2.あるべきところへ
文字数 7,519文字
何もない白い世界で、アリルは膝をかかえて座っていた。
傍らには同じ姿勢で座り込む妖精が一人。頬の涙はもうすっかり乾いている。
「あたしは、余計な手出しをしすぎたのかしら。あの人を、あの人の人生をダメにしてしまったの?」
ぼんやりと、気の抜けた顔でそう呟く。
「ダメにした、とは思いませんが」
彼女の恋人がどんなに凡庸 な人間であったとしても、〈クネド〉という王の名の下に、争いの絶えなかったイニス・ダナエがひとつの国としてまとめ上げられたという歴史は変わらない。
もし、彼がもっと野心的な男であったなら。
あるいは利己的な男であったなら。
(妖精の力を、もっと積極的に利用しようとしただろう)
小さな島を手中に収めるだけでは飽き足らず、大陸の方にまで手を伸ばしていたかも知れない。
逆に人ならぬものの助力を恥と感じるような、高潔 な騎士であったなら。
(クネドという王は存在しなかった可能性も―――)
少なくとも、ミースを中心とする『ダナン』という国が歴史に登場することはなかっただろう。今もまだあちこちで戦乱が続いていたかもしれない。ちっぽけな島の中で争っているうちに、大国に吸収され、属州となる道もあり得たのだ。
豊かな実りを奪われ、心を踏みにじられて誇りを失ったダナンの姿を想像し、アリルはぶるっと身を震わせた。
起こらなかったことを仮定しても無意味だ。頭に浮かんだ嫌な光景を振り払い、目の前の乙女に向き合う。
「クネド王の魂が転生してくるのを、待とうとは思わなかったのですか」
彼の娘、『不死の乙女』を憎み続けるのにも、大変なエネルギーが必要だろうに。過去に囚 われ、嫌な気持ちを抱えているより、未来にある楽しみを見つめる方が心の負担も軽いはずだ。
「待っていたわ」
小さな声で、妖精が答える。
「でも、どれだけ待っても、あたしには彼の気配が感じ取れなかったの。できることなら、許されるなら、探しに行きたかった」
人の世に干渉しすぎた咎 により、泉の乙女は自らの住処 を離れることを禁じられた。ひとつ処 に滞 った水は、澱 んで濁り、沼となる。訪れるものもなく、残されたものは過去と己の想いのみ。恋人の魂を待つ間に彼女は『沼の魔女』と呼ばれる存在に変容した。
とろとろとした微睡 みの中にあった彼女の耳に、カラスの声が届いた。死者の国とこちらの世を行き来するワタリガラスが、訳知り顔で聞こえよがしに語り合っている。
―――いくら待っても無駄だというに。
―――知らぬというのは、哀れなことよ。
「あの人の魂は『死者の国』で迷っていたのよ。またあの娘のせい!」
思い返してまた感情が高ぶったのか。語気の激しさにアリルはびくっと身を引いた。
「カラスにまでバカにされて。煮えたぎる大釜の中に突き落とされたような気がしたわ」
エレインは妖精女王エリウの保護下にあった。格が違う。ちっぽけな妖精が敵う相手ではなかった。しかも沼に縛り付けられ身動きもままならないとあっては、どうすることもできない。
恋人の消息を耳にしてからほどなく。冥界の王が現れた。
―――あの男の魂を救ってやりたいか?
