり、認められて暮らしてきた(と、あたしは聞いている)。
信仰が違うから?
あたしたちはラーの神ではなく、始祖アブラハムに祝福を授けたという、あなたを信じている。
でもあたし、ラーの神も、あなたも、本質はあまり違わないんじゃないかって気がしてる。別々に呼ばれてはいるけれど。
だって、空はつながっているのでしょう。エジプトの空も、カナンの空も、空は空でしょう?
空は、人をわけ隔てしない。差別なんかしないもの。
あなただって、人をわけ隔てしないはずだもの。
どうして、あたしたちヘブライ人は、エジプトを出てカナンに戻らないのだろう。このままエジプトにいたら、男子を絶たれて滅ぼされてしまうのに。父も母も、大人たちはなにをぐずぐずしているのだろう。
むざむざドレイで居続けているなんて。
どうして? 教えてください、あなた。
***
パピルスを握っていた手がしびれてきた。立ちっぱなしで、足は棒みたい。
いつまで、ここにいたらいいのだろう? あたしは自問した。
結果を見届けるまで?
結果とはこの場合、籠が流されて、つまりは赤ちゃんが死ぬということで、それを見届けるまで帰れないのだとしたら、いっそいますぐ逃げて帰りたい! と、思ってしまう。頭のなかは、ぐちゃぐちゃだった。
赤ちゃんは、もうじき目を覚まし、おなかをすかせて泣くだろう。川の上は、寒いだろう。
見捨てて帰っていいわけがない。
教えてください、あなた。あたしはどうしたらいいんですか。
どうか、助けて。
そのときだった。人影が近づいてきた。王宮の方角から、四、五人の女が歩いてきたのだ。
空は青く澄み渡り、ナイルの流れは清々しく、風は優しい。葦は従順に、川風にそよいでいる。この美しい世界のいったいどこに、〝悪〟があるというのだろうか。
赤ちゃんを殺すほどの悪が――。
怒りが湧き上がってきた。
パピルスの森に身を隠し、葦の間に浮かんだ籠を見ていたら、とてつもない怒りが湧いてきたのだ。エジプト人はずるい、母は卑怯だ、父は情けない、アロンは勝手だ、そして――。
あたしは無力だ。
あたしの背丈の倍も、三倍も、高く伸びたパピルスの、太い茎を握りしめてあたしは泣いた。悔しくて、やるせなくて。
どうしてあたしたちは、こんなに貧しいんだろう。
エジプト人の女が誰しもつけている、きらきらしたビーズの腕輪を、あたしたちは手にできない。ヘブライ人というだけで。
なぜ? どうして?
あたしたちの祖先は、カナンにいた羊飼いで、
信仰が違うから?
あたしたちはラーの神ではなく、始祖アブラハムに祝福を授けたという、あなたを信じている。
でもあたし、ラーの神も、あなたも、本質はあまり違わないんじゃないかって気がしてる。別々に呼ばれてはいるけれど。
だって、空はつながっているのでしょう。エジプトの空も、カナンの空も、空は空でしょう?
空は、人をわけ隔てしない。差別なんかしないもの。
あなただって、人をわけ隔てしないはずだもの。
どうして、あたしたちヘブライ人は、エジプトを出てカナンに戻らないのだろう。このままエジプトにいたら、男子を絶たれて滅ぼされてしまうのに。父も母も、大人たちはなにをぐずぐずしているのだろう。
むざむざドレイで居続けているなんて。
どうして? 教えてください、あなた。
***
パピルスを握っていた手がしびれてきた。立ちっぱなしで、足は棒みたい。
いつまで、ここにいたらいいのだろう? あたしは自問した。
結果を見届けるまで?
結果とはこの場合、籠が流されて、つまりは赤ちゃんが死ぬということで、それを見届けるまで帰れないのだとしたら、いっそいますぐ逃げて帰りたい! と、思ってしまう。頭のなかは、ぐちゃぐちゃだった。
赤ちゃんは、もうじき目を覚まし、おなかをすかせて泣くだろう。川の上は、寒いだろう。
見捨てて帰っていいわけがない。
教えてください、あなた。あたしはどうしたらいいんですか。
どうか、助けて。
そのときだった。人影が近づいてきた。王宮の方角から、四、五人の女が歩いてきたのだ。