1.お留守番は誰がする
文字数 5,102文字
イニス・ダナエで最も広大なケイドンの森。
その奥では森の民が大きな篝火 を焚 いて、サウィンの祭りを執 り行っているはずだった。外の民とは一線を画 した祭り。何が行なわれているのか、外からはうかがい知ることはできない。
それほど遠くはないところ、森の外れにも小さな村があって、そこでも祭りは行なわれている。たとえ近い距離にあったとしても、お互いに干渉 してはならない。近づいてはならない。
遠い昔からの、暗黙の約束である。
人の世の騒がしさとは無縁の森。
静寂 の中には、風のざわめき。梟 の声。それから――
さくさくと小気味 よい音がする。枯葉を踏んで、恐れ気もなく深い闇の中を進んでゆく、幽 かな灯りがふたつ。
「ほら、ここまで来れば分かるだろう」
さわさわと枝をたわませて、ナラの木立ちがアーチを作る。その奥には小さな庵がある。
魔法の小道で迷子になったアリルとシャトンを救ってくれたのは、隠者の庵の常連客だった。
「ありがとうございます、デニーさん」
鉛色の髪の青年がぺこりと頭を下げた。
「どういたしまして」
運の良いことに、彼らが発見されたのは惑わしの森への入り口近く。小さな集落の外れだった。赤々と天を焦 がす篝火がはっきりと見えたとき、アリルは膝 から力が抜けてゆくのを感じ、へなへなと地面に座り込んでしまった。
二人がここに至った事情を説明すると、親切なご婦人はふんふんと相槌 を打ちながら聞いていたが
「サウィンの夜にはよくあることさ」
驚いた様子もなく、さらりと片づけた。
「そうなんですか」
アリルが目を丸くする。
「さっきまでそこで遊んでいた子どもが急にいなくなったり。いつの間にか人間じゃないものが、ちゃっかりと家族の食卓に紛れ込んでいたりね」
そうして、「念のため」と、二人を庵の近くまで送り届けてくれた。
「さっきも、怖いもの知らずの若者が三人いなくなってね。探してみたら小川のそばで川の水を酌 み交わしていたのさ。まるでたっぷり酒を飲んだ後みたいに、すっかり出来上がっていたよ」
道中、デニーさんがサウィンの夜にまつわるあれやこれやを話してくれる。
心地よい声で語られる不思議な話を聞きながら、安心感をもたらすふっくらとした背中に導かれ、アリルとシャトンはようやく見慣れた場所にたどり着いたのだった。
くしゅん、とシャトンがくしゃみをした。
庵に入ったら、何をおいてもまず、暖炉に火を入れなくては。
アリルは肩に乗ったままだったシャトンをそっと抱え上げ、マントの中にくるんだ。
「暖かいねえ」
合わせの間から顔だけを出したシャトンが満足げに喉を鳴らす。
「よろしかったらお茶でもいかがですか? お祭りのごちそうはありませんけれど」
アリルの申し出に、初老のご婦人は人の好い笑みを浮かべた。
「いや、遠慮しとくよ」
「もしかして、まだ見回りを続けるのですか?」
「ほどほどにね。やれやれ、昔はサウィンってのはこんな騒がしい日じゃなかったのにさ。よおく用心して家に籠 って、一歩も出ないようにした時代もあったんだよ。ああ、繰 り言 はいけないね。二人とも、今夜はもう出歩かない方がいいよ。ここでゆっくりお休み」
「あ、はい。デニーさんもお気をつけて」
村の方へと戻ってゆく後ろ姿を見送りながら、アリルはふうと溜め息をついた。
庵の反対側に抜ける道はない。ここより奥は森の民の領域だ。
獣道に毛が生えたほどの細い道。でこぼことした路面の一部を、デニーさんに貸してもらったランタンの灯りがぼんやり照らし出す。
(この道を、師匠は馬車を走らせてきたのか)
エリウの丘にある、聖女の神殿が賊 に襲 われた折 のことだ。
