3.ふたりの妖精女王
文字数 2,119文字
ダナンの王女が冥界へと赴 き、王子が魔法の小道で迷子になっていたころ。
エリウの丘。聖域の深奥で、ふたりの妖精女王がとうてい友好的とは言えない面持 ちで向かい合っていた。
ふたりの間に流れる空気は、流氷を浮かべる北の海よりも冷たい。
(この場にだけは、居合わせたくなかったぜ)
間に挟まれたフランは、身の置き所のない思いを味わっていた。
「では、やはりあの子をどこかに飛ばしたのはフィニなのだな」
黒い髪の妖精女王の、尋問するかのごとき厳しい声音 に
「確かだ」
白い髪の妖精女王が淡々と応じた。
「不肖 の妹が申し訳ないことをした」
抑揚 のない口調で述べられる謝罪の言葉に、黒い髪の妖精女王、エリウが眉をひそめる。
エリウと対峙 しているのは、湖の貴婦人と呼ばれる水の妖精女王、ニムである。実体ではない。床に置かれた青銅の水盤の上に揺らめいているのは、彼女の影だ。本体はおそらく湖の、緑玉 の島にあるのだろう。
カエル・モリカの町で使われた魔法は、さざ波のように空をざわめかせ、大地を這 って、他の地域に住まう魔力を持つものたちに感知された。サウィンの祭り日にはこのイニス・ダナエの地全体が魔力に満ちる。どんな些細 なものであれ、不用意に魔力を開放すれば、それは当人が意図した以上の異変をもたらしかねない。無関係な遠方の地に災厄 となって降り注ぐこともあるのだ。危険な行為だった。
今回は幸いなことに魔力の作用は伝播 せず、一地点だけに留まった。被害は人間の娘一人だけ。ただ、その娘はエリウにとってもニムにとっても特別な人間であった。
「フィニはまだあの男に心を奪われたままなのだ。自分の愛に一度は応 えながら、去っていった人間の男に」
ふうっ、と湖の女王は深い溜め息をついた。涼しげな眉間 に皺が刻まれる。
あの男とは、イニス・ダナエの統一王、クネドを指す。
「もうこの世におらぬ者に執着 して何になろうか。もとはと言えば、〈不死の呪 い〉もあれが意図して授けたものではない。あの男のためによかれと思って与えた、癒しの祝福 の副作用なのだ」
加減もせず、心のままに、赤子の柔らかな魂でさえ受け取れぬほどの力を注 いでしまった結果だ。
「あの頃、男の心はすでに他の女に移ろっていた。心を尽くせば、もう一度取り戻せるとでも思ったのか。そんな無駄なことをするより、さっさと見切りをつけるか、それでも飽き足らなければ直接あの男を呪えばよかったものを。まったく、愚かなことだ」
もちろん、クネド王の愛が戻ることはなかった。それどころか、自分を王位につけてくれた恩人であるはずの妖精をあからさまに疎 むようになった。フィニの心の歯車が軋 んだ音を立て始めたのはその頃からだ。
「妹にはすでに罰を与えた。それで、エリウ。あの娘、エレインの行方は分かったのか?」
「それならば、この男が小細工を仕込んであったらしく―――」
ふたりの妖精女王の視線が、赤毛の男に向けられる。
「今は居場所は明かせない。だが、無事だ」
エリウの言葉を引き取り、フランが請 け合った。ニムが白い睫 を伏せた。
「無事であるなら、構わない。人間の姫君のために働くのは、人間の男の役目だ」
「そうだな。マクドゥーン、あとはそなたに任せる。あの子を守れ。誰にも渡すな」
エリウが念を押す。
「分かった」
フランは神妙 な顔で頷いた。
エリウとニム。
ふたりの妖精女王の間に視線をさまよわせていたフランは、ようやく気づいた。
(イレーネの姿がない……)
いつもエリウ後ろに控えている娘がいない。
先ほどからずっと、何か足りないような感じがしていたのだが、そちらの方に意識を回す余裕がなかったのだ。
「ところで……」
「そういえば、フィニに罰 を与えたと言ったな」
尋ねようとしたフランの声に、エリウの声が被 さった。
「ああ。魔力を取り上げて、魔の空間に放り込んである」
さらりとニムが答えた。
