第7話
文字数 2,581文字
自分でも驚くほどぐっすりと眠ったためか、翌朝の目覚めは、決して悪いものではなかった。
亜鳥が用意してくれた朝食をかみしめながら、白久は昨日のことを思い返した。
〈老〉の話は、思い出すだけで嫌だった。反対に、あの青年の晴れやかな笑顔ばかりが目に浮かんできた。
もう一度、彼に会いたい。
むしょうに白久は思った。
まだ彼にどう話すべきか決めていなかったが、もう一度会いさえすれば、何かいい考えが生まれるかもしれない。
「行ってくるわね、叔母さん」
食事の後片付けを終えると、白久は亜鳥に言った。
亜鳥は、どこへとも訊ねず、笑みを浮かべてただうなずいた。
感じられるのは、白久への信頼だ。
この叔母のためにも、向こうみずなことは決してできないと白久は思った。
たとえば、母のようなことは。
亜鳥にも告げず村を出て、それきり生きて戻らないなどということは。
外に出ると、昨日と変わらぬいい天気だった。集落の東側の田畑には、すでに働いている者たちがいる。
扇状地を耕して作った農地は、百人に満たない一門を養うにはまずまずの広さだ。
一門の共同のものではあるが、白久たち呪力者が耕地に入ることはめったにない。田植えの時ばかり儀式的に手を汚すだけで、あとは呪力を持たない者たちの仕事なのだ。
高床の前の広場では、小さな子供たちがひとかたまりになって遊んでいる。
白久は何人かの大人にも出会ったが、村を出る彼女を誰も怪しみはしなかった。父の所に行く彼女を、しょっちゅう目にしているから。
白久はただ、〈老〉に入り込まれないように心をかたく閉ざし、早足で坂道を登って行った。
木立ちの中で立ち止まり、白久は息をはずませた。
額の汗をぬぐうと、山道に覆い被さるような木々の青くささでむせかえるようだった。
〈老〉の呪力は、村とその周辺だけのものだ。もちろんこんな遠くにはとどかない。白久は村を出てはじめてひと休みした。
息が、なかなか整わなかった。
こんなに急がなくてもよさそうなものだったのに。
昨日の場所へはもう少しだった。だけど。
ふと白久は考えた。
あの百日紅のところに彼がいなかったらどうしよう。
何の理由も言わず、ただ待っていてくれだなんて虫のよすぎた話だったかもしれない。もし彼がいなかったら?
にっこりと笑って確かに彼は言った。待っているよ、と。
だが、自分は、あの笑顔に騙されただけなのではないのか。
考えると、昨日は浮かばなかった疑念が際限もなく湧き上がってきた。疲れが、白久の想いに拍車をかけた。
彼がここに来たのは、本当に龍を見るためだけなのだろうか。
はじめから龍の一門がいることを知っていてやって来たのではないか。
たとえば、〈龍〉の宝物をかすめ盗るためとか。
その時はその時。
白久はなかば捨てばちな気持ちで考えた。いくら〈龍〉が堕ちたとはいえ、盗人ぐらいは簡単に捕まえる。あとは〈老〉がどうするか決めるだろう。
自分は、やっかいごとからひとつ解放されるわけだ。
木の間から薄紫の影が見えてきて、白久はちょっと立ち止まった。
木立ちの向こうに人の気配は感じられない。失望と、しかしかすかな願望に心をゆさぶられながら、白久はゆっくり歩み出した。
湧き水のところで戯れていた数羽の鳥が、白久の影に驚いて飛び立った。
彼は、百日紅の根元に頭を向け、こちらに長々と足を伸ばして軽い寝息をたてていた。
湧き水に陽の光が反射して、彼のいかにものどかな顔にちらちらと光の綾をつくっていた。
鳥たちも警戒しないほどぐっすりと、彼は眠り込んでいたのだ。
自分をこんなに悩ませておいて!
