第4話
文字数 2,654文字
「うそ」
白久は、それ以上の言葉を失った。
「嘘じゃないよ、困ったな」
彼は人なつっこい笑みをうかべた。
「天香 からはけっこう長い道程だったが、ようやくここまでたどりついた」
「天香って・・天香の都のこと」
「そうだよ」
白久は、めまいがしそうになった。この男は間違いなく大那から来たのだ。
〈龍〉にとって、大那は過去だけに通じていた。過去に戻れないのと同じように、どんなに憧れても決して行くことができない幻の地。
その大那から来たのだと彼は言う。実にこともなげに、涼しい顔をして。
白久のただならぬ様子に、彼は驚いたようだった。
ささえるように白久の腕をとったので、白久はびくりと身をすくめた。
「わるかった」
あわてて彼は言った。
「座って話そう。水を汲んであげようか」
「いらない」
白久は首を振りながら、彼に導かれるまま百日紅の木影に腰をおろした。
小さな泉のような水溜りのまわりには、きれいな緑色の苔が生えている。それを見るともなしに見て、
「いま、大那はどうなっているの?」
白久は言った。自分のものとは思えない、うつろな声だった。
「みんなどんな暮らしをしているの? 地霊は衰えているはずじゃないの?」
「衰えてはいると思うよ。ほんの少しづつではあるが」
彼はちょっと考え込んでから答えた。
「だが、〈龍〉ほど地霊に敏感な一門はいない。わたしたちが生きていくぶんには何の変わりもないな」
「大那の大王は〈龍〉だったわ。大王がいなければ、諸国は乱れるばかりじゃないの」
「確かにね。龍の一門が大那から消えて百年ばかり、大空位時代があって、ひどい争いが続いていたようだ。結局大王位を手にしたのは獅子の一門で、今も〈獅子〉の治世は続いている」
「平穏に?」
彼はうなずいた。
「まだまだ〈獅子〉の時代は続きそうだ」
「じゃあ、〈龍〉がいなくとも、大那は何も変わらないのね」
白久はつぶやき、急におかしくなった。〈龍〉無き後も、大那は変わらず歴史をつくりつづけてきたのだ。
今も武塔山脈の向こうで人々は生活し、たぶん〈龍〉のことなど伝説の片隅に押しやられてしまっているのだろう。
この大隅でちっぽけな村に引きこもり、過去ばかり夢みている〈龍〉がたまらなく滑稽に思えてくる。
白久は声をころして笑いだした。どうしたわけか涙がとまらなくなったので、顔を上げることができなかった。
「だいじょうぶかい?」
彼は遠慮がちに言った。
「平気よ」
「こんどは、わたしが聞いていいかな」
白久はすばやく袖で目をこすった。
「なに?」
「もちろん、きみの他にも〈龍〉はいるんだね」
「ええ・・」
「きみの仲間のところに連れて行ってくれないか」
「だめよ!」
「なぜ?」
彼は無邪気に尋ねた。
白久は返事につまった。
彼の存在を一門の者に知らせてはいけないという気がした。〈老〉たちはどんな反応を示すだろう?
「あなたはどうして大隅に来たの?」
白久は彼をにらみ、きつい口調で言った。
「その昔の大那の覇者が、どんなふうに落ちぶれているかを見とどけるため?」
「とんでもない」
彼は驚いたように首を振った。
「〈龍〉に会えるなんて予想外だったよ。わたしは、本当の龍を捜しに来たんだ」
「龍?」
「大隅に龍は棲んでいるんだろ」
「ええ」
「きみは、見たことがある?」
白久は、口ごもった。
「いえ・・」
「龍の一門でも、龍を見たことがないわけか」
自分で思うのと、人に言われることは別だ。白久はむっとした。
「龍は大隅のずっと奥に棲んでいるのよ。ここまで翔んでくることなんて、めったにないの」
白久の刺のある口調には頓着せず、彼は目を輝かせた。
「じゃあ、翔んで来た時もあったんだね」
「ずいぶん前よ。わたしが生まれる前のことだわ」
「龍の寿命は、とてつもなく長いと聞くよ。ずいぶん前と言っても、龍にとっては一瞬のことなのかもしれない。今すぐにでも、また翔んでくるかもしれない」
彼は、大きく空を振り仰いだ。
「この大隅に、龍がいるのは確かだ」
「龍を捜してどうするつもり?」
「見るのさ」
「見る?」
「ああ。龍はこの世で一番巨大で、一番美しい生きものだっていうだろう。一度でいいから見てみたいんだ」
「それだけ?」
白久は肩を怒らせた。
「それだけのために、あなたはわざわざ大隅に来たの?」
「もちろん。充分に価値ある旅だろ」
「おかしな人ね」
「そうかな」
彼はきょとんと首をかしげた。白久は彼を見つめ、ため息をついた。
腹だたしさと当惑が、交互にわきあがってくる。
