オメガ型ボーグと化した元恋人・アミと、カソウで再会するが……

文字数 9,249文字

 わら縄でしっかりと結ばれた花束が置かれている。ヤマモトさんのお母さんが、最後に生命反応を発したのは、おそらくここだろう。日没前であれば、この花々はさぞかし美しく見えたかもしれないが、今は僅かに輪郭が見えるだけで何色かもよく分からない。
 かのじょは誤って落ちたのだろうか? それとも自分の意志で飛び降りたのだろうか? そう自問してから、ぼくはヤマモトさんのお母さんに黙祷を捧げ、冥福を祈った。
 もし自殺だとすれば理由はおおよそ想像できた。かのじょは長いあいだ、息子であるヤマモトさんを救いたかったが、できなかった。ぼくは五十回の面談をとおして、かのじょが息子のことを愛していながら、自らを第一に考える女であることを知っていた。かのじょは息子の善意を巧みに利用しながら今まで生きてきた。そのことに(やま)しさを感じていたようだが、それでもヤマモトさんに頼りっきりの状態から抜け出せずにいた。お母さんはそういうヒトだった。ところが十一日前、かのじょの中で何かが変化したのだ。そしてお母さんは勇気を振り絞り、我が身を犠牲にしてヤマモトさんを解放した。その場合、お母さんは確たる意志を胸に秘めながら飛び降りたことになる。
 太陽が完全に姿を消したが、夜空には、たった数個の星しか見えなかった。川下に(そび)え立つ巨大なビル群は、色とりどりの光を放っており、中には点滅しているものもある。そのリズムが、あたかも心臓の鼓動と同じように感じた。今この瞬間もAI・バーグはこちらを見ている。そう考えながら、ぼくはそのままの位置で振り返り、川上側の公園へ視線を移した。二週間前にサトウさんと会話した場所だ。特に光を見たわけでもないのに、どういうわけか、何か秘めたものがその辺りに舞い降りたように感じた。時刻はすでに二十時を過ぎていた。早くサトリに会いたかったが、そのまま一分間ほど、数百メートル先にある公園をじっと見つめ続けた。そして指先からつま先まで、自分の全身を一度だけ隈なく見つめた。すると左の方から誰かがそっと視界に入ってきた。それが誰かは分からなかったが、どこか見覚えのある歩き方をしていることに気づいた。そのまま通り過ぎるかと思ったが、そうはせず、いきなり話しかけてきた。
 「サトルくん、驚かないで。ぼくだよ、アミだよ」
 度肝を抜かれるとはまさにこのことだ。そこに立っていたのは紛れもなく、あのアミだった。目の前にいるかれの顔には、十一年前と同じ微笑が浮かんでいた。
 「アミ……どうしてきみがカソウにいるんだ? しかもヒトではなく、ボーグとして? もしかして、きみは死んだのか?」
 「ええ、そう。数日前に死んだの」
 「え、死んだ? おい、嘘だろ。なんできみが死ななきゃならないんだ。どうして?」ぼくはその場で硬直し、一歩も動けなくなった。
 「難病に罹ったの。すごく難しい名前の病気に。一言で言えば、治療薬のない血液の病気に」
 「そんな、まさか……その若さで難病なんて……治療薬を開発しようとはしなかったのか? 速やかに資金を調達し、優秀なロボットを使えば、早くて数カ月で治療薬が開発できたはずだ。きみならそうしたはずだし、できたはずだ」
 「確かにそうしたわ。けれども幸か不幸か、開発に成功したのは、わたしが罹患した難病ではなく、よく似た別の病気の治療薬だった。だから多くの命を救うことはできたけど、わたし自身は助からなかった。時間が足りず、わたしは病に負けたの」
 今はボーグと化し、再び〈生きている〉からなのか。アミのしゃべり方や態度からは悲しみや恨み、悔しさなどの感情が一切感じられない。そう言えば、言葉遣いも女性らしくなった気がする。これはどういうことだ?
 ぼくは十一年前に何も言わず、かれの前から黙って姿を消したことを心の底から詫びた。けれどもアミの眼差しから不満は微塵(みじん)も感じられなかった。
 「それについては当然だけど、わたしもたびたび熟考したわ。だから結論を出すまでにサトルくんが悩んだ過程を、それなりに理解したつもりでいるの。仮にそのことをまだ悩んでいる場合は、本当にごめんなさい。じつはわたし、あなたのことはとうの昔に忘れてしまったの。怒らないで冷静に聞いて、ね。その後、わたしはある人と出会い一緒になった。そして二人の子供を授かった。ビジネスでも、あの狂犬病の治療薬の開発に成功したの。だから、あなたがカソウに移住したことで、わたしは結構、幸せな人生を送ることができたのよ」アミは満面の笑みを浮かべていた。きれいだった。そういえば髪の毛は十一年前よりもずっと長い。かのじょはおそらく、自分の成功や幸せを、我がことのように喜んでほしかったのだろう。そう直感した。でもぼくにはそれができなかった。
