第8話

文字数 3,445文字

「きみの?」
 三狼は、あわてて白久の後を追いかけた。
 夢中で駆けながら、白久は考えた。
 ここから父の洞窟はそう遠くない。三狼が父に会うことを考えなかった自分がうかつだったけれど、本当に父が三狼に関心を示したのだろうか。
 もしそうなら、それは三狼が〈龍〉ではないためか。
 きのう白久が感じたように、〈龍〉にはない三狼の魅力が、父の心を開かせたのだろうか。
 心の病がそう簡単に治るとは思えない。一刻も早く自分の目で、父の様子を確かめたかった。
 白久は足を取られるのもかまわず沢を渡って洞の前に来た。
 奥まで見通せないほど、あいかわらず中は薄暗い。
 だが、父のいる気配は確かにした。
 白久は声をかけようとしてためらった。
 返事がこない時の失望が嫌だったから。かわりに、わけがわからないながらも白久についてきた三狼をうながし、中に入らせた。
 久伊は、洞窟の壁にもたれかかって腕組みをしていた。
 眠っているように頭を垂れていたが、三狼の足音で顔を上げた。
 自分の内ばかりを見つめているようなその瞳に、つかのま光がやどったことを白久は見逃さなかった。
 白久には、決して見せたことのない反応だった。
「やあ、昨日はどうも」
 三狼は明るく声をかけた。
 信じられないことに久伊はうっすらと笑みさえ浮かべ、白久に目を向けた。
「大那のことを聞いたか? 白久」
 白久は言葉を失った。
 ものごころついた時から、初めて聞く父の声だった。
 なのに父はあっさりと、何かの会話の続きのように話しかけてくる。
「実におもしろい話だった。一門の者にも聞かせてやりたいものよ。〈老〉はどんな顔をすることやら」
「父さん」
 白久はかすれた声で言った。久伊は白久を見、口の端をゆがめてくっくと忍び笑いをもらした。
 白久はぞくりとし、身をひるがえして洞を出た。
 父の狂気はやはりぬぐえない。
 それでも自分の名を呼んでくれた。自分を白久と認めてくれていたのだ。
 三狼が白久を追ってきた。
「ごらんの通りよ」
 白久は言った。
「あなたも昨日から気づいていたでしょ。父は正気じゃないの。でも、あなたに会う前はもっとひどかった」
「どういうことなのか」
 三狼は当惑したように頭をかいた。
「わからないな、わたしには」
「あなたが教えてくれた大那の様子が、父は気に入ったみたいね。父は〈龍〉を憎んでいるの。あなたの話を聞いて、いくらか胸のつかえが下りたんじゃないかしら」
「大那の話で?」
「この二百年の間、〈龍〉は大那のことなんて何ひとつ知らなかったの。自分たちに都合いいような勝手な想像をしてきたんだわ」
 白久はこぶしを握りしめて一気に言った。
「本当の大那の姿は、〈龍〉を打ちのめすでしょうね。〈龍〉の大那ではなかったんですもの。龍の一門は大那の一部にすぎなくて、〈龍〉がいなくても大那はちゃんとある」
 三狼は白久を黙って見つめ、しばらくしてから口を開いた。
「きみも、きみの一門が好きではないようだね」
 〈老〉と都津の顔が、すばやく白久の脳裏をよぎって消えた。
「大嫌いよ」
 自分でも驚くほど大きな声が出た。白久ははっとして唇を噛んだ。
 三狼はちょっとうなずき、ため息をついた。
「わたしが来たことが、きみを困らせているならあやまるよ。なにか、きみの手助けになれることがあればいいんだが」
「・・」
「きみの父上は、わたしに会ってから変わった。そうだろう?」
「ええ」
「しばらく、ここに置いてもらえるかな」
 白久は驚いて目を見張った。
「時間があれば、もう少しいい方に変わってもらえるんじゃないだろうか。わたしが、きみの父上の側にいてみるよ」
 白久はあっけにとられて三狼を見つめた。
 父の心が癒えるなんて、白久は一度も考えたことがなかったのだ。
「ありがたいわ。だけど・・」
「だけど?」
「なぜ、あなたがそんなことまでしてくれるの?」
 三狼は首をかしげ、困ったように頭を掻いた。
「性分だろうな。しかたがない」
 三狼の言うように、父の心が白久の方に戻ってきたら、どんなに嬉しいだろう。
 父の存在さえあれば、〈老〉に対してだって心強くなれるだろうに。