(よくもまあ、車輪が無事だったものだ)
最近の出来事なのに、あの夜のことがずいぶん前のことのように感じられた。
ふわふわ揺れる小さな光が完全に道の向こうに見えなくなるのを待って、アリルとシャトンは寒々 とした庵に入った。
ランプをの火を藁 に移し、暖炉の中へ。と――
「うわっ!」
ぼうん、と煙の塊 が暖炉口から勢いよく噴 き出した。
ぎゃわっと、悲鳴を上げてシャトンが飛び退 る。アリルが踏み台にされた頭を押さえた。
「くそっ、ちと目測 を誤 ったか……」
げほげほと咳 き込みながら、赤い髪を灰まみれにした男が這い出してきた。
「師匠、何をしてるんですか」
アリルの呆れ声を背に、フランは灰も払わず部屋を飛び出していく。その身にまとった灰が部屋中に広がる。シャトンが立て続けにくしゃみをした。フランが通った後には、靴の裏についた煤 がてんてんと、足跡となって残った
苦情を言い立てる弟子には構わず、彼は一直線に納屋 へと向かった。
そこに、あの夜、大聖堂から持ち出したものが隠してある。
渾身 の力を振り絞り、高く積み上げられた干し草の山の下から、木の箱を引きずり出す。
人がすっぽりと入れるぐらいの、細長い木の箱。側面や蓋 に薔薇の花が彫り込まれた聖女の棺 だ。
フランは逸 る心を押さえ、大切な宝物を撫でるようにして丁寧に干し草を払った。うやうやしい手つきで重い蓋を持ち上げる。
と、フランが安堵 の息を吐くより先に、追いついてきたアリルとシャトンが中を覗 きこんで驚きの声を上げた。
「おやまあ!」
「エレイン、どうしてこんなところに!」
常 の夜なら森の木立にひそやかに埋もれる隠者の庵が、急に騒がしくなった。
「あなたはそうやって、いつもいつもいつも!」
アリルがぷりぷりと怒りながら床 を掃 いている。
「前もって話してくれれば、こちらだって心の準備ができるのに」
エレインが攫 われた。
そのような場合を想定して、フランは手を打っておいた。
エレインを狙う者たちが人間だけであれば、必要のないものであったかもしれない。しかし、妖精女王の妹がいる。そこで、魔法の力がエレインの身に及んだ場合にのみ発動する術を仕込んだ。彼女を魔力で連れ去ろうとした場合、その体を強制的に庵に隠した棺に引き戻す術を施 しておいたのだ。
今、エレインは庵のベッドにいる。
魔法の力は、使う者にも使われる側にも心と身体に大きな負担をかける。疲れて眠っているだけだと聞かされたアリルは、安堵の裏返しからか、怒りが収まらない様子だった。
「あなたはいつだってそうだ。どうしてこんな大事なことを僕に教えてくれなかったんですか。信用できないからですか」
弟子の声を横に聞きながら、フランは考え込んでいた。
(結局のところ、根本を何とかしなきゃらならんか)
エレインの魂の半分は、まだ冥界 に留まっている。
エリウのもとで普通の暮らしをしているうちに、この世にある半分の魂が輝きを増して、冥界の半分を呼び寄せるのではないかと期待したのだったが。
計画はその初めから、賊の侵入という不測 の事態によって頓挫 した。妖精女王の庇護下 から出て、次に安全な場所といえば、かつて己 の領分であった隠者の庵しか思いつかなかった。ただし、そこは一時的な避難場所にしかなり得ない。
弟子を頼ってたどり着いた先には、『死者の王』が待ち受けていた。
(まさか、あそこでヤツに会うとはな)
カエル・モリカ。そこは、彼にとって苦い記憶の残る因縁 の地であるはずだった。
砦の城の外に広がるヒースの荒野の伝説。神々の戦さ。ドウンの属する陣営は敗者となって力を失い、多くの神々とその眷属 たちが消えていった。
