2.林檎のパイで占いを
文字数 7,231文字
来客の多いシーズンには三十名ほどの料理人がここに
ダナンの王子を城主に迎えてからこっち、この
調理や仕込みの邪魔にならぬ時間を選び、長くは
猫を連れ込むのを見て、
料理人たちは気を引き
昼の
王子さまが焼き菓子を作っている。本日のお菓子は、焼き
調理台の上でパイ
(体が軽い)
気のせいではない。ぎしぎしと悲鳴を上げていた骨や筋肉、
情けない話だが、以前パンを作ろうとして
それが、さんざんダンスに付き合わされた
「
ふと口からこぼれ落ちた言葉に、木の
つないだ手を通してエネルギーをもらったのか。
これがエレインの力なら、誰もが彼女を欲しがるだろう。この力は目に見える傷だけでなく、体の内部にまで
もし、心の傷まで癒すことができるとしたら。
(あの子を
歴史書にはそのような事実は
――彼女を心から愛する者が、不死の呪いをその身に引き受けてくれるだろう。
頭に
丸く伸ばしたパイ生地が二枚。片方を丸い皿に
中に閉じ込められた赤い林檎たちがしわしわの
「もういいかな」
取り出して、ごろごろと調理台の上に転がす。これは冷めてからざく切りにしよう。
フィリング用のクリームを作る。メインは林檎だから、少なめでいい。
木のボウルに柔らかなバターを入れ、
これをパイ皿に入れて、表面を
それから――。
「シャトン。少しの間、これを見ていてくれませんか」
「見ていればいいのかい?」
「小虫などが中に入らないように、追い払ってくれるとありがたいです」
「はいはい」
椅子ごとシャトンを調理台のすぐ前まで運ぶと、アリルは身につけていたエプロンをきちんと
「すぐに戻りますから」
そう言い置いてそそくさと出てゆく。ぱたん、と扉が閉まる。
厨房にはひとり、猫だけが残された。
シャトンは調理台の方を向いてきちんと座った。目の前に作りかけのパイがある。
(これはアタシにも食べられる菓子かねえ)
前足を調理台にかけ、そうっと
「……シャトン」
声をかけられた。びくっと足をひっこめる。
声がした方に小さな頭を
「今、兄さまはいらっしゃらないわよね」
オルフェンだった。
きょろきょろと厨房内を
(この娘は虫じゃないから、近づけてもいい)
そう判断したシャトンは「にゃあ」と
「いい
オルフェンは鼻をひくひくさせた。いい匂いの正体はすぐに分かった。パイ皿に入りきらなかった焼き林檎が一つ、調理台の上に取り残されている。
「今日のお菓子は林檎のパイね」
「あのね、いいことを思いついたの」
ハンカチを調理台の上に広げる。
しゃりん、と金属の
ぐい、とシャトンが本能的に身を乗り出す。前足が出る前に、オルフェンが止めた。
「ああ、触らないでね。あなたの遊び道具じゃないのよ」
大事そうにつまみ上げて、ハンカチの上に戻す。
(お金のようだね)
「これはね、
首をかしげるシャトンを見て、オルフェンが
サウィンの日には特別なパンを焼く。フルーツをたっぷり入れ、スパイスを
パンの中にはさまざまなものを隠しておき、何人かで切り分ける。それぞれの取り分から出てきたものによって、今後の
「ずっと昔からある伝統よ」
(今日はまだサウィンじゃないはずだけど)
ふんふんと
「一足早くお祭り気分が味わおうかな、と思って」
指先でコインを示す。
「このコインが出てきたら、お金持ちになれる。収入が増えますよ、という知らせ」
占いというのは、猫にはあまり関係がなさそうだ。
「それでね、こっちはお守りのメダル」
シャトンにはコインとの違いがよく分からない。きょとんとオルフェンを見上げた。その
「ほら、表面に
(ふうん)
これは当たらない方がいいのだろうか。
それとも大変なことが起こるのはもう決まっていて、このメダルが守ってくれるというのだろうか。
お金が当たった人間は喜ぶだろう。しかし、このメダルが当たるのは人間にとって嬉しいことなのだろうか。
