◆02今日まで私はドレイだった-Ⅲ ナイル川へ
文字数 2,218文字
ナイル川は悠々 と、他人の顔で流れている。
雨季ほどではないけれど、あたしたちから見たらあり余るほどの水をたたえて。人間世界のあれこれなど、まったくあずかり知らぬというふうに。
水面は青くきらめいて、川辺には、背の高いパピルスが群生している。埃 っぽい空気にも、水の匂いが含まれている。
昼下がり、母とあたしは川のほとりにやってきた。赤ちゃんを入れた籠 を抱えて。
おそらく母は、この三か月の間ずっと考えていたのだ。
「もう、隠してはおけないね」と、つぶやいたあの日、母はてきぱきとあたしたちに指示を出した。
まずは、籠。
これはあたしがヘブライ人の老婆のところへ行き、パピルスで編んだぴったりの大きさのものを干しイチジクと交換してきた。老婆は籠づくりの名人で、年中編んではみんなと物々交換している。
父はどこか(たぶん工事か建設の現場)から、アスファルトとピッチを失敬してきた。籠に防水をほどこすためだ。ちなみにピッチっていうのはアスファルトに似ていて、もっとねばねばした黒いもの。
アスファルトに布を浸し、それを籠の表面に貼りつけていく。さらに、隙間 をピッチで埋める。これは母とあたしでやった。一応は、アロンも手を真っ黒くして手伝ってくれた――面白がって遊んでいただけだけど。
母はなにをしようとしているのだろう。
頭の中の疑問符は、しかし口には出さなかった。話しているところをエジプト人に聞かれでもしたら、たいへんだ。きっとそういうこと――エジプト人に聞かれたらまずいようなこと――をしているのだという、そのくらいの意識は、あたしにだってあったから。
籠にほどこしたアスファルトとピッチがすっかり乾いた今朝、母はどこから調達してきたのか、真新しい亜麻 布で赤ちゃんをくるみ、たっぷり乳をのませて籠に寝かせた。そして、あたしを連れて家を出たのだ。
その籠を携えて。
川辺に人の気配はなく、赤ちゃんはまだ眠っている。
母は一度立ち止まり、籠をあたしに手渡して、サンダルを脱いだ。あたしたちのサンダルは、エジプト人が履いているような革でつくったものではなく、パピルスを編んだ粗末なもの。
裸足になった母が、再び籠を持ってくれたので、あたしもならってサンダルを脱いだ。
無言で母は歩き出した。
籠を抱え、河畔に揺れる葦 の茂みに分け入っていく。
川の音が絶え間なく、鼓膜にまとわりついてくる。はるか彼方から流れてくる水の音だ。
もしも時の流れに音というものがあったなら、こんな感じなのかもしれない。穏やかでいて、厳然と、遡 ることを許さない。人の抗 いなど無意味だと、涼しい顔で告げている、そんな音。
あたしも母を追って浅瀬に入った。
川の水はひんやりとしていて青臭い。足が泥にずぶずぶと沈み、流れる水にすねまでつかった。
母は、籠を葦の間に引っかかるようにして川面に浮かべた。なにか小声で祈っている。
どうか、御心 のとおりになりますように。
そう聞こえた。あなたに祈っていたのです。
あたしも心の中で、あなたに祈った。
どうか赤ちゃんを助けてください。
あたしたちのチカラでは、もうどうにもなりません。これ以上、どうしろっていうんですか。籠のなかで眠るあの子――まだ名前のない、あたしの下の弟――は、死ぬためにわざわざ生まれてきたんですか。
どうして死ななきゃならないの?
男だから? ヘブライ人だから? おかしいでしょ?
どうしてあなたは、そんなおかしなことをお赦 しになるんですか。
なんとかしてください、あなた!
