カソウ行きを決意し、『エクストリミスタンの森』へ向かった

文字数 3,158文字

 成人の誕生日を迎えた朝、ぼくの心は固まった。ぼくはカソウへの移住を決断した。ぼくはなぜ、父が自殺したのか知りたかった。それを知らずに、この先長い人生を生きたとしても、どこかで必ず後悔するだろう。それならばゲンジツにとどまり続けても意味がない。カソウに移れば有用な情報が得られるかもしれない。その望みに賭けてみる価値はある。そう考えた。
 それにぼくは、ゲンジツの人間が信じられなくなっていた。なぜ父が自殺者だからといって、ぼくまで疎外されなければならないのか? それはぼくが真相を解明したかったからか? ポール先生が言うように、ぼくが父の死を忘れて、きれいさっぱり水に流せば、これまでどおり〈同志〉として接してくれたのだろう。だが自分の父親が謎の死に方をし、それについて知りたいと思うのが、そんなに変なことか? 納得できなかった。それにぼくはかれらの本性を知ってしまった。一度剥がれた化けの皮は、もう元には戻らない。だからいっそのこと、ゲンジツの人間と縁切りしたかったし、金輪際かかわりたくないとも思ったぐらいだ。
 また、これは通常では決して経験できないスリルを味わえるチャンスでもある、そう考えたりもした。われわれ人間は、かつてのような冒険ができない世界に生きている。ぼくは幼少の頃から読んだり聞いたりした冒険譚(ロビンソン・クルーソーなど)を、自分が体験することは決してないと、ずっと思っていた。その意味ではこれは千載一遇のチャンスかもしれないと、直感がぼくに(しら)せてくれた。ぼくは宇宙旅行を一度だけ経験したが、あれは人為的に決められた行程を辿るだけの旅であり、主体性もなければ意外性もなかった。確かに無限に存在する大小さまざまな天体には心を奪われたが、同じ景色は宇宙に行かずに拡張現実(AR)でも観ることができた。そのため、あの旅行は、ぼくにとってあまりにも物足りなかった。けれどもカソウに行けばあのときよりも、何倍も強い刺激を得られるだろうし、価値観を一変させる経験ができるに違いない。そう考えただけで胸が高鳴った。
 だが、アミにはなんと言うべきか、分からなかった。父が自殺してからというもの、ぼくは、かれとまともに言葉を交わしていなかった。反対するだろうか、賛成するだろうか? 悲しむだろうか、喜ぶだろうか? ついて来ると言ってくれるだろうか? それとも自分にはそこまでの勇気がないと言い、我が身可愛さからぼくを冷たくあしらうだろうか? 何も言わずにこのまま姿を消すべきか? それとも最後に別れの言葉を述べに会いに行くべきか? これら以外にもさまざまな考えが、頭の中を複雑に交差しながら入り乱れた。
 ぼくはアミにだけは裏切られたくなかったし、かれの口からだけは、耳障りの悪い言葉を聞きたくなかった。これ以上傷つけば、自分は何か恐ろしいことをしでかすかもしれない。そんな感じがした。だがアミが期待どおりの言葉を使う保証はどこにもなかった。あの温厚だったメグミさん、優しかった学友の親、信頼していた学友たちでさえ、人生で最も苦しい立場に追い込まれたぼくを奈落の底に突き落とした。けれどもかれらはアミではない。だからまだ耐えられた。奈落の底に落ちたぼくは深手を負ったけれども、崖底から崖上によじ登り始めた。しかし、もしアミが同じ化けの皮を被ったゲス人間だったらどうだ? そのときは()い上がれないかもしれない。崖底からさらに下の世界に落ちたいと願うかもしれない。でも、そんな世界があるのかさえ分からない……だからぼくは何も言わずに去ることに決めた。どのみち真相を解明したら、ゲンジツに戻って来る。そのときに謝ればいい。そう自分に言い聞かせた。