(よく分からないねえ)
次にオルフェンが指し示したものは、
「王冠。これ、兄さまに当たらないかしら」
(きっと、嬉しいとは思わないだろうよ)
シャトンは心の中で
一見すると
「近いうちに出世しますよ、っていうメッセージがあるの」
(なるほど)
それなら、
最後にオルフェンが指し示したのは、
「女の子にとって一番重要なもの」
オルフェンの小指の先しか入らないほど小さな、銀色のリングだった。
「大切な人に巡り合えますよ、っていう意味。つまり、もうすぐ恋人ができますよってこと」
(ほう、それは確かに年頃の女の子が好きそうだ)
自分のことは
菓子にこんな楽しみ方があったとは。アリルは森の
コイン、メダル、王冠、指輪。
「他にも布の切れ端とかボタンとか、いろいろあるのだけれど。あまり良い意味がないものは入れないでおくわね」
(て、ことは。メダルは良いものなのかね)
シャトンが考え込んでいるうちに、オルフェンはいそいそとパイを
「これが上にかぶせる皮ね。
丸く伸ばした白い生地の中央に、小さな切り込み。そこから
「兄さまってば、本当に
ほうっと息を
形が
「コインがここ、メダル、指輪……」
その
(これは虫じゃないけれど、どうなんだろうか)
「清潔にしてあるから大丈夫よ」
猫の心配そうな
(なら、いいか)
「王冠を入れて、これでおしまい」
シャトンに見守られながら占い小物を隠し終えると、オルフェンはしっかりと
「あとは焼くだけね」
二人して仕上がりを
「兄さまはまだかしら」
扉の方をちらっと見やる。つられてシャトンも同じ方を向いた。
人の気配はない。
オルフェンは調理台の隅に置いてあった余りの生地に手を伸ばした。
少しちぎって薄く細く伸ばし、くるっと丸め、指でひっぱって形を整える。
「お花のできあがり!」
小さな花飾りを得意げにシャトンに見せ、満足そうに笑うとパイの端にちょこんとのせた。
「指輪が確実にエレインに当たるように。これが目印よ」
お茶の時間が楽しみだ。
「あの
「僕を、どうするって?」
背後から当の本人の声がした。
オルフェンは一瞬びくっとしたが、すぐに笑顔を作って振り返った。
「あら、兄さま」
「オルフェン、ここで何をしているの?」
「お手伝いをしたくて」
ものは言いよう。
「もうできることはなさそうでしたので、少し飾りをつけさせていただきました」
「ふうん」
アリルはしとやかに頭を下げる妹を
「にゃあ」
シャトンは何食わぬ顔で箱座りをしている。
「あとは僕がやる。数少ない趣味なんだから、楽しみを
「はい。では失礼いたします」
ドレスをつまんで一礼すると、オルフェンは軽やかな足取りで厨房から出ていった。
アリルは妹を見送って戸口まで戻り、きょろきょろと厨房の外を見渡した。その仕草は、つい先ほどオルフェンが厨房内に入ってきたときとよく似ていた。
誰もいないことを確かめると、アリルは静かに扉を閉め、ポケットから小さな箱を取り出した。
「何だい、そりゃ」
人さし指を唇に当てて、シャトンの目の前で茶色いビロードの小箱を開く。
金の指輪だった。窓から差し込む光を映して、キラキラと輝いている。
オルフェンが持ってきたようなおもちゃではない。本物の指輪だ。男の指にはめるには少々小さいようだが。
「あんた、そんなもの持っていたのかい」
「まあ、いざというときのために。
「いざというとき?」
その問いに、返事はなかった。
指輪を水で洗い、乾いた布で
「ここにしましょうか」
皮の端をめくると、オルフェンが指輪を入れた、ちょうどその向かい側に埋め込んだ。
「で、目印に飾りをつけて、と」
「サウィンの日には、いろいろな種類の小物をケーキの中に隠して、占いをするんですよ」
小鳥、三日月……。
リボンと花が
「この指輪を、エレインに当たるようにしてあげたいんです。あなたを愛してくれる人はきっと現れますよ、と」
(兄妹だねえ)
