再び、ハジメさんとサラさんと話す
文字数 4,021文字
ぼくは今日もレストラン『ボン』でいつもの席に座りながらパスタをほうばっていた。日替わりパスタはリングイーネ・マリナーラだ。もしかしたら初めて食べるかもしれない。
隣のテーブルに座るハジメさんとサラさんとは、すでに挨拶を済ませた。かれらと話すのも二週間ぶりだ。なぜ長いあいだ店に来なかったのか、その理由は分からない。ぼくは毎度のやりとりが面倒だったので、今日は完全に初対面のふりをしたばかりだ。
「お食事はどうでしたか、ハジメさん?」お皿の上には大きなチーズ型のブロックがまだ半分ほど残っていた。どうやら量が多すぎたようだ。
「いやあ、好物の
「サラさんはどうして何も召しあがらないんですか?」名目上は初対面のため、珍しくとは言わなかった。
「今日はあまり食欲がなくて……」
「もしかしたら今日に限ったことではなく、いつものことなのかもな。ここでの記憶を日々失う私には、さっぱり分からないが!」そう言いながらハジメさんは大声で笑った。
「何か今朝変わったことなどありましたか?」ぼくはサラさんに聞こえるように顔を近づけてからロン語でたずねた。
「ええ、実は昨晩ある夢を見まして……」
「夢、ですか?」ボーグが夢を見たという話を聞くのは初めてのことだ。ボーグは眠っているあいだ、ゲンジツにいた頃の記憶を完全に保存したまま、その日起きた出来事に関する記憶をすべて消去する必要がある。その作業には必ず七時間かかるため、ボーグは毎晩、二十二時から翌朝の五時まで、まるで死んだような睡眠状態に入る。ぼくは興味津々な面持ちで、かのじょの顔をまじまじと見つめた。
「なんだ、ひょっとしてナオミの夢でも見たのか? あいつはまだ二十三歳だが、世渡り上手な賢い子だ。われわれなしでも立派に生きていけるよ。だから心配は無用だ」
「いいえ、あなた。ナオミは三十一歳です」
「なんだって?」
「あなたが亡くなったときは、確かに二十三歳でした。けれども、わたしがゲンジツを去ったときは三十一歳でした」
「しかし、お前は半年前に死んだんじゃないのか?」
「わたしは半年前、でもあなたは八年半前よ」
「八年半前? お前の半年前じゃないのかい? ということは、私は八年間も一人でお前がカソウに来るのを待っていたというのか?」
これは完全に初耳だった。ぼくがハジメさん、サラさん夫婦とここで初めて知り合ったのは約半年前だ。確かに、ぼくもなんの証拠もないまま、二人が同じ頃ボーグになったと勝手に思い込んでいた。
「今のナオミ、いや半年前のナオミ、三十一歳のナオミは元気なのか? 結婚はしたのか?」
「ええ、結婚しました。子供も二人います」
「おお、そうか! それはでかした! 男の子か、女の子か?」
「男の子と女の子、一人ずつです。上の子の名前はリサ。四歳です。下の子の名前はリク。二歳です」
「そうか、そうか! で、ナオミのビジネスはその後うまくいっているのか? 早くデルタ型ボーグの開発を完成させてくれるといいな。そうしたら孫二人にも会える。いやあ楽しみだ!……ところで、ナオミのパートナーは一体どういう男なんだ?」
「それよりも、あなた、実は一つ知ってほしいことがあるの」
「なんだ、ナオミのパートナーのことか?」
「いいえ、わたしのパートナーのことです」
「わたしのパートナー? それは今ここにいる私じゃないか?」
「あなた、何も言わずに冷静に聞いてほしいの。どうかびっくりなさらないで。お願い、ね? じつはあなたが亡くなった三年後、わたしはある方と再婚しました。その方は半年前にわたしを看取ってくれたのですが、どうやら他界されたようです。もちろん証拠はありませんが、昨晩見た夢が、虫の知らせです」
ボーグが人間と同じぐらい複雑な表情を見せるのを、ぼくは初めて目の当たりにした。それは一流の画家でさえうまく描くことができないほど、さまざまな感情が一瞬のうちに入り乱れた顔つきだった。
「お前が再婚した? 五年半前に? つまりお前は五年ものあいだ、別の男と夫婦関係にあったのか? そして再びここカソウでボーグとして、半年前から私と再び夫婦関係にあるというのか? おい、ふざけているつもりか。冗談もやすみやすみにしろ!」そう言いながらハジメさんはテーブルを右手で力いっぱい叩いた。その音があまりにも大きかったので、次の瞬間、店内の客全員がハジメさんに視線を浴びせていた。
「ハジメさん、暴力はいけません!」ぼくは両手でハジメさんを押さえながら命令口調でそう言った。一方のサラさんは席から立ち上がり、店内の客全員に深々と頭を下げて謝り始めた。その板についた謝り方が、ぼくにはなんとなく
