第18話

文字数 3,107文字

 白久は亜鳥を見つめた。
「それしか、方法はないのね」
「ええ」
「やってみる」
 白久はうなずき、三狼に向き直った。
「あなたは、ここに残って、三狼さん」
 何か言いかけた三狼をさえぎって、
「いっしょに来てって言ったり、ここにいてって言ったり、勝手なことばかりでごめんなさい。側にいてもらえるだけで心強かったの。でも、これ以上は危険だわ」
「わたしには、呪力なんてないからな」
 三狼は、残念そうにため息をついた。
「きみたちについていくのは、無理らしい」
「いままで、本当にありがとう。嬉しかったわ」
「まだ別れるわけじゃない」
 三狼は首を振り、きっぱりと言った。
「待っているよ。きみの身体を守ってる」
 亜鳥は、白久に手を差し伸べてうなずいた。
 白久は、亜鳥の手をとって、目を閉じた。
 そのまま、霊をのばし、亜鳥のもとへ。
 次の瞬間、白久は亜鳥の中で、脱け殻となった自分自身をささえていた。
(叔母さん?)
(わたしは、大丈夫よ、白久)
 しっかりした亜鳥の思考が返ってきた。
 亜鳥は、その身体をすっかり白久にあけわたしたが、彼女の霊は、一歩下がったところで白久を見守っていた。
 白久は、ほっとした。亜鳥の霊を踏み荒らしたわけではないのだ。
「白久さん」
 三狼が、とまどったようにこちらを見つめている。
 白久はうなずいて、自分の身体をその場に横たえた。
 三狼が、荷物の中から小刀を出してくれた。白久は受け取り、いくらかぎこちなく立ち上がった。
 いつもは見上げるようにしていた長身の三狼が、亜鳥の目線ではさほど大きく感じられなかった。
 白久は、おもわず微笑んだ。
「あとは、お願いね。三狼さん」
 聞き慣れた亜鳥の声で言う。三狼は、うなずき、夷人の土笛を首からはずした。
「お守りだ」
 三狼は、亜鳥の首に土笛を架けてくれた。白久は指先で、それをまさぐった。
「ありがとう」
 白久は、亜鳥と自分自身とにつぶやいた。
(行くわ)

