第16話

文字数 2,485文字

 
 白久と三狼は、最後にもう一度龍の脱け殻の前に立った。
 川面には、乳白色の靄が低くたちこめていた。
 脱け殻は、岸の方にも流れてきた靄に、しだいに包まれていくようだった。
「行こう」
 三狼が言った。白久はうなずき、きびすを返した。
 その時、大きな水音が聞こえた。
 白久は、弾かれたように川に目を向けた。
 水面が泡立ち、盛り上がっていた。
 水と靄とを突き抜けて、枝分かれした二本の角がしずしずと表れた。
 ごわつく金色のたてがみ、びっしりと緑銀の鱗におおわれた顔。
 白久は、声もなくそれを見つめた。
 龍は、水面から首だけを伸ばし、深い紫色の眼で白久を見返した。
 いつのまにか白久は、祈るようにひざまづいてた。
 三狼も、白久の側に座り込んだまま、身じろぎしない。
 龍の眼は、確かな知性と、はかりしれない時をたたえている。
 人間など、足元にもおよぶまい。
 この世で最も偉大で、美しい生きものだ。
 龍は、その息づかいがはっきりとわかるほど白久に顔を近づけた。
 龍の思いとは、どんなものなのだろう。
 白久はふと考えた。龍の中に入り込むことができたら。
 ほんの一瞬でも、その霊を共有することができたら。
 誘惑には勝てなかった。白久は自分の霊を、つと龍に伸ばした。
 龍は、牙をむきだした。
 とたんに、
 頭の中に閃光が走った。
 白久は、顔を覆って叫び声をあげた。
 すさまじい拒絶だ。龍は、霊に触れることすら許さなかった。
「白久さん!」 
 三狼が、驚いて白久の肩をささえた。白久は、ようやく首を振った。
「だいじょうぶよ。わたしが、悪かったの」
 そう、思い上りもいいところだ。たかだか人間の呪力が、龍に通用するわけがない。
 白久は、心の中で龍にわびた。
 思いがけず、龍の深々とした思考が返ってきた。やさしく、包み込むようで、ひどく懐かしい。
 (白久)
 龍は、はっきりと白久の名を呼んだ。
 白久は、はっと立ち上がった。
「あなたは」
 龍は、ゆっくりとまばたきをした。
(白久)
(まさか)
(そうよ、わたしは、あなたの母親だったものよ)
「なぜ?」
 白久は、混乱してささやいた。
「なぜ、こんなことに」
(おろかだったからよ)
 龍は、鼻先にしわを寄せたように見えた。
(あなたと、お父さんを置いて、家を出たわ。帰らないつもりじゃなかった。ただ、少し考えてみたかっただけ。何のために自分はいるのか。なぜ、一門に縛られていなければならないのか。
 呪力のある子供を生むためだけに生きているのではないはずなのに。
 村を離れてどこまでも行って、気がついたら龍が翔んでいた。あなたと同じようにばかなことを考えた。あの龍に入りこんだとしたら・・。
 龍は、わたしを拒まなかった。
 受け入れ、そして呑み込んだ。龍の霊は大きすぎたわ。わたしは、二度と身体に戻れなくなった)
(母さん)
(当然のむくいよ。あの時、わたしがあなたやお父さんを捨てて逃げたのは確かなのだから。龍になれたら、どんなにいいだろうと)
 白久は、龍の鼻ずらに手を伸ばした。ざらつく鱗のひんやりとした感触が、しだいに龍の体温の温かみを伝えてくる。
 言うべき言葉がみつからなかった。自分が母だったとしても、同じことをしていたのではないか。
(もう少し、お父さんのことを考えてあげるべきだった。あんなにもろい人だったなんて。かわいそうな久伊。あの人を、ああまでしてしまったのは、わたしだわ)
 白久は、ぎくりとした。
 母の思考に、言葉以外の不気味な心象があったので。
 それは、昨夜見た夢とまったく同じものだった。
(父さんと叔母さんに、何が起きたのか知っているのね)
(亜鳥は〈老〉にすべてを話したわ。〈老〉は狂喜したけど、あなたを自由にしようとはしなかった。亜鳥の目は、〈老〉の欲求をいっそう掻き立ててしまった。もっと多くの紫色の瞳の子をとね。〈老〉にとって、わたしたちの血筋はどうしても必要なの。
 あなたを、何日もかけて探させた。久伊は、じっとしていた。じっとして動かなかった。そうして、怒りをつのらせていったの。わたしが去り、あなたが去ったのはみんな〈龍〉のせい。彼からわたしたちを取り上げた一門に、あの人は復讐するつもりなの。村に戻って、琵琶を弾きながら命を断った。昨日のことよ)
 白久は、絶句した。
(父さんは、死んでしまったの?)
(死よりも悪いことよ。久伊の霊は琵琶に乗り移って、まだ弾き続けている。幻曲師の呪力をすべて注ぎ込んで。恐ろしい力だわ。琵琶の音を聞いた者は、いずれ狂い死にしてしまうでしょう)
 母・龍の心話は淡々としていた。まるで、他人のことでも話しているように。
 龍は、そんな白久の思いに気づいたようだ。
(許してちょうだい、白久。私には、自分で思っているほど人間らしさが残っていない。今は、何が起きても、心が揺るがない)
 白久は首を振り、叫ぶように言った。
「でも、わたしの所に来てくれた。わたしは、いったい、どうすればいいの」
(亜鳥の呪力でも、久伊の力を止めようがなかった。亜鳥に力を貸してあげて、白久。わたしには、あなたを村に送り届けることぐらいしかできないわ。龍の精神の表層には、そんなに長くとどまれないの。わたしは、この龍に寄生した霊にすぎないのだから)
 龍は首をさし伸べ、顎を白久のすぐ前に置いた。
「乗れって言っているのよ」
 白久は、眼を丸くしている三狼を振り返った。
「いっしょに来て、お願い」
 白久は、龍の顔に足をかけ、角の所までよじのぼった。
 若い木の幹ほどもある角の片方にしがみつき、思ったよりもしなやかな金色のたてがみに、両足を絡ませる。
 三狼も白久にならい、もう一方の角をつかんで座り込んだ。
 龍は、なめらかに身をよじらせた。首を高々と上げ、前脚で空を蹴る。
 龍のくねった尾が、川面を叩いた。
 すさまじい水しぶきが起こり、次の瞬間、龍は上昇した。
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