第5話
文字数 3,374文字
坂道の下に村が見え、白久は大きく息をついた。
村に帰るまでのことは、よく憶えていない。大那と、たったいま会った青年のことをぐるぐると思いめぐらしながら、夢中で歩きつづけたのだ。
一刻もはやく亜鳥に会って、この大きすぎる秘密を分かち合いたかった。
日はだいぶ傾いている。
高床のまわりに人気はなかった。虫干しはどうやら終わったようだ。
早く家へ、と思ったやさき、白久の心をつつくものがあった。白久はぎくりとして身がまえた。
〈老 〉が白久に呼びかけている。このまま精神 を読まれてはたまらない。
〈老〉の呼びかけは執拗だった。振り切ってはかえって心の中に喰い込まれてしまう。
白久はあきらめて〈老〉のところに行くことにした。
白久はせいいっぱい心の奥の扉を閉めた。〈老〉と会う時はいつもすることなので怪しまれることはないだろう。
一門の長である〈老〉は、最も力ある呪力者だった。他人の心を読める力を持っているのも〈老〉ひとりだ。
自分の心を守る術は、呪力者はもちろん呪力を持たない者も大なり小なり持ってはいるが、〈老〉のような存在にはどうしても威圧されてしまう。
白久は村に下り、〈老〉の住まいである高床の建物のひとつに歩んで行った。
入り口に垂れた厚手の織物の向こうで〈老〉のひっそりとした息づかいが感じられた。
(入るがいい)
〈老〉は、白久の心に語りかけた。
白久は思いきって内に入った。
敷かれたままの布団の上に、小さな影がうずくまっていた。
〈老〉に会うたび、白久はぞっとする。衣に半ば埋まるようにしてつつまれている枯れ枝のような身体。
その背丈は、五六才の子供ほどしかなかった。まばらに生えた灰色の髪、黄ばんだ皺だらけの顔は、正真正銘百才を過ぎた老人のものだというのに。
持って生まれた強い呪力とひきかえに、〈老〉の肉体はいびつな成長しかできなかったのだ。
それでも呪力者であることに満足しているのだろうか。
白久には、わからなかった。
(そこに座りなさい)
〈老〉ほどの年では、口を使って話すより、精神で語った方が楽なのだ。
白久は〈老〉の向かい側に座り込んだ。
(今日は、何の日か分かっていたな)
「はい、〈老〉」
白久は、うなだれたまま答えた。
(なぜ、来なかったのだ)
「なにもしたくない日だってあります」
(そうかな。おまえは、どうも皆となじめぬ。亜鳥に育てさせたのが悪かったのかもしれんが)
白久はきっと顔を上げた。
「叔母は、なにも関係ありません」
(血のせいであることは確からしい。おまえは母親の若い時によく似ておる)
「・・」
母さんも〈龍〉が好きではなかったのだろう。
ちらと白久は母を思った。
時おり亜鳥がしてくれる話からもそれは感じられた。
顔もよく憶えていない母が、たまらなく恋しくなる。
亜鳥にはなんの不満もないけれど、母が生きてさえいてくれたら自分の暮らしはもっと違ったものになっているはずなのに。
(だが、水也 は久伊と結婚したぞ)
〈老〉の話は続いていた。
(おまえも、そろそろ考えなければ)
「・・」
(都津がおまえを欲しがっているようだ)
白久は即座に叫んだ。
「都津には由良がいます」
(由良の呪力はさほど強いものではない。おまえの方がすぐれた呪力者が生まれるだろう)
白久はきっとした。それだけで伴侶を決められてはかなわない。
「わたしは、都津が好きじゃありません」
(では、誰を夫にするつもりだ。やもめの呪力者はいるが、おまえの父親よりも年上だ。それとも、おまえよりも年若い者が成長するのを待つつもりか)
「わたしは誰とも結婚しません」
白久はきっぱりと言った。
「叔母のように髪をおろします」
(そうはいくまい。おまえは亜鳥のように盲目でも、呪力を持たぬ者でもない)
〈老〉の思念は執拗だった。
ねっとりとねばりつくように白久の内に入り込んでくる。振り払えるものなら払ってしまいたい。
白久は裳のひだを握りしめ、ようやくこらえた。
(考えてみるがいい)
〈老〉は続けた。
(おまえの呪力は、わし以上に強いものになるかもしれぬ。他のものの霊に入り込める力だ。おまえがその気になりさえすれば、他の人間を意のまま支配することもできるだろう)
他の人間?
