3.妖精たちの新年
文字数 3,360文字
モリカの町から砦の城へ。人気 の絶えた道を歩く。
明けの明星が東の空に輝いている。
その傍を、伸びやかな尾を引いて一筋の星が流れていった。
「もう、冬ね」
刻々と色を変えてゆく空を見上げ、ぽつんとオルフェンが呟く。息が白い。
「そうですね」
傍 らを歩く男が答える。
門の前にランタンを提 げた家令の姿が見えた。町へと続く道に向かい、微動だにせず、戻りの遅い貴人の帰りを待っている。
門衛はいない。
今ごろ城の中では、働く者たちも客人たちに混じって休んでいるのだろう。広間で、長椅子で、あるいは竈 の前で、廊下の真ん中で。人はみな、太陽が中天に差し掛かるまで眠る。あるいは寝たふりをする。
それが昔からの約束事だ。
「急ぎましょう」
オルフェンが駆け出す。
「やれやれ、元気な王女さまだ」
黒いマントをまとった男は苦笑して、その後を追った。
*
「もう動けませんからね。一歩も動きませんよ」
惑わしの森、隠者の庵にたどり着いたアリルは靴を履いたままベッドに飛び込んだ。
シャトンの背に乗って白い世界を抜けると、庵に続く道に出た。
太陽が顔を出す寸前のことだ。ぎりぎり間に合った。
木の間からは黄色い光。頭上の空は淡い紫とピンクが入り交じった色に染まっている。風はない。穏やかに夜が明けようとしていた。
「行儀が悪いね」
うつ伏せに倒れ込んだアリルの靴を、シャトンが咥えて引き抜いた。両方の靴を脱がせてしまうと、シャトンは出窓に飛び乗った。閉じた木の窓の隙間から差し込む日の光が、彼女のつややかな毛並に映える。
「ああ、くたびれる夜だった」
そうこぼすと、シャトンはくわあと大きなあくびをしてくるりと丸くなった。
祭りのあと。
十一月一日の夜が明ける。
妖精たちの暦 が新しい年に変わり、迎える最初の朝。
人ならぬものたちは異界に戻り、閉じられた扉の向こうで新しい年を祝う。
扉のこちら側で、人はそれを邪魔せぬよう静かに過ごす。
それぞれがあるべき場所で、それぞれの朝を迎える。
* * *
ケイドンの森にほど近い小さな村。
そのご婦人が自宅である一軒家に帰り着いたときには、すでに冬の太陽は北東の地平線の上にあった。
「まあ、昨夜はいろいろあったこと!」
うーんと伸びをし、薬箱をさぐって四代目隠者特製の湿布薬を取り出す。肩に、背に、腰に。一晩中歩き続けて疲れ切った全身に、くまなく貼り付けてゆく。
肉の器 を持つということは、そしてその器が老いていくというのは不便なことだ。しかし年を重ねればその分だけ得るものはある。そんなふうに人の子たちは心の中で折り合いをつけ、限られた生を生きる。
冷たい水で顔を洗い、清潔な衣服に着替える。
「ああ、生き返ったようだよ」
と、外からコツコツと窓を突 く音がした。
締め切ってあった木の窓を押し開くと、一羽のワタリガラスがするりと部屋の中に滑 り込んできた。
「新年おめでとう、デニーさん」
カラスは棚の上にちょこんと座ると、しおらしく頭を下げた。
「この一年がデニーさんにとってよい一年になりますように」
「おめでとう。あんたとその一族にも、たくさんの良いことがありますように」
老婦人は何でもないことのように、挨拶 を返し、四角い木のテーブルの隅にカラスの席を設 えてやった。
「今、ひと息ついたところさ。あんたにもお茶も淹 れてやろうね」
「そんなことより、いっぱいいっぱい、報告することがあるんだよ」
カラスは待ちきれず、湯を沸かし始めた家主の肩ごしにまくし立てた。
