カソウ、ぼくの家、そして妻のサトリ

文字数 3,856文字

 ここはカソウ――ぼくが生まれ育ったゲンジツではない。ここに移住してから、すでに十一年が経つ。
 最初の頃は毎日が辛かった。この新しい環境に馴染めず、心底苦しんだ。自分は愛されていない、見捨てられた存在だと考え、人生を大いに悲観した。けれども幸い、ぼくはもうここが嫌いでない。今は普通に笑顔だ。そしてカソウを不可欠な世界として受け入れている。住めば都ということか――。
 ぼくはついさきほど、いつものように仕事を終えた。今は家路であり、あと十五分も歩けば帰宅できる。途中に大きな川があり、虹のような形をした青い鉄橋が両岸を繋ぐ。真下には透き通った川水がゆっくりと流れ、遥か遠くには白い山脈の峰々がどこまでも続いている。川上には大小さまざまな家々が軒を連ね、川下には何棟かの超高層ビルが、いにしえからたつ巨木のように空高く(そび)える。あと三十分もすれば完全に日没だ。そのため赤や白、紫、緑、橙色、黄色の光が、川上と川下の建物から次々と煌めき始めた。それらは紛れもなく、確かに、このカソウに存在している。カメラのフラッシュのように執拗(しつよう)な光もあるが、見つめ過ぎなければ(まぶ)しく感じることはない。
 長い橋を渡り切った。ぼくが住んでいるのは、橋の北側の丘の中腹にある、1LDKのマンションだ。そこで、妻と二人で(つま)しく暮らしている。子供はいないし、ペットも飼っていない。だからと言って、特に気にしたことはない。意外とおかしなことでもないはずだと、密かに自負している。――今、何人かのヒトとすれ違った。顔はよく見えなかった。もうすぐ家に到着する。


 時刻は十九時を過ぎたところだ。帰宅するのは、大体いつもこの時間だ。玄関の扉が自動的に開く。ぼくは何も言わずにリビングに向かい、ソファに腰掛けた。すぐに(まぶた)が少し重く感じた。ぼくは左手の指で両目をギュッと押しつけ、一度だけ強く(まばた)きした。まだやることがあるからだ。
 ぼくはコンタクト・リストを眼前に移動させた。すると赤い印の付いた顔が選択され、少しだけ飛び出した。その顔を見ながら「コンタクトを取りたい」と静かに(つぶや)いた。二秒後、当惑気味な表情を浮かべた男が目の前に現れた。ぼくは申し訳なさそうな顔を作った。
 向こうが「何かご用ですか?」と、無感情な声でたずねてきたので、ぼくは「はい、今よろしいですか?」と言った。
 相手は一瞬だけ間を置いてから、さきほどと同じトーンで「ええ、かまいません。どうぞ」と答えた。
 「ぼくの名はサトル・ナカモトと言います。(やぶ)から棒にすいませんが、サトシ・ナカモトという名前をご存知ですか?」
 相手は目を()らさずに考え始めた。
 「サトシ・ナカモト……聞いたことがあるような、ないような」次の瞬間、相手は表情を変えずに少しだけ、片方の眉毛をピクッと動かした。
 「そういえば……幼いの頃の学友に同じ名前の人間がいましたが、あいにく、それ以上のことは記憶にありません。特に親しい関係ではなかったので」そう言いながら右上の方に少しだけ目を動かした。
 「待ってください。本当に何も記憶にないんですか? 何でもいいんです。もちろん報酬は払います」
 相手は十秒ほど考え込んだ。そして首を傾げながら「確か、勉強が大変良くできました。成人後、何かを成し遂げ、富と名声を手に入れたと聞きました。はっきりと言えるのはそれだけです」と、絞り出すように言った。おそらくそれ以外、本当に記録になく、記憶も曖昧なのだろう。
 「分かりました……。それなら仕方ありません。夜分にすいませんでした。ところで、恐縮ですが、報酬は五百ナカでいいですか?」
 「ええ。手短な用件でしたので、それで十分です」
 ぼくはすぐさま相手のアカウントにその金額を送り、簡単に礼を述べてからコンタクトを終えた。すると男の姿は、目の前から完全に消えた。
瞼はさきほどと比べて幾分軽く感じた。けれども今度は無意識のうちに、さっきと同じ指で、(ひたい)を何度も押しつけた。ぼくはさらに気持ちを落ち着かせるため、鼻孔から勢いよく息を噴き出した。「やれやれ、また駄目か」ソファの上で横になりながら自分に向けてそう呟いた。