白久はぞっとした。
いままで、一度も考えたことはなかった。小さな生きものの霊に入り込むことだけで満足してきた。ちょっとの間、その身体を借りることだけで。
けれど、相手が意志ある人間だとしたら?
自分の霊の内に、他の誰かが入って来ることを想像する。
〈老〉の読心どころではなかった。扉の奥深くにずかずかと踏み込まれ、自分のすべてを曝し、明け渡してしまうのだ。
そんなことをされるなら、死んだほうがましだった。もちろん、誰にもそんなことはしたくない。
白久は、急に自分の力が禍々しいものに思えてきた。
(おまえの力は母親ゆずりだ)
〈老〉は身動きもせずに白久に語りかけている。
(わしは、わし亡き後、水也に〈龍〉を継がせたかった。あのようなことにならなければ)
白久は、はっと顔を上げた。
はじめて聞くことだった。亜鳥も話してくれたことはない。
母のことを思うと、いつも浮かぶ映像がある。
緑の水をたたえる沼のほとりで、眠るように目を閉じて横たわる母の姿。
顔はさだかではなかったが、その唇には微笑みさえ浮かび、白い頬にかかるほつれ毛がかすかに風に揺れている。
なぜ母が死んだのか、亜鳥すらはっきりとわからなかった。ある日ふらりと村からいなくなり、四日後にそんなふうにして息たえている母を父がみつけたのだという。
村からはだいぶ離れた大隅の奥地で。
母も〈龍〉の長になどなりたくなかったにちがいない。大隅に来て二百年、過去の栄華だけを煮つめて、にごりににごった〈龍〉などの。
選んだ道は死だったのだろうか?
母の死後、父が常人でなくなったわけも、おぼろげながら理解できるような気がした。
父は母を繋ぎ止めておくことができなかったのだ。そして、〈龍〉全体に憎しみをもって背を向けた。
(おまえは、わしの期待にこたえてもらいたい)
〈老〉は、身動きもせず語っている。
(わかるな、白久)
わかるものですか。
白久は〈老〉に気どられない心の奥底でつぶやいた。
母を死に追いやったのは、この〈老〉の執拗さだったかもしれないのだ。
(都津とおまえならば、目に紫を持つ子が生み出せるかもしれん。わしのような身体ではない、完璧な呪力者が。〈龍〉の中の〈龍〉を見れば、わしも安心して地霊に還れるというものだ)
紫色の目の子供が生まれたところで、どうなるというのだろう。大那に帰れるわけでもないのに。
あの大那から来た青年のことを〈老〉が知ったとしたら・・。
白久はちらと意地悪い気持ちで考えた。
こんなにも狂おしく、大那にいたころの〈龍〉を模倣しようとしている〈老〉。
大那は〈龍〉など必用としていないことを思い知ればいいのだ。いま大隅にいるのは過去に未練がましくしがみついた醜い〈龍〉の形骸だと。
そして、はっきりと白久は悟った。
〈老〉たちは、彼を許さないだろう。
彼は〈龍〉が望んでも決して手にとどかない大那の化身なのだ。これみよがしに姿を見せられては、憎しみはつのるばかりにちがいない。
彼を一門に会わせてはいけないのだと、あらためて白久は思った。一日も早く大隅から立ち退かせ、〈龍〉のことなど忘れてもらわねば。
〈老〉は目を閉じ、沈黙していた。白久の答えなど求めていない。
彼の中では、すでに白久と都津のことが決められているようだ。
屋根に開いた高窓から、夕暮れのぼやけた光が〈老〉の白髪をかすめて差し込んでいた。
その姿は、小さな皺だらけの化けものだった。
どうやら、眠ってしまったらしい。
〈老〉は、一日の大半を眠って過ごしている。これほどの歳で呪力を持ちこたえるには、死のような熟睡が必要なのだろう。
白久は形ばかり一礼して、そそくさと〈老〉の家を出た。
村に帰るまでのことは、よく憶えていない。大那と、たったいま会った青年のことをぐるぐると思いめぐらしながら、夢中で歩きつづけたのだ。