その地に現れるとは思いもしなかった。
(思い込みの裏をかかれたってことか)
振り返ってみれば、エリウの丘からカエル・モリカへ、そしてニムの妹が現れるまで、すべて仕組まれたことだったのかもしれない。
最初からドウンの操 る糸に導かれていたと考えると腹が立つが、そう考えるとさまざまなことが腑 に落ちる。
「やられた、な……」
エレインを本来のあるべき姿に戻すために、何年もかけて考えて慎重に運んだつもりだったが、冥界の主も、エレインの全てを手に入れるために策略 をめぐらしてきたのだ。
棺の中で眠るエレイン。
その寝顔は安らかで、うっすら微笑んでいるように見える。頬は薔薇色で、ずいぶん健康的な印象になった。
(よく笑うようになったしな)
オルフェン王女のおかげだ。
イニス・ダナエ最後の大魔法使いと言われる自分にも、できないことはある。魔法ではどうにもならないことの方が多い。
もし魔法と無縁に生まれついていたなら、と夢想することもあった。自分にもエレインにももっと違う人生があっただろう。そうして二人は出会うことなく、それぞれの生を終えて次の世へと旅立っていただろう。
(繰り言が増えるは老いのしるし、か)
この世に生まれ落ちれば、命の火が消えるその瞬間まで精一杯あがいて生きる。それが生あるものたちの役目だ。ならばせめて、できることに力を尽くそう。
まだ決着はついていない。
ものは考えようだ。彼女の器と魂の半分はこちら側にある。
今なら。異界への扉がすべて開いている、今なら――。
「よし」
フランは立ち上がった。
ドウンの領土に乗り込む。
正面から争うことになれば、勝ち目は少ない。もし自分が敗れたとしても、それは仕方がない。あちらとこちらに引き裂かれたままの方が不自然で、不憫 だ。
「おい、アリル」
「なんですか?」
「俺は冥界に行く。行って、こいつの魂の半分を取り戻してくる。夜明けまでには必ず帰ってくるから、それまでこいつを頼む」
(また急に、そんなことを…)
床を掃く手を止めてアリルは振り返った。声の調子はいつも通り軽やかだったが、師匠の目は、今まで見たこともないほど強い光を宿していた。言おうとしていた言葉がアリルの頭から消えた。箒の柄 を両手でぎゅっと握る。
残されたのは、たったひと言。
「お気をつけて」
悲愴 な顔をする弟子に向かって、フランはにやっと笑った。
「そんな顔するな。妹の方がよほど肝 が据 わってるぞ。あのお姫さんには世話になった。くれぐれも礼を言っておいてくれ」
樫の杖の先をとん、と床に突く。
空気も揺らさず、魔法使いの姿は消えた。
しばらく呆然としていたアリルは、新しく得た情報を頭の中で反芻 して、大変なことに気づいた。
「キアランは冥界の王、ドウンだったのですよね」
「ああ、そうだよ」
フランがまき散らした灰で足を汚さないよう、シャトンはテーブルの上に座っている。
「じゃあ、オルフェンはどうしたのでしょう」
「エレインが沼の魔女に魔法で飛ばされて、アタシは城に帰った。その後のことは知らないけれど、フランがエリウの丘に行ったのなら、あの黒い男と一緒にあそこに残ったことになるね」
「それしか、ありませんよね」
アリルの全身からさあっと血の気が引いてゆく。
妹が、死者の王とふたりっきりになってしまった。
(まさか、ね。まさかとは思うけれど)
持っていた箒を放り出し、身を翻 して居間へと急ぐ。
「どうするんだい?」
「決まってるじゃありませんか。城に戻るんです!」
「戻るって、どうやって?」
ガシャン、と何かが落ちた。「痛 たた」という声が聞こえる。アリルがどこかにぶつかったらしい。
