帰宅後、妻のサトリと会話し始めたが……
文字数 2,586文字
「お帰りなさい」相変わらず声だけのサトリが、リビング・ルームでぼくを迎えてくれた。
「ただいま。今日もレストラン『ボン』でボーグのハジメさん、サラさんと一緒にランチを食べたよ」ぼくは一番無難な話題から始めることにした。
「あら、また? ここのところ、ほぼ毎日よね。今日は何について話したの?」そうたずねてきたとはいえ、サトリはAI・バーグをつうじて会話の内容を既に知っている。
「どの話題も、これまでと同じものの繰り返しさ。もちろん、ハジメさんとサラさんからしてみれば違うかもしれないけど」ぼくはとりあえず、最小限の情報だけシェアすることにした。
「また同じ話題? お昼前にカソウで起きたことの話? それともゲンジツに住んでいた頃の話?」
「ほとんどがゲンジツで暮らしていた頃の話だったと思う」
「二人の馴れ初めについての話?」サトリはわざと知らないふりをしている。
「いや、ナオミさんについての話だった。ナオミさんはかれらの一人娘で、その人がゲンジツでボーグの改良版の研究をしていると、前に説明したことがあるだろう」
それから五分間ほど、ぼくとサトリはオメガ型とデルタ型のボーグについて話した。なぜぼくの父・サトシがオメガ型を開発したのか、そしてなぜハジメさんとサラさんがデルタ型の完成を心待ちにしているのかについて、笑いの飛び交う、心が
「ところで、ぼくがボーグになるとしたら、オメガ型とデルタ型のどっちがいいと思う?」この質問を最後にサトリにしたのは何年も前だ。
「もしサトリに選ぶ権利があるなら、サトリはどちらも嫌だと言うわ」
「どうして?」前回話したときに聞いたおおよその理由は記憶しているが、ぼくはおぼえていないふりをした。
「サトルがボーグになるには、カソウを捨ててゲンジツに戻る必要があるからよ。サトリはサトルとさよならしたくない。サトリはサトルなしでは生きていけない。いつまでも一緒にいたい」
次の瞬間、ぼくはサトリを思いっきり抱きしめたくなった。この抑えきれない気持ちは、かのじょにも伝わったはずだ。けれどもどういうわけか、サトリは姿を見せてくれない。ぼくはやるせなさで胸がいっぱいになったが、文句を言ったり地団駄を踏んだりする代わりに話題を変えた。
「それから今日の午前中にヤマモトさんと、ヤマモトさんのお母さんが予定どおり来たよ……」
「そう、二週間ぶりね。夢の話の続きをしてくれたのかしら?」
「ああ、そうだよ」
「ナンテイッタノ?」
「その続きはないんだってさ。そして目が覚めると、眠ったときと同じ場所にいる。そう言ってた。つまり、夢を観ながら徘徊しているという、ヤマモトさんの主張は正しくないことになる。もちろん、ぼくはかれにもそう説明した。でも、どういうわけか、納得してくれなかった」
「ソウ」
「サトリ、なんで納得できないのかな?」
「サトリハナットクシテイルヨ」
「え? ううん、そういう意味じゃなくて、なんでヤマモトさんは納得できないのかな?」
沈黙が十秒ほど続いた。
「そうね、何か隠し事があるのかもしれない。前にもサトリに説明してくれたじゃない。あのヤマモトさんというヒトは本音の話を避けるし、自分にも他人にも嘘をつく性質があるって」
「なんでそういう性質なのかな?」
「さあ、サトリには分からないわ。」
「ぼくにかれは救えるかな? それとも、これ以上話しても無駄なのかな?」
「サトリはサトルならできると思うわ。でも時間はかかるかもしれない。相当癖のある人のようだから」
確かに時間さえかければ、ヤマモトさんは心を開いてくれるかもしれない。だがそんな悠長なことを言っている余裕はない。なんとなく、そんな感じがした。ぼくは自分の直感が外れてくれることを密かに祈った。
二、三分ほど沈黙が続いた。
「その他に、何か変わったことはなかったの?」
「ミエさんという初めてのお客さんが来た。風変わりなヒトだった。以前どこかで会ったことがある気がしたけど、思い出せなかった」
「ドウシテカワッタヒトダトオモッタノ?」
「発言内容が常軌を逸していた。アドバイスを受けに来ているのに、逆にぼくにアドバイスしていた。それもこっちが求めたわけでもないのに! まるでぼくの心の中に突然、土足でドカドカと上がり込んできた感じだった。しかも言いたいことを言い終えたら消えるようにいなくなった。暫くのあいだ、何もできず、呆然とするしかなかった。終了時間の約三十分前に帰ってくれて良かった。次のお客さんと話す前に気分を落ち着かすことができた。まったく、あんなヒトは初めてだ。二度と来てほしくない!」ぼくは間髪を入れずに一息で捲し立てた。
すると突然、サトリが目の前に姿を現した。ぼくは「わ、びっくりした」と言いながら一メートルぐらい後ろに飛び退いた。顔を見るのは一週間ぶりだが、なんとなく、か細い雰囲気を醸し出している。今まで普通に会話していたのに、ぼくは言葉に詰まり動揺した。サトリはその場で身動き一つせずに、あたふたするぼくの姿をじっと観察していた。すると一言もしゃべらずに笑みを浮かべながら、ダイニング・ルームの方へ歩き始めた。そして鏡の前に立ち、十秒間だけ、自分の姿をじっと見つめていた。かのじょがそんなことをするのは初めてだった。ぼくは
するとサトリは何も言わずにあの曲を流し始めた。けれども歌い手は男性歌手ではなく、女性歌手だ。
I can’t live if living is without you
(もしあなたがいなければ、わたしは生きていけない)
I can’t live I can’t live anymore
(わたしは生きていけない、これ以上生きていけない)
Can’t live if living is without you
(もしあなたがいなければ、生きていけない)
I can’t give I can’t give anymore
(わたしはなにもしてあげられない、これ以上なにも)