 激しい琵琶の音ばかりを想像していた白久は、村の入り口で立ちつくした。
 村は、水底のように静まりかえっていた。琵琶の音はもちろん、鳥の声も、風のそよぎすらも聞こえない。
 ただ、空気は異様にはりつめていた。
 亜鳥の皮膚がちりちりしている。髪の毛は、そそけだつようだった。
 頭上に黒い影がさした。空を振り仰いだ白久は、息をのんだ。
 上空に、巨大なものがのたうっている。
 一匹だけではなかった。
 互いにもつれあいながら、幾匹もの龍が首を振り上げ、尾をくねらせ、村を威嚇するかのように乱舞していた。
 どの龍も、影そのもののように黒かった。目ばかりが、毒々しい紫色の光りを放っていた。
 亜鳥の、東雲のように澄んだ瞳の色とはまるでちがう、激しい憎悪をこめて。
「あれは」
(琵琶の見せる幻よ)
 白久の中で亜鳥が答えた。
「幻曲? 音もないのに」
 白久は、地面を見てはっとした。土の粒ひとつひとつが、震えるように動いている。
 琵琶の調べは、とうに音域を越えているのだ。音にならない音、人の精神をじかに蝕むおぞましい凶器。
 亜鳥が力をふりしぼり、呪力を集中しているのがわかった。亜鳥が守ってくれていなければ、白久も正気を保っていられないだろう。村の人々と同じように。
 歩んで行くと、倒れたままりぴくりとも動かない人々の姿があった。
 死んでいるのか、気を失っているだけなのか。
 かすかなうめき声が聞こえたので目を向けると、都津が両手で頭を抱え、うずくまっていた。側には、彼に手を差し伸べるようにして、由良がつっぷしている。
 白久は、二人を助け起すこともできなかった。身体が重く、歩いているのがやっとなのだ。
 耳にできない音は、ねっとりとした質量をもって、白久を押し潰そうとしていた。
 亜鳥の呪力は、どこまで保つだろう。いや、その前に白久の意識がとぎれ、自分の身体に舞い戻ってしまうかも。
 白久は、持っていた小刀を思わずとりおとした。
(しっかりして、白久)
 亜鳥が、自分自身をも励ますかのようにささやいた。
 白久はうなずき、小刀を握り直した。
 突然、幻の龍が歯をむきだし、白久めがけて下降してきた。
 悪意に燃える目は、白久を噛み砕き、引き裂き、ずたずたにしようとしている。
 白久は、顔を覆って両膝をついた。
 龍は、次々と白久に襲いかかった。目の前が、闇にとざされ、息もできないほどになる。
 手が、三狼にもらった夷人の笛に触れた。温かみのある手触り。あの少年が吹いてくれた、素朴な音色が耳によみがえった。
 白久は何も考えず、唇を土笛にあてた。はじめ出たのは、空気の音だけだった。
 しかし、何度目かに、飾り気のない深々とした音がほとばしった。
 身体が急に楽になった。
 白久は立ち上がり、ぐいと顔を上げて幻をにらんだ。
「幻よ」
 白久は、ようやく声に出した。
「幻にすぎない龍なんて」
 龍たちは、白久に体当たりするものの、むなしく身体を通り抜けるばかりだ。
 恐れることはない。
 白久は夷人の笛を吹いた。吹き続けながら、その音にだけ気力を集中した。
 夷人の作った魔除けの笛。彼らの若々しい存在そのものが、〈龍〉の呪力にも抵抗できる力を持つのかもしれない。
 執拗に襲いかかろうとする龍を無視して、白久は、なんとか歩きつづけた。
 〈老〉のいる、高床が見えてきた。父は、そこで命を断ったのだ。
 高床に近付くにつれ、白久が吹く笛の音はしだいに耳障りなものになってきた。
 どんなに調子をかえて吹いても、出るのは甲高い切れ切れの音ばかり。
 手の中で、笛が細かく震えはじめた。身体はまたしても重く、高床の階段を一歩一歩上っていくのが精一杯だった。
 それでも白久は戸口にたどりつき、押し開けた。
 床の上に、壊れた人形のように投げ出された〈老〉の死体があった。
 そして、龍の琵琶の前で息絶えている父の脱け殻が。
 笛が、突然きしみを上げ、粉々に砕け散った。
 琵琶にほどこされた銀箔の龍は、生あるものさながらに、のたうつかに見えた。
 双の目に埋め込まれた紫水晶は、外の幻の龍と同様、醜くぎらついていた。
 琵琶の弦は、とぎれること無く、震え続けていた。
 夷人の笛は壊れ、そして亜鳥の呪力も、もう限界まで来ているようだ。
 共鳴した空気が、鋭い刃のように白久を襲った。少し動いただけで、激痛がはしる。
 白久は、はっきりと悟っていた。琵琶にとりつき、弾き続けているのは、もう父ではないのだと。
 怒りと憎悪に取りつかれた、狂った霊にすぎないのだと。
 近づくものすべてを破滅させようと、聞こえぬ音をかきならしている。
 耐えきれないほどの耳鳴りが起こり、意識が空白になりかけた。ともすれば、この場から逃れて自分の身体に帰りたい衝動に駆られてしまう。
 白久はけんめいに踏みとどまった。
 琵琶まで、あと二三歩のところなのだ。亜鳥の身体を動かすためには、この苦痛を受け入れるしかない。そして、弦を断ち切ることができれば。
 白久は、床に身を躍らせた。
 一瞬、痛みで気が遠くなりかけ、我にかえった。
 無数の鎌鼬にでも出会ったようだ。衣が引き裂け、血が吹き出てくるのがわかった。
 だが、琵琶は目の前だ。
 白久はもう、何も考えなかった。
 ただ無我夢中で小刀を握り、琵琶の弦に振り下ろした。
 断末魔の悲鳴にも似た音がほとばしった。
 音は、白久の内で炸裂し、白久はそのまま奈落へと引き込まれていった。
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