第17話

文字数 2,406文字

 風圧で、息もできないほどだった。
 顔を伏せ、角にしがみついているのが精一杯だ。
 ふっと身体が楽になり、気がつくと龍は軽々と空を翔んでいた。
「白久さん」
 三狼が、ため息まじりの声を上げた。
「わたしは、たった今、ここから落ちても本望だよ」
 白久も夢中でうなずいた。
 山々も、白久と三狼が超えてきた原野もはるか下。
 緑の濃淡に、龍の細長い影がなめらかな動きとなって映っている。夷人たちの住む場所は、たちまちのうちに通り過ぎたことだろう。
 顔を打つ強い風も、上空の空気の切るような冷たさも忘れてしまう。
 すばらしい飛翔だ。
 鳥の霊に入り込んだ時でも、白久はこんなに高く飛んだことはない。
「それで」
 三狼は、真顔になって白久を見つめた。
「何が起きているんだい?」
 白久は我にかえり、きつく目を閉じた。
「父さんが」
 龍に聞いたことを三狼に話す。
 三狼は、悲しげに眉をよせて、
「なんとかして、きみの父さんを鎮めなければ」
「ええ」
(母さんは、自分だけ責めているけど)
 白久は、母に語りかけた。
(父さんを捨てたのは、わたしもいっしょよ。わたしが、村を出なければ、こんなことにはならなかった)
(あなたが、村に残って苦しんでいても、いずれは起きたことでしょう)
 龍は言った。
(きっかけにすぎなかったのよ。悪いのはすべて私。私は、久伊に一門の影しか見出せなかった。あの人は、呪力者ではない私自身を愛してくれていたというのに)
(母さんは、父さんが好きではなかったの?)
(好きになれたかもしれない。時間さえあれば)
(時間)
(わたしは、そんな努力すらしなかった。今となっては、もう遅いわ)
 山なみが、急に近づいて来た。
 龍が、ゆるやかに下降をはじめたのだ。白久にも見慣れた光景になる。
 もうじき村のある谷間。
 龍は、高い木々の間を巧みに縫い、久伊が住んでいた洞近くの沢にすべるように着地した。
 地面が揺れ、沢水が沸き立った。
 三狼に手をかりながら、白久はすばやく地面に降り立った。
(亜鳥のところに行ってあげて)
(母さん)
 白久は、龍の豊かなたてがみに顔をおしつけた。
(母さんは、これでいいの。このままでいいの?)
 龍は、その深い紫色の瞳で白久を見つめた。
(昔は人間だった時のことが恋しくなったりもしたけれど、今はどうしようもないし、満足もしているわ)
(・・)
(もうじきに、わたしの霊は龍と同化してしまうでしょう。本当の龍として生きていけるでしょう)
 龍は、空に向かって首を振り上げた。
「翔ぶつもりよ」
 白久は、三狼に言った。
 自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
「離れていた方がいいわ」
 二人は、龍から遠ざかった。
 龍のまわりで、風が巻き起こった。木々がどよめき、木の葉や枝が乱れ飛ぶ。
 三狼とささえあいながら、白久は一直線に空に昇る龍の姿を見送った。
 龍は、白久たちの頭上を一度ゆるやかに旋回し、雲間に遠く消え去った。
 白久は言った。
「行かなくちゃ」
「そうだな」
 三狼も、うなずいた。
「きみの叔母さんを探すとしよう」
 
 亜鳥は見つかった。 
 村の谷間を見下ろす場所に、ぐったりと倒れていた。
 白久は、三狼と彼女に駆け寄った。
 抱え起こすと、亜鳥は苦しげにまばたきした。ついで、白久を認めて小さな声を上げた。
「白久」
 白久は、亜鳥にしっかりと抱きついた。
「大丈夫? 叔母さん」
「ごめんなさい、白久」
 亜鳥はすすり上げた。
「わたしは、何もできなかった。あとはまかせてなんて言いながら」
 白久は首を振った。
「あやまるのは、わたしと母さんよ。わたしたちは〈龍〉を憎んだ。それは、一門の伝説を背おった父さんを拒絶するのと同じこと。父さんは、自分と〈龍〉をいっしょに壊すしかなかったのだと思う」
 亜鳥は目を見開いた。
「母さんが教えてくれたの」
 白久は、自分の心をひらき、叔母にゆだねた。
「姉さん」
 亜鳥はつぶやき、ため息をもらした。
「知らなかったわ。そんなことになっていたなんて」
「叔母さんに手を貸すようにと母さんは言ったけど」
 白久は亜鳥の手を握りしめた。
「わたしが父さんを止めなくては。どうすればいい?」
 亜鳥は、村を見下ろした。
「わたしは、ここまで逃げてくるのが精一杯だったわ。村は、音で満ちているの。聞いただけで、正気を失ってしまう。一門の人間が死に絶えるまで、琵琶は鳴り止むことがないでしょう」
「琵琶を壊せば」
「それしか方法はないでしょうね。弦を断ち切って、あなたのお父さんの霊を封じ込めることができれば」
「わたし、父さんの所へ行くわ」
「わたしも行こう」
「お待ちなさい」
 亜鳥は、白久と三狼を押し止めた。
「あなたたちでは、とても無理よ。死にに行くようなもの」
「でも」
「白久、わたしとあなたなら、なんとかなるかもしれない」
 亜鳥は言った。
「わたしの中に入るのよ」
 白久は、はっとした。
「叔母さんの」
「そうよ。わたしは、持っている呪力を全部集めて音を防いでみるわ。あなたは、わたしの身体を動かして、琵琶のところに行って」
 白久はためらった。
 他の人間の中に入り込んだことなど、これまで一度もなかった。白久の力なら、意のままに人を操ることができるだろうと〈老〉も言っていたものだが。
 そんなことをする気にはなれなかった。たとえ誰であっても、その霊の中に、ずかずかと踏み込んで行くなんて、決して許されることではないと思えたから。
「わたしなら、だいじょうぶ」
 亜鳥は、微笑んだ。
「あなたがいても、わたしは自分を保っていられると思うわ。心配しないで」




 

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