◆03カナンへの選択-Ⅴ しもべ:砂漠
文字数 2,182文字
本音と建前というのは誰にでもあるものだ。
大人のくせに本音のままに言動している者など信用できない。だからラバンという若者の私に対する好意がいかにも建前的であるのはむしろ当然で不誠実だとは思わない。
私は己が偽善者だと知っている。私の言動だって建前である。
いくらあなたさまの示しでも私の主人アブラハムのように息子を犠牲の小羊として捧げることなど私にはできない。できる親などそういない。あの人ほどの信仰はとても持てない。少なくとも私には。
だからこそあなたさまはあの人をお選びになり祝福をお与えになったのでしょう。もちろんわかっているのです。
あの人のそばにいると私は劣等感を覚えるばかりである。それなのに離れられない。まだ二人とも髪と髭が黒くて筋肉に張りがあり力がみなぎっていた若い日々から私は忠実なしもべとしてあの人に仕えてきた。
こうしていまハランの地へやってきたのもあの人の命に従ってこそ。ここははるか昔あの人があなたの声に従って後にした土地でありそのとき私もあの人に従ってこの地を後にした。
懐かしさは覚えない。ここは私にとって過去の地だ。あの人とともに荒野を旅した長い歳月が私とこの地を隔てている。早く無事に使命を果たしあの人の待つカナンへ戻りたい。その一心で私はいまリベカという娘の家に向かっている。
やはりこれは偽善かと己に問いながら。
赤黒い夕陽が我らを火焔の色に染めている。十頭の駱駝と従者らとラバンのあとをついていく。黒々とした影が異様に長く伸びている。むしろ闇に棲む何者かが我々に手を伸ばしているかのようだ。
かつてハランを出てからあの人は豊かになった。
羊や牛の群れ。金銀。男女の奴隷。駱駝や驢馬。どういうわけか財産が増えていくのを不思議がる私にあの人はあなたさまの祝福により与えられているのだといつも言ったものだった。
夫人のサラには長らく子ができなかった。跡継ぎのないままに万一あの人に何かあったら私はどうしたらよいのかと考えると心は重くなるばかりだった。
私にはあなたさまの声が聞こえたことはない。あの人ほどの信仰もない。
あの人のそばで働くうちにすっかり自分もあなたさまの声を聞いている気分になっていたが私はあなたさまに選ばれてはいないのだ。
サラ夫人の女奴隷であるハガルがあの人の息子イシュマエルを産んだときにはほっとした。跡取りができたおかげで肩の荷が下りた。
サラ夫人がついに自身で息子のイサクを産んだときはなおさらだった。正妻に男子が生まれたのだから跡継ぎ問題は安泰である。我ら一族は長を失う危惧からひとまずは解放されたのだ。
私もあの人も年老いた。
あなたさまに召される日までこのままあの人のそばに仕えていればよいと思っていた。しかしあの人は私に命じたのだった。ハランへ行って息子イサクの妻となるべき女を連れて来いと。
なぜ私が。
思わず聞き返していた。
「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか」
だってイサクの妻だろう。私が選んでいいはずがない。
あの人は許してくれなかった。
あなたさまが私の行く手にみ使いを遣わして嫁取りができるようにしてくださると。
そしてこうも言ったのだ。
もしもハランの娘が一緒に来たくないと言ったなら私に課した務めは解いてくださると。そうまでしてイサクを手元にお残しになったのだ。あの人は。
孤独だった。
昔あの人に従ってハランからカナンへと越えた砂漠を今度は私が従者を連れてカナンからハランへと越えねばならない。
チグリス川とユーフラテス川に挟まれたアラム・ナハライム――二つの川のアラム――にあるナホルの町を目指して見渡す限り広がったサフラン色の砂の上を歩いて行く。方角もいつどれだけ隊を休ませるかもすべて私が決めねばならず私ははじめて人の上に立つあの人の孤独を味わった。
これまではあの人が決めてくれていた。私は従うだけでよかったのだ。
砂漠は涙が出るほど美しかった。
昼は容赦のない陽の光に人も駱駝も石も木もみな等しく照らされた。
風は砂の表面に命の律動を描いて駆け去った。
陽は大きく燃えて地平に沈み一日の例外もなく荘厳だった。
夜はおそろしく静かで私は暗闇の重さを思い知りけれども見上げればそこには平然と視野におさまりきらない星空があった。
朝になれば清々しい光が新しい日を運んできた。そして生きろと命じるのだ。起きろ。歩け。生きろと。
年老いた私にも世界は日々新しい。そんなことに気づかされた。
この世界のすべてをあなたさまがお創りになったなんてとうてい信じられないのだがもしもそれが真実ならばあなたさまはなんと偉大なのでしょう。
私はちっぽけな存在だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)