第3話

文字数 2,594文字

 空がさわやかに晴れた、いい日だった。
 ほどよい風を頬に受けながら、白久はひとり雑木林を歩いていた。父のこもる山だったが、今日は父に会うつもりはなかった。あの沢のところを遠まわりし、あてもなくぶらぶらと歩く。
 日だまりに、山百合が一群れ咲いているのを見つけて側に近づいた。
 強い芳香が鼻をつき、白久はにおいに邪魔されない風上に立ってぼんやりと花を眺めた。大きな花片が重たげに風にゆれるたび、ちらちらと黄色の花粉をふりまいた。
 白久はひとつ、あくびをかみころした。
 今日は倉の虫干しの日で、白久はだいぶ前から出るのをやめようと決めていた。
 年に一度、高床の倉庫が開けられ、一門の長である〈(ろう)〉を中心に、おそろしく儀式ばったやりかたで〈龍〉の宝物が外に出る。
 大那の記念として大隅に持ち込まれたそれらは、たいした数ではなかったが、一門の目に触れるのはその時ばかりだった。
 しかし、参加する者は呪力者のみ。呪力を持たない者は、それを遠まきにして眺めるだけだ。一門の中では呪力のない者は呪力者よりもはるかに多いのに、彼らはいつも呪力者よりも一歩下がった位置にいて、自分たちを卑下しているように見える。
 そんな人々のものほしげな顔を見るのは嫌だったし、都津のような呪力をひけらかしてばかりいる連中と一日中いっしょにいるのはもっと嫌だった。
 〈老〉は怒るだろうが、嫌な思いの一日よりも小半刻ばかりの〈老〉の小言の方がまだ堪えられそうな気がする。
 白久は、思いをふっきるように首を振った。大きく伸びをして、再び歩き出す。
 けもの道を登ったり下りたり、だいぶたってから一息ついた。
 強くなってきた陽の光を、木々の青葉がさかんに弾きかえしていた。
 のどかな鳥の声があちらこちらで聞こえ、潅木の茂みの上を小さな羽虫が渦のような群れをつくって飛びまわっている。
 ぐるりとあたりを見まわして、まだ一度も入り込んだことのない場所だと気がついた。春の薬草摘みの時分にも、村からこんなに離れたところには来はしない。
 白久は額にかかる前髪をはらいのけながら顔を上げた。
 ざわめく木々の梢を透かし、武塔山脈の青白い姿が見えた。村で見上げるよりずっと近くなったように感じられた。
 このまま西に歩いて行けば、いずれ武塔山脈に行きつけるだろう。その向こうに大那がある。
 いっそ・・。
 歩みかけて、白久は地面に目を落とした。
 〈龍〉が去った後の大那がどうなっているかは誰も知らない。
 支配者を失った大那は乱れに乱れ、現在もそれぞれの一門がしのぎを削る戦世が続いていると言う者もあれば、大那の地霊はとうに枯れ果て、草木一本生えない不毛の地と化していると言う者もいる。
 どんなに想い焦がれたところで、大那は〈龍〉の生きる場所ではなかった。
 大那に行くことは死を意味しており、白久はまだ、死が恐ろしかった。
 白久は深々とため息をついた。いつも同じ想いの繰り返し。
 そして行きつくところは、うつうつとした日々の続きなのだ。
 虫干しはまだ終わらないだろう。どうせ待っているのは〈老〉の小言ばかりなのだから、遅く帰るにこしたことはない。
 もう少しこのあたりで時間を潰すことにした白久は、急に喉の渇きをおぼえた。
 近くの木から、ちょうど一羽の黒つぐみが飛び立った。白久は、すばやくつぐみの内に霊をすべりこませ、雑然とした記憶をまさぐった。
 近くに湧き水があるようだ。
 白久は黒つぐみの記憶に導かれるまま歩き出した。
 木立ちを抜けるといくらか広い草地があって、また林が続いている。林の向こうに、淡い紫色の花をたくさんつけた百日紅(さるすべり)の木が見えた。
 それが黒つぐみの目印だった。白久は風に揺れる淡紫の花をめざして林を横切った。
 視界が開けたところで、白久ははっと立ち止まった。
 先客がいたのだ。
 百日紅は岩肌をむきだしにした急な斜面の下に生えていて、水はその岩肌の割れ目から流れ落ちている。
 百日紅の根元には澄んだ水溜りができ、地面の低い方に向かってちょっとした流れを作っていた。
 彼は水溜りの前に片膝をついて、両手で水を掬い上げていた。
 白久の気配に気がつくと、驚いたようにこちらに顔を向けた。
 水が骨ばった指の間からこぼれ落ちた。百日紅の花が映った水面が、揺れて光にきらめいた。
 若い青年だった。
 赤みを帯びた長い髪は、ひとつに束ねてはいるものの、癖がひどくてあちこちに飛びはねている。眉は鮮やかで、一重(ひとえ)の目は黒々とよく光っている。いくぶん大きめの鼻と口とが、子供っぽい愛敬をとどめていた。白久より、二つか三つ年上だろう。
 でも、〈龍〉にこんな人はいない。
 夷人(いじん)? 
 白久はあやうく声をあげそうになった。
 大隅には、〈龍〉の他にも先住民がいるのだ。
 米を作ることを知らず、獣の皮をまとって洞穴の中で生活しているという夷人。彼らは〈龍〉を恐れて近づかないので、白久はその姿を一度も見たことはないけれど。
 しかし、青年のなりは聞いている夷人とはまるで違っていた。
 だいぶ汚れてはいたが、若草色の上衣は白久の衣などよりもずっと上質なものだったし、光沢のある灰色の腰帯にも手のこんだ織り模様が浮きあがっている。
 夷人でも〈龍〉でもないとしたら・・。
 白久は混乱して立ちつくした。
 いったい、何者?
 彼もまた、まじまじと白久を見つめていた。濡れた両手で顔をこすり、首をかしげてつぶやいた。
「夷人?」
「ちがうわ!」
 白久は思わず叫んだ。
 こともあろうに夷人などと間違えられてはたまらない。
「わたしは〈龍〉よ」
「龍?」
 彼は、ゆっくりと立ち上がりながら繰り返した。
 長身で、身体つきは精悍だ。近づいて来たので、白久は一歩退いた。
「龍というのは、もしかして龍の一門のことだろうか」
「あたりまえじゃない」
「これは驚いた」
 彼は、はねた髪をかきむしって、心底驚いた声を出した。
「大隅に移り住んだという〈龍〉の話は本当だったのか」
 白久はただならぬ予感に襲われ、声をふりしぼった。
「あなたは誰? どこから来たの」
 彼は西の方、武塔山脈を指さしてあっさりと言った。
「大那だよ。もちろん」

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