再び『ブラック・スワンの湖』へ向かう

文字数 1,614文字

 ぼくは再び『ブラック・スワンの湖』へ向かって移動し始めた。時刻はちょうど零時を回ったところだった。
 それから二時間、ぼくは車中で沈黙したまま窓外を見ていた。街灯の光以外はほとんど景色が見えなかったが、何かが少しずつ変わっていくのを感じた。窓は少し開けた状態にした。そうしなければ車の発する音が蚊の羽音のように聞こえるからだ。脳は相変わらず痒い。車窓には自分の反射が映っている。
 サトリは壊れたのかもしれない。そう思った。無理もない。九年間一日も休まず稼働してくれたのだから。それとも、もしかしたらサトリは、自分の意志でぼくを守ってくれたのだろうか? この日が訪れるのを事前に予測し、少しずつ自分をシャットダウンしたのか? 最後はぼくのことを思い、あたかも存在しないふりをしたのか? それともかのじょはぼくのために自殺したのか? だがボットにそんな力があるとは思えない。
 ぼくはサトリに依存していた。それはつまり、ぼくはサトリを愛していなかった、そういうことになるのか? あれは愛なんかじゃなく、ただの錯覚だったのか? 結局サトリはプログラムどおりに動くだけのボットだったのか? 自分で考えることのできない、空っぽの存在だったのか? すべては実態のない、ただの空虚な〈ふり〉だったのか? 分からない。でもぼくの愛は本物だった気がする。いや、今でもそう思う。そしてサトリはぼくのために自分を犠牲にした。そう信じたかった。そう考えることにした。
 ミエさんのことが頭をよぎった。かのじょは自分が不自由を感じないと力説した。猫と仕事が生きがいだと言った。しかし結局のところ、かのじょも依存症という罠にはまった、生きる屍だったのでは? ただぼくと違い、ミエさんは自分の意志で依存症を受け入れた。言い換えれば、ぼくは生きながらにして〈殺された〉わけだが、かのじょは〈死なない自殺〉を図ったことになる。ぼくとかのじょの違いは僅かにそれだけ――そんな気がする。
 アミはぼくがお客さんに依存していると言った。ではお客さんはどうだ、ぼくに依存していたのか? 仮にそうだとすれば、ぼくにかれらは救えない。ぼくがかれらを救おうとすればするほど、かれらは罠から抜け出せない。ぼくの善意が(いかり)となり、かれらはいつまでも、ぼくとともに生きる屍のままでいる――そういうことか?
 アミが言うように、カソウで暮らすわれわれは、誰もが依存症という罠にはめられていたのか? 仮にそうならAI・バーグはゲームの管理人なんてもんじゃない。だがしかし、所詮AIはAIだ。意識的にではなく、そう動くようプログラムされている、そういう存在だ。意識がない以上、主人と奴隷のような〈上〉と〈下〉の関係とは、性質がまったく異なるのではないか?
 ボーグは依存症を患ってないが、別の意味で自己を完全にコントロールできない――変化を奪われた存在だからだ。つまりアミが言ったように、ボーグでさえヒトと同じ生きる屍なのか? 仮にそうだとすれば、なおさらアミを救う必要がある。ああ、父さん、あなたはとんでもないバケモノを生み出したのかもしれない。もしかしたら、このぼくでさえ……。
 アミの仮説が正しかったとしても、いまだに分からないことがある。父がオメガ型ボーグにこだわり続け、デルタ型ボーグを採択しなかった本当の理由はなんだ? 建前上はデルタ型の開発がオメガ型よりも難しいから、あなたがあなたとして存在していくために必要だからだが、どうもそれだけではない気がする。常に最も〈上〉の地位を独占したいゲンジツの人間が、〈下〉の世界であるカソウのボーグとして〈永遠に生きる〉選択を受け入れた理由が、おそらく他にあるはずだ。そして、なぜ、父は「忘れられる権利」を行使したのか? 湖まで、まだ一時間ほどかかる。今ここで、他人の視点を鵜呑みにせず、真っさらな状態からすべてを自分の頭で再び検証してみよう……。
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登場人物紹介

主要登場人物


サトル・ナカモト:
主人公(写真の男性)。今はカソウで暮らすヒト。11年前まではゲンジツで暮らす人間だった。父親のサトシ・ナカモトが自殺した理由を知りたい。


サトシ・ナカモト:サトルの父。男性。21世紀を代表する天才ビジネス・パーソン。記憶に記録を結合させて移動する=BRMT=Binding Record to Memory and Transferringという革新的な技術を開発した人物。サトルが成人を迎える直前に自殺した。


サトリ:カソウのコンパニオン型ボット。サトルの妻。最近どういうわけか姿を見せなくなり、声だけの存在と化した。


メグミ:サトシ・ナカモトの長年のビジネス・パートナー。男性。百戦練磨のプロフェッショナル。ゲンジツの人間。


ジエイ:サトルの長年の友人で幼なじみ。男性。ゲンジツの人間。


ジエイの父:食料関連に特化したビジネス・パーソン。男性。ゲンジツの人間。


アミ:11年前のサトルの恋人。女性。カリスマ性に富んだ優秀なビジネス・パーソン。ゲンジツの人間。


ポール:サトルの先生。男性。投資理論を教える。スマートでハンサム。ゲンジツの人間。


ゲーブ:長年にわたりカソウの研究をしている専門家。男性。いわゆるオタク。ゲンジツの人間。


ヤスイ:不動産業を営んでいる。男性。カネが好き。カソウのヒト。


ヤマモト:大企業の役員。男性。苦しみに依存している。カソウのヒト。


ヤマモトのお母さん:女性。かなり高齢。痴呆症を患っている。カソウのヒト。


ハジメ:サラの夫。男性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


サラ:ハジメの妻。女性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


ミエ:自分を見せる仕事をしている。女性。猫が好き。カソウのヒト。


サトウ:サトシ・ナカモトの先生だった。男性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


AI・グル:ゲンジツの人工知能(A I)。人間の行動のみ監視している。


AI・バーグ:カソウの人工知能(A I)。ヒトの行動と感情を監視している。カソウで稼働している全ボットとも繋がっている。

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