第6話

文字数 2,138文字

 白久は夕陽に染まる武塔山脈を振り仰いだ。
 われながら、よく心の奥を隠し通せたと思う。
 再びあの青年のことを考えた。
 彼にあって〈龍〉にないものが、はっきりとわかった。
 自由と若さだ。
 すると、たまらなく彼のことがねたましくなってきた。
 ついさっきまで〈老〉たちから守ってやろうと心に決めていたはずなのに。
 このまま〈老〉のところに引き返し、彼のことを話してしまったらどうだろうと思う。
 突然現れた大那の人間のことで、〈老〉も白久の結婚などかまっていられなくなるだろう。
 その隙に村を逃げ出したら?
 大隅のもっともっと奥地に入るのだ。夷人たちといっしょに暮らしてもかまわない。こんな一門の中で一生を終えるよりどんなにいいか。
 白久がなかば決心しかけて立ち止まった時、彼の人なつっこい笑顔が鮮やかに甦った。
 白久の裏切りなど、考えてもいない、初夏の空のように澄みきった笑顔だった。
 白久は軽く首を振り、家に向かって早足で歩き出した。 

「白久」
 家に入ると、亜鳥がほっとしたように微笑んだ。
「虫干しに行かなかったんですって。どうしたのかと思ったわ」
「ごめんなさい。心配をかけてしまって」
 白久は土間から上がり、亜鳥の脇にぺたんと座り込んだ。
 そのほっそりとした手を取ると、急に疲れが襲ってきて、白久は額を亜鳥の肩にこすりつけた。
「何があったの? 白久」
 亜鳥は白久の背中を撫でながら優しく言った。
「ここに帰る前に〈老〉に呼ばれたの」
「お小言をもらったのね」
「いいえ、それより悪いこと」
 白久は顔を上げた。
「母さんは父さんが好きだったのかしら」
 亜鳥は、かすかに眉を寄せた。
「あなたが生まれたころは、幸せそうだったわ」
「二人の結婚を決めたのは〈老〉なんでしょう?」
「ええ」
「母さんの幸せは、見せかけだったんじゃないのかしら。父さんがいても、わたしが生まれてもだめだったのよ。母さんは、何より〈龍〉から自由になりたかった。だからあんなふうに死んでしまったのよ」
「白久」
 亜鳥は穏やかに首を振った。
「姉さんが死んだ理由は誰もわからないの。決めつけてはいけないわ」
「だって・・」
「何があったの?」
 亜鳥はもう一度、辛抱強く尋ねた。白久は吐き出すように言った。
「〈老〉はわたしと都津を結婚させるつもりなのよ」
「そう」
 亜鳥は、ため息をついた。
「だろうとは思っていたわ」
「そして、わたしを〈龍〉の長にしたいと言うの。母さんで失敗したから。わたしは絶対にいや。母さんのようにはなりたくない」
「・・」
「それからね、叔母さん」
 白久は座り直し、一気に言った。
「大那から来た人がいるの」
「大那から?」
「今日会ったの。大那では〈獅子〉が大王になっているそうよ。地霊が衰えて不毛になったわけでも、〈龍〉がいなくて乱世が続いているわけでもないの」
 白久は、続けて彼のことを物語った。話すにつれて、昼間以上の興奮が高まってきた。
 亜鳥は白久を落ち着かせるように、軽く彼女の肩をたたいている。
「大那は〈龍〉のものでなかったもの」
 白久が一息つくと、ゆっくりと亜鳥は言った。
「〈龍〉が大那の一部にすぎなかったのよ。わたしは時々思うの。大那が〈龍〉を拒んだのではないかって。〈龍〉のような呪力者はいたずらに地霊を消費するばかりで大那にとっては邪魔だった。大那の地霊の衰えを早めていたのは〈龍〉なのだから、〈龍〉がいなくなった後に他の人たちが生きているのは当然なのよ」
「だけど」
 白久はようやく言った。
「〈老〉たちはそう思わないわ。あの人のことを知ったらどうなるか」
「混乱するでしょうね、確かに」
「わたしは、どうすればいいのかしら」
 白久は、なかばすすりあげるようにして言った。
「今日はとんでもない日だった」
「その大那から来た人は、あなたを待っているのね」
「だと思う」
「じゃあ、白久。もう一度その人のところに行って」
 亜鳥は考え深げに言った。
「〈龍〉のことをありのままに話すしかないわね」
「ありのまま?」
「大隅にたった一人で来たような人ですもの。〈龍〉のことを知った後、どうするかは自分で決めるでしょう」
「でも、いまの〈龍〉のありさまを話すなんて」
 亜鳥はいたわるような笑みを浮かべた。
「みじめ?」
 白久はこくりとうなずき、唇を噛んだ。
 この未開の地で、過去の夢にばかり溺れている一門がみじめなのではなかった。その中で生きなければならない自分がみじめだったのだ。
 龍を見たいという理由だけで、ふらりと大隅にやって来た青年とは、なんて違いがあるのだろう。
 夜、枕を並べた亜鳥は白久の頭をやさしく抱え込んだ。
「今夜一晩、何も考えないでお休みなさい、白久。その人のことも〈老〉のこともね。明日には何かいい思いつきが生まれるかもしれないわ」
「無理よ」
「やってみるの」
 白久は亜鳥の腕の中で、目を閉じた。
 彼女の洗いたての髪のかすかな香りを感じていると、しだいに母親に抱かれた子供のような、穏やかな気持ちになってくる。
 いつのまにか、白久は眠りに落ちていた。


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