◆03カナンへの選択-Ⅲ リベカ:星
文字数 2,553文字
兄のラバンは、泉の一行 を迎えに出かけていきました。
わたしは母の視線をかわし、小間使 いたちと一緒に、客人をもてなす準備にかかりました。フェルトの敷物を出し、パンや羊の肉を焼き、スープとディップとデザートをつくるための材料を、家じゅうのかごやかめをのぞいてかき集め、しかし心は、先ほど井戸で起こった不思議な出来事を、何度も思い返してしまいます。
***
その老人は、十頭の駱駝 と幾人かの従者をはべらせて、井戸のほとりで祈っていました。
白い髭 をたくわえて、毛織物のマントを羽織 り、亜麻 の衣に羊毛の房 を垂らした帯を結んでいて、一見して、盗賊やならず者の類ではないとわかりました。荷の量からして、商人でもありません(隊商であればもっと多くの荷があるはず)。
水を求めて立ち寄った、しかるべき身分の旅の者。
わたしはそう判断し、老人の祈りの邪魔 をしないよう、静かに井戸に下りました。
井戸の穴は、天に向かってぽっかりと大きく地面に穿 たれています。穴の縁 は低い石垣に囲まれていて、その一部が、人が出入りできるように途切れています。
水を汲 むためには、そこから穴の底まで降りていかねばなりません。
穴の壁面には、螺旋 状に階段がしつらえられていて、それを壁伝いに下っていき、底にたまっている水を水瓶 に汲んで、再び階段を上がるのです。
井戸のなかはいつもどおり薄暗く、ひんやりとしていて静かでした。足音が不気味に反響し、深く下りていくにつれて空気は冷え、水の匂いが濃くなってきました。そして最下部には、闇を湛 えた水面が待っています。
怖がる女もいるのですが、わたしは井戸の底で感じる静かな孤独が、嫌いではありませんでした。
空の水瓶を頭から下ろし、両手で持って、暗い水面に沈めて水を汲みます。水は冷たく、触れた瞬間に別世界への扉が寸刻 現れる、そんな心地になるのはわたしだけでしょうか。
水を孕 んで重くなった水瓶を引き揚げ、いったん足元に置いてふり仰ぐと、地上は嘘 のように遠く、そそり立つ壁に360度をはばまれた暗い視野の真ん中に、まるく切り取られた空が浮かんでいました。
あなたは、あの空のはるかどこかにいるのでしょうか。
アダム、セト、エノシュ、ケナン、マハラルエル。
階段を一段上るごと、アダムから続く系譜をたどって歩みを数えるのが、わたしの習慣です。
イエレド、エノク、メトシェラ、レメク、ノア。
箱舟でその名を知られるノアは、アダムから数えて十代目。ここで階段も十段です。
セム、アルパクシャド、シェラ、エベル、ペレグ。
女は男の肋骨 からつくられた。だから女は男に仕えねばならないのだと、男たちは譲 りません。けれど、どうにも胡散 臭い。あなたは、はじめに『人間』をおつくりになったのでしょう? そしてその『人間』を、男と女に分けられた。
だから本来、男と女に上下はない。
それが真実ではないかと、わたしには思えます。
いつかあなたが真相を、教えてくださる日はくるのでしょうか。
レウ、セルグ、ナホル、テラ、アブラハム。
アダムから数えて二十代目に、アブラハム大伯父さんが登場します。ここで階段も二十段。これを地上に出るまで、わたしは心の内で繰り返します。
地上に出ると、あの老人が待ち構えていました。
「水瓶の水を、少し飲ませてください」
いきなり言われて驚きましたが、荒野 を渡ってきた旅人に水を求められて断る理由はありません。
しかも今日は、水を汲みにくる前から世界が微妙におかしかった。そのおかしな波長の延長上で、この出来事も起こっている。そんな気がしてなりませんでした。
「どうぞ」
わたしは頭上から水瓶を降ろし、差し出された老人の両手に向けて傾けました。
「お飲みください」
水は美しい生き物のように乾いた掌 を濡らし、老人は手首のあたりに唇 をつけてうまそうにすすりました。汲んだばかりの水ですから、清涼でしょう。
従者たちにもすすめようと目を配ると、しかし彼らは持参した革袋からめいめいに水を飲んでいました。
水があるのに、わたしに水を所望 した?