白久は、彼の大きな鼻をおもいきりつまんでやりたくなった。
白久は足音を荒くして彼に近づいた。彼はようやく目を覚まし、横になったまま眩しそうに白久を見上げた。
「やあ」
白久は黙って彼を見おろした。彼は身を起こしてにっと笑い、
「待っていたよ」
「ぐっすり眠って?」
「退屈だったんだ。しょうがない」
白久は彼から少し離れたところに腰をおろした。
彼の顔を見て、それから、何を話していいのかわからない。
「昨日、訊き忘れたことがあったよ」
彼は座り直しながら、屈託なく言った。
「きみの名前をさ。わたしは風嵐 の三狼 。狼の一門だ」
「そう」
白久は彼をまじまじと見つめた。言われて見れば彼からは、野生味あふれる狼の感じが確かにする。
三狼は、うながすように白久を見た。
「わたしは、〈龍〉の白久」
「〈龍〉か」
三狼は繰り返した。
「昨日は本当に驚いたよ。龍の一門が生きているなんて、都じゃ一握りの人間も信じてはいなかった。龍も生きていないと言いはる者もいるくらいだからね」
「龍はいるわ」
白久はつぶやいた。
「もちろんだ」
三狼は、大きくうなずいた。
「彼もそう言っていたよ」
「彼?」
「ああ、昨日きみが帰った後、ちょっとこのへんを歩きまわってみた。そしたら、別の〈龍〉に会ったんだ」
「別の」
白久はかっとした。
あれほどここを動くなと言ったのに。
自分がせっかく好意で忠告してやったのに、この男は大なしにしたのだ。
「実は夕べは、その人の洞にやっかいになったんだよ」
三狼は白久の怒りにも気づかぬように言った。
白久は、ぎょっとした。
「その人って」
「みごとな龍の琵琶を持っていた。〈龍〉の琵琶弾きなんだって? わたしに久伊って名乗ったよ」
「久伊」
白久はうわずった声でささやいた。
「その人は、あなたに自分でそう名乗ったの?」
「もちろん」
三狼は、首をかしげて白久を見つめた。
白久は激しくなる胸の鼓動を聞きながら、ふらりと立ち上がった。
自分とも言葉をかわしたことのない父が、この男に名乗ったなんて。
「その人、他に何か話をした?」
「あまり。わたしが大那から来たと言ったら、大那の話をしてくれと言われたよ。あとは、ずっとわたしの話を聞いていた」
「どんなふうに?」
「時々、ちょっと笑っていたかな。変わった人だとは思ったけど・・いったい?」
「いっしょに来て」
白久はなかば駆け出していた。
「わたしの父なの」
亜鳥が用意してくれた朝食をかみしめながら、白久は昨日のことを思い返した。
〈老〉の話は、思い出すだけで嫌だった。反対に、あの青年の晴れやかな笑顔ばかりが目に浮かんできた。
もう一度、彼に会いたい。
むしょうに白久は思った。
まだ彼にどう話すべきか決めていなかったが、もう一度会いさえすれば、何かいい考えが生まれるかもしれない。
「行ってくるわね、叔母さん」
食事の後片付けを終えると、白久は亜鳥に言った。
亜鳥は、どこへとも訊ねず、笑みを浮かべてただうなずいた。
感じられるのは、白久への信頼だ。
この叔母のためにも、向こうみずなことは決してできないと白久は思った。
たとえば、母のようなことは。
亜鳥にも告げず村を出て、それきり生きて戻らないなどということは。
外に出ると、昨日と変わらぬいい天気だった。集落の東側の田畑には、すでに働いている者たちがいる。
扇状地を耕して作った農地は、百人に満たない一門を養うにはまずまずの広さだ。
一門の共同のものではあるが、白久たち呪力者が耕地に入ることはめったにない。田植えの時ばかり儀式的に手を汚すだけで、あとは呪力を持たない者たちの仕事なのだ。
高床の前の広場では、小さな子供たちがひとかたまりになって遊んでいる。
白久は何人かの大人にも出会ったが、村を出る彼女を誰も怪しみはしなかった。父の所に行く彼女を、しょっちゅう目にしているから。
白久はただ、〈老〉に入り込まれないように心をかたく閉ざし、早足で坂道を登って行った。
木立ちの中で立ち止まり、白久は息をはずませた。
額の汗をぬぐうと、山道に覆い被さるような木々の青くささでむせかえるようだった。
〈老〉の呪力は、村とその周辺だけのものだ。もちろんこんな遠くにはとどかない。白久は村を出てはじめてひと休みした。
息が、なかなか整わなかった。
こんなに急がなくてもよさそうなものだったのに。
昨日の場所へはもう少しだった。だけど。
ふと白久は考えた。
あの百日紅のところに彼がいなかったらどうしよう。
何の理由も言わず、ただ待っていてくれだなんて虫のよすぎた話だったかもしれない。もし彼がいなかったら?