「二人を会わせてやればいい、って。迷いの種が消えれば次の世への道が開ける。転生が叶う。考えるまでもなかった。一刻も早く、あの人に生まれ変わってほしかった。あの人に会いたかったの」
(そういう経緯だったのか……)
エレインを『死者の国』へ。
愛娘との対面が叶い、心残りから解放されればクネドは『安らぎの野』へと旅立つことができる。そしてドウンは、まんまと若草の乙女を手に入れるという寸法だ。
「なるほどね」
サウィンの夜は絶好のチャンスだ。人間の一人や二人、消息が分からなくなってもそう不思議なことではない。
オルフェンが初対面のキアランを警戒していたことを、アリルは思い出した。彼女の勘は正しかったわけだ。シャトンも、自分の言葉を解してくれる希有 な人間に対してよそよそしかった。
それもこれも、今思えば、だ。アリルは自分の鈍 さを呪った。
「ねえ……」
白い妖精がアリルを覗き込んだ。一時の激しさは消え、すがるような眼差しをアリルに向けてくる。
「マクドゥーンは怒っているかしら。あの魔法使いは怖いのよ。あたしを消すくらい、苦も無くやってのけるわ。魂を持っているあなたたちと違って、あたしたちは消えたらそれでおしまいなのよ」
アリルの知らない、大魔法使いとしての師匠の顏だ。
(あの面倒くさがりの見本のような人が、ね)
確かに、事エレインに関しては別人のような面を見せる。ここ何日かの間、その姿を目の当たりにしてきた。
(どうだろう)
アリルはしばし考え込んだ。
もはや彼は古 の大魔法使いではない。
(赤子からやり直したって、言ってたし)
『死』という過程を経てはいないものの、聖樹の賢者と賢女 の家系に育った魔法使いではなく、墓盗人を育ての親に持つフランとして二度目の人生の途中にある。
アリルのよく知るあの人物なら、どのように考え、どのように行動するだろう。
出会ってからこれまでの記憶を探る。
さまざまなパターンを胸の内に思い描き、ひとつの結論にたどり着いた。
「きっと、大丈夫ですよ」
「本当に?」
妖精の大きな瞳に光が射す。
「ええ」
たぶん、師匠ならこう考える。
「エレインの魂の半分は冥界にある。生者である師匠…マクドゥーンには手出しのできない領域です。けれど、あなたが介入してくれたおかげで、冥界に乗り込む口実ができました。しめた、と思ったんじゃないですかね」
首尾良くエレインの魂を取り返すことができれば、それでよし。もし失敗したとしても、わざわざ手間をかけてまで恋に目の眩 んだ妖精の娘を害しようとは思うまい。
話を聞く限りでは、今回の事件の主導者は冥界の王。この妖精は利用されただけで、本筋から外れたところにいる感がある。怒りの矛先 が向けられることはないはずだ。
―――はあ? 報復ってか。益体 もない。
―――そんな面倒なこと、俺がするはずないだろう。
テーブルの上に足を放り投げて、耳をほじる師匠の姿がありありと目に浮かぶ。
アリルは言葉を取り繕 いつつ説明し、こう締めくくった。
「あの人は、そんな狭量 な人間じゃありません。だから、安心してください」
「本当に?」
「いざとなったら、僕からも取りなしてあげますよ」
と、これは人間特有の社交辞令だったが、妖精はにっこりと笑った。
「あなたはいい人ね」
「いえ、それほどでも」
ふうっ、と大きく息を吐いて、小さな娘は遠い目をした。
「あーあ。あたしってば、なんて愚かだったのかしら。無駄なことばかり」
「どうしてですか? 確かに、お二人の思いはすれ違ったままでしたけれど、失敗だって無駄にはなりませんよ」
「どういうこと?」
「次に誰かに恋をしたときは、もっと上手くいきますよ。経験ってそういうものですから」
そう言うアリルには恋愛経験がまるで無い。我ながら説得力が無い、と内心肩を落とす。しかし、妖精の娘は心を動かされたようだった。
「そういうものなの?」
再び身を乗り出して、アリルの顔を覗きこんでくる。白い顔がさらに近づく。
「え、ええっと、多分……」
曖昧 な返事をして、アリルはそっと視線を逸 らした。
「ありがとう」
チリン―――…。
晴れやかな妖精の声に、ガラスのベルに似た音が重なった。
娘の背後で、靄が晴れてゆく。
靄の向こうに見えてきたのは、星明かりの夜に黒々と聳 える山の稜線 。
そして、一面に群れ咲く風鈴草の花だった。
清 かな水音が聞こえる。スズランに似た形の花たちは、星の露を宿してうつむいている。
白い娘は跳ねるように立ち上がり、夜空に向かって両手を広げ
「ああ、やっと帰れる……」
溜め息と共に万感の思いを吐き出した。
「懐かしい、あたしの谷」
美しい風景だった。しかし、アリルは底知れぬ恐怖を感じていた。目の前で、靄はどんどん薄れてゆく。自分の背後はどうなっているのだろう。振り返る勇気は無い。
「あなたも、いっしょに来る?」
人ならぬものが、アリルに向けて問いかける。
ここで頷けば、おそらく元いたところには戻れない。
断ることはできるのか。断ったとして、元の世界に戻ることはできるのだろうか。再び白い靄の中に閉じ込められてしまうのだろうか。それとも―――。
(誰か助けて!)