一刻もはやく亜鳥に会って、この大きすぎる秘密を分かち合いたかった。
日はだいぶ傾いている。
高床のまわりに人気はなかった。虫干しはどうやら終わったようだ。
早く家へ、と思ったやさき、白久の心をつつくものがあった。白久はぎくりとして身がまえた。
〈
〈老〉の呼びかけは執拗だった。振り切ってはかえって心の中に喰い込まれてしまう。
白久はあきらめて〈老〉のところに行くことにした。
白久はせいいっぱい心の奥の扉を閉めた。〈老〉と会う時はいつもすることなので怪しまれることはないだろう。
一門の長である〈老〉は、最も力ある呪力者だった。他人の心を読める力を持っているのも〈老〉ひとりだ。
自分の心を守る術は、呪力者はもちろん呪力を持たない者も大なり小なり持ってはいるが、〈老〉のような存在にはどうしても威圧されてしまう。
白久は村に下り、〈老〉の住まいである高床の建物のひとつに歩んで行った。
入り口に垂れた厚手の織物の向こうで〈老〉のひっそりとした息づかいが感じられた。
(入るがいい)
〈老〉は、白久の心に語りかけた。
白久は思いきって内に入った。
敷かれたままの布団の上に、小さな影がうずくまっていた。
〈老〉に会うたび、白久はぞっとする。衣に半ば埋まるようにしてつつまれている枯れ枝のような身体。
その背丈は、五六才の子供ほどしかなかった。まばらに生えた灰色の髪、黄ばんだ皺だらけの顔は、正真正銘百才を過ぎた老人のものだというのに。
持って生まれた強い呪力とひきかえに、〈老〉の肉体はいびつな成長しかできなかったのだ。
それでも呪力者であることに満足しているのだろうか。
白久には、わからなかった。
(そこに座りなさい)
〈老〉ほどの年では、口を使って話すより、精神で語った方が楽なのだ。
白久は〈老〉の向かい側に座り込んだ。
(今日は、何の日か分かっていたな)
「はい、〈老〉」
白久は、うなだれたまま答えた。
(なぜ、来なかったのだ)
「なにもしたくない日だってあります」
(そうかな。おまえは、どうも皆となじめぬ。亜鳥に育てさせたのが悪かったのかもしれんが)
白久はきっと顔を上げた。
「叔母は、なにも関係ありません」
(血のせいであることは確からしい。おまえは母親の若い時によく似ておる)
「・・」
母さんも〈龍〉が好きではなかったのだろう。
ちらと白久は母を思った。
時おり亜鳥がしてくれる話からもそれは感じられた。
顔もよく憶えていない母が、たまらなく恋しくなる。
亜鳥にはなんの不満もないけれど、母が生きてさえいてくれたら自分の暮らしはもっと違ったものになっているはずなのに。
(だが、
〈老〉の話は続いていた。
(おまえも、そろそろ考えなければ)
「・・」
(都津がおまえを欲しがっているようだ)
白久は即座に叫んだ。
「都津には由良がいます」
(由良の呪力はさほど強いものではない。おまえの方がすぐれた呪力者が生まれるだろう)
白久はきっとした。それだけで伴侶を決められてはかなわない。
「わたしは、都津が好きじゃありません」
(では、誰を夫にするつもりだ。やもめの呪力者はいるが、おまえの父親よりも年上だ。それとも、おまえよりも年若い者が成長するのを待つつもりか)
「わたしは誰とも結婚しません」
白久はきっぱりと言った。
「叔母のように髪をおろします」
(そうはいくまい。おまえは亜鳥のように盲目でも、呪力を持たぬ者でもない)
〈老〉の思念は執拗だった。
ねっとりとねばりつくように白久の内に入り込んでくる。振り払えるものなら払ってしまいたい。
白久は裳のひだを握りしめ、ようやくこらえた。
(考えてみるがいい)
〈老〉は続けた。
(おまえの呪力は、わし以上に強いものになるかもしれぬ。他のものの霊に入り込める力だ。おまえがその気になりさえすれば、他の人間を意のまま支配することもできるだろう)
他の人間?