不思議でしたが、それより駱駝 が気になりました。
家畜の水飲み用の水槽はすっかり干上がっていて、駱駝たちがまだ水を飲ませてもらっていないのは、一目瞭然 でしたから。
「駱駝にも水を汲んできて、たっぷり飲ませてあげましょう」
私がそう言うと、老人は両目を見開き、のど骨を大きく上下させ、どういうわけか、うち震えているようでした。
この人たちは、自分だけ水を飲んで、駱駝には飲ませてやらないつもりだろうか。
疑問でしたが、いずれにしても、問答するより動いてしまったほうが早い。わたしは水瓶の残りの水を家畜用の水槽に注ぐと、踵 を返して井戸の底へと急ぎました。
従者らは一人として、手伝おうとはしませんでした。
結局、わたしは一人で何度も地上と井戸の底とを往復し、駱駝に水を汲み続けたのです。
最後には、両脚が石のように重くなり、自分のものではないようでした。
井戸の底で、この水を汲んで上がったら、今日はもう二度と井戸には下りられない、それより地上へたどりつけるかどうか――突如 そんな不安に襲われて、わたしは天を見上げました。
井戸の闇の真ん中に、薄紫 に暮れかかった、まるい空が浮かんでいました。そのとき、不意に思ったのです。
この町で、わたしはずっと息苦しかった。
井戸の底でなら、いつも楽に息ができた。
闇の底から見上げれば、どんな空も、どんな小さな星の光も希望になります。
どうか、道をお示しください。
はじめて、そんなふうに祈りました。
そして、気がついたのです。これまでわたしは、あなたに祈るとき、「なぜ」と問いかけてばかりいたことに。
わたしは母の視線をかわし、
***
その老人は、十頭の
白い
水を求めて立ち寄った、しかるべき身分の旅の者。
わたしはそう判断し、老人の祈りの
井戸の穴は、天に向かってぽっかりと大きく地面に
水を
穴の壁面には、
井戸のなかはいつもどおり薄暗く、ひんやりとしていて静かでした。足音が不気味に反響し、深く下りていくにつれて空気は冷え、水の匂いが濃くなってきました。そして最下部には、闇を
怖がる女もいるのですが、わたしは井戸の底で感じる静かな孤独が、嫌いではありませんでした。
空の水瓶を頭から下ろし、両手で持って、暗い水面に沈めて水を汲みます。水は冷たく、触れた瞬間に別世界への扉が
水を
あなたは、あの空のはるかどこかにいるのでしょうか。
アダム、セト、エノシュ、ケナン、マハラルエル。
階段を一段上るごと、アダムから続く系譜をたどって歩みを数えるのが、わたしの習慣です。
イエレド、エノク、メトシェラ、レメク、ノア。
箱舟でその名を知られるノアは、アダムから数えて十代目。ここで階段も十段です。
セム、アルパクシャド、シェラ、エベル、ペレグ。
女は男の
だから本来、男と女に上下はない。
それが真実ではないかと、わたしには思えます。
いつかあなたが真相を、教えてくださる日はくるのでしょうか。
レウ、セルグ、ナホル、テラ、アブラハム。
アダムから数えて二十代目に、アブラハム大伯父さんが登場します。ここで階段も二十段。これを地上に出るまで、わたしは心の内で繰り返します。
地上に出ると、あの老人が待ち構えていました。
「水瓶の水を、少し飲ませてください」
いきなり言われて驚きましたが、
しかも今日は、水を汲みにくる前から世界が微妙におかしかった。そのおかしな波長の延長上で、この出来事も起こっている。そんな気がしてなりませんでした。
「どうぞ」
わたしは頭上から水瓶を降ろし、差し出された老人の両手に向けて傾けました。
「お飲みください」
水は美しい生き物のように乾いた
従者たちにもすすめようと目を配ると、しかし彼らは持参した革袋からめいめいに水を飲んでいました。
水があるのに、わたしに水を
不思議でしたが、それより
家畜の水飲み用の水槽はすっかり干上がっていて、駱駝たちがまだ水を飲ませてもらっていないのは、
「駱駝にも水を汲んできて、たっぷり飲ませてあげましょう」
私がそう言うと、老人は両目を見開き、のど骨を大きく上下させ、どういうわけか、うち震えているようでした。
この人たちは、自分だけ水を飲んで、駱駝には飲ませてやらないつもりだろうか。
疑問でしたが、いずれにしても、問答するより動いてしまったほうが早い。わたしは水瓶の残りの水を家畜用の水槽に注ぐと、
従者らは一人として、手伝おうとはしませんでした。
結局、わたしは一人で何度も地上と井戸の底とを往復し、駱駝に水を汲み続けたのです。
最後には、両脚が石のように重くなり、自分のものではないようでした。
井戸の底で、この水を汲んで上がったら、今日はもう二度と井戸には下りられない、それより地上へたどりつけるかどうか――
井戸の闇の真ん中に、
この町で、わたしはずっと息苦しかった。
井戸の底でなら、いつも楽に息ができた。
闇の底から見上げれば、どんな空も、どんな小さな星の光も希望になります。
どうか、道をお示しください。
はじめて、そんなふうに祈りました。
そして、気がついたのです。これまでわたしは、あなたに祈るとき、「なぜ」と問いかけてばかりいたことに。