アリルは心の中で念じた。
祈りはすぐに通じた。
しっとりと柔らかなものが、トトン、とアリルの頭を踏んで通り過ぎた。アリルの首がぐきっと音を立てる。
「痛っ」
衝撃で横倒しになったアリルの前に、大きな獣の背があった。
雪豹 を思わせるしなやかな体躯 。ふかふかの毛皮に、淡いグレイの縞模様。
「そこのオバケ、アタシの相棒に悪さしたら承知しないよ!」
噛みつくように言い放つシャトンの姿は、いつもよりもずっと頼もしかった。
面と向かってオバケ呼ばわりをされた妖精は反撃に転じた。
「化け猫のくせに失礼よ。あなたこそ何しに来たの。邪魔だからさっさと帰ってよ」
「この臭いには覚えがある。お前、沼の魔女だろう。そんな性悪女 につきあうほど、こいつは趣味が悪くないんだよ」
ぐっと頭を下げて、シャトンが臨戦態勢に入る。
「本当に失礼な猫だこと。あたしは沼の魔女なんかじゃない。清らかな泉の乙女なのよ。それに、おバカな猫と遊んでいるより、あたしとお話する方がずっと有意義に決まっているわ」
泉の乙女も応戦の構えだ。
「あの、お二人とも…」
おずおずと、アリルが割って入ろうとしたが、
「あんたは黙ってな!」
「ちょっと静かにしてて!」
双方からやり込められてしまった。
「はい…」
どうしてだろう。アリルをめぐって喧嘩をしているはずなのに、アリル自身は置いてけぼりである。どころか、邪魔者扱いだ。
猫と妖精。
ふたりの乙女の睨み合いはしばらく続いた。その間にも靄は薄れてゆく。夜の谷の風景が濃くなってゆく。
シャトンが興味を失ったように、ぷいと泉の乙女から顔を背けた。
「こんなのを相手にしていても、埒が開かない。帰るよ」
ぐいっとアリルの襟首を咥え、自分の背に放り上げる。
「帰るって、どっちの方へ行けばいいんですか?」
「決まってる。コイツがいない方向だよ」
ふんっ、とシャトンは盛大に鼻を鳴らした。悠然と泉の乙女に背を向ける。
「落っこちないよう、しっかり捕まってるんだよ」
「あ、はい」
アリルはシャトンの首に手を回し、ぎゅうっとしがみついた。その感触を確かめて、シャトンはゆっくりと歩き出した。
「ちょっと、このまま逃げる気?」
何を言われても、もう振り返らない。徐々に速度を上げてゆく。まるで空を駆けるように滑 らかに。耳元で風が鳴る。アリルはその毛皮に顔を埋 めた。
「覚えてらっしゃい!」
遠くから、かすかに、泉の乙女の元気な捨て台詞が追いかけてきた。
*
冥界の泉を抜けると、そこは聖エレイン大聖堂の最奥部。聖所の中だった。
「無事戻ったか」
ひょっこりと青銅の水盤から顔を出したフランとエレインを、妖精女王のエリウが見下ろしている。お側去らずのイレーネの代わりに、彼女の肩にはワタリガラスが止まっていた。
「お帰り、可愛い子」
ぐっしょりと水に浸かったエレインをエリウが水盤から抱き上げる。たっぷり水を含んだ髪と服がさあっと乾いてゆく。細く力強い腕に抱きしめられ、エレインはほうっと息を吐いた。
(帰ってきたんだ、ここに)
柔らかな胸。懐かしい薔薇の香り。たった一晩しかいられなかった場所。
ここから全てが始まったのだ。
「おー、えらい目に遭った」
自力で水盤から這い出したフランがぽたぽたと床に滴を垂らす。それを見てエリウが眉をひそめた。
「鬱陶 しい」
虫を払うように軽く手を一振りする。あっという間にフランの衣服と床が乾いた。
エリウの肩に止まっていたカラスが、ひょいとフランの頭に飛び移った。
「うまくいったようじゃないか」
「さあ、それはどうだか」
フランがうるさそうに頭を振った。カラスはばさっと翼を広げ、右肩に座り直した。
「あの娘の額を見れば分かるよ。取り戻したんだろう。例の『魂の半分』ってやつをさ」
カラスの言葉に、エリウが無言で頷く。
「なんだと?」
フランは目を細め、エレインの額をじっと見つめた。
皆の視線がエレインに向けられる。エレインははうろたえた。
「姫さん。白い薔薇、って聞いて思い当たるふしはあるか」
フランが問う。
「ドウンのところの、泉の傍に咲いていたやつだ」
