カソウへ移住後、ヤスイさんと出会ったが……
文字数 7,537文字
ぼくはまず、自分のソトがナカに両替されたか確認した。目の前に現れたアカウントの残高は百万ナカだった。手持ちのカネが増えたように感じたので、少しだけホッとした。しかしカソウの物価が分からないため、これが多いのか少ないのか理解できなかった。次に地図アプリを開き、自分の位置を確認した。ここは大きな川沿いの河原であり、徒歩十分以内に町が確認できた。時間は五時一五分。夜明けまであと三十分ほどある。ちょうどいいかもしれない。まだ暗いうちに周囲を気にしながらゆっくり町へ歩こう。そう決めた。一分後、自分が外側も内側も監視されていることを思い出した。当然ながら、ぼくは内側(感情)のデータを監視されるのに慣れていない。そのため、その場で一瞬、凍りついた。平静さを保持しながら放っておいてくれと念ずれば、何事もなく町まで辿り着けるのか? そんな都合のいい話などあるはずがない。と、そう考えた次の瞬間――。
「おい、あんた。どこの誰でぇ? なんで、朝っぱらからこんなところにいるんだ? そもそもおめえ、存在しねぇみたいだぞ。どういうこった、これは?」声は確かに聞こえたが、位置までは特定できなかった。逃げても無駄だと感じたぼくは、どこにいるのか分からない相手に向かって、落ち着いた口調でゲンジツから来たことを真摯に説明した。
「ゲンジツから来た? おい、あんちゃん、こんな朝っぱらから、なにくだらない冗談いってんだよ。誰が好き好んで、あっちからこっちに来るってんだ、え? 嘘をいうなら、もう少しマシなものにしとけや!」
「嘘ではありません。ぼくはわけあってカソウに移住しました。でも、警戒しないでください。あなたに危害は加えません。名前と、今いる位置を教えてくれますか?」
半径一キロメートル以内にヒトの反応が五つほど確認できたが、薄暗くてよく見えなかった。それにヒトのアイデンティティーの確認方法がよく分からないため、そのうちの誰がこの男なのかも判別できなかった。
「何、名前だと? おめえ、おれの名前はそんなに安売りしちゃいねえよ。それでもいいか?」
「つまり、ナカを払う必要があるということですか?」
「常識だろ!」
「いくらですか?」
「百万ナカよ!」
これは明らかに高い。ぼくのゲンジツのアカウントには、全財産のソトがチャージされていた。それを両替した金額が百万ナカだ。つまり、どう考えても相手は、ぼくをぼったくろうとしている。それ以外にあり得なかった。
「すいません。百ナカの言い間違えじゃないですか?」
「なんだと、この野郎! 百ナカだと、ふざけるな! お前、おれの名前がヤスイだからって、わざと安い値を言いやがったな。なめやがって、このボケが!」
次の瞬間、このヤスイという男の場所を特定できた。一人だけ左方向にいるのが、この男だ。ぼくは思わず大声で「やった!」と叫んだ。すると、ヤスイさんは急に
「待ってください。ちゃんと百ナカ払いますよ。いや、三百ナカ払います。だから話を聞いてください!」
それを聞いた男はすぐに走るのを止めた。ぼくはかれから二メートルしか離れていない地点に移動した。
「五百ナカでどうだ?」男は獲物を捕らえたような表情を見せながら微笑した。
「分かりました。いいでしょう。どうやって払うんですか?」
「どうやって? おれの顔が目の前に映し出されているだろう。それを見ながら『五百ナカ払う』って呟く。それだけだ」
ぼくはかれの指示に従った。すると、五百ナカが相手のアカウントに送金され、ぼくのアカウントの残高が九十九万九千五百ナカまで減った。
「なんだ、お前さん、こんなことも知らないのか? もしかしたら本当にゲンジツからやって来た人間なのか。名前をいってみろ。ただし、おれはカネを払わんが」
「サトル・ナカモト」
「サトル・ナカモト。どれどれ、出てきた。あれ、オプションが何もねえ。コンタクト以外、何もねえ。真っ新のプロフィールじゃないか。やっぱりおめぇ、存在しないんじゃねえか? それともあれか、人間じゃなくて、幽霊ってやつか? こんなのは生まれてこのかた、初めてだ。これは一体どういうことだ? わけが分かんねぇ」