「まず一つめ。百年越しの案件が片付いた。若草の乙女が魂の半分を取り戻したよ」
そう言ってから「あれ? 二百年だったか」とカラスが首をかしげる。
「そうかい」
デニーさんは嬉しそうに頷いた。
「しかし、不死の呪いが解けるまでには、まだ時間がかかりそうだ」
――いつの日か、心の底から王女さまを愛する者が現れて、
その人が呪いをその身に引き受けてくれるでしょう。
――そして、王女さまがその人を心から愛するようになれば、
二人は次の世への道を見出すことができるでしょう。
「現在名乗りを上げているのは赤の魔法使いひとりだけれど、これからどうなるかねえ。愛だの恋だのを魔法でどうこうするのは野暮 ってもんだし。ここはお手並み拝見ってところか。しかしまあ、あの男もそういう面に関してはどうにも奥手 だから、前途多難な気がするねえ」
楽しそうにカラスが話すのを聞きながら、デニーさんは棚から瓶 を取り出して中を吟味 する。さて、この朝にふさわしいお茶は何だろう。
「二つめ。大陸の聖女は次の世へと旅立ったよ」
若草のエレインが全 き魂を取り戻し、イレーネの魂をつなぎ止めていた絆 が解けた。
「安らぎの野か、大陸の神の御許 か。それは分からないけどね。あの娘がいなくなったら、エリウも寂しいことだろう。若草の乙女と赤の魔法使いがしばらくエリンの町に留まることになりそうだ」
「そうかい」
「それからね、それから……」
身を乗り出すカラスの前に、木の器が差し出された。ほかほかと湯気が上がっている。
「なんだい、これは」
酸っぱい匂いにカラスは顔をしかめた、ように見えた。
「シラカバの皮とチェッカーベリーのお茶。今年一年、達者で暮らせるように、ってね。あたしらもいい歳なんだからさ」
「今さらだねえ」
「はは……」
軽く笑って、デニーさんはガタンと椅子を引いた。テーブルの上にはライ麦パンとニワトコのジャム。カラスの向かいに腰を下ろし、頬杖をつく。
「さっきの続きを話しておくれ。それからどうしたって?」
カラスも自分のために用意された席に落ち着いた。柔らかな布を裂 いて編んだ座布団。暖かな巣の中にいるようで、ほっこりと居心地が良い。
「三つめ。冥界にナナカマドの花が咲いたよ」
「ほう」
お茶を一口含み、デニーさんは目を細めた。カラスは得意げに語る。
「咲かせたのは、ダナンの王女さまだとよ。ドウンはさっそく彼女をナナカマドの女王と名付けたってさ」
「あんたも耳の早いことだ」
「当然さ」
カラスは胸を反 らせた。
「あそこはアタシの一族のナワバリでもある。ドウンはいずれ、あの王女を冥界の女王に据 えるつもりじゃないかって、もっぱらの評判さ。さてさて、どうなることやら。ああ、行く末が楽しみだ」
「ふうん。あそこもずいぶん様変 わりしそうだねえ。いいことじゃないか」
「だろう? それと兄の王子の方なんだが…おっと、これは四つめだね」
と、カラスはここで木の椀にくちばしを突っ込み、「不味 い」と不平を洩 らした。
「ニムの一番下の妹に気に入られたようだ」
「おや、それはまた」
デニーさんが身を乗り出す。
「確か、フィニとかいう名だったか。おいたが過ぎたもんで、とうとうニムに魔力を取り上げられて無の世界に放り込まれた。昨晩のことさ。そこにどういうわけか、ダナンの王子さまが来合わせたんだと」
「なんとまあ」
サウィンの夜に放たれた、大きな魔力。その波動はこの世のあちこちに歪 みと綻 びをもたらした。その後、同じ場所で立て続けに使われた小さな魔法が綻びを広げた。昨夜はその後始末にずいぶん骨を折らされたものだ。