「白い、薔薇……?」
エレインは、自分が見た冥界の風景を思い起こそうとした。
荒れ野の木の下で、オルフェンとドウンに会った。その後、土埃の上がる地面を踏んで王の城館へ。中に入ってからは夢中で魔法使いを探した。景色など見ている余裕はなかった。
泉の傍に魔法使いの姿を見つけて、駆け寄った。覚えているのは足下の柔らかな緑。
走って、つまずいて、バランスを崩して。魔法使いを巻き添えにして泉に落ちた。
あのとき、何が見えたのだったか。
「そういえば、声が―――」
はっと思い当たって、顔を上げる。
―――わたしは、ここ。
水に沈む前に、声が聞こえた。
岸辺から白い腕が差し伸べられ、夢中でそれにしがみついた。
「それだな」
「それだね」
フランとカラスが同時に頷いた。
「でも、あれは、無くなってしまいました」
しっかりと握ったはずなのに、溶けるように消えてしまった。
「そなたの中に還ったのだよ」
エリウは両腕に包んだ娘の亜麻色の頭を、愛おしそうに撫でた。
「わたしの、中に?」
「そう」
魂の半分と、過去の記憶。かつてエレインが失ったもの。
幼子 に言い聞かせるように、エリウは優しく語る。
「そなたは、我らの仲間に、人ならぬものになることもできた」
チャンスは二度あった。不死の身となったとき。魂の半分を失うことになったとき。
「我が身の運命を呪い、人の世に見切りをつけ、こちらに来ることもできたのだ」
癒しの手を持つ乙女よ、ともてはやしながら、一方で呪われた娘、と距離を置く。彼女には何の責任もないのに。癒しが必要なときには自分から近寄ってくるくせに、求めるものが得られれば呪いを恐れてそそくさと逃げるように遠ざかる。
「それでもそなたは、自分の属する種族を見捨てなかった。分かり合える者のいない孤独の中で、耐えることを選んだ。救った人々の笑顔を糧 に、懸命に生きた」
そうして限界に達したとき、憎しみを外に向けるのではなく、自分が壊れる方を選んだ。
「取り戻した過去は、決してそなたに安らぎをもらたすものばかりではない。忘れたままの方が幸せな記憶もある。だから私は、今、そなたに祝福を与えよう」
エリウはそっとエレインの額に口づけた。
「そなたが苦しい思いをするときには、常に支える者がそばにあるように」
「うっ…く―――」
胸の奥から大きな塊がこみ上げてくる。エレインはそれを堪 えようとした。
「もうひとりで耐えようとしなくてもいい。妖精女王エリウの名にかけて、若草の乙女に幸いを約束しよう」
「う、うわああーーーー…」
エレインは泣いた。
ひどい言葉を浴びせられたときにもずっと泣かないでいたのに。我慢することにはすっかり慣れたはずなのに。どうして優しい言葉に涙があふれるのだろう。こんなに泣ける自分が不思議だった。
エリウの手が背中を撫でる。エレインは声を放って泣き続けた。
「よかったじゃないか」
ひそひそとワタリガラスがフランの耳に囁 く。
「エリウのお墨付 きをいただいたのと同じだ。これからは大手を振って、あの娘のそばにいてやれる。そうなりゃいずれは―――」
からかうような口調に、フランはその両足をがしっと掴んだ。
「余計なことは言わなくていい」
エリウとエレインに聞こえないよう低い声で、カラス相手に凄 む。
「いいか。俺があいつに思いを寄せれば誓約 に背くことになる。だから俺は、これまでずっと、あいつへの思いが深くなり過ぎないように気をつけてきた。誓約を破った代償があいつに及ぶことだけは避けねばならん。時間がかかるのは承知の上だ。だから口出しは無用だ。何も言うな。何もするなよ」
カラスはぱっくりと口を開けて、首をかしげた。
(誓約の代償?)
はるか昔。ウィングロットの片田舎から修行のために湖の島へと赴 いた少年が、巫女から託宣 を受けたことは知っている。
―――この者は愛する女を死に至らしめる。
マクドゥーン。死者の王ドウンの息子という名の由来である。
その預言を聞いた赤い髪の少年は、その場で即座に誓いを立てた。
―――ならいい。俺は一生どんな女も愛さない!