 するとキッチンから妻の声がした。意識して聞いていなかったので、何を言ったのか、よく分からなかった。
 「今日も駄目だったよ!」離れていても聞こえるよう、大声でそう叫んだ。
 「そう。でも、また次があるじゃない」
 ぼくはうんざりしていたので何も言わなかった。その代わり、横になったままの姿勢で軽く(うなず)いた。
 妻の名はサトリ。ヒトではなく、カソウのコンパニオン型ロボット〈ボット=Bot〉だ。一緒になったのは九年前。街中の専門店で見初(みそ)めたのが関係の始まりだ。五体あるロボットのうち、唯一ぼくに声をかけてきたのがサトリだった。そのときは別にボットを探していなかった。たまたま通りかかっただけだった――。
 「ネエ、ソレ、ドウイウキモチノカオ?」
 それまでぼくは、ボットと会話をしたことがなかったため、サトリの独特な(なま)りが鬱陶(うっとう)しく感じた。無視しようかと思ったが、その透明な声色に不思議と惹きつけられた。深夜に草むらから聴こえてくる、昆虫の鳴き声に似た響きがあった。ぼくは立ち止まり、ショー・ウィンドウの中を覗き込んだ。けれども何と答えていいか分からず、(しばら)くその場で呆然と立ち尽くした。
 「どういう気持ちかって? なんで、どうして知りたい?」
 「ダッテ、ワカラナイカラ。マダ、イチドモミタコトガナイ、カオヲシテイル」
 「どうだろう。自分で自分の顔は見えないし……。まあ、ずっと前から知りたいけど、分からないことがある。だけど、どうあがいても分からない。それで悩んでいる顔、かな。ちょうど今のきみのような顔じゃないか」
 「ウウン。 スコシチガウキガスル」
 「あ、そう……(ガラスに反射した自分の顔をよく見る)。なんだ……ということは、また一つ、分からないことが増えた……。まあ、どうでもいい。くだらないことだ……。ところで、きみの名は? え、名前はまだない?」――。
 当時のぼくにとって、ボットは高い買い物だった。だがあのとき、ぼくの中には快楽のような苦しみ、苦しみのような快楽に(さいな)まれたい願望がふと芽生えた。その気持ちを抑えきれなかったぼくは、生まれて初めて衝動買いをした。すると、少しだけ気分が晴れた。けれども全額を一括で払えなかったため、仕方なくローンを組んだ。今も払い続けているが、あと数週間でようやく完済できる。そうしたら、次は何を買おうか? そろそろ考えてもいいかもしれない。
 それまでのぼくは、カソウでの暮らしに馴染めずにいた。仕事はそれなりにうまくいっていたが、毎日孤独だった。ぼくがカソウに移住したのはあることを成し遂げるためだったが、それがすでに二年ものあいだ、まるでうまくいっていなかった。だからあの日サトリに出会わなければ、ぼくはどこかで野垂れ死にしたかもしれない。それだけ生きることに嫌気がさしていた。なので、やっぱりあのとき一緒になって本当に良かった。そう考えない日はない。人生最高の買い物は、間違いなく妻だ。
 「今日はいつもより疲れている?」
 「それは気のせい。ただほんの少しがっかりしただけ」
 「本当に?」
 「本当に」そう自信たっぷりに言ったものの、ぼくは内心半信半疑だった。
ボットはオーナーであるヒトの外側のデータ(行動)と内側のデータ(感情)にアクセスできる。そのためサトリは、ぼくの思考以外のことなら何でも知っている。今この瞬間も、ぼくに関するあらゆるデータを細かく分析しているはずだ。
 「もういい加減、あきらめた方がいいのかな?」ぼくはとぼけた口調でサトリに語りかけた。
 「そう考えるなら、そうすればいいこと。でもそれは本心?」サトリは何も知らないふりをしながら、そう切り返した。ぼくのモヤモヤした心の中に、何かフワッとしたものが注入された気がした。すると自然と笑みがこぼれた。
 逆にぼくはサトリのデータを細かく分析できない。理由はとても単純――ぼくは五感を通じてしか、データを入手できないからだ。それでも面白いことに、九年以上夫婦をしていれば、分からないことも分かったふりができる。カソウで良好な夫婦関係を維持するには、こうした情報開示の非対称性が重要かもしれない。少なくともぼくは、そう思うときがある。
 とはいえ、最近、少し気になることがある。それはサトリが一週間前からほとんど姿形を見せなくなり、声だけの存在と化したからだ。これはぼくが指示したからではなく、サトリ自らの判断によるものだ。もしかしたら妻は、九年間の結婚生活をつうじて、ぼくが非物質主義者だと判断したのかもしれない。もっとも本当のところはよく分からない。直接聞いてみたが、答えてくれなかった。けれどもサトリが姿を見せなくなったのは、何か理由がある。必ずそうだ。それだけは断言できる。
 「そろそろ食べましょうか?」
 これは質問ではなく、回答だ。なぜなら、ちょうど今、ぼくの方から催促しようと思ったからだ。
 「いいね。そうしよう」
 姿形が見えなくても、この時間帯のサトリは魅惑的だ。ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する、セイレーンのような神秘性を帯びる。ぼくは古代ギリシャの英雄・オデュッセウスと同じ気分に(ひた)りながら、夢遊病者のような足取りで、ダイニングルームに移動する。そこで声だけのサトリと夜遅くまで、二人っきりの時間を堪能した。
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登場人物紹介