「さっきも言ったように、ぼくはカソウに移住したばかりです。だから名前とコンタクト以外の情報が何もない。そう考えれば、つじつまが合うと思いませんか?」
かれは納得したような表情を作りながらも、目は完全にポカンとしていた。
この後、ヤスイさんは「どうせ行くあてなんかねえんだろう」と言いながら、ぼくを町中にある自宅に招いてくれた。ぼくがあまりにも驚いた顔つきをしたので、かれは「カソウには天降るヒトを家に迎え入れれば運気が上がる」という
「ヤスイさんは、不動産会社の社長なんですか?」
「ああ、そうよ。と言っても零細企業だがな。うちは賃貸と売買の仲介業者だ。主に住宅とオフィスを扱っている。おれはカネと不動産にはうるさい男で通してきた。自慢じゃねえが、この道一筋五十年だ!」かれはそう言いながら誇らしげに胸を張った。ぼくはこういう態度をとるヒトが好きではなかったが、今は気にせずに無視した方がいいと考えた。次に家族欄を見た。特に何も記載されていなかった。これがどういう意味なのか分からなかったので、ぼくは「お子さんはいらっしゃらないんですか?」と聞いてみた。
「何、子供? そんなものはいねえ。これはおれだけじゃなく、みんないねえ、誰もいねえ。そんなことも知らないのかと言いてぇところだが、まあ、お前さんなら、知らなくて当然か。なあ、もう千ナカ払う気はないか? そうすればもっといろいろ教えてやるよ」ぼくは何も言わずにもう千ナカ払った。
するとヤスイさんは、ぼくにカソウの人口が約六千万人だと説明してくれた。過去六十年以上にわたり、人口は毎年百万人ほど減少しているらしい。人口が増えない最大の理由はゼロ%の出生率だそうだ。
「つまり、このままのペースだと遅くても六十年後、多分それよりも早く、おれたちヒトは完全にいなくなっちまう。誰がどういう目的でそうしたのか分からないが、われわれヒトは子供が作れない。だから、どうしても子供がほしい場合は、児童型ボットを購入するしかないってわけだ。まあ、おれは古いタイプの男だから買ったことはねえが、カソウにはそういうのが好きな連中が山のようにいるよ」そう言いながらヤスイさんは地面に唾を吐いた。
「奥さんはいるんですか?」
今度は一転して、
「まあ、昔はな……遥か大昔……それも、あれよ、ボットじゃなくてよ、ちゃんとしたヒトよ……いい女だったけどな、まあ、結局別れちまった。今じゃどこでどうしているかもわかんねぇ……そういうおめぇはどうなんよ。ゲンジツにいい人の一人や二人はいたんじゃねえのか?」
ぼくはそこから先は有料になると言った。するとヤスイさんは大袈裟な大声で笑った。胸がスカッとする、竹を割ったような笑い方だった。こういう笑い方をするヒトなら、おそらく悪いヒトではない――そう考えたぼくは、ひとまずかれを信じてみたい気になった。
「ところで、ヤスイさんの夢はなんですか?」ゲンジツでは誰かと知り合ったとき、会話のどこかで必ず発する質問を投げてみることにした。
「夢? 随分大きく出たな、え? いきなり夢について聞くなんてやつぁ、滅多にいねえ。気に入った! この話は千ナカ……いや、この際だ、無料で結構。まあ、おれも若い頃は、カソウのヒトなら誰もが願うように、ゲンジツに移住したいと思ったりしたものさ。だから女房と一所懸命働いて、コツコツとカネを貯めたりした。しんどかったけどよ、今から思えば楽しい思い出だな。けれど、いろいろあってな、そのチャンスを逃しちまった。まあ、後悔はしてねえ。だがな、こう見えて、もう老い先長くない身だ。どんなにイイところとはいえ、影も形も分からない新天地をいまさら目指したくはねえ。長年住み慣れた環境で、世話になったヒトたちを気遣ったりしながら、のんびりと働いて過ごす方がいい。今はそんな気がしている。昔の理想にはほど遠いが、まあ、悪くない夢だと思っているよ」
我ながら良い質問をしたと思った。おかげでぼくは、このヤスイさんという男のヒト柄を