「待ちなよ。不用意に動くと危ない」
「そんな悠長 なこと言ってる場合じゃありません。オルフェンになにかあったら!」
「ここでおとなしくしていろ、って。デニーさんも言ってただろう」
焦 るアリルの心にシャトンの忠告は届かない。バタン、と乱暴に木の戸を開ける音がした。例の通路への扉だ。
ヤケになってシャトンは叫んだ。
「また、あのオバケのところに行っても知らないよ!」
「え? あっ! うわああ」
アリルの悲鳴が、途中でふっつりと切れた。
しん、とあたりが静まり返る。
ぴんと立てたシャトンの鋭い耳にも、扉の向こうからはもう何も聞こえてこなかった。
(アタシはどうしたらいいんだろう)
ひとり森の庵に残されて、サバ猫は首をかしげた。
箒が傾 いた状態で壁に立てかけられている。部屋の隅 に掃き集められた灰の山はそのままだ。
「やれやれ、しょうのない」
後始末をしてやろうという気は、さらさらない。
小さな頭を巡らせると、人間がすっぽり収まるほどの細長い箱とその蓋が床に置きっぱなしになっている。その横のベッドの上には、すやすやと眠る少女。
暖炉の中では赤い火が揺れ、薪がパチパチと楽しげな音を立てている。外は真っ暗。冷たい風が木々の梢 の間でひゅうひゅうと泣いている。
(とりあえず、ここで待とうかね)
シャトンは、ひょいとテーブルの上からベッドへと飛び移った。
(どうせ、誰かはこの子の見張り番をしなきゃいけないわけだし)
そうして、うーんと伸びをすると、エレインの足下で丸くなった。
その奥では森の民が大きな
それほど遠くはないところ、森の外れにも小さな村があって、そこでも祭りは行なわれている。たとえ近い距離にあったとしても、お互いに
遠い昔からの、暗黙の約束である。
人の世の騒がしさとは無縁の森。
さくさくと
「ほら、ここまで来れば分かるだろう」
さわさわと枝をたわませて、ナラの木立ちがアーチを作る。その奥には小さな庵がある。
魔法の小道で迷子になったアリルとシャトンを救ってくれたのは、隠者の庵の常連客だった。
「ありがとうございます、デニーさん」
鉛色の髪の青年がぺこりと頭を下げた。
「どういたしまして」
運の良いことに、彼らが発見されたのは惑わしの森への入り口近く。小さな集落の外れだった。赤々と天を
二人がここに至った事情を説明すると、親切なご婦人はふんふんと
「サウィンの夜にはよくあることさ」
驚いた様子もなく、さらりと片づけた。
「そうなんですか」
アリルが目を丸くする。
「さっきまでそこで遊んでいた子どもが急にいなくなったり。いつの間にか人間じゃないものが、ちゃっかりと家族の食卓に紛れ込んでいたりね」
そうして、「念のため」と、二人を庵の近くまで送り届けてくれた。
「さっきも、怖いもの知らずの若者が三人いなくなってね。探してみたら小川のそばで川の水を
道中、デニーさんがサウィンの夜にまつわるあれやこれやを話してくれる。
心地よい声で語られる不思議な話を聞きながら、安心感をもたらすふっくらとした背中に導かれ、アリルとシャトンはようやく見慣れた場所にたどり着いたのだった。
くしゅん、とシャトンがくしゃみをした。
庵に入ったら、何をおいてもまず、暖炉に火を入れなくては。
アリルは肩に乗ったままだったシャトンをそっと抱え上げ、マントの中にくるんだ。
「暖かいねえ」
合わせの間から顔だけを出したシャトンが満足げに喉を鳴らす。
「よろしかったらお茶でもいかがですか? お祭りのごちそうはありませんけれど」
アリルの申し出に、初老のご婦人は人の好い笑みを浮かべた。
「いや、遠慮しとくよ」
「もしかして、まだ見回りを続けるのですか?」