「そいつはどこの誰だ? おれの知ってる奴か?」
「いいえ、あなたと面識のある方ではありません。わたくしが出会ったのも、あなたが亡くなってからでした」
「さっき、お前はそいつが死んだかもしれないと言ったな。ということは、今日にでもここへノコノコとやって来るのか? その場合、お前はどうするつもりなんだ?」ハジメさんは右手の人差し指を銃口のようにサラさんに向けながら、鬼のような形相でサラさんを睨みつけた。けれどもサラさんはまったく臆することなくハジメさんの目を直視していた。
「いいえ、おそらくあの人はここへは来ません。ボーグと化し、カソウで生き続けることに関心がないと、常々おっしゃっていました」
「なんだ、そうか。こっちへ来ないのか。来れば脳天を粉々に砕いてやったのだがな。そうすれば、いかにボーグといえども、イチコロで死んでしまう」
これを聞いたサラさんは、いきなり涙をこぼし始めた。ぼくはハジメさんの背後からサラさんのところへ移動し、かのじょを落ち着かせようとした。
「あなたって、本当、自分の狭い視点からしか物事を見ることができないのね。わたしがどういう気持ちでその人と一緒になったのか、少しでもいい、考えてみてちょうだい! あなたが亡くなってから、ナオミとも滅多に顔を合わせなくなり、わたしの中にはぽっかりと大きな穴が空いてしまったの。その穴を埋めてくれたのが、あの人だったのよ。それにわたしが余命半年と分かったとき、あの人はこう言ってくれたわ。『命が尽きたらボーグと化し、もう一度ハジメさんと一緒に暮らすべきだ』と。わたしが嫌だと言ったら、あの人は時間をかけて辛抱強くわたしを諭してくれた。あなたがカソウでひとりぼっちでは可哀想だと言ってくれたし、そうすればナオミたちとも再び会えるだけでなく、その後もすべてが丸く収まることをわたしに気づかせてくれたの」
ハジメさんの表情はいつもの単純なものに戻っていた。
「どうしてその男はカソウに来ない選択をしたんだ? 私に遠慮したのか?」
「いいえ、あの方はもともとカソウのヒトだと言ってたわ。つまり、ゲンジツに移住することができた数少ないヒトの一人なの。そしてあの方は言ったわ。ゲンジツはカソウで言われるほどいいところではない。少なくとも自由と幸せを求めて目指すような素晴らしいところではない、と。でも、そうかといって、もう一度カソウに戻りたいとは思えないとも言ったわ。昔の自分でいたときの世界には戻りたくない、と。だから自分は『ゲンジツでもカソウでもない、どこか別の世界へ旅立ちたい』とわたしに打ち明けました」
ハジメさんは一言もしゃべらずに黙って聞いていた。サラさんだけでなく、その名前も知らない男の立場や心情を、少しは理解できたのかもしれない。少なくともぼくの目にはそう映った。今日、ハジメさんは人格的に成長できた。何かが分かり、何かが変わった。にもかかわらず、明日になればまた元の
父さんが今、この場にいたらどう思うだろう? それでもボーグの記憶はリセットされるべきだと力説し、持論を崩さないだろうか? ぼくは父の理論は正しいと、この瞬間も信じている。しかし、あらゆるシチュエーションに適用可能な理論など、そもそも存在するのか? ぼくは既に五十回以上この二人と会話してきた。オメガ型ボーグの変化は永続しない。にもかかわらず、ぼくはかれらにその優位性を説き続けた。ところが今、ぼくはこの変化が消えないことを心の底から願っている。
もっとも今起きていることは、ぼくの行為の結果、生まれたものではない。これはサラさんの赤裸々な告白の賜物だ。かのじょは何を思い、真実を吐露したのだろう? 論理的、感情的、倫理的に考えても、得るよりも失うものの方が大きかったはずだ。この場であえて話す必然性はどこにもなかったが、結果的にかのじょの告白は想定外の変化を生み出した。ハジメさんだってそうだ。かれは自らのプライドを飲み込んだ。和解がかろうじて成立したのは、お互いが思いの丈をぶつけ合いながらも、空中爆発せずに軟着陸できたからだ。今、ぼくの目の前にいる二人はこれまでになく和気あいあいとしている。お互いが非を認め合い、相手を思いやり、譲り合っている。本当の夫婦関係とはこういうものなのかもしれない。だがしかし、明日になればまた振り出しに戻る。心苦しい限りだ。この瞬間が永遠に記録と記憶に刻まれるよう、ぼくは心の中で小さく祈った。
そろそろ仕事場に戻らなければならない。ぼくは二人に別れの挨拶をした。複雑な気持ちで胸がいっぱいだったが、同じことが二度と起きないことはないと自分に言い聞かせ、その場を去った。