主要登場人物


サトル・ナカモト:
主人公(写真の男性)。今はカソウで暮らすヒト。11年前まではゲンジツで暮らす人間だった。父親のサトシ・ナカモトが自殺した理由を知りたい。


サトシ・ナカモト:サトルの父。男性。21世紀を代表する天才ビジネス・パーソン。記憶に記録を結合させて移動する=BRMT=Binding Record to Memory and Transferringという革新的な技術を開発した人物。サトルが成人を迎える直前に自殺した。


サトリ:カソウのコンパニオン型ボット。サトルの妻。最近どういうわけか姿を見せなくなり、声だけの存在と化した。


メグミ:サトシ・ナカモトの長年のビジネス・パートナー。男性。百戦練磨のプロフェッショナル。ゲンジツの人間。


ジエイ:サトルの長年の友人で幼なじみ。男性。ゲンジツの人間。


ジエイの父:食料関連に特化したビジネス・パーソン。男性。ゲンジツの人間。


アミ:11年前のサトルの恋人。女性。カリスマ性に富んだ優秀なビジネス・パーソン。ゲンジツの人間。


ポール:サトルの先生。男性。投資理論を教える。スマートでハンサム。ゲンジツの人間。


ゲーブ:長年にわたりカソウの研究をしている専門家。男性。いわゆるオタク。ゲンジツの人間。


ヤスイ:不動産業を営んでいる。男性。カネが好き。カソウのヒト。


ヤマモト:大企業の役員。男性。苦しみに依存している。カソウのヒト。


ヤマモトのお母さん:女性。かなり高齢。痴呆症を患っている。カソウのヒト。


ハジメ:サラの夫。男性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


サラ:ハジメの妻。女性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


ミエ:自分を見せる仕事をしている。女性。猫が好き。カソウのヒト。


サトウ:サトシ・ナカモトの先生だった。男性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


AI・グル:ゲンジツの人工知能(A I)。人間の行動のみ監視している。


AI・バーグ:カソウの人工知能(A I)。ヒトの行動と感情を監視している。カソウで稼働している全ボットとも繋がっている。

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