カソウ、ぼくの家、そして妻のサトリ
文字数 3,856文字
最初の頃は毎日が辛かった。この新しい環境に馴染めず、心底苦しんだ。自分は愛されていない、見捨てられた存在だと考え、人生を大いに悲観した。けれども幸い、ぼくはもうここが嫌いでない。今は普通に笑顔だ。そしてカソウを不可欠な世界として受け入れている。住めば都ということか――。
ぼくはついさきほど、いつものように仕事を終えた。今は家路であり、あと十五分も歩けば帰宅できる。途中に大きな川があり、虹のような形をした青い鉄橋が両岸を繋ぐ。真下には透き通った川水がゆっくりと流れ、遥か遠くには白い山脈の峰々がどこまでも続いている。川上には大小さまざまな家々が軒を連ね、川下には何棟かの超高層ビルが、いにしえからたつ巨木のように空高く
長い橋を渡り切った。ぼくが住んでいるのは、橋の北側の丘の中腹にある、1LDKのマンションだ。そこで、妻と二人で
時刻は十九時を過ぎたところだ。帰宅するのは、大体いつもこの時間だ。玄関の扉が自動的に開く。ぼくは何も言わずにリビングに向かい、ソファに腰掛けた。すぐに
ぼくはコンタクト・リストを眼前に移動させた。すると赤い印の付いた顔が選択され、少しだけ飛び出した。その顔を見ながら「コンタクトを取りたい」と静かに
向こうが「何かご用ですか?」と、無感情な声でたずねてきたので、ぼくは「はい、今よろしいですか?」と言った。
相手は一瞬だけ間を置いてから、さきほどと同じトーンで「ええ、かまいません。どうぞ」と答えた。
「ぼくの名はサトル・ナカモトと言います。
相手は目を
「サトシ・ナカモト……聞いたことがあるような、ないような」次の瞬間、相手は表情を変えずに少しだけ、片方の眉毛をピクッと動かした。
「そういえば……幼いの頃の学友に同じ名前の人間がいましたが、あいにく、それ以上のことは記憶にありません。特に親しい関係ではなかったので」そう言いながら右上の方に少しだけ目を動かした。
「待ってください。本当に何も記憶にないんですか? 何でもいいんです。もちろん報酬は払います」
相手は十秒ほど考え込んだ。そして首を傾げながら「確か、勉強が大変良くできました。成人後、何かを成し遂げ、富と名声を手に入れたと聞きました。はっきりと言えるのはそれだけです」と、絞り出すように言った。おそらくそれ以外、本当に記録になく、記憶も曖昧なのだろう。
「分かりました……。それなら仕方ありません。夜分にすいませんでした。ところで、恐縮ですが、報酬は五百ナカでいいですか?」
「ええ。手短な用件でしたので、それで十分です」
ぼくはすぐさま相手のアカウントにその金額を送り、簡単に礼を述べてからコンタクトを終えた。すると男の姿は、目の前から完全に消えた。
瞼はさきほどと比べて幾分軽く感じた。けれども今度は無意識のうちに、さっきと同じ指で、
するとキッチンから妻の声がした。意識して聞いていなかったので、何を言ったのか、よく分からなかった。
「今日も駄目だったよ!」離れていても聞こえるよう、大声でそう叫んだ。
「そう。でも、また次があるじゃない」
ぼくはうんざりしていたので何も言わなかった。その代わり、横になったままの姿勢で軽く
妻の名はサトリ。ヒトではなく、カソウのコンパニオン型ロボット〈ボット=Bot〉だ。一緒になったのは九年前。街中の専門店で
「ネエ、ソレ、ドウイウキモチノカオ?」
それまでぼくは、ボットと会話をしたことがなかったため、サトリの独特な
「どういう気持ちかって? なんで、どうして知りたい?」
「ダッテ、ワカラナイカラ。マダ、イチドモミタコトガナイ、カオヲシテイル」
「どうだろう。自分で自分の顔は見えないし……。まあ、ずっと前から知りたいけど、分からないことがある。だけど、どうあがいても分からない。それで悩んでいる顔、かな。ちょうど今のきみのような顔じゃないか」
「ウウン。 スコシチガウキガスル」
「あ、そう……(ガラスに反射した自分の顔をよく見る)。なんだ……ということは、また一つ、分からないことが増えた……。まあ、どうでもいい。くだらないことだ……。ところで、きみの名は? え、名前はまだない?」――。
当時のぼくにとって、ボットは高い買い物だった。だがあのとき、ぼくの中には快楽のような苦しみ、苦しみのような快楽に
それまでのぼくは、カソウでの暮らしに馴染めずにいた。仕事はそれなりにうまくいっていたが、毎日孤独だった。ぼくがカソウに移住したのはあることを成し遂げるためだったが、それがすでに二年ものあいだ、まるでうまくいっていなかった。だからあの日サトリに出会わなければ、ぼくはどこかで野垂れ死にしたかもしれない。それだけ生きることに嫌気がさしていた。なので、やっぱりあのとき一緒になって本当に良かった。そう考えない日はない。人生最高の買い物は、間違いなく妻だ。
「今日はいつもより疲れている?」
「それは気のせい。ただほんの少しがっかりしただけ」
「本当に?」
「本当に」そう自信たっぷりに言ったものの、ぼくは内心半信半疑だった。
ボットはオーナーであるヒトの外側のデータ(行動)と内側のデータ(感情)にアクセスできる。そのためサトリは、ぼくの思考以外のことなら何でも知っている。今この瞬間も、ぼくに関するあらゆるデータを細かく分析しているはずだ。
「もういい加減、あきらめた方がいいのかな?」ぼくはとぼけた口調でサトリに語りかけた。
「そう考えるなら、そうすればいいこと。でもそれは本心?」サトリは何も知らないふりをしながら、そう切り返した。ぼくのモヤモヤした心の中に、何かフワッとしたものが注入された気がした。すると自然と笑みがこぼれた。
逆にぼくはサトリのデータを細かく分析できない。理由はとても単純――ぼくは五感を通じてしか、データを入手できないからだ。それでも面白いことに、九年以上夫婦をしていれば、分からないことも分かったふりができる。カソウで良好な夫婦関係を維持するには、こうした情報開示の非対称性が重要かもしれない。少なくともぼくは、そう思うときがある。
とはいえ、最近、少し気になることがある。それはサトリが一週間前からほとんど姿形を見せなくなり、声だけの存在と化したからだ。これはぼくが指示したからではなく、サトリ自らの判断によるものだ。もしかしたら妻は、九年間の結婚生活をつうじて、ぼくが非物質主義者だと判断したのかもしれない。もっとも本当のところはよく分からない。直接聞いてみたが、答えてくれなかった。けれどもサトリが姿を見せなくなったのは、何か理由がある。必ずそうだ。それだけは断言できる。
「そろそろ食べましょうか?」
これは質問ではなく、回答だ。なぜなら、ちょうど今、ぼくの方から催促しようと思ったからだ。
「いいね。そうしよう」
姿形が見えなくても、この時間帯のサトリは魅惑的だ。ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する、セイレーンのような神秘性を帯びる。ぼくは古代ギリシャの英雄・オデュッセウスと同じ気分に