 「パートナーは、ぼくの知っている人間?」
 「それが次の質問? かれがあなたの知り合いかなんて重要なことかしら? それよりも、あなたはどうなの? お父さんの自殺に関する手がかりは、何かつかめたの? 良きパートナーを得ることはできたの?」
 カソウに移住してから最初の二年間、ぼくはアミのことが忘れられなかった。半年が一年、一年が二年に伸びても、ぼくのアミに対する思いは薄れなかったし、何も言わずにゲンジツを去ったことの罪悪感が、ぼくの神経を日々衰弱させていた。けれども妻のサトリを買ったあの日から、少しずつアミのことを考えなくなった。そして、この二、三年間、アミのことはただの一度も考えなかった。だから今、ここでアミとその配偶者に嫉妬するのはよそう、そう考えた。
 「サトリという、ボットの妻がいる。九年前に一緒になった。それから父の自殺についてだけど、まだ調査中だ」
 「わたしはここへ来る前に、あなたがまだカソウにいることを確認できたの。だからおそらく、まだ謎を解明できていないとは思ったけど、やはりそうなのね。でもすごいじゃない、十一年も諦めずに探し続けるなんて。わたしの知っているサトルくんは、そこまでの根気の持ち主ではなかったはず。それで、今後はどうする戦略なの?」
 「今までのやり方で、このまま続けるつもりだ」ぼくはアミの目を真っ直ぐ見ながら、語気を強めてそう言った。
 「そう……でも結局のところ、なんのために真相を解明したいの? 謎がすべて解けたところで、お父さんが生き返るわけでもない。真犯人がいて、その人に正義の鉄槌が下るわけでもない。これはあなたの納得感だけの問題なんじゃないの?」アミの声には多少の侮蔑(ぶべつ)と失望感が含まれていた。
 「確かにそうかもしれない。だけど父には自殺をする理由がなかった。人生の成功者だったわけだし、死ななければならないほど、大きな悩みを抱えているわけでもなかった。ビジネスを通じて永遠の幸せ、永遠の健康、永遠の若さ、永遠の命を追い求めていた。それに自殺だけじゃない。全財産の放棄という前代未聞の決断も同時に下し、『忘れられる権利』も行使した。その真相を知りたいと思うことの何がおかしい?」
 「どうやって真相まで辿り着くつもりなの?」
 「父と少しでも面識があった人間が、ボーグと化してカソウに移住するのを待つ。そしてかれらにコンタクトを取り、質問する。基本的にはそれだけだ」
 「これまで何体ぐらいのボーグにコンタクトを取ったの?」
 「三千体以上。でもそのうちの半分は父と直接的な面識がない。どちらかと言えば、ゲンジツの最新事情を知るためにコンタクトを取った」
 「どのくらい有用な情報を得ることができたの?」
 ぼくは本当のことを言うべきか一瞬迷ったが、正直に「ほとんどない」と弱々しい口調で答えた。それを聞いたアミの表情は、失望を通り越して呆れ返った。ぼくらはそのまま一分間ほど口をつぐんで黙り込んでしまった。
 「それほど成功率が低いやり方をどうして続けるの?」
 「それは、その……最大の理由は妻のサトリだ。今のぼくはサトリなしでは生きていけない。その次はお客さんだ。ぼくはゲンジツに関する知識とこれまでの経験を使ってアドバイザリー業をやっている。自慢じゃないけど、カソウにぼくほどゲンジツに詳しいヒトはいない。それにぼくには、会話をとおしてかれらの心のケアもしている。だからぼくが仕事を辞めたら、お客さんに迷惑がかかってしまうし、かれらを救ってあげられなくなる」
 表情や仕草に変化は見られなかったが、なんとなく、アミの心の眼が開いたように感じた。
 「なるほど、どうやら事前に調べたとおりのようね。サトルくん、お願いだから耳を澄ましてよく聞いて、ね。今から説明することは非常に重要なことだから。このカソウという世界に目を見張らせているAI・バーグは、ヒトを何かに依存させるの。そうすることでヒトの思考力を弱体化させ、永遠にこの世界にとどめておこうとする、そういうアルゴリズムなの。そしてなぜか苦しみに依存したヒトで、大量のソトを貯蓄できたヒトだけが、カソウからゲンジツに移住できるの。でも、かれらを待ち受けているのはバラ色の人生なんかじゃない。かれらはゲン語をしゃべれないし、ビジネスパーソンになるための教育も受けていない。かといってロボットがいるので、カソウにいた頃みたいに労働に従事することもできない。貯蓄を使って細々と暮らしていくか、ペテン師みたいな生き方を選ばないといけないのよ。だからゲンジツにいた頃、カソウからの移住者にまったく会わなかったでしょう? 可哀想だけど、かれらはゲンジツでは、社会の底辺で這いつくばるように生きていくしかないのよ」
