◆01それは心に起こる-Ⅳ 若い男

文字数 1,516文字

 柘榴(ざくろ)を落としちゃったじゃないか! まだ食いかけだったのに。
 どついてきたやつに文句を言おうとしたけれど、いかめしい律法学者で思わず引いた。続いて金ぴかの装身具をつけた男らと、ぼろをまとった女が通った。
 女が横を通るとき、甘酸っぱい匂いがした。男と女の体液の匂いだ。女の肌はなまめかしくて、横顔はすごくきれいだった。
「ファリサイ派の連中だ。女は娼婦(しょうふ)だろう」
 隣に座っていた(じい)さんが、低い声で教えてくれた。

 彼らはラビの前まで進み入り、息巻いた。
「先生、この女は姦通(かんつう)をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」
 律法学者はしたり顔だ。
 (にぶ)い僕でもぴんときた。彼らはラビを()めにきたんだ。
 ラビはかがみこみ、指で地面になにか書いている。ラビだって男だ。女を抱いたことはあるのだろうか。
「お答えください。あなたのお考えを教えていただきたくて、わざわざやって来たのです」
 彼らはしつこく問い続けた。

 僕たちは立ったまま、誰一人去ろうとはせず、状況に注目している。ラビはなんと答えるか、皆が固唾(かたず)()んで待っているのだ。
 乾いた風が青空を()でた。
 どこから迷いこんだのか、首と足の長い鳥が一羽、敷石(しきいし)の上に降り立って、かん高く一鳴きしてから再び羽ばたき、僕らの頭上をこえてガリラヤ湖の方へ飛んでいった。
 ラビが唐突に身を起こした。
 面長(おもなが)輪郭(りんかく)に、黒褐色の長髪と(ひげ)。瞳は遠くを見ているようだ。勇壮(ゆうそう)ってやつとは対極(たいきょく)の表情をたたえて、ラビはけれども、落ち着き払って口を開いた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

 ファリサイ派の男たちは絶句した。
 律法学者は口をもごもごさせている。
 ラビはまた身をかがめて地面になにか書き始めた。
 僕は妻を(めと)っていない。だから本来は、女を抱いたことなどあってはいけないはずだけど、一度だけ兄たちが「手ほどきしてもらえ」と言って娼婦をあてがってくれたことがある。
 うんと年上の気のいい人だった。僕の鼻の横には昔から、目につく大きな黒子(ほくろ)があり、けっこう気にしているんだけど、それを彼女は「男らしくてすてきだ」と言ってくれた。
 彼女としたことに、今の今まで罪を覚えたことはない。だけど。
 僕は罪を犯していないと言えるのだろうか?

 この女に向かって石を投げる資格が、僕にあるのか。でも投げないと、罪を犯したことがあると認めることになる。僕は罪に問われるだろうし、もしかすると相手をしてくれた気のいい娼婦もただでは済まない。
 いっそ過去には目をつぶり、知らんふりして石を投げるか。
 罪なき者として? それじゃあ嘘だ。それこそ罪だ。どうしたらいいんだ。
 天のあなた、教えてください。僕はいったいどうしたら……。
 ああでもいつだって、あなたの声は僕には聞こえたことがない。

 助けを求め、僕は(となり)の爺さんに目をやった。彼は深い(しわ)の刻まれた顔で泰然(たいぜん)と事態を眺めている。どうするか、もう決めているみたいだ。
 そもそも言い出しっぺの律法学者たちはなぜ、とっとと石を投げないのか。誰か一人が投げてくれたら踏ん切りがつく。迷いを捨て、勢いで僕も投げられる。
 だけど、そんなんでいいのか僕は?
 ねえ、そうですよね、どうか教えてください、天のあなた。
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