それからぼくとヤスイさんは河原から十五分くらい歩いた。すると、ある住宅街の一角にかなり大きな一軒家が現れた。ここが自分の家だと、かれは言った。敷地内に足を踏み入れる前にこれが有料か、無料か念のためきいてみた。
「とりあえず無料にしといてやるよ。だが変な真似しやがったらタダじゃ済まないぜ。百万ナカだ!」ヤスイさんはさきほどのような笑い声を上げながら玄関の扉を開けた。
「さあさあ、入ってくれ。あの右側にあるドアを開けてくれ。そうそう、そのまま真っ直ぐ。さあ、適当に座って
暖炉前にある大きなソファに腰掛けたぼくは、ヤスイさんにこれまでの経緯を少しずつ話してきかせた。もちろん、すべてをありのままに話すことは避けた。たとえば今、自分がナカをいくら持っているかは絶対に教えなかった。
「ところで、あれだな。どのみち住むところが必要になるな」
「そうですね。どうすればいいと思いますか?」
「おれは不動産屋だから手を貸してやることはできる。だが仕事はどうする? 無職の男に物件を貸してやるわけにはいかねえ」
「仕事、ですか。もちろん今はありませんが、やってみたいビジネスはあります。カソウでは、どうやって事業を始めるんですか?」
「ビジネスをやりたい? 事業を始める? つまり自分で新しくスタートするということか?」ヤスイさんは腕を組んでから暫くのあいだ考え込んだ。「それはやり方が分からねえ。なにしろカソウでは、自分で仕事を選べねえからな。おれたちは皆、AI・バーグが選んだ仕事に就かなければならん」
ゲンジツと違い、カソウのヒトは生活のために労働をしているとゲーブ先生は説明してくれたが、職業選択の自由がないとは知らなかった。ヒトはゲンジツの人間が何十年も前に〈卒業〉した労働に人生の大半を費やす。にもかかわらず、かれらは自分の職業さえ選べない。そんな理不尽なことがあっていいのか。ぼくは考えさせられた。
「ということは、ヤスイさんが不動産屋なのも、自分の意志ではないということですか?」
「そうだ。おれはこの道一本だが、カソウには何度も仕事を変えてきたヒトだって大勢いる。それも自分の意志ではなく、AI・バーグの辞令によって、だ」
「つまり、ぼくも自分で仕事を選ぶのではなく、AI・バーグに選んでもらう必要があるということですか?」
「まあ、普通に考えればそうなるな」そう言いながらヤスイさんは大きく
ぼくは目の前に自分の基本プロフィールを出してみた。確かに職業欄のところには何も書かれていなかった。ヤスイさんは職業さえ決まれば、ある程度収入が想定できるので、物件を紹介できると言ってくれた。次にぼくはカソウに数多くある仕事について質問し始めた。すると最も高収入な仕事が、空間や建物の創造にかかわる仕事だと教えてくれた。理由はゲンジツから移住してくるボーグ向けの土地、建物、サービスが今まで以上に必要だからだと言った。
「あ、ヤスイさん。ぼくの職業が決まったようです。ぼくの仕事はアドバイザーみたいです。職務内容が記載されています。これまで得た知識と経験を基に、カソウのヒト向けにゲンジツに関する情報を伝えること、とあります」
これを聞いたヤスイさんはすぐに困惑した様子を見せた。確かにアドバイザーという職業は聞いたことがあるが、ゲンジツに関する知識や経験を売り物にするアドバイザーなど、今まで聞いたことがないからだと説明した。
「なるほど。それなら、こうするのはどうでしょうか。ぼくの仕事が安定するまで、数カ月ほどかかるかもしれません。それまでのあいだ、短期間限定で借りられる物件を紹介していただけますか? それから仕事場も設立する必要があるので、そちらも併せて紹介いただけますか? あと、ヤスイさんを疑うわけではないですが、自分で不動産会社を少なくともあと一社は探します。そうでなければ、値段の相場がよく分からないからです。それでもいいですか?」
次の瞬間、ヤスイさんの目つきが変わったのを感じた。だがこれは不快感を表す眼差しではなく、敬意を表するときに見せる眼差しだとすぐに理解できた。ヤスイさんもその方がいいと言ってくれたので、そうすることにした。