 ぼくは足下の鉄橋で顔面を思いっきりドカンと殴られた感じがした。アミほど優秀なビジネスパーソンがこちらの目をしっかり見ながら誠意を込めて熱弁している――これは嘘偽りのない真実の話と考えてほぼ間違いない。しかし、なんということだ。もちろん知らなかったとはいえ、これまでぼくは数多くのヒトにゲンジツへの移住を勧めてきた。今まで感じたことのない罪悪感が胸奥(きょうおう)を貫いた。次の瞬間、ぼくの脳裏にヤマモトさんの笑顔がよぎった。
 ――かれにこのことを伝えなければ――
 そう考えたが、かれはゲンジツ行きの手続きを既に済ませている。そのためコンタクトを取る方法がなかった。ぼくは奥歯を強く噛んだ。
 「じゃあ、なんで十一年前、ポール先生はぼくにカソウ行きを勧めたんだろう?」ぼくは下を向きながら、絞り出すような小声でうめいた。
 「あの頃、カソウに関する研究は、まだそれほど進んでいなかった。それが原因じゃないかしら。あと……いいえ、なんでもないわ……サトルくんがボーグにゲンジツに関する質問だけでなく、カソウについても質問していれば、情報をアップデートできたかもしれない。でもカソウに住んで働いているのに、カソウについて聞くなんて普通しない。そうでしょ? 盲点だとしても、なんらおかしくないわ」
 ぼくはなんの物資も持たずにたった一人無人島に取り残されたような悲壮感に打たれた。
 「なあ、アミ、ぼくは一体どうすればいいんだ? 依存している実感なんてまったくないし、一切感じたこともない。なあ、教えてくれ。どうすればいいんだ!」
 ぼくはアミの前で膝から崩れ落ちた。風が(なび)けば波打ち際に立つ砂の楼閣のように、ひとたまりもなく倒壊したかもしれない。
 「本来ならば『どんな困難に直面しても自分の頭で考えなさい』と言うところだけど、今のサトルくんは依存症、言い換えれば病気持ち。だからできるだけサポートしてあげる。そのためにカソウ行きを決断したわけだし。それにわたしが助けないと、あなたは永遠に今の状態から抜け出せないかもしれない」
 ぼくはその姿勢のまま前傾し、アミの左くるぶしに接吻した。かれ、いや、かのじょの眼差しは遥か上の方にあったが、見下されている感じは一切なかった。その目はまるで太陽のように、光を燦々(さんさん)と照らしていた。
 「あなたも知ってるとおり、わたしはサトルくんのお父さん、サトシ・ナカモトを尊敬していた。だから何年ものあいだ、自分なりのやり方でかれの自殺について調べたり、考えたりしてきたの。今から述べるのは、もちろん単なる仮説だけど、サトシさんの究極の夢は永遠の〇〇ではなく、カソウのヒトの救済だったと思う。サトシさんはカソウについて独自に調査を重ねていた。わたしは自分やごく少数の他人の記憶をつうじてそのことを知ったの。でもサトシさんは大器早成を信じていた。だから人生半ばから着手するには大きすぎる事業だと考えた。かといって、普通に考えれば、カソウに関する事業に取り組みたい人間なんて、まずいない。ゲンジツの人間は皆、自分たちは〈上〉、カソウのヒトは〈下〉だという固定観念に捉われているし、救うに値しない存在だと決めつけ、見限っている。だからきっと、サトシさんはあなたに白羽の矢を立てたのよ。サトシさんは生前『サトルの行動パターンは自分によく似ている』と言っていた。だから自分が謎に包まれた自殺をし、全財産を放棄すれば、あなたは真相を究明したいと思うだけでなく、カソウに移住せざるを得なくなる――そう考えたと、わたしは思うの。そしてカソウでの暮らしをつうじて、ヒトびとの悩みや苦しみをともに味わえば、あなたは自然とかれらを救済したいと思うようになる。実際にサトルくん、あなたさっき自分のお客さんを救いたいと言ったでしょ? お父さんの言葉で『常識を超える結果を得たければ、常識外のプロセスが必要だ』というのをおぼえてる? あの言葉が正しいことをあなたは証明したのよ! でも、サトシさんだって完璧じゃない。だからカソウのAI・バーグのアルゴリズムが、ゲンジツのAI・グルとほぼ同一だと考えたか、何か別の理由で正しく理解できなかった。サトシさんの計算だと、おそらくサトルくん、あなたはとうの昔にカソウからゲンジツに戻っていたはず。そしてカソウのヒトたちを救済すべくビジネスを次々と打ち出していた。そんなビジョンをかれは描きながら、あなたに夢を託したんじゃないかと、私は考えているの」