白久はぞっとした。
いままで、一度も考えたことはなかった。小さな生きものの霊に入り込むことだけで満足してきた。ちょっとの間、その身体を借りることだけで。
けれど、相手が意志ある人間だとしたら?
自分の霊の内に、他の誰かが入って来ることを想像する。
〈老〉の読心どころではなかった。扉の奥深くにずかずかと踏み込まれ、自分のすべてを曝し、明け渡してしまうのだ。
そんなことをされるなら、死んだほうがましだった。もちろん、誰にもそんなことはしたくない。
白久は、急に自分の力が禍々しいものに思えてきた。
(おまえの力は母親ゆずりだ)
〈老〉は身動きもせずに白久に語りかけている。
(わしは、わし亡き後、水也に〈龍〉を継がせたかった。あのようなことにならなければ)
白久は、はっと顔を上げた。
はじめて聞くことだった。亜鳥も話してくれたことはない。
母のことを思うと、いつも浮かぶ映像がある。
緑の水をたたえる沼のほとりで、眠るように目を閉じて横たわる母の姿。
顔はさだかではなかったが、その唇には微笑みさえ浮かび、白い頬にかかるほつれ毛がかすかに風に揺れている。
なぜ母が死んだのか、亜鳥すらはっきりとわからなかった。ある日ふらりと村からいなくなり、四日後にそんなふうにして息たえている母を父がみつけたのだという。
村からはだいぶ離れた大隅の奥地で。
母も〈龍〉の長になどなりたくなかったにちがいない。大隅に来て二百年、過去の栄華だけを煮つめて、にごりににごった〈龍〉などの。
選んだ道は死だったのだろうか?
母の死後、父が常人でなくなったわけも、おぼろげながら理解できるような気がした。
父は母を繋ぎ止めておくことができなかったのだ。そして、〈龍〉全体に憎しみをもって背を向けた。
(おまえは、わしの期待にこたえてもらいたい)
〈老〉は、身動きもせず語っている。
(わかるな、白久)
わかるものですか。
白久は〈老〉に気どられない心の奥底でつぶやいた。
母を死に追いやったのは、この〈老〉の執拗さだったかもしれないのだ。
(都津とおまえならば、目に紫を持つ子が生み出せるかもしれん。わしのような身体ではない、完璧な呪力者が。〈龍〉の中の〈龍〉を見れば、わしも安心して地霊に還れるというものだ)
紫色の目の子供が生まれたところで、どうなるというのだろう。大那に帰れるわけでもないのに。
あの大那から来た青年のことを〈老〉が知ったとしたら・・。
白久はちらと意地悪い気持ちで考えた。
こんなにも狂おしく、大那にいたころの〈龍〉を模倣しようとしている〈老〉。
大那は〈龍〉など必用としていないことを思い知ればいいのだ。いま大隅にいるのは過去に未練がましくしがみついた醜い〈龍〉の形骸だと。
そして、はっきりと白久は悟った。
〈老〉たちは、彼を許さないだろう。
彼は〈龍〉が望んでも決して手にとどかない大那の化身なのだ。これみよがしに姿を見せられては、憎しみはつのるばかりにちがいない。
彼を一門に会わせてはいけないのだと、あらためて白久は思った。一日も早く大隅から立ち退かせ、〈龍〉のことなど忘れてもらわねば。
〈老〉は目を閉じ、沈黙していた。白久の答えなど求めていない。
彼の中では、すでに白久と都津のことが決められているようだ。
屋根に開いた高窓から、夕暮れのぼやけた光が〈老〉の白髪をかすめて差し込んでいた。
その姿は、小さな皺だらけの化けものだった。
どうやら、眠ってしまったらしい。
〈老〉は、一日の大半を眠って過ごしている。これほどの歳で呪力を持ちこたえるには、死のような熟睡が必要なのだろう。
白久は形ばかり一礼して、そそくさと〈老〉の家を出た。