「あの王子もずいぶん風変わりな若者のようだ。奇特 なことに、フィニの気が済むまで、ずうっと愚痴 を聞いてやったらしいのさ。それで積年の恨みつらみや、わだかまりやらが晴れたらしい」
しわがれた声でカラスは歌った。
澱 んだ沼に新たな水が流れ込み、
水は澄んで泉に戻る。
「クネドが蒔 いた種を子孫が刈り取ったってわけだ。巡り合わせってやつは面白いね」
「それはそれは」
デニーさんは相槌 を打ちながら、にこにこと聞いている。
「あの王子はきっと苦労人だね。あんたが手を差し伸べていなけりゃ、今頃生きていたかどうかも定かじゃないが、これからもいろいろ背負い込みそうだ。心強い味方がついているし、あんたが見込んだほどの子だから、そう簡単にへたばりゃしないだろうけれどね」
太陽の光が、部屋の中を照らし出す。
穏やかな新年だ。
二人はしばし黙ってシラカバのお茶を啜 った。ややあって、我慢しきれなくなったカラスが渋い顔で家主に訴えた。
「やっぱりこれはアタシの口には合わないようだ。女神ダヌの名にかけて、違うのに取り替えてくれんかね」
明けの明星が東の空に輝いている。
その傍を、伸びやかな尾を引いて一筋の星が流れていった。
「もう、冬ね」
刻々と色を変えてゆく空を見上げ、ぽつんとオルフェンが呟く。息が白い。
「そうですね」
門の前にランタンを
門衛はいない。
今ごろ城の中では、働く者たちも客人たちに混じって休んでいるのだろう。広間で、長椅子で、あるいは
それが昔からの約束事だ。
「急ぎましょう」
オルフェンが駆け出す。
「やれやれ、元気な王女さまだ」
黒いマントをまとった男は苦笑して、その後を追った。
*
「もう動けませんからね。一歩も動きませんよ」
惑わしの森、隠者の庵にたどり着いたアリルは靴を履いたままベッドに飛び込んだ。
シャトンの背に乗って白い世界を抜けると、庵に続く道に出た。
太陽が顔を出す寸前のことだ。ぎりぎり間に合った。
木の間からは黄色い光。頭上の空は淡い紫とピンクが入り交じった色に染まっている。風はない。穏やかに夜が明けようとしていた。
「行儀が悪いね」
うつ伏せに倒れ込んだアリルの靴を、シャトンが咥えて引き抜いた。両方の靴を脱がせてしまうと、シャトンは出窓に飛び乗った。閉じた木の窓の隙間から差し込む日の光が、彼女のつややかな毛並に映える。
「ああ、くたびれる夜だった」
そうこぼすと、シャトンはくわあと大きなあくびをしてくるりと丸くなった。
祭りのあと。
十一月一日の夜が明ける。
妖精たちの
人ならぬものたちは異界に戻り、閉じられた扉の向こうで新しい年を祝う。
扉のこちら側で、人はそれを邪魔せぬよう静かに過ごす。
それぞれがあるべき場所で、それぞれの朝を迎える。
* * *
ケイドンの森にほど近い小さな村。
そのご婦人が自宅である一軒家に帰り着いたときには、すでに冬の太陽は北東の地平線の上にあった。
「まあ、昨夜はいろいろあったこと!」
うーんと伸びをし、薬箱をさぐって四代目隠者特製の湿布薬を取り出す。肩に、背に、腰に。一晩中歩き続けて疲れ切った全身に、くまなく貼り付けてゆく。
肉の
冷たい水で顔を洗い、清潔な衣服に着替える。
「ああ、生き返ったようだよ」
と、外からコツコツと窓を
締め切ってあった木の窓を押し開くと、一羽のワタリガラスがするりと部屋の中に
「新年おめでとう、デニーさん」
カラスは棚の上にちょこんと座ると、しおらしく頭を下げた。
「この一年がデニーさんにとってよい一年になりますように」
「おめでとう。あんたとその一族にも、たくさんの良いことがありますように」