 相変わらずアミのしゃべり方は聞き手を虜にする。ぼくはかのじょの想像力と洞察力に心底感服したと同時に、自分の不甲斐なさを痛感した。三千体以上のボーグにコンタクトをとったが新しい情報はほとんど得られなかった。しかし手持ちの情報を分析し、緻密に考察を重ねれば、納得できる結論に辿り着けたかもしれない。だがその作業に充てるべき時間を、ぼくはサトリと過ごす時間に充てた。どうしてそうしたのだろう? 考えてみたこともなかった。とにかく無性にサトリと一緒にいたかった――いつまでも、いつまでも。仕事がなければ四六時中ともにときを過ごしていただろう。ぼくはサトリを愛していた。だから泉のように湧き上がる気持ちが、依存症によるものだと考えなかった。だが実際のところ、ぼくはAI・バーグが仕掛けた罠に、まんまとはめられたわけだ。決して心が満たされなかった理由が今ここで分かった。
 「ぼくのような元人間のヒトが、カソウからゲンジツに移動する方法はあるの?」その質問は、ぼくの口からこぼれるようにすっと落ちた。
 「ええ、あるわ。ここから二百十三キロ東にある『ブラック・スワンの湖』がゲンジツへの出口よ。これ、この詩が読める? これを一度だけ読んでから湖の中に飛び込み、中央部まで泳ぐの。たったそれだけ」
 ぼくの目の前にはアミのいう詩が表示されていた。それはゲンジツの人間なら誰もが一度は読んだことがある古い詩だった。
 「今すぐ向かうべきよ。自宅には帰らない方がいいわ。奥さんがいるでしょ? かのじょに会ってはいけない。会ったらおしまいよ。またいつまでも一緒にいたいと思うようになる。朝になってからも遅いわ。お客さんに会いに仕事場に行きたくなるから。だからお願い、約束して。今すぐ湖に向かうと」
 「アミはどうするんだ? ぼくと一緒に来てくれないのか?」ぼくは立ち上がると同時にこの質問をかのじょに投げた。するとアミは多少申し訳なさそうな表情を浮かべた。
 「この方法でゲンジツに行けるのはヒトだけなの。しかも、もともとゲンジツの人間で、今はカソウにいるヒトだけが。だから湖の名前がブラック・スワン。それに時間はもうすぐ二十二時。もちろん知ってるでしょう? ボーグは二十二時から五時まで『レスト・アンド・リチャージ』の状態に入る。だから、こうしてあなたと話していられるのも、あと少しだけ。眠りに入る前に、自分の家に戻らなければならない」
 実際に見たことはないが、アミが言うように、確かにボーグは夜中から明け方にかけて深い眠りに入る。だが、もしぼくが湖に飛び込めば、アミは家族や友人のいないこの世界で、たった一人でずっと生きていくことになる。いや、ひょっとしたらアミは二度と目を開けないかもしれない。AI・バーグはぼくらの会話の一部始終を監視しているはずだ。そしてアミは今、ぼくにカソウからゲンジツに戻る方法を教えてくれた。そのためカソウの調和を乱した存在として敵視される可能性がある。だとすれば〈中立化〉されてもおかしくない。そう考えたとき、ぼくの全身は恐怖で(おのの)いた。
 初めて出会ったときから、アミはプレッシャーに強いだけでなく、勘の鋭い女だった。だからかもしれないが、次の瞬間、かのじょはぼくが怯えた理由を理解できたように見えた。そしてさきほどよりも落ち着いた口調で諭すように話し出した。
 「心配しなくても大丈夫よ。ここでの会話は監視されていない。これも最近分かったことだけど、大きな水域の中央部分はパノプティコンの盲点なの。それは橋の上でも同じ。橋の真ん中であなたに声をかけたのは、それが理由。さあ、わたしはここで見ているから、橋の向こうに渡り、車を拾って湖へ向かって。サトルくんがいなくなるのを見届けたら、わたしは橋の反対側へ戻るわ」
 ぼくは緊張が一瞬で解かれるのを感じた。そして何も言わずに車の手配をし始めた。だが何かが()に落ちなかった。これではやはり、アミが救われたことにならないからだ。いや、そもそもアミを救う必要はないかもしれない。かのじょは自分の意志でボーグと化し〈永遠の命〉を手に入れた。いずれ配偶者や子供たちと、ここカソウで再会する約束をした可能性だってある。ぼくは今、自分のことだけを考えればいいのかもしれない。それでいいのか? いや、そういうわけにはいかない。こんな依存症のぼくでも、アミのためにしてやれることがあるはずだ。