有名な話だ。
(誓約ってのは、アレのことだろうね)
愛する女を死に至らしめる、という禁呪 は生まれ持った宿命である。日没の向こうの国、『安らぎの野』へと赴き、別の人間として生まれ変わらない限り逃れようがない。
しかし、どんな女も愛さない、という誓約の方は。
(あれはもう、無効になっているんじゃなかったか)
ワタリガラスは小さな頭の中で、誓約について自分の知るところを思い返した。
フランは一度赤子に戻っている。
大魔法使いマクドゥーンとして生き、年老いて、枯れ木のようになって行き倒れた。本来ならそこで肉の器を失うはずだった。それが、生命の水を守る妖精に発見され、大量の変若水 を注がれて器は赤子に戻り、生まれ変わりを経ずに二度目の人生を過ごすことになった。
(あそこで、大魔法使いとしての生は一旦終わったはずなんだ)
盗掘人の夫婦に拾われて、墓荒らしを生業 として育ち、聖女の墓所に忍び込んだところを捕まった。マクドゥーンの魂を持った少年は、湖の貴婦人に身柄を預けられ、マクドゥーンとしての魔力を持たないまっさらな状態で緑玉 の島で一から修行をし直している。その修業時代を経ることによって、過去の誓約は白紙に戻っているはずだ。
(全く気づいていないってのか)
不死の呪いを解くには、却 って都合の良い状態になっているというのに。
(自分のことってのは、意外に見えないもんだ)
わざわざ教えてやるつもりなどさらさらない。
(これは面白い。賭けのネタにでもしてやろうか)
長い時を過ごすものたちは、いつだって退屈しているのだ。
「分かったよ」
沈黙の後、カラスは殊勝 な面持 ちでこう言った。
「けれど、これだけは覚えておいておくれ。あたしはいつだってお前の味方だ。ずっと見守っているよ」
本音を隠して、いかにも思いやり深く。すると、
「いらん」
赤毛の魔法使いからは素っ気ない返事が返ってきた。
傍らには同じ姿勢で座り込む妖精が一人。頬の涙はもうすっかり乾いている。
「あたしは、余計な手出しをしすぎたのかしら。あの人を、あの人の人生をダメにしてしまったの?」
ぼんやりと、気の抜けた顔でそう呟く。
「ダメにした、とは思いませんが」
彼女の恋人がどんなに
もし、彼がもっと野心的な男であったなら。
あるいは利己的な男であったなら。
(妖精の力を、もっと積極的に利用しようとしただろう)
小さな島を手中に収めるだけでは飽き足らず、大陸の方にまで手を伸ばしていたかも知れない。
逆に人ならぬものの助力を恥と感じるような、
(クネドという王は存在しなかった可能性も―――)
少なくとも、ミースを中心とする『ダナン』という国が歴史に登場することはなかっただろう。今もまだあちこちで戦乱が続いていたかもしれない。ちっぽけな島の中で争っているうちに、大国に吸収され、属州となる道もあり得たのだ。
豊かな実りを奪われ、心を踏みにじられて誇りを失ったダナンの姿を想像し、アリルはぶるっと身を震わせた。
起こらなかったことを仮定しても無意味だ。頭に浮かんだ嫌な光景を振り払い、目の前の乙女に向き合う。
「クネド王の魂が転生してくるのを、待とうとは思わなかったのですか」
彼の娘、『不死の乙女』を憎み続けるのにも、大変なエネルギーが必要だろうに。過去に
「待っていたわ」
小さな声で、妖精が答える。
「でも、どれだけ待っても、あたしには彼の気配が感じ取れなかったの。できることなら、許されるなら、探しに行きたかった」
人の世に干渉しすぎた
とろとろとした
―――いくら待っても無駄だというに。
―――知らぬというのは、哀れなことよ。
「あの人の魂は『死者の国』で迷っていたのよ。またあの娘のせい!」
思い返してまた感情が高ぶったのか。語気の激しさにアリルはびくっと身を引いた。
「カラスにまでバカにされて。煮えたぎる大釜の中に突き落とされたような気がしたわ」
エレインは妖精女王エリウの保護下にあった。格が違う。ちっぽけな妖精が敵う相手ではなかった。しかも沼に縛り付けられ身動きもままならないとあっては、どうすることもできない。
恋人の消息を耳にしてからほどなく。冥界の王が現れた。
―――あの男の魂を救ってやりたいか?