「ほどほどにね。やれやれ、昔はサウィンってのはこんな騒がしい日じゃなかったのにさ。よおく用心して家に
「あ、はい。デニーさんもお気をつけて」
村の方へと戻ってゆく後ろ姿を見送りながら、アリルはふうと溜め息をついた。
庵の反対側に抜ける道はない。ここより奥は森の民の領域だ。
獣道に毛が生えたほどの細い道。でこぼことした路面の一部を、デニーさんに貸してもらったランタンの灯りがぼんやり照らし出す。
(この道を、師匠は馬車を走らせてきたのか)
エリウの丘にある、聖女の神殿が
(よくもまあ、車輪が無事だったものだ)
最近の出来事なのに、あの夜のことがずいぶん前のことのように感じられた。
ふわふわ揺れる小さな光が完全に道の向こうに見えなくなるのを待って、アリルとシャトンは
ランプをの火を
「うわっ!」
ぼうん、と煙の
ぎゃわっと、悲鳴を上げてシャトンが飛び
「くそっ、ちと
げほげほと
「師匠、何をしてるんですか」
アリルの呆れ声を背に、フランは灰も払わず部屋を飛び出していく。その身にまとった灰が部屋中に広がる。シャトンが立て続けにくしゃみをした。フランが通った後には、靴の裏についた
苦情を言い立てる弟子には構わず、彼は一直線に
そこに、あの夜、大聖堂から持ち出したものが隠してある。
人がすっぽりと入れるぐらいの、細長い木の箱。側面や
フランは
と、フランが
「おやまあ!」
「エレイン、どうしてこんなところに!」
「あなたはそうやって、いつもいつもいつも!」
アリルがぷりぷりと怒りながら
「前もって話してくれれば、こちらだって心の準備ができるのに」
エレインが
そのような場合を想定して、フランは手を打っておいた。
エレインを狙う者たちが人間だけであれば、必要のないものであったかもしれない。しかし、妖精女王の妹がいる。そこで、魔法の力がエレインの身に及んだ場合にのみ発動する術を仕込んだ。彼女を魔力で連れ去ろうとした場合、その体を強制的に庵に隠した棺に引き戻す術を
今、エレインは庵のベッドにいる。
魔法の力は、使う者にも使われる側にも心と身体に大きな負担をかける。疲れて眠っているだけだと聞かされたアリルは、安堵の裏返しからか、怒りが収まらない様子だった。
「あなたはいつだってそうだ。どうしてこんな大事なことを僕に教えてくれなかったんですか。信用できないからですか」
弟子の声を横に聞きながら、フランは考え込んでいた。
(結局のところ、根本を何とかしなきゃらならんか)
エレインの魂の半分は、まだ
エリウのもとで普通の暮らしをしているうちに、この世にある半分の魂が輝きを増して、冥界の半分を呼び寄せるのではないかと期待したのだったが。
計画はその初めから、賊の侵入という
弟子を頼ってたどり着いた先には、『死者の王』が待ち受けていた。
(まさか、あそこでヤツに会うとはな)
カエル・モリカ。そこは、彼にとって苦い記憶の残る
砦の城の外に広がるヒースの荒野の伝説。神々の戦さ。ドウンの属する陣営は敗者となって力を失い、多くの神々とその
その地に現れるとは思いもしなかった。
(思い込みの裏をかかれたってことか)
振り返ってみれば、エリウの丘からカエル・モリカへ、そしてニムの妹が現れるまで、すべて仕組まれたことだったのかもしれない。
最初からドウンの
「やられた、な……」
エレインを本来のあるべき姿に戻すために、何年もかけて考えて慎重に運んだつもりだったが、冥界の主も、エレインの全てを手に入れるために
棺の中で眠るエレイン。
その寝顔は安らかで、うっすら微笑んでいるように見える。頬は薔薇色で、ずいぶん健康的な印象になった。
(よく笑うようになったしな)
オルフェン王女のおかげだ。