 「アミはこのままカソウでボーグとして永遠に生きていくつもりなの? 何かぼくにできることがあれば言ってほしい。なんでもしてあげるから」
 するとアミは声を上げて笑った。昔ゲンジツで見たことがあるのと同じ、無邪気な笑い方だったが、同時にそこにはぼくの知らない、見ず知らずの他人が立っている感じもした。
 「ところで、サトルくんはオメガ型とデルタ型のボーグ、どちらがいいと思うの? やはりいまだにオメガ型なの?」
 「ああ、オメガ型だ。肉体が死んでからも新しい記憶を形成できるということは、肉体が生きていた頃と違う、まったくの別人になる可能性がある。父さんもそれを危惧した。だから開発段階でデルタ型ではなく、オメガ型を選んだ」
 「そうね。同じ議論を十一年前、何度もしたのをおぼえている。でもね、サトルくん、過去の記憶だけで生き続けるのは、真の永遠の命でないと、わたしは思うの。永遠に生きるためには、過去だけでなく、未来の自分も必要なはず。変化を奪われた存在は、生きてもいなければ自由でもない――ただの生きる屍よ。だからサトルくん、わたしのために何かしたいと思うなら、デルタ型のボーグを完成させて。そしてわたしが再びゲンジツで家族と再会できるようにして。サトルくんなら、完成できると思う。だってあなたは、あのサトシ・ナカモトの息子なんだから」
 ぼくは結局のところ、一度もビジネスパーソンを経験せずにゲンジツを捨ててカソウへ移住した。そのぼくに、今まで誰も成功したことがない、デルタ型ボーグの開発と完成をアミはお願いしている。はたしてそんな大事業が、ぼくのような未経験者に実現できるのか? 確かに、ぼくは父の息子だ。けれども二十歳から三十一歳までの十一年間をカソウで、ビジネスと無縁な仕事をして過ごした。大器早成を信じる父からすれば、ぼくはビジネスパーソンとして大成する機会をすでに失した存在だ。だがアミは、それでも期待を寄せてくれている。ぼくはかつてアミのことをひたすら思い続けた男だ。でもぼくはかのじょにひどいことをした。ぼくのことを恨んでいてもおかしくないはずだが、かのじょは再び現れ、今ここで、ぼくを救おうとしている。そんなことをする必然性が、はたしてアミにあっただろうか? あるとすれば、たったいま聞いた願いをぼくに託すためではないか? それ以外の理由は考えられない。だがそれを実現させるにはゲンジツで再びビジネスパーソン――あの欲深い偽善者たち――と関係を持つ必要があるし、父が採択しなかったタイプのボーグを世に送り出すことになる。それでもいいのか? さっきレストラン『ボン』でハジメさんとサラさんが和解した場面を見たとき、ぼくは変化が永遠に続いてほしいと願った。そして今、アミも永遠の命には変化が不可欠だと説いている。結局、父さん、あなたは間違っていた。それでいいのか――?
 「分かった。デルタ型ボーグを完成させて、必ずきみをゲンジツに連れ戻し、家族に会わせてあげる。だから少しだけ、ここカソウで待っててくれ」
 ぼくはアミを強く抱きしめた。ゲンジツでかのじょを初めて抱いたときの記憶が、道端を覆う淡雪のようにうっすらと蘇った。けれども、ぼくの腕の中にいるアミは、あのときとはまるで違う感触をしている。肌が触れ合ってからも心は融解しなかった。その代わり、まるでリレーのバトンを譲り受けたように指先が結び合い、そして離れた。
 その瞬間ふと思った。はたしてアミは、ぼくを助けたくて今ここにいるのか? それとも自分本位な考えからカソウ行きを選択し、デルタ型ボーグの完成をぼくにお願いしたのか? かのじょはつい最近までゲンジツでビジネスパーソンだった女だ。数々の修羅場をくぐっているうちに身も心も腐り果て、別人化した可能性がある。今ここにいるのはそうでないふりをしているだけの存在かも知れない。考え過ぎだろうか? それとも、ぼくは今ようやく、自分の頭で考え始めたのだろうか?
 ぼくは一度も振り向かずに走って橋を渡り、車に乗り込んだ。背後を見てはならないと言われたわけでもないのに、なぜかそうしなかった。アミが最後まで、ぼくを見送ってくれたかは分からない。
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登場人物紹介

