◆03カナンへの選択-Ⅷ それぞれの決断
文字数 2,420文字
*しもべ:私を帰らせてください***
毛布がわりにしていたマントから私は体を起こして立ち上がった。
日干し煉瓦 で作られた四角い家の薄暗い部屋の上部にある小さな窓に朝の光がさしている。従者らも起き出した。
私はまっすぐ戸口へ向かい木製の扉を開ける。まぶしい朝陽が部屋にたまった冷たい夜気を吹き飛ばす。東の地平の上に輝いている日輪は今日も空を駆けあがり砂漠を白く焼くだろう。暑くなりそうである。
家畜小屋から駱駝 らの動く音が聞こえてくる。小鳥たちはうるさく鳴き地表に生えたわずかな草は日の光に背筋を伸ばす。
いい朝だ。出立にふさわしい。空気が歓喜に満ちている。
イサクの妻になる娘を連れてあの人のもとへ帰るのだ。
「さあみんなゆっくりしてないで出発の準備を始めるぞ。今日からまた長い旅路だ。花嫁を連れてカナンへ帰ろう」
従者らがきびきびと荷をまとめ駱駝 のしたくに取りかかる。みなカナンへ帰るのがうれしいのだ。
私はこの家の者に挨拶をすべく母屋に向かった。
しかし――。
私は耳を疑った。
「娘をもうしばらく」
「あと10日ほど」
「ええ、10日ほどわたしたちの手もとに置いて」
「それから行かせるようにしたいのです」
娘の母と兄が口々にそう言って私に日延べを要求するのだ。昨夜はあっさり快諾したのに。父親の姿はない。すでに側女 の家に帰ったか。
いったいどういう目論見 だろう。
いやしかし彼らにしてみればあまりにも突然の話だったのだから十日ぐらいなら譲って待ってもかまわないか。そんな考えが一瞬私の脳裏をかすめた。
だが果たしてそれをあなたはお望みだろうか?
こういう者はひとつ譲れば調子にのって次の条件を提示してずるずるといつまでも引き延ばすのではないか?
あるいはこれはなにかあなたの計らいですか。だとすれば私はあなたが祝福を授けたあの人から与えられた役目をまっとうするまで。
「この旅の目的をかなえさせてくださったのは、主なのです」
私は毅然として告げた。
「私を帰らせてください。アブラハムのもとへ帰ります」
けれども驚くべきことに
「娘を呼んで、その口から聞いてみましょう」
母親は引かなかった。
私にはあなたの声は聞こえない。しかし私が井戸のほとりで祈った嫁探しの方法をあなたが聞き届けてくださったのなら娘は私とともにくるだろう。
あなたがそれをお望みになっているならば。
*リベカ:お前はこの人と一緒に行きますか***
呼ばれてきてみると、居間の空気がはりつめています。兄と、母と、アブラハムのしもべだという老人が、私を凝視しています。
母と兄の動揺が、伝わってきました。
「お前はこの人と一緒に行きますか」
いきなり母が訊いてきました。いったいなんなのでしょう。
昨夜はわたしの気持ちなどひと言も確かめず、勝手に嫁入りを承諾し、高価な品物を受け取っていたのに。
わたしは乳母のデボラと一緒にすっかりしたくを整えて、出発に備えていました。いまさら、なんなのでしょう?
母と兄の表情から、無言の圧力を感じます。やっぱり行きたくありませんとか、もう少し家族と一緒にいたいとか、そういうことをわたしに言えと迫っている、あれはそんな顔でしょう。
流されてはいけない。押されてはいけない。折れてはいけない。
わたしはわたしの真実に従って言動すると決めたのだから。
もしかして。
これはあなたが与えてくれた機会ですか?
わたしがカナンへ嫁に行くのは、親や兄の言いなりではなく、わたしが自分で決めたことなのだと、はっきりさせておくために――。
わたしは顔を上げ、言いました。
「はい、行きます」
静かに、決意をこめて。
母と兄は目を伏せて、なにかをあきらめたようでした。
*ラバン:やるときはやる***
オヤジは消えやがった。娘が嫁に出る日にフケるなんてとんでもないし、客人にも礼を失するってもんだ。まったくもう。
だから俺は俺なりに、オヤジがオヤジらしくリベカのやつを送り出してやれるよう、ちょっとばかし時間を確保できないかとオフクロの策にのったんだ。つまりはあと10日ほど娘を手もとに置きたいという、日延べ作戦に。
俺は俺なりに考えたのさ。いくらなんでも昨日会ったばかりの自称アブラハムのしもべの老人を、その言葉だけで嘘偽 りなくアブラハムのしもべだと、あっさり信じてもいいもんだろうか?
