◆01それは心に起こる-Ⅲ 老年の男

文字数 1,763文字

 (ふう)()わりなラビの話を聞くために、私は今朝も神殿に向かう。
 その昔、ダビデの息子ソロモンが建てた神殿は、エルサレムの(ほこ)りである。街のどこからでも、神々しく壮麗(そうれい)なその姿を拝むことができるのだ。
 西の壁に続く階段を上り、入口から柱廊(ちゅうろう)を抜けて異邦人の庭へ出る。ソロモンの建てた神殿を大改築したヘロデ王が、聖所の外に設けた広場だ。色とりどりの石が敷き詰められており、あちこちに、そこで教えを説いているラビがいる。皆、思い思いに気に入ったラビを選び、周りに集まって学ぶのだ。

 各地からエルサレムを訪れた異邦人は、この広場で、あなたを礼拝する。異邦人は、私たちユダヤ人と違い、聖所の御前に入場して礼拝するのを許されていない。
 ちょっと前までこの庭で、ユダヤ人の礼拝に用いる犠牲(ぎせい)の鳩の売り買いや、献金の両替が行われていた。
 それを蹴散(けち)らしたというのが、かのラビだ。
 わざわざエルサレムに来た異邦人は、聖所の御前に入れてもらえないから、しかたなく庭で礼拝している。彼らには、かけがえのない祈りの場だ。
 それなのに、我々ユダヤ人がいかにもあなたを独占したように、その人たちの目の前で、優越してふるまうのはあなたの意に反すると、かのラビは言う。
 あなたはユダヤ人だけのものではなく、すべての民にとってのあなたであると、かのラビは主張する。
 私はユダヤ人だ。長い年月、疑いもなくあなたをあがめてきた。いまや髪も(ひげ)も白くなり、あなたの御許(みもと)へ召される日は遠くない。信仰はゆるぎない。
 しかし、かのラビの話には心を動かされるのです。

 姿が見えた。
 ()せた体に、くたびれた生成(きな)りの衣。外見に華などないのに、遠目にもそれとわかる不思議なお人だ。
 二十人ばかりの聴衆が、すでに敷石(しきいし)の地面に座って待っており、その前でラビは話を始めようとされている。
 ラビの横には控えめに、弟子の一人が寄り添っている。十二人の側近中、もっとも若い端整(たんせい)な青年。確か名をヨハネといった。

 私も急いで聴衆の輪に加わり、最後列に腰を下ろした。
 隣に座した若者は、柘榴(ざくろ)の実を両手で割って食べている。彼が顔を寄せてきて、ささやいた。
「あのラビ、ほんとに奇跡をなしたんですかね」
「さあ、どうだろうか」
 私は気のない返事をした。
 湖の上を歩いたとか、大麦のパン五つと魚二匹で五千人の腹を満たしたとか、かのラビには、奇跡をなしたという噂がある。なかでも安息日に病の人を(いや)したかどで、ファリサイ派から睨まれたらしい。
 聴衆のなかには、奇跡を期待して集まってきた者もいるだろう。
 が、実のところ私は、奇跡にはさほど関心がない。
 毎日来ずにいられないのは、ラビの話がこれまでに聞いたことのないもので、聞くと心が安らぐからだ。

 昨日か一昨日、ラビは言った。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
 人がもっとも欲しているのは、金や地位や名誉ではないのだ。休息こそ、皆に必要なものなのだと、この言葉を聞いて私は知った。
 あのラビは、なぜ、こんなに慈しみ深いことが言えるのだろう。
 しかし、ときに彼は驚くほど厳しい。
「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、(すで)に心の中でその女を犯したのである」
 ここまで厳しく言うラビが、他にあっただろうか。私だって、妻以外の女に欲情を抱いたことがないとは言えない。
 律法とは、罪とはなんなのか。

 ラビは静かな口調で語り始めた。今日はどんな話が聞けるのだろう。
 聴衆がしんと静まった、そのときだった。
 後ろから、いきなり体を押しのけられた。
 強引に何者かが割りこんできて、他の人びとを押し分けながら前に進み、ラビのほうへと向かっていく。
 先頭は太った律法学者、続いてファリサイ派の男たち、彼らに挟まれて貧しい身なりの女が一人。
 私も若者も、他の聴衆も立ち上がり、辺りは一転、騒然(そうぜん)とした。これからなにが起こるのか――。
 なにが起きても、どうか、あなたのみ(むね)のとおりになりますように。
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