妙なところでシャトンは感心した。
ともあれ、王子さまのパイは無事に焼き上がり、お茶の時間に
珍しくオルフェンがいそいそと席を立った。
「わたしもお給仕をするわ」
先を越されたアリルは、こちらも珍しく自己主張をした。
「僕が切り分ける。形がいびつになったら困るからね」
オルフェンを制して自分がナイフを手に取り、さくさくと切り分けてゆく。パイはあっという間にきれいに六等分された。
「では、これを客人に」
アリルがリボン飾りのついたパイを皿にのせて、オルフェンに手渡す。
皿を受け取ったオルフェンは、少し考えた。
給仕をする場合、最も身分の高い者からというのが王宮でのマナーだ。が、この場合は誰に当たるのだろう。
身分だけなら、ダナンの王子である兄。しかし、主人である兄は「客人に」と言った。そうでなくとも給仕役に回っている。空席に置くわけにはいかない。
キアランも
あとは兄の
パイを取り分けている兄の横顔を、ちらっと
彼の性格なら「女性からに決まっている」と言うだろう。
ならば――。
「そうね、これはあなたに」
ことん、とシャトンの前に皿が置かれた。
「あっ」
それを見たアリルが思わず声を上げ、シャトンは
「あら、あたしにくれるの?」
おっとりとエレインが首をかしげるその
「おい、お前ら」
三者三様。
不自然な行動と反応にフランの声が
「何を
アリル、オルフェン、シャトン。
ゆっくりと、順々に視線を移してゆく。
アリルはうつむき、オルフェンはつんと横を向いた。
「占いをするんだってさ」
右前足でくるんと顏をひと
「占い、ですか」
カップにお茶を注ぎながら、くすくすとキアランが笑う。
「怖いですね。一体何が入っているのでしょう」
それをじろりとひと
「だったら、
この兄妹はそろってポーカーフェイスが苦手だ。
何も言わなくても、「その通りです」と顔が語っていた。
「あなただって、
キアランが口を
「お前もな」
フランが返す。
「と、いう訳で、エレイン。お前さんが分けてくれ」
「あ、はい……」
まだ事情が飲み込めないままのエレインが席を立ち、皿を配り始めた。
「じゃあ、シャトンにはこれを」
エレインがシャトンのために選んだのは、花飾りのついたパイだった。
オルフェンの視線が痛いが、エレインの前には
(これは、どうしたものだろうね)
悩んでいる間にも着々と皿は配られ、キアランがカップを置いてゆく。
熱いお茶と、シャトンには
アリルはお茶と菓子が全員に行き渡ったのを確認して、キアランにも席に着くよう
ようやくお茶の時間だ。
客をもてなす
皆が目と口を閉じ、軽く手を合わせた。
天の恵み 大地の恵み
命の
我らが心よりの
「では、このひとときをお楽しみください。みなさんに幸運が訪れますように」
さく、さく。パイにナイフを入れる音が聞こえる。
「王冠ですって?」
真っ先に声を上げたのはオルフェンだった。きっ、とオルフェンがアリルを睨む。
「知らないよ。それは、僕のせいじゃない」
アリルはシャトンのパイを切り分けるのに
「おやおや、硬貨ですか。特に経済的に不自由はしていないのですが」
キアランがコインを
「
フランが差し出したのはメダルだった。
「それは結構。苦労はあなたがしてください。神々のご加護がありますように」
自分のパイの中に金の指輪を見つけたエレインは、隣の席を振り返った。シャトンはパイもミルクもそっちのけで、銀の指輪を転がすのに夢中になっていた。
「おそろいね」
「まあね」
お行儀はよろしくない。しかし怒れない。
エレインは微笑んで、そっとその背を撫でた。
「で、お前さんのには何が入っていたんだ?」
フランがアリルに
「何も」
アリルが軽く肩をすくめる。
「何も入っていませんでした」
ハズレ。
あまりにもこの王子らしい結末に、誰も二の句が
明るい西日の
カポポック、カポポック、ココウ――…
窓の外をワタリガラスの声が通り過ぎていった。