主要登場人物


サトル・ナカモト:
主人公(写真の男性)。今はカソウで暮らすヒト。11年前まではゲンジツで暮らす人間だった。父親のサトシ・ナカモトが自殺した理由を知りたい。


サトシ・ナカモト:サトルの父。男性。21世紀を代表する天才ビジネス・パーソン。記憶に記録を結合させて移動する=BRMT=Binding Record to Memory and Transferringという革新的な技術を開発した人物。サトルが成人を迎える直前に自殺した。


サトリ:カソウのコンパニオン型ボット。サトルの妻。最近どういうわけか姿を見せなくなり、声だけの存在と化した。


メグミ:サトシ・ナカモトの長年のビジネス・パートナー。男性。百戦練磨のプロフェッショナル。ゲンジツの人間。


ジエイ:サトルの長年の友人で幼なじみ。男性。ゲンジツの人間。


ジエイの父:食料関連に特化したビジネス・パーソン。男性。ゲンジツの人間。


アミ:11年前のサトルの恋人。女性。カリスマ性に富んだ優秀なビジネス・パーソン。ゲンジツの人間。


ポール:サトルの先生。男性。投資理論を教える。スマートでハンサム。ゲンジツの人間。


ゲーブ:長年にわたりカソウの研究をしている専門家。男性。いわゆるオタク。ゲンジツの人間。


ヤスイ:不動産業を営んでいる。男性。カネが好き。カソウのヒト。


ヤマモト:大企業の役員。男性。苦しみに依存している。カソウのヒト。


ヤマモトのお母さん:女性。かなり高齢。痴呆症を患っている。カソウのヒト。


ハジメ:サラの夫。男性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


サラ:ハジメの妻。女性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


ミエ:自分を見せる仕事をしている。女性。猫が好き。カソウのヒト。


サトウ:サトシ・ナカモトの先生だった。男性。もともとはゲンジツの人間。今はカソウで暮らすオメガ型ボーグ。


AI・グル:ゲンジツの人工知能(A I)。人間の行動のみ監視している。


AI・バーグ:カソウの人工知能(A I)。ヒトの行動と感情を監視している。カソウで稼働している全ボットとも繋がっている。

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