「二人を会わせてやればいい、って。迷いの種が消えれば次の世への道が開ける。転生が叶う。考えるまでもなかった。一刻も早く、あの人に生まれ変わってほしかった。あの人に会いたかったの」
(そういう経緯だったのか……)
エレインを『死者の国』へ。
愛娘との対面が叶い、心残りから解放されればクネドは『安らぎの野』へと旅立つことができる。そしてドウンは、まんまと若草の乙女を手に入れるという寸法だ。
「なるほどね」
サウィンの夜は絶好のチャンスだ。人間の一人や二人、消息が分からなくなってもそう不思議なことではない。
オルフェンが初対面のキアランを警戒していたことを、アリルは思い出した。彼女の勘は正しかったわけだ。シャトンも、自分の言葉を解してくれる
それもこれも、今思えば、だ。アリルは自分の
「ねえ……」
白い妖精がアリルを覗き込んだ。一時の激しさは消え、すがるような眼差しをアリルに向けてくる。
「マクドゥーンは怒っているかしら。あの魔法使いは怖いのよ。あたしを消すくらい、苦も無くやってのけるわ。魂を持っているあなたたちと違って、あたしたちは消えたらそれでおしまいなのよ」
アリルの知らない、大魔法使いとしての師匠の顏だ。
(あの面倒くさがりの見本のような人が、ね)
確かに、事エレインに関しては別人のような面を見せる。ここ何日かの間、その姿を目の当たりにしてきた。
(どうだろう)
アリルはしばし考え込んだ。
もはや彼は
(赤子からやり直したって、言ってたし)
『死』という過程を経てはいないものの、聖樹の賢者と
アリルのよく知るあの人物なら、どのように考え、どのように行動するだろう。
出会ってからこれまでの記憶を探る。
さまざまなパターンを胸の内に思い描き、ひとつの結論にたどり着いた。
「きっと、大丈夫ですよ」
「本当に?」
妖精の大きな瞳に光が射す。
「ええ」
たぶん、師匠ならこう考える。
「エレインの魂の半分は冥界にある。生者である師匠…マクドゥーンには手出しのできない領域です。けれど、あなたが介入してくれたおかげで、冥界に乗り込む口実ができました。しめた、と思ったんじゃないですかね」
首尾良くエレインの魂を取り返すことができれば、それでよし。もし失敗したとしても、わざわざ手間をかけてまで恋に目の
話を聞く限りでは、今回の事件の主導者は冥界の王。この妖精は利用されただけで、本筋から外れたところにいる感がある。怒りの
―――はあ? 報復ってか。
―――そんな面倒なこと、俺がするはずないだろう。
テーブルの上に足を放り投げて、耳をほじる師匠の姿がありありと目に浮かぶ。
アリルは言葉を取り
「あの人は、そんな
「本当に?」
「いざとなったら、僕からも取りなしてあげますよ」
と、これは人間特有の社交辞令だったが、妖精はにっこりと笑った。
「あなたはいい人ね」
「いえ、それほどでも」
ふうっ、と大きく息を吐いて、小さな娘は遠い目をした。
「あーあ。あたしってば、なんて愚かだったのかしら。無駄なことばかり」
「どうしてですか? 確かに、お二人の思いはすれ違ったままでしたけれど、失敗だって無駄にはなりませんよ」
「どういうこと?」
「次に誰かに恋をしたときは、もっと上手くいきますよ。経験ってそういうものですから」
そう言うアリルには恋愛経験がまるで無い。我ながら説得力が無い、と内心肩を落とす。しかし、妖精の娘は心を動かされたようだった。
「そういうものなの?」
再び身を乗り出して、アリルの顔を覗きこんでくる。白い顔がさらに近づく。
「え、ええっと、多分……」
「ありがとう」
チリン―――…。
晴れやかな妖精の声に、ガラスのベルに似た音が重なった。
娘の背後で、靄が晴れてゆく。
靄の向こうに見えてきたのは、星明かりの夜に黒々と
そして、一面に群れ咲く風鈴草の花だった。
白い娘は跳ねるように立ち上がり、夜空に向かって両手を広げ
「ああ、やっと帰れる……」
溜め息と共に万感の思いを吐き出した。
「懐かしい、あたしの谷」
美しい風景だった。しかし、アリルは底知れぬ恐怖を感じていた。目の前で、靄はどんどん薄れてゆく。自分の背後はどうなっているのだろう。振り返る勇気は無い。
「あなたも、いっしょに来る?」
人ならぬものが、アリルに向けて問いかける。
ここで頷けば、おそらく元いたところには戻れない。
断ることはできるのか。断ったとして、元の世界に戻ることはできるのだろうか。再び白い靄の中に閉じ込められてしまうのだろうか。それとも―――。
(誰か助けて!)