祈っていたら、泣きそうになった。母も涙を浮かべていた。もう一秒も耐えられなくて、母もあたしも籠から手を離して岸に上がった。
あたしたちは無言だった。母もあたしも、交わすべき言葉を持たなかった。
無言のままでサンダルを履き、母は逃げるように走り去った。あたしも当然ついてくると思っていたのか、あるいは自分の気持ちで手いっぱいだったのか、ふり返りもせず、一目散 に。
でも、あたしの足は動かなかった。
母の背を見送りながら、耳は川の音に集中していた。
葦の折れる音はしないか、籠の沈む音はしないか、水音と風音の合間に、あやしい音が混ざらないかを注意深くうかがっていた。
そして、あきらめた。
あたしはこの場を離れられない。籠が気になって、ほうったまま立ち去ることなど、とてもできない。そんな自分を、認めざるを得ない。
観念して、体の向きを変え、川に目をやった。籠はまだ葦の間に浮かんでいる。
陽の光が、きらきらと舞っている。
葦の隙間から落ちる光、水面に反射する光、それらのなかで、籠はいかにも頼りなく、小刻みに揺れている。
あたしがここに残ったところで、なにかしてやれるわけじゃない。あの籠の行く末を見届けたところで、嘆きが増すばかりだろう。
わかっているけど、動けない。
あたしにできるのは、あの籠が浮かんでいる間じゅう、あなたに祈り続けることだけです。
だけど――。もしもあの籠がナイル川に流されたら、赤ちゃんを殺したのは、あなたでもエジプト人でもなく、母とあたしということに、なるんじゃないだろうか。
雨季ほどではないけれど、あたしたちから見たらあり余るほどの水をたたえて。人間世界のあれこれなど、まったくあずかり知らぬというふうに。
水面は青くきらめいて、川辺には、背の高いパピルスが群生している。
昼下がり、母とあたしは川のほとりにやってきた。赤ちゃんを入れた
おそらく母は、この三か月の間ずっと考えていたのだ。
「もう、隠してはおけないね」と、つぶやいたあの日、母はてきぱきとあたしたちに指示を出した。
まずは、籠。
これはあたしがヘブライ人の老婆のところへ行き、パピルスで編んだぴったりの大きさのものを干しイチジクと交換してきた。老婆は籠づくりの名人で、年中編んではみんなと物々交換している。
父はどこか(たぶん工事か建設の現場)から、アスファルトとピッチを失敬してきた。籠に防水をほどこすためだ。ちなみにピッチっていうのはアスファルトに似ていて、もっとねばねばした黒いもの。
アスファルトに布を浸し、それを籠の表面に貼りつけていく。さらに、
母はなにをしようとしているのだろう。
頭の中の疑問符は、しかし口には出さなかった。話しているところをエジプト人に聞かれでもしたら、たいへんだ。きっとそういうこと――エジプト人に聞かれたらまずいようなこと――をしているのだという、そのくらいの意識は、あたしにだってあったから。
籠にほどこしたアスファルトとピッチがすっかり乾いた今朝、母はどこから調達してきたのか、真新しい
その籠を携えて。
川辺に人の気配はなく、赤ちゃんはまだ眠っている。
母は一度立ち止まり、籠をあたしに手渡して、サンダルを脱いだ。あたしたちのサンダルは、エジプト人が履いているような革でつくったものではなく、パピルスを編んだ粗末なもの。
裸足になった母が、再び籠を持ってくれたので、あたしもならってサンダルを脱いだ。
無言で母は歩き出した。
籠を抱え、河畔に揺れる
川の音が絶え間なく、鼓膜にまとわりついてくる。はるか彼方から流れてくる水の音だ。
もしも時の流れに音というものがあったなら、こんな感じなのかもしれない。穏やかでいて、厳然と、
あたしも母を追って浅瀬に入った。
川の水はひんやりとしていて青臭い。足が泥にずぶずぶと沈み、流れる水にすねまでつかった。
母は、籠を葦の間に引っかかるようにして川面に浮かべた。なにか小声で祈っている。
どうか、
そう聞こえた。あなたに祈っていたのです。
あたしも心の中で、あなたに祈った。
どうか赤ちゃんを助けてください。
あたしたちのチカラでは、もうどうにもなりません。これ以上、どうしろっていうんですか。籠のなかで眠るあの子――まだ名前のない、あたしの下の弟――は、死ぬためにわざわざ生まれてきたんですか。
どうして死ななきゃならないの?
男だから? ヘブライ人だから? おかしいでしょ?
どうしてあなたは、そんなおかしなことをお
なんとかしてください、あなた!
祈っていたら、泣きそうになった。母も涙を浮かべていた。もう一秒も耐えられなくて、母もあたしも籠から手を離して岸に上がった。
あたしたちは無言だった。母もあたしも、交わすべき言葉を持たなかった。
無言のままでサンダルを履き、母は逃げるように走り去った。あたしも当然ついてくると思っていたのか、あるいは自分の気持ちで手いっぱいだったのか、ふり返りもせず、
でも、あたしの足は動かなかった。
母の背を見送りながら、耳は川の音に集中していた。
葦の折れる音はしないか、籠の沈む音はしないか、水音と風音の合間に、あやしい音が混ざらないかを注意深くうかがっていた。
そして、あきらめた。
あたしはこの場を離れられない。籠が気になって、ほうったまま立ち去ることなど、とてもできない。そんな自分を、認めざるを得ない。
観念して、体の向きを変え、川に目をやった。籠はまだ葦の間に浮かんでいる。
陽の光が、きらきらと舞っている。
葦の隙間から落ちる光、水面に反射する光、それらのなかで、籠はいかにも頼りなく、小刻みに揺れている。
あたしがここに残ったところで、なにかしてやれるわけじゃない。あの籠の行く末を見届けたところで、嘆きが増すばかりだろう。
わかっているけど、動けない。
あたしにできるのは、あの籠が浮かんでいる間じゅう、あなたに祈り続けることだけです。
だけど――。もしもあの籠がナイル川に流されたら、赤ちゃんを殺したのは、あなたでもエジプト人でもなく、母とあたしということに、なるんじゃないだろうか。