老婦人は何でもないことのように、
「今、ひと息ついたところさ。あんたにもお茶も
「そんなことより、いっぱいいっぱい、報告することがあるんだよ」
カラスは待ちきれず、湯を沸かし始めた家主の肩ごしにまくし立てた。
「まず一つめ。百年越しの案件が片付いた。若草の乙女が魂の半分を取り戻したよ」
そう言ってから「あれ? 二百年だったか」とカラスが首をかしげる。
「そうかい」
デニーさんは嬉しそうに頷いた。
「しかし、不死の呪いが解けるまでには、まだ時間がかかりそうだ」
――いつの日か、心の底から王女さまを愛する者が現れて、
その人が呪いをその身に引き受けてくれるでしょう。
――そして、王女さまがその人を心から愛するようになれば、
二人は次の世への道を見出すことができるでしょう。
「現在名乗りを上げているのは赤の魔法使いひとりだけれど、これからどうなるかねえ。愛だの恋だのを魔法でどうこうするのは
楽しそうにカラスが話すのを聞きながら、デニーさんは棚から
「二つめ。大陸の聖女は次の世へと旅立ったよ」
若草のエレインが
「安らぎの野か、大陸の神の
「そうかい」
「それからね、それから……」
身を乗り出すカラスの前に、木の器が差し出された。ほかほかと湯気が上がっている。
「なんだい、これは」
酸っぱい匂いにカラスは顔をしかめた、ように見えた。
「シラカバの皮とチェッカーベリーのお茶。今年一年、達者で暮らせるように、ってね。あたしらもいい歳なんだからさ」
「今さらだねえ」
「はは……」
軽く笑って、デニーさんはガタンと椅子を引いた。テーブルの上にはライ麦パンとニワトコのジャム。カラスの向かいに腰を下ろし、頬杖をつく。
「さっきの続きを話しておくれ。それからどうしたって?」
カラスも自分のために用意された席に落ち着いた。柔らかな布を
「三つめ。冥界にナナカマドの花が咲いたよ」
「ほう」
お茶を一口含み、デニーさんは目を細めた。カラスは得意げに語る。
「咲かせたのは、ダナンの王女さまだとよ。ドウンはさっそく彼女をナナカマドの女王と名付けたってさ」
「あんたも耳の早いことだ」
「当然さ」
カラスは胸を
「あそこはアタシの一族のナワバリでもある。ドウンはいずれ、あの王女を冥界の女王に
「ふうん。あそこもずいぶん
「だろう? それと兄の王子の方なんだが…おっと、これは四つめだね」
と、カラスはここで木の椀にくちばしを突っ込み、「
「ニムの一番下の妹に気に入られたようだ」
「おや、それはまた」
デニーさんが身を乗り出す。
「確か、フィニとかいう名だったか。おいたが過ぎたもんで、とうとうニムに魔力を取り上げられて無の世界に放り込まれた。昨晩のことさ。そこにどういうわけか、ダナンの王子さまが来合わせたんだと」
「なんとまあ」
サウィンの夜に放たれた、大きな魔力。その波動はこの世のあちこちに
「あの王子もずいぶん風変わりな若者のようだ。
しわがれた声でカラスは歌った。
水は澄んで泉に戻る。
「クネドが
「それはそれは」
デニーさんは
「あの王子はきっと苦労人だね。あんたが手を差し伸べていなけりゃ、今頃生きていたかどうかも定かじゃないが、これからもいろいろ背負い込みそうだ。心強い味方がついているし、あんたが見込んだほどの子だから、そう簡単にへたばりゃしないだろうけれどね」
太陽の光が、部屋の中を照らし出す。
穏やかな新年だ。
二人はしばし黙ってシラカバのお茶を
「やっぱりこれはアタシの口には合わないようだ。女神ダヌの名にかけて、違うのに取り替えてくれんかね」