 ぼくはその日のうちにゲンジツの西端にある『エクストリミスタンの森』へ移動した。そしてゲーブ先生に教わったとおり、念仏のように「ゲンジツを捨て、カソウに行きたい」とひたすら唱え続けながら歩いた。これを三日三晩続ければ、ゲンジツのAI・グルがカソウのAI・バーグにコンタクトをとってくれると先生は説明してくれた。
 エクストリミスタンの森はゲンジツ最大の森林地帯だ。植物は目に見えるが、それ以外の生き物(微生物など)は肉眼では見えない。小動物や大きな昆虫などはいない。そのため、別名『死の森』と呼ばれていた。一歩足を踏み入れると、頭上は無限に近い木々の枝葉で覆われていた。そして足元には、木の根や草、苔、菌類などがどこまでも地面を蔓延(はびこ)っていた。自分の呼吸音が聞こえるぐらい、森の中はとても静かだった。まるで無人の回廊を歩く時のように、自分の足音が周囲によく響いた。小声で唱え続ける念仏は、大通りを走る乗り物のエンジン音のように、はっきりと木々のあいだを駆け抜けながら、どこかへ消えた。昼間の時間は頭上から僅かに降り注ぐ木漏れ日や風を感じて歩いた。少なくとも一日目は、どちらも心地良かった。午後八時半の日没から午前五時半の日の出までは、ほとんど何も見えない、暗闇の中をゆっくりと歩いた。月光のおかげで、たまに頭上が明るくなったが、星はまったく見えなかった。目が慣れてくると半径一メートル先まではかすかに見えたが、その先は暗黒の世界だった。怖かった。一時間ほど立ち止まり、木の幹に寄りかかったこともあった。眠たかったが、横になってはいけないと思った。念仏が唱えられなくなるからだ。
 二日目の朝からは意識が半分シャットダウンしていた。それでも念仏は唱え続けた。陽の光を感じると、恐怖は溶けるようにゆっくり消えた。ただカソウに行けないかもしれない(おそ)れだけが、どこまでも付きまとい続けた。しかし、それすらも二日目の午後からは頭の片隅に追いやられた。意識が朦朧(もうろう)としていたからだろう。瞬間瞬間を乗り切るだけで精一杯だったし、余計な雑念や迷いごとは完全に消えていた。そしてどういうわけか次第に左右の視界が狭まった。足元も頭上もよく見えなくなった。まるで万華鏡の中を覗いているような感じがした。間断なく唱え続ける「ゲンジツを捨て、カソウに行きたい」という言葉が聞こえなくなった。それでも唇や舌、顎は動いていた。何度も木の根に足先を引っ掛けて転倒し、そのたびに立ち上がった。打ちどころが悪いときもあったが、不思議と怪我はしなかった。皮膚が血で赤く染まることはなかったが、泥で体中が黒茶色まみれになった。両手は真っ黒になった。
 三日目からは何かにつかまらなければ歩けなかった。そのため木の枝を杖代わりにした。満身創痍(まんしんそうい)だったが、ゆっくりと執念深く前進し続けた。すると、その夜遅く、遠くに激しく燃え上がる炎のような物体が見えた。最初は豆粒ほどの大きさだったが、見逃さなかった。近づくにつれて、肉芽のようにどんどん大きくなった。ぼくが歩いているのに、まるで炎の方がぼくに吸い寄せられている感じがした。しばらくすると森を抜けた。そのとき、初めて気づいた。それは巨大な焚き火だった。空を見上げると、初めて星が見えた。夜空を埋め尽くすほど多かった。眩しかった。卒倒しかけたが、嬉しかった。ここが目的地であるかも分からないのに、達成感で胸がいっぱいになった。気がつけば涙が頬をつたっていた。それでも念仏は唱え続けた。焚き火の中で火の粉がバチバチ、パチパチと繰り返し弾けた。轟音(ごうおん)のようにも拍手のようにも聞こえた。暑いのか寒いのか分からなくなった。吐き気がした。全身が震えていたが、同時に清められた感じもした。次の瞬間、地面に倒れて頭を打った。何かに(つまづ)いたのかもしれない。力を振り絞って立ち上がろうとしたが、無駄だった。すると遠くの方から近づく人影がおぼろげに見えた。なぜか緊張が和らいだ。そしてそのまま意識を失った。
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登場人物紹介

主要登場人物


サトル・ナカモト:
主人公(写真の男性)。今はカソウで暮らすヒト。11年前まではゲンジツで暮らす人間だった。父親のサトシ・ナカモトが自殺した理由を知りたい。


サトシ・ナカモト:サトルの父。男性。21世紀を代表する天才ビジネス・パーソン。記憶に記録を結合させて移動する=BRMT=Binding Record to Memory and Transferringという革新的な技術を開発した人物。サトルが成人を迎える直前に自殺した。


サトリ:カソウのコンパニオン型ボット。サトルの妻。最近どういうわけか姿を見せなくなり、声だけの存在と化した。


メグミ:サトシ・ナカモトの長年のビジネス・パートナー。男性。百戦練磨のプロフェッショナル。ゲンジツの人間。


ジエイ:サトルの長年の友人で幼なじみ。男性。ゲンジツの人間。


ジエイの父:食料関連に特化したビジネス・パーソン。男性。ゲンジツの人間。


アミ:11年前のサトルの恋人。女性。カリスマ性に富んだ優秀なビジネス・パーソン。ゲンジツの人間。


ポール:サトルの先生。男性。投資理論を教える。スマートでハンサム。ゲンジツの人間。


ゲーブ:長年にわたりカソウの研究をしている専門家。男性。いわゆるオタク。ゲンジツの人間。


ヤスイ:不動産業を営んでいる。男性。カネが好き。カソウのヒト。


ヤマモト:大企業の役員。男性。苦しみに依存している。カソウのヒト。


ヤマモトのお母さん:女性。かなり高齢。痴呆症を患っている。カソウのヒト。


ハジメ:サラの夫。男性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


サラ:ハジメの妻。女性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


ミエ:自分を見せる仕事をしている。女性。猫が好き。カソウのヒト。


サトウ:サトシ・ナカモトの先生だった。男性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


AI・グル:ゲンジツの人工知能(A I)。人間の行動のみ監視している。


AI・バーグ:カソウの人工知能(A I)。ヒトの行動と感情を監視している。カソウで稼働している全ボットとも繋がっている。

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