◆01それは心に起こる-Ⅵ 娼婦

文字数 1,254文字

 よかった、みんな帰っていく。もしも誰かが石を投げたら、やめてって叫ぼうと思ってた。
 だって、あたしは知っている。首飾(くびかざ)りをつけたファリサイ派の男は昔、一デナリオンにも満たない金であたしを買った。ほかにも覚えのある男が数人いた。
 もし誰かが石を投げたら、大声で、彼らの罪を(あば)いてやるつもりだった。そんなことしたらあたしも石打ちの刑になるけれど、それでもかまわないと思ったんだ。

 もちろん怖いさ。
 だけど、どうせこのまま生きていても、ろくなことありゃしない。先は見えてる。終わってる。たった一人で生きてきて、死ぬときだって一人なんだ。
 どんなにあたしが()えていても、困っていても、(だれ)も助けてくれなかった。そう、誰一人として。たったの一人さえも!
 あなただって、助けてくれなかったじゃないか。
 あたしの人生はもう、ここからよくなんかならない。この世の底からどうやって立ち直れというんだい。

 なりたくて娼婦(しょうふ)になったわけじゃない。誰か一人でも本気で助けてくれる人がいたら、こんなふうに生きてはいない。
 今日引っ立てられてきた若い娼婦だってきっとそうさ。あの()は若い。あたしより未来がある。だから決めた。
 あの娘にとっての誰か一人に、あたしがなってやればいいんだって。
 そりゃあ、男たちの罪を暴いたところで、あの娘が無罪(むざい)放免(ほうめん)となるわけじゃないだろう。あたしができることといったら、道連れを何人か作って、一緒に刑に処せられることぐらいさ。
 そんなんじゃ、助けるって言えないね。
 でも少しはあの娘の気が晴れるだろう。

 それなのに、石を投げる者はいなかった。みんな黙って去っていった。
 怖い顔をしていたどっかの奥さんは、(こぶし)をふり上げそうになっていたけど、結局、逃げるように走り去った。
 ファリサイ派のやつらも律法学者も、きまりの悪い様子で引きあげていった。
 ラビの周りに残っているのは、あの娘のほかに美貌(びぼう)の弟子とあたしだけだ。
 よかった、ほんとうによかったじゃないか。

 ラビの言葉があの娘を救った。ラビがあの娘を、あたしたちを助けてくれた。
 あなたからも見捨てられたあたしたちを助けてくれる人がいたなんて……。
 あたし、思ってしまったよ。もしかしたらこれまでも、気づかないところで誰かに助けられてきたのかもしれないって。
 あたしたちのそばにも、あなたはいてくださったのかもしれないってさ。
 あの娘もそう考えているんだろう、だからあんなに涙が(あふ)れているんだろう、あたしと同じに。

 いやだ、あたしも早く行かなくちゃ。いつまでもあたしがいたら、あの娘も家に帰れない。
 あの娘は若い。どうか今から生き直して、あたしみたいにならないで。
 どうかあなた、あの娘に伝えて。あんたのために祈っている女がこの世に一人はいるんだと。
 お願いあなた、どうかあの娘をお守りください。
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