第11話
文字数 2,222文字
二人は、月の光を頼りに、夜通し歩き続けた。
亜鳥がその瞳の色を明かせば、村中が大騒ぎになるに決まっているが、大那の人間が逃げたこととは話が別だ。亜鳥のとりなしがあっても、三狼を追い掛けようとするだろうし、白久も連れ戻されてしまうだろう。
陽が昇り、東の方角をあらためて確かめたところで、三狼は白久を引き止めた。
「このへんで少し休んだ方がいいな」
「わたしなら、まだ大丈夫よ」
「無我夢中の時はそう思うものなんだ。でも、無理すると先が続かない」
三狼は真顔で言った。
「大隅の山は広大だ。追っ手が来ると言っても、容易には見つからないはずだよ」
白久は、しぶしぶ三狼に従った。
太い木の根元にうずくまる。
残して来た父のこと、亜鳥のこと。
考えることは多すぎるほどあったが、疲れの方がまさっていた。
身体を丸くして、いつのまにか白久は眠り込んでいた。
はっと目を醒ますと、太陽は真上に昇っていた。
側にいるはずの三狼はおらず、白久はあわてて立ち上がった。
しかし、三狼はすぐに戻ってきた。
水を汲んで来たらしく、竹筒を手にしている。
「この先に、きれいな沼があったよ。行ってみるかい?」
「沼?」
白久は、はっとした。
母が息を引き取っていたのは、村から離れた沼のほとりだったという。
三狼の後について行くと、木立が開けて、緑色の大きな沼が姿を現した。
水鳥が水面に波紋をひろげ、岸辺の葦が風にそよいでいた。
白久は、沼辺をそぞろ歩いた。この場所まで、確かに母は来たのだ。そして、さらに大隅に入り込むこともなく、村に戻ることもなく、死んでしまった。
父のことを思うと胸が痛んだ。結局、自分も母と同じことをしたのだ。〈龍〉と父に背を向けている。
父は、自分が村を出たことを知ったろうか。それとも、知ろうともせず相変わらず心の殻に閉じこもっているのか・・。
白久はため息をつき、ついで思いをふっきるように首を振った。
せめてここからは、母にはできなかったことをしてみせよう。
わたしは、こんなところにとどまらない。もっと先に進むのだ。どこであろうと、自分が自分らしく生きれる場所へ。
そうしなければ、送り出してくれた亜鳥にも申し訳がない。
「そろそろ、行きましょう。三狼さん」
白久は言った。
「このあたりは、一門のみんなも知っている場所なの。まだ安全とは言えないわ」
初夏の山中には、木の実やら、恐いもの知らずの小動物やらの食糧がふんだんにあって、三狼や白久の持つ必要最小限の旅支度でも、この先なんとかやっていけそうだった。
白久は、三狼との旅を、精一杯楽しむことにした。
実際、三狼は、側にいるだけで白久の暗い気持ちを吹き払ってくれる。
三狼の眼は、いつも新しい発見を求めて輝いているようだった。
彼を見ていると、今まであたりまえと思っていたことが、突然新鮮なものに変わってしまうのだ。
たとえば、風の流れで変化する雲の形の奇妙さや、名も知らない野花の可憐な香り。
子供のように歓声を上げる三狼の側で、白久もいつのまにか微笑みを浮かべていた。
陽が傾きはじめたころ、先に立って歩いていた三狼が、ぴたりと立ち止まった。
「どうしたの?」
「早く、来てごらんよ」
白久は坂を登りつめていた三狼に追いつき、息をのんだ。
目の前は、空を削ぎ取るような深い谷間になっていた。そして、谷の両斜面いっぱいに藤の花が咲き誇っているのだ。
谷全体が、藤の濃い紫色に染まっていた。谷底になだれ落ちていくかのような花房は、重たげに風に揺れていた。
「すばらしい眺めだなあ」
三狼は、感きわまったように言った。
「大那では、とうていお目にかかれない景色だよ」
「わたしも」
足下の光景に眼をうばわれたまま、白久は、うなずいた。
「こんなにたくさんの藤を見たのは初めてだわ」
「もうじき龍と会えそうな気がしてきたな。紫は、きみの一門の色だろう」
「そうね」
紫は、呪力を持った〈龍〉の眼の色、亜鳥の眼の色だ。空を翔ける龍もまた、紫色の瞳をしているという。
二人は、藤の谷を下って行った。谷間の空気までもが、紫にもやがかっているように見えてくる。
それは、空気がしだいに湿り気を帯びてきたためでもあった。いつのまにか、空にはどんよりとした曇がたちこめ、二人が谷の下までたどりついた時には、霧のような雨が降りはじめた。
谷底は、深みのある川だった。こぼれおちた紫色の花びらが、泡立つ水の中を踊るように流れていった。
「雨の風情もなかなかいいもんだよな」
三狼は谷を見上げて言い、ぶるっと身体を震わせた。
「自分が濡れなかったら、の話かもしれないが」
雨のせいか、風も冷やっこいものになっていた。
白久はくすりと笑い、
「河原より、林の中の方が濡れないわ。雨宿りするところもあるかもしれない」
二人は、藤蔦の下をくぐり抜けながら、林の中に入りこんだ。
木々の間を縫って、けもの道が続いている。枝を伸ばした潅木が、ともすれば前方をふさいでいた。
三狼は、白久の前に立って、茂みを掻き分けながら進んだ。
突然、何かが空気を切る鋭い音がした。
白久は、はっと立ちすくんだ。
三狼が、小さく呻いて膝をつく。
彼は右腕を押さえた。