アリルは心の中で念じた。
祈りはすぐに通じた。
しっとりと柔らかなものが、トトン、とアリルの頭を踏んで通り過ぎた。アリルの首がぐきっと音を立てる。
「痛っ」
衝撃で横倒しになったアリルの前に、大きな獣の背があった。
「そこのオバケ、アタシの相棒に悪さしたら承知しないよ!」
噛みつくように言い放つシャトンの姿は、いつもよりもずっと頼もしかった。
面と向かってオバケ呼ばわりをされた妖精は反撃に転じた。
「化け猫のくせに失礼よ。あなたこそ何しに来たの。邪魔だからさっさと帰ってよ」
「この臭いには覚えがある。お前、沼の魔女だろう。そんな
ぐっと頭を下げて、シャトンが臨戦態勢に入る。
「本当に失礼な猫だこと。あたしは沼の魔女なんかじゃない。清らかな泉の乙女なのよ。それに、おバカな猫と遊んでいるより、あたしとお話する方がずっと有意義に決まっているわ」
泉の乙女も応戦の構えだ。
「あの、お二人とも…」
おずおずと、アリルが割って入ろうとしたが、
「あんたは黙ってな!」
「ちょっと静かにしてて!」
双方からやり込められてしまった。
「はい…」
どうしてだろう。アリルをめぐって喧嘩をしているはずなのに、アリル自身は置いてけぼりである。どころか、邪魔者扱いだ。
猫と妖精。
ふたりの乙女の睨み合いはしばらく続いた。その間にも靄は薄れてゆく。夜の谷の風景が濃くなってゆく。
シャトンが興味を失ったように、ぷいと泉の乙女から顔を背けた。
「こんなのを相手にしていても、埒が開かない。帰るよ」
ぐいっとアリルの襟首を咥え、自分の背に放り上げる。
「帰るって、どっちの方へ行けばいいんですか?」
「決まってる。コイツがいない方向だよ」
ふんっ、とシャトンは盛大に鼻を鳴らした。悠然と泉の乙女に背を向ける。
「落っこちないよう、しっかり捕まってるんだよ」
「あ、はい」
アリルはシャトンの首に手を回し、ぎゅうっとしがみついた。その感触を確かめて、シャトンはゆっくりと歩き出した。
「ちょっと、このまま逃げる気?」
何を言われても、もう振り返らない。徐々に速度を上げてゆく。まるで空を駆けるように
「覚えてらっしゃい!」
遠くから、かすかに、泉の乙女の元気な捨て台詞が追いかけてきた。
*
冥界の泉を抜けると、そこは聖エレイン大聖堂の最奥部。聖所の中だった。
「無事戻ったか」
ひょっこりと青銅の水盤から顔を出したフランとエレインを、妖精女王のエリウが見下ろしている。お側去らずのイレーネの代わりに、彼女の肩にはワタリガラスが止まっていた。
「お帰り、可愛い子」
ぐっしょりと水に浸かったエレインをエリウが水盤から抱き上げる。たっぷり水を含んだ髪と服がさあっと乾いてゆく。細く力強い腕に抱きしめられ、エレインはほうっと息を吐いた。
(帰ってきたんだ、ここに)
柔らかな胸。懐かしい薔薇の香り。たった一晩しかいられなかった場所。
ここから全てが始まったのだ。
「おー、えらい目に遭った」
自力で水盤から這い出したフランがぽたぽたと床に滴を垂らす。それを見てエリウが眉をひそめた。
「
虫を払うように軽く手を一振りする。あっという間にフランの衣服と床が乾いた。
エリウの肩に止まっていたカラスが、ひょいとフランの頭に飛び移った。
「うまくいったようじゃないか」
「さあ、それはどうだか」
フランがうるさそうに頭を振った。カラスはばさっと翼を広げ、右肩に座り直した。
「あの娘の額を見れば分かるよ。取り戻したんだろう。例の『魂の半分』ってやつをさ」
カラスの言葉に、エリウが無言で頷く。
「なんだと?」
フランは目を細め、エレインの額をじっと見つめた。
皆の視線がエレインに向けられる。エレインははうろたえた。
「姫さん。白い薔薇、って聞いて思い当たるふしはあるか」
フランが問う。
「ドウンのところの、泉の傍に咲いていたやつだ」
「白い、薔薇……?」
エレインは、自分が見た冥界の風景を思い起こそうとした。
荒れ野の木の下で、オルフェンとドウンに会った。その後、土埃の上がる地面を踏んで王の城館へ。中に入ってからは夢中で魔法使いを探した。景色など見ている余裕はなかった。
泉の傍に魔法使いの姿を見つけて、駆け寄った。覚えているのは足下の柔らかな緑。
