第1話

文字数 3,335文字

 明るい林の中から飛び立った駒鳥は、薄灰色の腹をひらめかせ、しばらく心地よげにはばたいていた。
 初夏の日差しはまぶしく、薄衣のような雲が風に流れた。
 重なりあう山々は鮮やかな緑色。それは西に向かってしだいに高くなり、最後に、斑に雪を残した武塔(ふとう)山脈の連なりが、ひときわ険しく空に挑んでいる。
 駒鳥は、その武塔山脈めざしてまっすぐに飛び去るかに見えたが、やがてためらうように方向を変え、もとの林に舞い戻った。
 ブナの木の梢に止まり、小さな首を傾けて地面を見下ろした。
 木の根を枕にして、少女がひとり横たわっている。
 高い枝葉の間から、林の中の下生えに幾条もの木漏れ日がふりそそいでいた。光と影が作る緑の濃淡の中で、少女は胸元で両手を組み合わせ、呼吸すら感じさせないほど静かに目を閉じていた。
 年の頃は十五六。質素な草木染めの上衣と茜色の裳を身につけ、長い黒髪を二つに分けて結い上げている。色白の顔は端正で、形のいい唇がかすかに引き上がり、不思議な微笑を浮かべているようだった。
 駒鳥と少女が同時にまばたきをした。
 少女が深く息をはきだすと、駒鳥は我にかえったように一声鳴いて、もう一度空高く飛び立った。
 横たわったまま、白久(しらく)は目を見ひらいた。大きな夢見るような瞳が、まぶしげに細められた。
 木の葉の間から見える狭い空に両手を伸ばす。
 けれど自分の肉体では飛べるはずもなく、白久は軽いため息をついた。
 たった今まで身体を借りていた駒鳥は、もう遠くへ飛び去ってしまっている。
 本当の鳥ならば。
 と、白久は考えた。
 自由に武塔山脈の向こうまでも飛んで行けるものを。
 だが、白久の(たま)は、いつもそこでためらってしまうのだ。
 白久はしかたなく身を起こした。
 足元の布包みに目を向ける。
 父への届けものだった。
 ぐずぐずしていては夕方まで村に帰れないだろう。父に会うのが嫌さに、つい駒鳥の中に入りこんで空の散歩を楽しんでしまったけれど。
 白久は包みを取り、裳の裾を払いながら立ち上がった。
 父の住処はこの林を抜けて、さらに山深く入った場所にある。
 これまでにも幾度も往復している山道を、慣れた足取りで白久は歩いた。木々の幹の間から、時おり駆け去っていく小動物の茶色い姿が見えた。頭上では、かしましいほど鳥たちが鳴いている。
 やがて木立ちがとぎれ、目の前がゆるい下りの斜面になった。斜面の下は、じめつく沢だ。
 沢の向こう斜面の上に、切り立った褐色の崖がある。
 