その後数カ月間、ぼくはこのヤスイさんにいろいろと世話になった。数日ほどかけて物件をいくつも見て回ったが、最終的にヤスイさんが紹介してくれた住まいとオフィスを借りることにした。現在借りている住居と仕事場もかれの会社が探してくれた。
だがぼくがヤスイさんを通じて学んだ最も重要なこと、それはカソウにおけるヒトの死についてだ。ヤスイさんは出会ってからちょうど半年後に死んだ。死因は老衰だった。カソウではヒトが死んでも、お通夜や葬式は行われない。ヒトが死ぬと、カラダはまるで煙のように跡形もなく消えてなくなる。ぼくはかれの死をとおして、その瞬間を目撃できた。カソウにもヒトの寿命を測定できる機器はあったが、ゲンジツの機器ほど正確でなかった。それでもヤスイさんは、すでに自らの死期をさとったらしく、どういうわけか、ぼくに最後の看取人になってほしいとお願いしてきた。ぼくは、なぜ自分を選んだのか、かれにたずねた。
「実はな、おれの女房は三十五年前に一人でゲンジツに移住したんだ。おれは勝手にあいつのことを『天女』と呼んでいる。お前さんとも、どこかで出会っていたかもしれねえ。もっともお前さんの年齢を考えた場合、親しい間柄になれた可能性は低いと、はなから分かっていたがな。あいつはゲンジツに行ったら名前も顔も姿形も全部変えて別人になると言い切った。だからお前さんにあいつのことをあえてたずねたりしなかったわけよ……あいつの見かけは女だったが、ある日突然『自分は男だ』とおれに告白した。それを聞いたときはたまげたが、ある意味納得できた。あいつはおれのことを愛していると言っていたし、それは信じて疑わなかったが、なんかこう、説明し難い苦しみをいつも隠しているような目をしていた。それなら単一のジェンダー・アイデンティティーしかないここカソウでおれと一緒に一生を終えるのは、あまりにも可哀想だと思い、あの手この手を使ってゲンジツに送り出してあげたってわけよ。そしたらなんだ、向こうに行ったきり、完全に音信不通になっちまいやがった。あれにはさすがに面食らったが、お前さんと出会ってから謎が解けた。カソウからゲンジツに連絡が取れないのと同じで、向こうからこっちへ連絡することもできないってわけだな。自由な行き来だってままならない……まあ、あいつには相当カネがかかったが、今のおれの仕事がうまくいっているのは、あいつのおかげでもあるわけだから、別に恨んでなんかいねえ。その後おれがずっと独り身でいるのはあいつのせいじゃねえ……たとえ今は別人でも、あいつとの思い出はおれの頭の中で生き続けてきた。まあ、もしかしたら、どこか別の世界でまた会えるかもしれねえ……こうして昔の記憶が次々と甦ってきたってことは、そろそろお迎えが来たようだ……お前さんのような誠意ある男に、人生の最後で出会えて良かったよ。いい冥土の土産になった。早いとこ、親父さんの自殺に関する手がかりが見つかるといいな。そしたらこんなとこ、さっさとずらかった方がいいぞ!」
ぼくはずっとヤスイさんの手を握っていたが、死が訪れた瞬間、まるでスイッチをオンからオフにしたように一瞬でフッと消えてなくなった。ゲンジツであれば「忘れられる権利」を行使しない限り、人間に関する記録が抹消されることはない。だがカソウではヒトが最後を迎えると、データが自動的に消去される。ヤスイさんに関する記録は、完全に消えてしまった。もはやかれが存在した証は、ぼくを含めた一握りのヒトの記憶の中にのみ残されているだけだ。そしてぼくでさえ、あと百年も経たないうちに死んでしまう。ぼくがゲンジツに戻り、ボーグとして再びカソウに移住しない限り、ヤスイさんが存在した証は何も残らない。そういうことになる。
これまでどれくらいのヒトがカソウの記録から消されたのだろう? そしてそんなことを実行に移すAI・バーグの意図はなんだ? 昔からここで暮らすヒトたちを根絶やしにし、カソウをボーグだけの楽園に変えることか? なぜわれわれは共存できないのか? カソウのヒトは所詮、永遠に弱肉強食の論理から逃れられない、そういう存在なのか? ぼくは自分の無力さを痛感し、虚しさで胸がいっぱいになった。すべてがあまりにも恐ろしく感じられた。涙がこぼれ落ちそうになったが、必死で