龍を見るためにだけ、一門の前にそびえたつ武塔山脈を軽々と越えてきた男。この大那から来た男を、どうすればいいのだろう。
「きみに会えてほんとにうれしいよ。龍の一門に会えるなんて」
彼は身を乗り出し、底ぬけに明るい声で言った。
「なんというか、歴史に出会えたって感じだな。きみたちの存在はひどく神秘的だった。大那には残っていない〈龍〉の昔語りもあるはずだよ。わたしはぜひきみの一門に会ってみたい」
白久の手にはおえなかった。亜鳥と相談した方がよさそうだ。
「お願い」
白久は、彼にすがりつくようにして言った。
「わたし、明日またきっと来るわ。だからここにいて。この場所を動かないで」
彼は白久を見つめて、首をかしげた。
「わたしがきみの一門に会ってはいけない理由でもあるようだな」
「とにかく、お願い」
白久は立ち上がった。
「わたしの言う通りにして」
彼は不思議そうな表情のまま白久を見上げた。そして、ひとつにっこりと笑ってうなずいた。
「わかった」
彼の笑顔は、白久をどきりとさせた。白久は彼から目をそらした。
ひどく落ち着かない気分だった。
この青年の持つ雰囲気は、いままで白久が出会ったことのないものだ。
彼には、一門の者たちとは違う何かがあった。
〈龍〉に足りない何かが。
「行くわ」
白久は立ち上がった。
「待ってるよ」
自分を見送る彼の視線を感じながら、白久は逃げるようにその場を離れた。
なぜ、彼を隠そうとしているのだろう。一門に引き渡せばいいことなのに。
〈老〉が、彼をどうするかを決めるだろうに。
だが、〈龍〉たちの混乱は目に見えていた。
この出会いは、彼にとっても〈龍〉にとっても愉快なものでないことは確かなのだ。
白久は、それ以上の言葉を失った。
「嘘じゃないよ、困ったな」
彼は人なつっこい笑みをうかべた。
「
「天香って・・天香の都のこと」
「そうだよ」
白久は、めまいがしそうになった。この男は間違いなく大那から来たのだ。
〈龍〉にとって、大那は過去だけに通じていた。過去に戻れないのと同じように、どんなに憧れても決して行くことができない幻の地。
その大那から来たのだと彼は言う。実にこともなげに、涼しい顔をして。
白久のただならぬ様子に、彼は驚いたようだった。
ささえるように白久の腕をとったので、白久はびくりと身をすくめた。
「わるかった」
あわてて彼は言った。
「座って話そう。水を汲んであげようか」
「いらない」
白久は首を振りながら、彼に導かれるまま百日紅の木影に腰をおろした。
小さな泉のような水溜りのまわりには、きれいな緑色の苔が生えている。それを見るともなしに見て、
「いま、大那はどうなっているの?」
白久は言った。自分のものとは思えない、うつろな声だった。
「みんなどんな暮らしをしているの? 地霊は衰えているはずじゃないの?」
「衰えてはいると思うよ。ほんの少しづつではあるが」
彼はちょっと考え込んでから答えた。
「だが、〈龍〉ほど地霊に敏感な一門はいない。わたしたちが生きていくぶんには何の変わりもないな」
「大那の大王は〈龍〉だったわ。大王がいなければ、諸国は乱れるばかりじゃないの」
「確かにね。龍の一門が大那から消えて百年ばかり、大空位時代があって、ひどい争いが続いていたようだ。結局大王位を手にしたのは獅子の一門で、今も〈獅子〉の治世は続いている」
「平穏に?」
彼はうなずいた。
「まだまだ〈獅子〉の時代は続きそうだ」
「じゃあ、〈龍〉がいなくとも、大那は何も変わらないのね」
白久はつぶやき、急におかしくなった。〈龍〉無き後も、大那は変わらず歴史をつくりつづけてきたのだ。
今も武塔山脈の向こうで人々は生活し、たぶん〈龍〉のことなど伝説の片隅に押しやられてしまっているのだろう。
この大隅でちっぽけな村に引きこもり、過去ばかり夢みている〈龍〉がたまらなく滑稽に思えてくる。
白久は声をころして笑いだした。どうしたわけか涙がとまらなくなったので、顔を上げることができなかった。
「だいじょうぶかい?」
彼は遠慮がちに言った。
「平気よ」
「こんどは、わたしが聞いていいかな」
白久はすばやく袖で目をこすった。
「なに?」
「もちろん、きみの他にも〈龍〉はいるんだね」
「ええ・・」
「きみの仲間のところに連れて行ってくれないか」
「だめよ!」
「なぜ?」
彼は無邪気に尋ねた。
白久は返事につまった。
彼の存在を一門の者に知らせてはいけないという気がした。〈老〉たちはどんな反応を示すだろう?