走って、つまずいて、バランスを崩して。魔法使いを巻き添えにして泉に落ちた。
あのとき、何が見えたのだったか。
「そういえば、声が―――」
はっと思い当たって、顔を上げる。
―――わたしは、ここ。
水に沈む前に、声が聞こえた。
岸辺から白い腕が差し伸べられ、夢中でそれにしがみついた。
「それだな」
「それだね」
フランとカラスが同時に頷いた。
「でも、あれは、無くなってしまいました」
しっかりと握ったはずなのに、溶けるように消えてしまった。
「そなたの中に還ったのだよ」
エリウは両腕に包んだ娘の亜麻色の頭を、愛おしそうに撫でた。
「わたしの、中に?」
「そう」
魂の半分と、過去の記憶。かつてエレインが失ったもの。
「そなたは、我らの仲間に、人ならぬものになることもできた」
チャンスは二度あった。不死の身となったとき。魂の半分を失うことになったとき。
「我が身の運命を呪い、人の世に見切りをつけ、こちらに来ることもできたのだ」
癒しの手を持つ乙女よ、ともてはやしながら、一方で呪われた娘、と距離を置く。彼女には何の責任もないのに。癒しが必要なときには自分から近寄ってくるくせに、求めるものが得られれば呪いを恐れてそそくさと逃げるように遠ざかる。
「それでもそなたは、自分の属する種族を見捨てなかった。分かり合える者のいない孤独の中で、耐えることを選んだ。救った人々の笑顔を
そうして限界に達したとき、憎しみを外に向けるのではなく、自分が壊れる方を選んだ。
「取り戻した過去は、決してそなたに安らぎをもらたすものばかりではない。忘れたままの方が幸せな記憶もある。だから私は、今、そなたに祝福を与えよう」
エリウはそっとエレインの額に口づけた。
「そなたが苦しい思いをするときには、常に支える者がそばにあるように」
「うっ…く―――」
胸の奥から大きな塊がこみ上げてくる。エレインはそれを
「もうひとりで耐えようとしなくてもいい。妖精女王エリウの名にかけて、若草の乙女に幸いを約束しよう」
「う、うわああーーーー…」
エレインは泣いた。
ひどい言葉を浴びせられたときにもずっと泣かないでいたのに。我慢することにはすっかり慣れたはずなのに。どうして優しい言葉に涙があふれるのだろう。こんなに泣ける自分が不思議だった。
エリウの手が背中を撫でる。エレインは声を放って泣き続けた。
「よかったじゃないか」
ひそひそとワタリガラスがフランの耳に
「エリウのお
からかうような口調に、フランはその両足をがしっと掴んだ。
「余計なことは言わなくていい」
エリウとエレインに聞こえないよう低い声で、カラス相手に
「いいか。俺があいつに思いを寄せれば
カラスはぱっくりと口を開けて、首をかしげた。
(誓約の代償?)
はるか昔。ウィングロットの片田舎から修行のために湖の島へと
―――この者は愛する女を死に至らしめる。
マクドゥーン。死者の王ドウンの息子という名の由来である。
その預言を聞いた赤い髪の少年は、その場で即座に誓いを立てた。
―――ならいい。俺は一生どんな女も愛さない!
有名な話だ。
(誓約ってのは、アレのことだろうね)
愛する女を死に至らしめる、という
しかし、どんな女も愛さない、という誓約の方は。
(あれはもう、無効になっているんじゃなかったか)
ワタリガラスは小さな頭の中で、誓約について自分の知るところを思い返した。
フランは一度赤子に戻っている。
大魔法使いマクドゥーンとして生き、年老いて、枯れ木のようになって行き倒れた。本来ならそこで肉の器を失うはずだった。それが、生命の水を守る妖精に発見され、大量の
(あそこで、大魔法使いとしての生は一旦終わったはずなんだ)
盗掘人の夫婦に拾われて、墓荒らしを
(全く気づいていないってのか)
不死の呪いを解くには、
(自分のことってのは、意外に見えないもんだ)
わざわざ教えてやるつもりなどさらさらない。
(これは面白い。賭けのネタにでもしてやろうか)
長い時を過ごすものたちは、いつだって退屈しているのだ。
「分かったよ」
沈黙の後、カラスは
「けれど、これだけは覚えておいておくれ。あたしはいつだってお前の味方だ。ずっと見守っているよ」
本音を隠して、いかにも思いやり深く。すると、
「いらん」
赤毛の魔法使いからは素っ気ない返事が返ってきた。