◆01それは心に起こる-Ⅴ 夫のある女

文字数 1,729文字

 ベールで顔を隠し、人垣(ひとがき)の後ろから男たちの表情を観察しています。
 だいたいが目をせわしく動かしたり、下を向いて考えこんだり、まあ、動揺しているのでしょう。わたくしの夫も例外ではありません。
 夫はちょうど横顔の見える位置にいて、(ほほ)に空気をためています。ただでさえ丸い顔がいっそうふくれ、()れたイチジクの実にそっくりです。あれは、やましいことがあるときの顔。
 このところ夫が毎朝出かけるので、今日こそはと後をつけてまいりました。
「神殿に最近現れたラビの話を聞きに行く」という説明は、どうやら嘘ではなかったようです。ひそかに第二妻を(めと)り通っているのではと疑っていましたから、ひとまず安心したのですが、そこへこの騒ぎ。

 なぜ石を投げないの。
 夫に詰め寄りたい気持ちです。早く石を投げて潔白を証明してほしい。でないと確信してしまうじゃないですか。
 ずいぶん昔のことですが、わたくしが最初の子を身ごもっていたとき、夫が商売女の匂いをつけて帰ってきた日がありました。わたくしがなにも言わなかったのをいいことに、すっかり(くせ)になったらしく、度々繰り返されてきたのです。
 でも黙って耐え、あえてはっきり尋ねて確かめたりはせずに今日まで夫婦を続けてきました。ここで夫が石を投げてくれたら、これからは晴れやかな心持ちで妻としてつかえてゆけます。
 さあ早く!

 どうしてだれも投げないのでしょう。
 いかがわしい商売女など、一人残らずこの世からいなくなってしまえばいいのに。ああいう女がいるから、世の夫が浮気をするのです。商売女を憎まない妻がいるでしょうか。
 恥じらいも、たしなみもない、はしたない者たち。
 妻の敵、いえ女の敵です。
 いっそわたくしが石を投げてしまいたい。でも、最初に投げたら(いや)でも目立ち、後をつけたと夫にばれてしまいます。
 ああどうか、このなかの誰かに早く勇気をお与えください。
 あなたさまに祈ります。どうかお導きください。わたくしたちが、み心にかなう働きができますように。

 視界の端で人影が動きました。知的な白髪(はくはつ)の老人です。
 いよいよ投げる、あの老人が最初の石を――。
 皆の視線が集まりました。ところがです。老人は何もしないでこちらに背を向け、ゆっくりと歩き出したではありませんか。輪を離れ、異邦人の庭から去っていきます。
 どよめきが起きました。
 続けて、動いたのは黒子(ほくろ)の若者。どこか安堵(あんど)した様子で小走りに老人を追いました。
 なんということでしょう。彼はわたくしの息子くらいの年頃です。あんな若者が、すでに罪を犯したと? そんなふうには見えません。なぜ彼は、自信を持って石を投げなかったの。

 瞬く間に、人垣がほどけました。
 一人また一人と輪から抜けて去っていきます。夫も乗り遅れまいと、にわかに向きを変えました。
 その拍子に、目が合ってしまったじゃないですか! (あわ)ててベールで顔を押さえましたが、おそらく気づかれたと思います。しまった。
 後をつけたこと、どうやって言い訳しましょう。夫はわたくしを責めるでしょうか。
 それよりなぜ石を投げなかったのか、夫を問い詰めるべきでしょうか。
 もしも、過去に商売女を買ったと告白されたら赦せるでしょうか。
 去る人の足音や衣擦(きぬず)れの音、話し声に耳をふさがれ、頭は混乱するばかりです。

 かん高く鳥が鳴きました。
 我に返ると、知らぬ間に(こぶし)を握りしめておりました。手のひらに自分の(つめ)(あと)がくっきりとついています。(わき)の下には冷たい汗をかいています。
 最後の一人になる前に、急いでこの場を離れなくては。
 どうしようもない感情が胸いっぱいに渦巻(うずま)いて、いてもたってもいられません。去る男たちのふっ切れた顔、それを見て腹が立つのに不思議と清々(すがすが)しさをも覚えてしまう、この悔しさと割り切れなさ。
 その正体は――いいえ絶対に、うしろめたさなどではありません。
 そうでしょう? どうかそうだと言ってください、あなたさま。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み