 白久は、ぬかるみに足をとられないように用心しながら沢の斜面を下りて行った。
 近くに高い木がないために、今の時刻、崖にはさかんに日があたっていた。だから一ヶ所だけそこにある裂け目のような穴は、黒々とした深い傷のようだった。
 白久はその前に立ってそっと中をのぞきこんだ。白久の父、久伊(くい)はこの洞に住んでいるのだ。
 いつもながら、近寄りがたい場所だった。来るたびに白久は、世界中のすべてに背を向けているような、寒々とした父の意志を感じてしまう。
 父が村を去ったのは十五年前、つまり白久の母が死んだ年だということだ。以来、父はこの場所でただ独り暮らしている。時おり訪れる白久を例外に、他の何者も寄せつけることなく。
 陽の光が届かない暗がりの中に、細い火が燃えていた。その灯火を背に人影がうずくまっていた。
「父さん」
 白久は声をかけた。
 もちろん、答えは期待していない。そのまま洞の中に入ると、外の光に慣れた目はちょっとの間なにも見えなくなった。
 白久は目をこすって父の側に座り込んだ。ぼんやりと見えてきた父の表情は、白久が来てもいささかも変化しなかった。ちらと娘を見たが、にこりともしない。
 めったに陽に当たらない顔は蒼白で、目の下には濃い隈が出来ていた。両頬は、病的なほどこけている。
 実際、久伊は病んでいた。悲しいことに、その心が。
 妻が死んで以来、彼は誰とも話そうとはしなかった。
 父に会うたびに感じる胸の痛みを打ち消すように、白久は快活に言った。
「今日は新しい夏衣を持って来たの。わたしが縫ったのよ。叔母さんにも手伝ってもらったけど。ここに置いておきますね」
 後の壁の窪みにのせた灯皿の油が切れかかってるのに気づき、白久はかいがいしく油をつぎ足した。
 燃える灯芯を直しながら、無造作に置かれている琵琶に目を止める。
 あるものといえば必用最小限の品ばかり、すべてが暗く沈んだ洞の中で、その琵琶だけは異様なほど生気あふれて見えた。
 全体がつややかな漆黒で、棹から表板にかけて、ぐるりと巻きつくように銀箔の龍がほどこされている。
 龍の双の目に埋め込まれているのは、鮮やかな輝きの紫水晶だ。今にも頭をもたげて咆哮しそうな、みごとな細工の龍だった。
 一門を捨て、白久を捨てながらも父が捨てきれずにいる唯一のもの。
 父は、龍の一門の琵琶弾きだった。
 これは、千年も昔から〈龍〉の琵琶弾きに伝えられている琵琶。〈龍〉がまだ武塔山脈を越えず、西の方の大那(だいな)で絢蘭たる支配者であった時代の遺物なのだ。
 一門の儀式に琵琶は欠かせない。その曲には〈龍〉の歴史がつづられているからだ。
 父がこうなってからは、遠縁の青年が別の琵琶を弾いていた。いずれ父が死ねば、この琵琶も譲り渡され、彼が正式な〈龍〉の琵琶弾きになることだろう。
 白久は父の琵琶を聴いたことがなかった。おそらく父は、たったひとりで、死んだ母のためにだけ琵琶を弾いているのだと白久は思う。死者の霊鎮めのためにも、琵琶は弾かれるのだから。
 何をするでもなく父の側に座っているうち、陽が傾いて来た。
「じゃあ父さん、また来るから」
 白久が言っても、久伊は娘を見もしなかった。
 白久は、来た時と同様のむなしさを感じたまま洞を出た。
 村に帰るころには、陽は沈みかかっていた。
 白久は空を振りあおいだ。
 夕陽に映えた武塔山脈は美しかった。山頂の万年雪が真紅に燃えている。
 背後の雲は、朱や橙色や金色や、あらゆるきらびやかな色に染まってたなびいていた。
 こんな時、白久はいつも、もの悲しい思いにつつまれるのだった。
 武塔山脈の向こう、大那へのつきないあこがれと、決して帰れないとわかっているあきらめと。
 おそらくこれは、〈龍〉の誰もが味わっているに違いない感情だった。
 もう大那に龍は飛ばない。
 龍が生きるためには、大量の地霊が必用なのだ。
 龍は、生命そのものが呪力に等しい生きものだし、呪力をもたらすものが地霊だから。
 大那の地霊は老い衰えたのだという。龍はいつしか大那を去り、まだ若い未開の地、この大隅(おおすみ)へと移り住んだ。
 龍の一門もまた、守霊の龍と同じ運命をたどらなければならなかった。龍の名に恥じぬすぐれた呪力(じゅりょく)者であった一門も、地霊の衰えの前には無力だったのだ。一門の呪力は徐々に失われ、やがては一人の子供すら生まれなくなった。
 大那で死ぬことを望んだ一部の者たちを除き、一門は龍を追って大隅に移住した。
 今から二百年も前のこと。
 その龍の村は、白久の立つ坂の下、細長い谷間にひっそりと眠るようにしてあった。
 全部で三十戸あまりの草葺の家々と、村の中央に建つ二つの高床の建物だけのささやかな集落だ。
 いくらか広くなった東の扇状地に共同の田畑が開墾されており、その向こうはまた、原生林の山野が続く。
 これが〈龍〉の世界のすべて。
 坂道に立って村を見下ろすたび、白久はいつも思ってしまう。
 ここから手を伸ばせば、一度ですくってしまえそうなほどの小さな世界だ。
 かつて大那の広大な全土を支配していた〈龍〉たちは、自分の一門のこんな行く末を想像していたかどうか。
 白久はふっと苦笑いし、坂を下りて行った。目の前に人影が現れたのはその時だった。
 気配もなく、空から生みだされたもののように忽然と。
 白久はびくりとしたが、すぐに軽く眉をひそめた。
「驚かせないで、都津(とづ)

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