イニス・ダナエ最後の大魔法使いと言われる自分にも、できないことはある。魔法ではどうにもならないことの方が多い。
もし魔法と無縁に生まれついていたなら、と夢想することもあった。自分にもエレインにももっと違う人生があっただろう。そうして二人は出会うことなく、それぞれの生を終えて次の世へと旅立っていただろう。
(繰り言が増えるは老いのしるし、か)
この世に生まれ落ちれば、命の火が消えるその瞬間まで精一杯あがいて生きる。それが生あるものたちの役目だ。ならばせめて、できることに力を尽くそう。
まだ決着はついていない。
ものは考えようだ。彼女の器と魂の半分はこちら側にある。
今なら。異界への扉がすべて開いている、今なら――。
「よし」
フランは立ち上がった。
ドウンの領土に乗り込む。
正面から争うことになれば、勝ち目は少ない。もし自分が敗れたとしても、それは仕方がない。あちらとこちらに引き裂かれたままの方が不自然で、
「おい、アリル」
「なんですか?」
「俺は冥界に行く。行って、こいつの魂の半分を取り戻してくる。夜明けまでには必ず帰ってくるから、それまでこいつを頼む」
(また急に、そんなことを…)
床を掃く手を止めてアリルは振り返った。声の調子はいつも通り軽やかだったが、師匠の目は、今まで見たこともないほど強い光を宿していた。言おうとしていた言葉がアリルの頭から消えた。箒の
残されたのは、たったひと言。
「お気をつけて」
「そんな顔するな。妹の方がよほど
樫の杖の先をとん、と床に突く。
空気も揺らさず、魔法使いの姿は消えた。
しばらく呆然としていたアリルは、新しく得た情報を頭の中で
「キアランは冥界の王、ドウンだったのですよね」
「ああ、そうだよ」
フランがまき散らした灰で足を汚さないよう、シャトンはテーブルの上に座っている。
「じゃあ、オルフェンはどうしたのでしょう」
「エレインが沼の魔女に魔法で飛ばされて、アタシは城に帰った。その後のことは知らないけれど、フランがエリウの丘に行ったのなら、あの黒い男と一緒にあそこに残ったことになるね」
「それしか、ありませんよね」
アリルの全身からさあっと血の気が引いてゆく。
妹が、死者の王とふたりっきりになってしまった。
(まさか、ね。まさかとは思うけれど)
持っていた箒を放り出し、身を
「どうするんだい?」
「決まってるじゃありませんか。城に戻るんです!」
「戻るって、どうやって?」
ガシャン、と何かが落ちた。「
「待ちなよ。不用意に動くと危ない」
「そんな
「ここでおとなしくしていろ、って。デニーさんも言ってただろう」
ヤケになってシャトンは叫んだ。
「また、あのオバケのところに行っても知らないよ!」
「え? あっ! うわああ」
アリルの悲鳴が、途中でふっつりと切れた。
しん、とあたりが静まり返る。
ぴんと立てたシャトンの鋭い耳にも、扉の向こうからはもう何も聞こえてこなかった。
(アタシはどうしたらいいんだろう)
ひとり森の庵に残されて、サバ猫は首をかしげた。
箒が
「やれやれ、しょうのない」
後始末をしてやろうという気は、さらさらない。
小さな頭を巡らせると、人間がすっぽり収まるほどの細長い箱とその蓋が床に置きっぱなしになっている。その横のベッドの上には、すやすやと眠る少女。
暖炉の中では赤い火が揺れ、薪がパチパチと楽しげな音を立てている。外は真っ暗。冷たい風が木々の
(とりあえず、ここで待とうかね)
シャトンは、ひょいとテーブルの上からベッドへと飛び移った。
(どうせ、誰かはこの子の見張り番をしなきゃいけないわけだし)
そうして、うーんと伸びをすると、エレインの足下で丸くなった。