 三狼は、白い歯を見せてにっと笑った。
 不思議な人だ、と白久は思った。
 つい彼の微笑みに惹き込まれている自分を感じる。
 美しさとはかけ離れた、〈龍〉にはない個性的な顔立ちだ。だが、都津などよりずっと魅力がある。
 大那の人間は、みんな彼のようなのだろうか。
 だとすれば、〈龍〉の血なんて、なんて空しいものなのか。
 三狼がきょとんとして白久を見ていた。白久はあわてて首を振った。
「もう一度、父さんに会って来る」
 父は、あいかわらずうす暗がりの中にうずくまっていた。
 もう白久に話しかけることはなかった。再び自分の奥深くに閉じこもっている。
 さっきの変化は何だったのだろう。三狼の存在は、本当に父の心を癒してくれるのだろうか。
 でも、そうであるように信じたかった。
 父ばかりではない。白久もまた、三狼といると心が明るくなるような気がするのだ。
 日が傾き、帰らなければならない時だと気づくまで、白久は〈老〉のことなど忘れていた。
 白久が沢を渡り終えるまで、三狼は洞窟の前で見送ってくれた。
「村には近づかないようにするよ」
 三狼は言った。
「わたしだって、きみたちの心を乱したいとは思わない。いずれ、真実を求める人たちが現われるんじゃないのかな。いまはまだ、その心構えができていないだけで」
 白久はうなずいた。
 ひとまずこれで、三狼のことは安心できたわけだ。大那への〈龍〉の感情は、三狼が考えているほどなまやさしいものでないにしても。
 沢岸の斜面を登って茂みの小道に入ったとたん、白久はぎょっとして立ち止まった。
 目の前に、突然立ちふさがった者がいる。
「由良」 
 白久は、驚きを隠して言った。
「どうしたの? こんなところで」
 由良は、口を歪めてふふんと笑った。
 彼女の可愛らしさが、台無しになる表情だ。
「都津が、新しい罠をしかけるって聞いたから、ついて行ったのよ。でも、途中ではぐれて道に迷って。そしたら、あなたたちがいた」
「あなたたち?」
 白久は口ごもった。
「あの人は何者?」
 由良は、鋭く訊ねた。
「〈龍〉じゃないわ。夷人でもない」
 由良は、三狼の姿を見てしまったのだ。
「〈老〉には言わないで」
 白久は、とっさに叫んだ。
 こうなったら、由良に本当のことを話すしかない。
「あの人は大那から来たの」
 一呼吸おいて、由良はつぶやいた。
「大那」
「これがわかれば、村中大騒ぎでしょう」
 白久は必死で言った。
「だからお願い。〈老〉やみんなには黙っていて」
「大那には、まだ人が住んでいるの?」
「ええ」
「なぜ、黙ってなくちゃいけないの」
 由良は、ぴしゃりと言った。
「みんなだって知りたいはずよ。今の大那がどうなっているか。あなたは、また独り占めするつもり?」
「独り占め?」
 白久は思わず聞き返した。
「そうよ。あなたはみんな自分だけのものにしなければ気がすまないのよ。〈老〉の期待も、都津のことも」
「そんなことないわ」
 白久は声を荒げた。
 涙が出そうになる。
 なぜわかってくれないのだろう。由良が望むなら、この自分の立場をそっくりそのまま代わってもらいたいくらいなのに。
「あなただけが呪力者じゃない」
 由良は、なおも言った。
 白久のまわりで、突然風がどよもした。
 風は白久の髪の毛を乱し、細い木の枝や葉を吹きちぎって、二人の間で渦を巻いた。
 由良は、空気の流れを変えることができるのだ。範囲は狭いが、だれか一人に危害を加えるには充分な力だ。その人間に、空気を送り込まなければいいのだから。
 乱れた髪の毛をかきあげて、白久は由良を見つめた。
 由良がその気になれば、自分を殺してしまうことだってできるだろう。そうされてもおかしくないほどの憎しみを、白久は嫌と言うほど感じとった。
「忘れないで、わたしは心話もできるのよ」
 由良は、小さな笑い声をたてた。
「たったいま、〈老〉にあの男のことを話したわ」
 立ちつくす白久に、勝ち誇ったように、
「すぐに、みんなが駆けつけてくるでしょうね。ここで待っていましょうよ」
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