肘の上あたりに、一本の矢が突きささっていた。
亜鳥がその瞳の色を明かせば、村中が大騒ぎになるに決まっているが、大那の人間が逃げたこととは話が別だ。亜鳥のとりなしがあっても、三狼を追い掛けようとするだろうし、白久も連れ戻されてしまうだろう。
陽が昇り、東の方角をあらためて確かめたところで、三狼は白久を引き止めた。
「このへんで少し休んだ方がいいな」
「わたしなら、まだ大丈夫よ」
「無我夢中の時はそう思うものなんだ。でも、無理すると先が続かない」
三狼は真顔で言った。
「大隅の山は広大だ。追っ手が来ると言っても、容易には見つからないはずだよ」
白久は、しぶしぶ三狼に従った。
太い木の根元にうずくまる。
残して来た父のこと、亜鳥のこと。
考えることは多すぎるほどあったが、疲れの方がまさっていた。
身体を丸くして、いつのまにか白久は眠り込んでいた。
はっと目を醒ますと、太陽は真上に昇っていた。
側にいるはずの三狼はおらず、白久はあわてて立ち上がった。
しかし、三狼はすぐに戻ってきた。
水を汲んで来たらしく、竹筒を手にしている。
「この先に、きれいな沼があったよ。行ってみるかい?」
「沼?」
白久は、はっとした。
母が息を引き取っていたのは、村から離れた沼のほとりだったという。
三狼の後について行くと、木立が開けて、緑色の大きな沼が姿を現した。
水鳥が水面に波紋をひろげ、岸辺の葦が風にそよいでいた。
白久は、沼辺をそぞろ歩いた。この場所まで、確かに母は来たのだ。そして、さらに大隅に入り込むこともなく、村に戻ることもなく、死んでしまった。
父のことを思うと胸が痛んだ。結局、自分も母と同じことをしたのだ。〈龍〉と父に背を向けている。
父は、自分が村を出たことを知ったろうか。それとも、知ろうともせず相変わらず心の殻に閉じこもっているのか・・。
白久はため息をつき、ついで思いをふっきるように首を振った。
せめてここからは、母にはできなかったことをしてみせよう。
わたしは、こんなところにとどまらない。もっと先に進むのだ。どこであろうと、自分が自分らしく生きれる場所へ。
そうしなければ、送り出してくれた亜鳥にも申し訳がない。
「そろそろ、行きましょう。三狼さん」
白久は言った。
「このあたりは、一門のみんなも知っている場所なの。まだ安全とは言えないわ」
初夏の山中には、木の実やら、恐いもの知らずの小動物やらの食糧がふんだんにあって、三狼や白久の持つ必要最小限の旅支度でも、この先なんとかやっていけそうだった。
白久は、三狼との旅を、精一杯楽しむことにした。
実際、三狼は、側にいるだけで白久の暗い気持ちを吹き払ってくれる。
三狼の眼は、いつも新しい発見を求めて輝いているようだった。
彼を見ていると、今まであたりまえと思っていたことが、突然新鮮なものに変わってしまうのだ。
たとえば、風の流れで変化する雲の形の奇妙さや、名も知らない野花の可憐な香り。
子供のように歓声を上げる三狼の側で、白久もいつのまにか微笑みを浮かべていた。
陽が傾きはじめたころ、先に立って歩いていた三狼が、ぴたりと立ち止まった。
「どうしたの?」
「早く、来てごらんよ」
白久は坂を登りつめていた三狼に追いつき、息をのんだ。
目の前は、空を削ぎ取るような深い谷間になっていた。そして、谷の両斜面いっぱいに藤の花が咲き誇っているのだ。
谷全体が、藤の濃い紫色に染まっていた。谷底になだれ落ちていくかのような花房は、重たげに風に揺れていた。
「すばらしい眺めだなあ」
三狼は、感きわまったように言った。
「大那では、とうていお目にかかれない景色だよ」
「わたしも」
足下の光景に眼をうばわれたまま、白久は、うなずいた。
「こんなにたくさんの藤を見たのは初めてだわ」
「もうじき龍と会えそうな気がしてきたな。紫は、きみの一門の色だろう」
「そうね」
紫は、呪力を持った〈龍〉の眼の色、亜鳥の眼の色だ。空を翔ける龍もまた、紫色の瞳をしているという。
二人は、藤の谷を下って行った。谷間の空気までもが、紫にもやがかっているように見えてくる。
それは、空気がしだいに湿り気を帯びてきたためでもあった。いつのまにか、空にはどんよりとした曇がたちこめ、二人が谷の下までたどりついた時には、霧のような雨が降りはじめた。
谷底は、深みのある川だった。こぼれおちた紫色の花びらが、泡立つ水の中を踊るように流れていった。
「雨の風情もなかなかいいもんだよな」
三狼は谷を見上げて言い、ぶるっと身体を震わせた。
「自分が濡れなかったら、の話かもしれないが」
雨のせいか、風も冷やっこいものになっていた。
白久はくすりと笑い、
「河原より、林の中の方が濡れないわ。雨宿りするところもあるかもしれない」
二人は、藤蔦の下をくぐり抜けながら、林の中に入りこんだ。
木々の間を縫って、けもの道が続いている。枝を伸ばした潅木が、ともすれば前方をふさいでいた。
三狼は、白久の前に立って、茂みを掻き分けながら進んだ。
突然、何かが空気を切る鋭い音がした。
白久は、はっと立ちすくんだ。
三狼が、小さく呻いて膝をつく。
彼は右腕を押さえた。
肘の上あたりに、一本の矢が突きささっていた。