◆02今日まで私はドレイだった-Ⅱ 消えた産声
文字数 2,661文字
雨季はまだ遠いのに、陰気な雨音で目が覚めた。じっとりと寝汗をかいている。
とてもかすかな雨音で、近づいたり遠くなったりとなんだか無気味だ。あたしは寝台から起き上がり、耳を澄ませた。
違う。その音は雨ではなく、女の人のすすり泣きだ。
昨日あんなに元気のよかった赤ちゃんの泣き声は、今朝はぱたりと聞こえない。かわりに地を這うようなすすり泣きが響いてくる。耳をふさいでも、それは毛穴から忍びこんでくるみたいに、あたしを芯から冷えさせる。
赤ちゃんは、ナイル川に沈んだのか。暗く冷たい水の底に。
ただでさえ薄暗い家の中が、今日は一段と暗く感じられる。空気はどんよりと濁っている。大きな石を飲みこんだように胸が重く、あたしは押しつぶされそうだった。
暗がりの寝台で、母がうめき声をあげている。
父は昨日から労働に駆り出されていて帰ってこない。弟のアロンはまだ三歳で、あたしの横で寝ていたのだけど、あたしが起き出したおかげでぐずっている。母がまた低くうめいて、あたしを呼んだ。
「隣のおばさんを、早く。助産師はだめよ」
母は産気づいたのだ。
はじかれたように、あたしは走った。
助産師はだめ。かねてから、母に言い含められていたのでわかっている。生まれた子が男だったとき、巻き込んではいけないからだ。
隣のおばさんは、すぐに来てくれた。お湯を沸かすとか、布を多めに用意するとか、やることはいろいろあったけど、あたしに任されたもっとも重要な務めは弟のアロンをちょろちょろさせないこと。
アロンを連れて家の外に出ると、日射しが猛烈に暑かった。毛穴から汗が噴き出して、だけど、体の芯には冷たい重石が沈んだままだ。
暴力的な青空を仰いで、あたしは祈った。
あなたに祈ったんです。
どうか、無事にお産が済みますように。
不思議なことに、女の子でありますようにという祈りは、出てこなかった。女の子でも、男の子でも、母が無事で、元気に生まれてくれればいいと思った。
それでいいと。お産で死ぬ女の人は、少なくはなかったから。
からからに乾いた日干し煉瓦 の壁の向こうから、苦しそうにいきむ声が聞こえてくる。母が死んだらと思うと怖かった。
アロンがちょろちょろしないよう、あたしは小枝を拾って土の地面に絵を描いて、自分とアロンの気をまぎらわせた。太陽、ピラミッド、ナイル川、パピルス、パン、にんにく、羊、牛、野ガモ、スイカ、れんこん……。
食べられるものを描いてやると、アロンはとても喜んだ。
生まれてきたのは、弟だった。あたしにとっては、二人目の。
赤くてしわしわで、力いっぱい泣くことしかできないその子を、おばさんはお湯できれいに洗い、麻布にくるみ、母に抱かせた。
おばさんは無口で、とても悲しげな顔をしていた。だけど母は違っていた。あたしはアロンをともなって、そっと、アロンが騒がないよう注意しながら、母のそばへ近寄った。そして、見たのだ。
家のなかは薄暗い。そのなかで、赤ん坊を見下ろす母の目が、異様に力強い光を宿していたのを。
それはもう、ぞっとするほどに。
***
三か月の間、母は赤ん坊を隠し続けた。決して外へは出さず、自分も一歩も家から出ずに。その子は名前を与えられず、ただ「赤ちゃん」と呼ばれていた。
あたしたちの誰もが、やがて〝その日〟がきたときに、悲しみに耐えられるようにと予防線を張っていたのだ。その日というのは、赤ちゃんをナイル川にほうりこむ、その日のこと。
誰もが口には出さず、考えないようにしながらも、心の奥で知っていた。
アロンとあたしは、赤ちゃんのことを外で話してはいけないと、母から厳しく言われていた。
うっかり口を滑らせないか。
あたし自身もそうだけど、ともかくあたしは、アロンがぽろりとこぼさないかとはらはらし、気を張り続けているせいで疲れ果てた。まわりに住むヘブライ人は、知らぬふりをしてくれていたけれど。
もしもエジプト人にばれたら、一家全員、殺されるに違いない。父も、母も、アロンも、あたしも。あたしたちは、祈るしかなかった。
あたしは疲れ果ててしまいました。
どうか助けてください、あなた。助けて、助けて、助けて!