10日もあれば嘘ならばれる。いろんな話をして、近くでよく観察もして。アブラハム大伯父さんに会ったことのない俺たちだって、偽りならば見破れるってもんだろう。
それなのにリベカのやつときたら。
潔く、きっぱりと「はい、行きます」。すなわち、今日旅立つと言いやがった。
その腹のくくりよう、惚れ惚れするほど見事じゃないか。
お前がそうなら俺だって、やるときはやる。そりゃ俺はこんなヤツだから、狡 い考えだって持つけれど、良いことができるならそれに越したことはないんだ。
俺は外へ出て、いまにも出立しようとしているリベカを祝福して言った。
――わたしたちの妹よ、
あなたが幾千万の民となるように。
あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。
そして心の中でこう告げた。困ったらいつでも帰ってこい。助けを求めてきていいんだ。ここはお前のふるさとだ。なにかあったらハランにいる兄の俺を頼ってこい。
声に出しては言わなかったが――だって、照れるじゃないか、そんなこと。
リベカは駱駝の背に乗って、荒野の彼方に向けて踏み出した。アブラハムと、息子のイサクがいるという、はるかなカナンの地へ。
AAΛY(アーメン・アーメン・レゴー・ヒューミン) 創世記24:1~61
毛布がわりにしていたマントから私は体を起こして立ち上がった。
日干し
私はまっすぐ戸口へ向かい木製の扉を開ける。まぶしい朝陽が部屋にたまった冷たい夜気を吹き飛ばす。東の地平の上に輝いている日輪は今日も空を駆けあがり砂漠を白く焼くだろう。暑くなりそうである。
家畜小屋から
いい朝だ。出立にふさわしい。空気が歓喜に満ちている。
イサクの妻になる娘を連れてあの人のもとへ帰るのだ。
「さあみんなゆっくりしてないで出発の準備を始めるぞ。今日からまた長い旅路だ。花嫁を連れてカナンへ帰ろう」
従者らがきびきびと荷をまとめ
私はこの家の者に挨拶をすべく母屋に向かった。
しかし――。
私は耳を疑った。
「娘をもうしばらく」
「あと10日ほど」
「ええ、10日ほどわたしたちの手もとに置いて」
「それから行かせるようにしたいのです」
娘の母と兄が口々にそう言って私に日延べを要求するのだ。昨夜はあっさり快諾したのに。父親の姿はない。すでに
いったいどういう
いやしかし彼らにしてみればあまりにも突然の話だったのだから十日ぐらいなら譲って待ってもかまわないか。そんな考えが一瞬私の脳裏をかすめた。
だが果たしてそれをあなたはお望みだろうか?
こういう者はひとつ譲れば調子にのって次の条件を提示してずるずるといつまでも引き延ばすのではないか?
あるいはこれはなにかあなたの計らいですか。だとすれば私はあなたが祝福を授けたあの人から与えられた役目をまっとうするまで。
「この旅の目的をかなえさせてくださったのは、主なのです」
私は毅然として告げた。
「私を帰らせてください。アブラハムのもとへ帰ります」
けれども驚くべきことに
「娘を呼んで、その口から聞いてみましょう」
母親は引かなかった。
私にはあなたの声は聞こえない。しかし私が井戸のほとりで祈った嫁探しの方法をあなたが聞き届けてくださったのなら娘は私とともにくるだろう。
あなたがそれをお望みになっているならば。
*リベカ:お前はこの人と一緒に行きますか***
呼ばれてきてみると、居間の空気がはりつめています。兄と、母と、アブラハムのしもべだという老人が、私を凝視しています。
母と兄の動揺が、伝わってきました。
「お前はこの人と一緒に行きますか」
いきなり母が訊いてきました。いったいなんなのでしょう。
昨夜はわたしの気持ちなどひと言も確かめず、勝手に嫁入りを承諾し、高価な品物を受け取っていたのに。
わたしは乳母のデボラと一緒にすっかりしたくを整えて、出発に備えていました。いまさら、なんなのでしょう?
母と兄の表情から、無言の圧力を感じます。やっぱり行きたくありませんとか、もう少し家族と一緒にいたいとか、そういうことをわたしに言えと迫っている、あれはそんな顔でしょう。
流されてはいけない。押されてはいけない。折れてはいけない。
わたしはわたしの真実に従って言動すると決めたのだから。
もしかして。
これはあなたが与えてくれた機会ですか?
わたしがカナンへ嫁に行くのは、親や兄の言いなりではなく、わたしが自分で決めたことなのだと、はっきりさせておくために――。
わたしは顔を上げ、言いました。
「はい、行きます」
静かに、決意をこめて。
母と兄は目を伏せて、なにかをあきらめたようでした。
*ラバン:やるときはやる***
オヤジは消えやがった。娘が嫁に出る日にフケるなんてとんでもないし、客人にも礼を失するってもんだ。まったくもう。
だから俺は俺なりに、オヤジがオヤジらしくリベカのやつを送り出してやれるよう、ちょっとばかし時間を確保できないかとオフクロの策にのったんだ。つまりはあと10日ほど娘を手もとに置きたいという、日延べ作戦に。
俺は俺なりに考えたのさ。いくらなんでも昨日会ったばかりの自称アブラハムのしもべの老人を、その言葉だけで
10日もあれば嘘ならばれる。いろんな話をして、近くでよく観察もして。アブラハム大伯父さんに会ったことのない俺たちだって、偽りならば見破れるってもんだろう。
それなのにリベカのやつときたら。
潔く、きっぱりと「はい、行きます」。すなわち、今日旅立つと言いやがった。
その腹のくくりよう、惚れ惚れするほど見事じゃないか。
お前がそうなら俺だって、やるときはやる。そりゃ俺はこんなヤツだから、
俺は外へ出て、いまにも出立しようとしているリベカを祝福して言った。
――わたしたちの妹よ、
あなたが幾千万の民となるように。
あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。
そして心の中でこう告げた。困ったらいつでも帰ってこい。助けを求めてきていいんだ。ここはお前のふるさとだ。なにかあったらハランにいる兄の俺を頼ってこい。
声に出しては言わなかったが――だって、照れるじゃないか、そんなこと。
リベカは駱駝の背に乗って、荒野の彼方に向けて踏み出した。アブラハムと、息子のイサクがいるという、はるかなカナンの地へ。
AAΛY(アーメン・アーメン・レゴー・ヒューミン) 創世記24:1~61