「あなたはどうして大隅に来たの?」
白久は彼をにらみ、きつい口調で言った。
「その昔の大那の覇者が、どんなふうに落ちぶれているかを見とどけるため?」
「とんでもない」
彼は驚いたように首を振った。
「〈龍〉に会えるなんて予想外だったよ。わたしは、本当の龍を捜しに来たんだ」
「龍?」
「大隅に龍は棲んでいるんだろ」
「ええ」
「きみは、見たことがある?」
白久は、口ごもった。
「いえ・・」
「龍の一門でも、龍を見たことがないわけか」
自分で思うのと、人に言われることは別だ。白久はむっとした。
「龍は大隅のずっと奥に棲んでいるのよ。ここまで翔んでくることなんて、めったにないの」
白久の刺のある口調には頓着せず、彼は目を輝かせた。
「じゃあ、翔んで来た時もあったんだね」
「ずいぶん前よ。わたしが生まれる前のことだわ」
「龍の寿命は、とてつもなく長いと聞くよ。ずいぶん前と言っても、龍にとっては一瞬のことなのかもしれない。今すぐにでも、また翔んでくるかもしれない」
彼は、大きく空を振り仰いだ。
「この大隅に、龍がいるのは確かだ」
「龍を捜してどうするつもり?」
「見るのさ」
「見る?」
「ああ。龍はこの世で一番巨大で、一番美しい生きものだっていうだろう。一度でいいから見てみたいんだ」
「それだけ?」
白久は肩を怒らせた。
「それだけのために、あなたはわざわざ大隅に来たの?」
「もちろん。充分に価値ある旅だろ」
「おかしな人ね」
「そうかな」
彼はきょとんと首をかしげた。白久は彼を見つめ、ため息をついた。
腹だたしさと当惑が、交互にわきあがってくる。
龍を見るためにだけ、一門の前にそびえたつ武塔山脈を軽々と越えてきた男。この大那から来た男を、どうすればいいのだろう。
「きみに会えてほんとにうれしいよ。龍の一門に会えるなんて」
彼は身を乗り出し、底ぬけに明るい声で言った。
「なんというか、歴史に出会えたって感じだな。きみたちの存在はひどく神秘的だった。大那には残っていない〈龍〉の昔語りもあるはずだよ。わたしはぜひきみの一門に会ってみたい」
白久の手にはおえなかった。亜鳥と相談した方がよさそうだ。
「お願い」
白久は、彼にすがりつくようにして言った。
「わたし、明日またきっと来るわ。だからここにいて。この場所を動かないで」
彼は白久を見つめて、首をかしげた。
「わたしがきみの一門に会ってはいけない理由でもあるようだな」
「とにかく、お願い」
白久は立ち上がった。
「わたしの言う通りにして」
彼は不思議そうな表情のまま白久を見上げた。そして、ひとつにっこりと笑ってうなずいた。
「わかった」
彼の笑顔は、白久をどきりとさせた。白久は彼から目をそらした。
ひどく落ち着かない気分だった。
この青年の持つ雰囲気は、いままで白久が出会ったことのないものだ。
彼には、一門の者たちとは違う何かがあった。
〈龍〉に足りない何かが。
「行くわ」
白久は立ち上がった。
「待ってるよ」
自分を見送る彼の視線を感じながら、白久は逃げるようにその場を離れた。
なぜ、彼を隠そうとしているのだろう。一門に引き渡せばいいことなのに。
〈老〉が、彼をどうするかを決めるだろうに。
だが、〈龍〉たちの混乱は目に見えていた。
この出会いは、彼にとっても〈龍〉にとっても愉快なものでないことは確かなのだ。