にっこりと笑って確かに彼は言った。待っているよ、と。
だが、自分は、あの笑顔に騙されただけなのではないのか。
考えると、昨日は浮かばなかった疑念が際限もなく湧き上がってきた。疲れが、白久の想いに拍車をかけた。
彼がここに来たのは、本当に龍を見るためだけなのだろうか。
はじめから龍の一門がいることを知っていてやって来たのではないか。
たとえば、〈龍〉の宝物をかすめ盗るためとか。
その時はその時。
白久はなかば捨てばちな気持ちで考えた。いくら〈龍〉が堕ちたとはいえ、盗人ぐらいは簡単に捕まえる。あとは〈老〉がどうするか決めるだろう。
自分は、やっかいごとからひとつ解放されるわけだ。
木の間から薄紫の影が見えてきて、白久はちょっと立ち止まった。
木立ちの向こうに人の気配は感じられない。失望と、しかしかすかな願望に心をゆさぶられながら、白久はゆっくり歩み出した。
湧き水のところで戯れていた数羽の鳥が、白久の影に驚いて飛び立った。
彼は、百日紅の根元に頭を向け、こちらに長々と足を伸ばして軽い寝息をたてていた。
湧き水に陽の光が反射して、彼のいかにものどかな顔にちらちらと光の綾をつくっていた。
鳥たちも警戒しないほどぐっすりと、彼は眠り込んでいたのだ。
自分をこんなに悩ませておいて!
白久は、彼の大きな鼻をおもいきりつまんでやりたくなった。
白久は足音を荒くして彼に近づいた。彼はようやく目を覚まし、横になったまま眩しそうに白久を見上げた。
「やあ」
白久は黙って彼を見おろした。彼は身を起こしてにっと笑い、
「待っていたよ」
「ぐっすり眠って?」
「退屈だったんだ。しょうがない」
白久は彼から少し離れたところに腰をおろした。
彼の顔を見て、それから、何を話していいのかわからない。
「昨日、訊き忘れたことがあったよ」
彼は座り直しながら、屈託なく言った。
「きみの名前をさ。わたしは
「そう」
白久は彼をまじまじと見つめた。言われて見れば彼からは、野生味あふれる狼の感じが確かにする。
三狼は、うながすように白久を見た。
「わたしは、〈龍〉の白久」
「〈龍〉か」
三狼は繰り返した。
「昨日は本当に驚いたよ。龍の一門が生きているなんて、都じゃ一握りの人間も信じてはいなかった。龍も生きていないと言いはる者もいるくらいだからね」
「龍はいるわ」
白久はつぶやいた。
「もちろんだ」
三狼は、大きくうなずいた。
「彼もそう言っていたよ」
「彼?」
「ああ、昨日きみが帰った後、ちょっとこのへんを歩きまわってみた。そしたら、別の〈龍〉に会ったんだ」
「別の」
白久はかっとした。
あれほどここを動くなと言ったのに。
自分がせっかく好意で忠告してやったのに、この男は大なしにしたのだ。
「実は夕べは、その人の洞にやっかいになったんだよ」
三狼は白久の怒りにも気づかぬように言った。
白久は、ぎょっとした。
「その人って」
「みごとな龍の琵琶を持っていた。〈龍〉の琵琶弾きなんだって? わたしに久伊って名乗ったよ」
「久伊」
白久はうわずった声でささやいた。
「その人は、あなたに自分でそう名乗ったの?」
「もちろん」
三狼は、首をかしげて白久を見つめた。
白久は激しくなる胸の鼓動を聞きながら、ふらりと立ち上がった。
自分とも言葉をかわしたことのない父が、この男に名乗ったなんて。
「その人、他に何か話をした?」
「あまり。わたしが大那から来たと言ったら、大那の話をしてくれと言われたよ。あとは、ずっとわたしの話を聞いていた」
「どんなふうに?」
「時々、ちょっと笑っていたかな。変わった人だとは思ったけど・・いったい?」
「いっしょに来て」
白久はなかば駆け出していた。
「わたしの父なの」