◆03カナンへの選択-Ⅰ リベカ:予感

文字数 2,005文字

 あなたはなぜ、わたしをこのようにおつくりになったのですか。
 空を見上げ、何度問いかけてきたことでしょう。
 ハランの空は、今日もつかみどころのない青さで荒野(あらの)彼方(かなた)へ広がっていて、わたしを見つめ返してはくれません。

 父方の祖父であるナホルおじいちゃんの兄のアブラハムという人は、あなたに聞き従って『祝福』を与えられている、そう教えられて育ちました。一族の間で(ほこ)らしげに語られている物語です。
 アブラハム大伯父(おおおじ)さんは若いころ、妻のサラと、ロトという名の(おい)を連れ、ナホルおじいちゃんやほかのみんなをハランに残して、あなたとの約束の地であるカナンへと旅立って行った――。語り部たちはありありと見てきたように話します。

 カナン。
 その響きは、どういうわけか、わたしの胸をときめかせました。
 見知らぬ土地には希望があると、期待するから?
 そこへ行けば、あなたに会えるかもしれないと思うから?
 自分でもわかりません。
 カ、ナ、ン。
 とにかく、わたしはその言葉を、慎重に舌の上で転がして、未知のときめきの輪郭(りんかく)を確かめるように、じっくりと時間をかけて味わいます。そんなことをしたところで、正体をつかめるはずもないのですが。

 そういえば、アブラハム大伯父さんの、出立当時の名は〝アブラム〟だったと聞きました。サラのほうは、たしか〝サライ〟。
 大伯父さんが99歳のときに、あなたが大伯父さんを『多くの国民の父』とすると約束し、名を改めるよう言ったので、アブラハムとサラになったとか。
 大伯父さんには、あなたの声が聞こえていた。そういうことなんですね。

 わたしにも、あなたの声が聞こえる日は、くるのでしょうか。
 永遠にこないでしょうか。
 いいえ、くるともこないとも限らないのだから今度こそと願いをこめ、わたしは空を仰いで問いかけます。
 あなたはわたしに、なにをお望みなのですか、と。
 でもいつだって返ってくるのは、風が荒野を駆ける音ばかり。わたしが得るのは落胆(らくたん)と、荒野の風が胸の底に残していった、色あせたため息だけです。

 今日も、ハランの空は絶望的に晴れています。
 日はすでに傾きかけているものの、いまだ鋭さを失ってはおらず、大地は干からび、まばらに生えた草は弱弱しく(こうべ)を垂れ、石は焼け、肌は熱し、世界は乾ききってあえいでいました。
「リベカ、外にいるのなら、水を()んできて」
 熱風(ねっぷう)に舞い上げられた土埃(つちぼこり)が、砂色の幕になって視界を(さえぎ)る向こうから、母がわたしを呼びました。日干(ひぼ)煉瓦(レンガ)の家の戸口で、素焼きの水がめを差し出しています。
 わたしは汗ばんだ手で(ひたい)とまつ毛と(ほほ)についた砂を払い、足早に近寄りました。
 母は無言で、空っぽの水がめを押しつけてきます。わたしも黙って受け取り、背を向けます。

 母はわたしを、あまり好きではないらしい。そして、わたしに対する母の態度は、どうやら父に新しい側女(そばめ)ができるたびに冷えていく。
 そう悟ったのは、月のものがはじめてきた少しあとです。
 悲しかった? そうですね、悲しくはありました。けれども、たぶん、さみしくはなかったと思います。乳母(うば)のデボラがいてくれたおかげで。
 愛してくれない相手の愛を()うても(むな)しいだけ。いつからか、わたしはそんなふうに考えて、自分の心を逃がしていました。

 水汲みは女の仕事です。
 でもこれが、ほんとうに、あなたがわたしに望む働きなのでしょうか。悩んでも、答えの切れ(はし)すら、見つけることはできません。
 井戸は町はずれの泉にあります。
 体に巻きつけた亜麻(あま)布のワンピースが途中ではだけないように、腰のひもを結び直し、水がめを頭にのせて、わたしは歩きだしました。かめが空なので、往路は楽です。

 歩きなれた道でした。
 でも今日は、わずかにどこかが違っている、そんな奇妙な感じがありました。
 乾いた土は、(あや)うい熱気を帯びています。土色の四角い家々は、どれもやけに濃い影をまとい、静まりかえっているようです。光と影の境界には、ごく狭い隙間(すきま)があるみたい。
 背中を流れる汗がのろのろと肌のきめを()めていき、その感触が、いつにも増して不快でした。

 砂埃(すなぼこり)をかぶったエニシダの(しげ)みが増えてきたら、泉はもうすぐそこです。
 井戸のほとりのオリーブや、イチジクの木が見えてきました。
 その木陰に、今日は、駱駝(らくだ)の姿がありました。何頭もの駱駝です。見慣れない、旅人の一行です。
 遠方から〝なにか〟がやってきた。予感めいた胸騒ぎが、わたしを襲いました。
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