毎日、息苦しくて死にそうです。〝やがては〟というその日が今日こそやってくるんじゃないかと、毎朝不安で目が覚めます。押しつぶされてしまいそうです。
どこにも逃げ場はありません。
家のなかで赤ちゃんが泣いたら、夏だというのに、ぶ厚いウールの布を三枚もかぶって、そのなかであやさなくてはなりません。
母が外に出ないから、水くみや、食料の調達は、あたしの役目です。外に出るたび、エジプト人に見つからないか、変な疑いをかけられないかと緊張するし、怖い。人の目が怖いんです。
人と話すのも怖い。うっかり余計なことを言いそうで。壁にも、空にも、草の陰にも、雲の上にも、どこにでもエジプト人の目と耳が潜んでいるような気がします。
あたしはもう限界です。限界なんです。
だから――。
母はうたた寝しています。アロンは昼寝。父は労働に出ています。
赤ちゃんは、母の膝の上。すやすや寝息をたてています。
いまなら、できる。こっそりこの子を連れだして、ナイル川にほうりこんだら――。
なんてこと! あたしは一瞬、考えてしまいました。
そうしたら、楽になれる、と。
ごめんなさい、あなた。赦してください、あなた。どうかあたしをお赦しください。ついつい考えてしまった、一瞬、よぎっただけなんです。ちょっと浮かんだだけなんです。
赦して――。
なにかが、ふわりと頭にのった。温かくて、やわらかいものが。
がちがちにこわばっていた全身が、ふっとゆるむ。
母の手だ。やわらかい母の手――指先にはたこができ、関節は節くれだち、手のひらはあちこち荒れているけれど、あたしにはやわらかいと思える手――が、あたしの頭をなでている。
「起きてたの?」
おそるおそる、あたしは聞いた。
しかし母はそれには答えず、ただ静かに、息を漏らして言ったのだった。
「もう、隠してはおけないね」
涙があふれた。あたしの両目と、母の両目から。あたしはあろうことかほっとしていて、だけどそんな自分が許せなくて、どうしていいかわからなくて。
あたしたちが泣くと、赤ちゃんも泣いた。命の限り、泣いていた。
とてもかすかな雨音で、近づいたり遠くなったりとなんだか無気味だ。あたしは寝台から起き上がり、耳を澄ませた。
違う。その音は雨ではなく、女の人のすすり泣きだ。
昨日あんなに元気のよかった赤ちゃんの泣き声は、今朝はぱたりと聞こえない。かわりに地を這うようなすすり泣きが響いてくる。耳をふさいでも、それは毛穴から忍びこんでくるみたいに、あたしを芯から冷えさせる。
赤ちゃんは、ナイル川に沈んだのか。暗く冷たい水の底に。
ただでさえ薄暗い家の中が、今日は一段と暗く感じられる。空気はどんよりと濁っている。大きな石を飲みこんだように胸が重く、あたしは押しつぶされそうだった。
暗がりの寝台で、母がうめき声をあげている。
父は昨日から労働に駆り出されていて帰ってこない。弟のアロンはまだ三歳で、あたしの横で寝ていたのだけど、あたしが起き出したおかげでぐずっている。母がまた低くうめいて、あたしを呼んだ。
「隣のおばさんを、早く。助産師はだめよ」
母は産気づいたのだ。
はじかれたように、あたしは走った。
助産師はだめ。かねてから、母に言い含められていたのでわかっている。生まれた子が男だったとき、巻き込んではいけないからだ。
隣のおばさんは、すぐに来てくれた。お湯を沸かすとか、布を多めに用意するとか、やることはいろいろあったけど、あたしに任されたもっとも重要な務めは弟のアロンをちょろちょろさせないこと。
アロンを連れて家の外に出ると、日射しが猛烈に暑かった。毛穴から汗が噴き出して、だけど、体の芯には冷たい重石が沈んだままだ。
暴力的な青空を仰いで、あたしは祈った。
あなたに祈ったんです。
どうか、無事にお産が済みますように。
不思議なことに、女の子でありますようにという祈りは、出てこなかった。女の子でも、男の子でも、母が無事で、元気に生まれてくれればいいと思った。
それでいいと。お産で死ぬ女の人は、少なくはなかったから。
からからに乾いた日干し
アロンがちょろちょろしないよう、あたしは小枝を拾って土の地面に絵を描いて、自分とアロンの気をまぎらわせた。太陽、ピラミッド、ナイル川、パピルス、パン、にんにく、羊、牛、野ガモ、スイカ、れんこん……。
食べられるものを描いてやると、アロンはとても喜んだ。
生まれてきたのは、弟だった。あたしにとっては、二人目の。
赤くてしわしわで、力いっぱい泣くことしかできないその子を、おばさんはお湯できれいに洗い、麻布にくるみ、母に抱かせた。
おばさんは無口で、とても悲しげな顔をしていた。だけど母は違っていた。あたしはアロンをともなって、そっと、アロンが騒がないよう注意しながら、母のそばへ近寄った。そして、見たのだ。
家のなかは薄暗い。そのなかで、赤ん坊を見下ろす母の目が、異様に力強い光を宿していたのを。
それはもう、ぞっとするほどに。
***
三か月の間、母は赤ん坊を隠し続けた。決して外へは出さず、自分も一歩も家から出ずに。その子は名前を与えられず、ただ「赤ちゃん」と呼ばれていた。
あたしたちの誰もが、やがて〝その日〟がきたときに、悲しみに耐えられるようにと予防線を張っていたのだ。その日というのは、赤ちゃんをナイル川にほうりこむ、その日のこと。
誰もが口には出さず、考えないようにしながらも、心の奥で知っていた。
アロンとあたしは、赤ちゃんのことを外で話してはいけないと、母から厳しく言われていた。
うっかり口を滑らせないか。
あたし自身もそうだけど、ともかくあたしは、アロンがぽろりとこぼさないかとはらはらし、気を張り続けているせいで疲れ果てた。まわりに住むヘブライ人は、知らぬふりをしてくれていたけれど。
もしもエジプト人にばれたら、一家全員、殺されるに違いない。父も、母も、アロンも、あたしも。あたしたちは、祈るしかなかった。
あたしは疲れ果ててしまいました。
どうか助けてください、あなた。助けて、助けて、助けて!
毎日、息苦しくて死にそうです。〝やがては〟というその日が今日こそやってくるんじゃないかと、毎朝不安で目が覚めます。押しつぶされてしまいそうです。
どこにも逃げ場はありません。
家のなかで赤ちゃんが泣いたら、夏だというのに、ぶ厚いウールの布を三枚もかぶって、そのなかであやさなくてはなりません。
母が外に出ないから、水くみや、食料の調達は、あたしの役目です。外に出るたび、エジプト人に見つからないか、変な疑いをかけられないかと緊張するし、怖い。人の目が怖いんです。
人と話すのも怖い。うっかり余計なことを言いそうで。壁にも、空にも、草の陰にも、雲の上にも、どこにでもエジプト人の目と耳が潜んでいるような気がします。
あたしはもう限界です。限界なんです。
だから――。
母はうたた寝しています。アロンは昼寝。父は労働に出ています。
赤ちゃんは、母の膝の上。すやすや寝息をたてています。
いまなら、できる。こっそりこの子を連れだして、ナイル川にほうりこんだら――。
なんてこと! あたしは一瞬、考えてしまいました。
そうしたら、楽になれる、と。
ごめんなさい、あなた。赦してください、あなた。どうかあたしをお赦しください。ついつい考えてしまった、一瞬、よぎっただけなんです。ちょっと浮かんだだけなんです。
赦して――。
なにかが、ふわりと頭にのった。温かくて、やわらかいものが。
がちがちにこわばっていた全身が、ふっとゆるむ。
母の手だ。やわらかい母の手――指先にはたこができ、関節は節くれだち、手のひらはあちこち荒れているけれど、あたしにはやわらかいと思える手――が、あたしの頭をなでている。
「起きてたの?」
おそるおそる、あたしは聞いた。
しかし母はそれには答えず、ただ静かに、息を漏らして言ったのだった。
「もう、隠してはおけないね」
涙があふれた。あたしの両目と、母の両目から。あたしはあろうことかほっとしていて、だけどそんな自分が許せなくて、どうしていいかわからなくて。
あたしたちが泣くと、赤ちゃんも泣いた。命の限り、泣いていた。