フランは自分の問いを忘れ、目を剥 いた。とんでもない処置だ。
「お、おい。さすがにそれは」
魔力を持つものにとって、消滅と同じほど、いやそれ以上に厳しい罰だ。
科 せられれば、永遠の孤独を負わされ、無の世界の囚人 となる。その空間に『死』が存在するかどうかも分からない。どことも知れぬ場所に、たった一人。魔力を取り上げられてしまえば、自力で出ることも叶わない。
フランの表情を読み取って、ニムは目を細めた。その青ざめた唇に、わずかに表情らしきものが動いた。
「案ずるな。われにも肉親への情はある。妹が頭を冷やすまでの間だ。あの男に対して抱いている未練だのなんだのをすっぱり断ち切ることができたら、戻ってこれるようにしてある。このような騒ぎはもうごめんだ」
「ふむ。妥当 なところだな」
エリウが同意した。
「これで目を醒 ましてくれればよいが」
ニムが頷く。
――フィニが頭を冷やすまで。
熱が冷めるまでに、どのくらいの時が流れるのだろうか。人間にとってクネドの時代はとうに伝説となっているというのに、まだ覚めやらぬ夢。
(何も言うまい)
彼女たちの価値観は人間とは違う。口を挟む筋合 いではない、とフランは思い直した。
(とりあえず、庵に行くか)
そうして思いを現世に向けた。
エリウの丘。聖域の深奥で、ふたりの妖精女王がとうてい友好的とは言えない
ふたりの間に流れる空気は、流氷を浮かべる北の海よりも冷たい。
(この場にだけは、居合わせたくなかったぜ)
間に挟まれたフランは、身の置き所のない思いを味わっていた。
「では、やはりあの子をどこかに飛ばしたのはフィニなのだな」
黒い髪の妖精女王の、尋問するかのごとき厳しい
「確かだ」
白い髪の妖精女王が淡々と応じた。
「
エリウと
カエル・モリカの町で使われた魔法は、さざ波のように空をざわめかせ、大地を
今回は幸いなことに魔力の作用は
「フィニはまだあの男に心を奪われたままなのだ。自分の愛に一度は
ふうっ、と湖の女王は深い溜め息をついた。涼しげな
あの男とは、イニス・ダナエの統一王、クネドを指す。
「もうこの世におらぬ者に
加減もせず、心のままに、赤子の柔らかな魂でさえ受け取れぬほどの力を
「あの頃、男の心はすでに他の女に移ろっていた。心を尽くせば、もう一度取り戻せるとでも思ったのか。そんな無駄なことをするより、さっさと見切りをつけるか、それでも飽き足らなければ直接あの男を呪えばよかったものを。まったく、愚かなことだ」
もちろん、クネド王の愛が戻ることはなかった。それどころか、自分を王位につけてくれた恩人であるはずの妖精をあからさまに
「妹にはすでに罰を与えた。それで、エリウ。あの娘、エレインの行方は分かったのか?」
「それならば、この男が小細工を仕込んであったらしく―――」
ふたりの妖精女王の視線が、赤毛の男に向けられる。
「今は居場所は明かせない。だが、無事だ」
エリウの言葉を引き取り、フランが
「無事であるなら、構わない。人間の姫君のために働くのは、人間の男の役目だ」
「そうだな。マクドゥーン、あとはそなたに任せる。あの子を守れ。誰にも渡すな」
エリウが念を押す。
「分かった」
フランは
エリウとニム。
ふたりの妖精女王の間に視線をさまよわせていたフランは、ようやく気づいた。
(イレーネの姿がない……)
いつもエリウ後ろに控えている娘がいない。
先ほどからずっと、何か足りないような感じがしていたのだが、そちらの方に意識を回す余裕がなかったのだ。
「ところで……」
「そういえば、フィニに
尋ねようとしたフランの声に、エリウの声が
「ああ。魔力を取り上げて、魔の空間に放り込んである」
さらりとニムが答えた。
フランは自分の問いを忘れ、目を
「お、おい。さすがにそれは」
魔力を持つものにとって、消滅と同じほど、いやそれ以上に厳しい罰だ。
フランの表情を読み取って、ニムは目を細めた。その青ざめた唇に、わずかに表情らしきものが動いた。
「案ずるな。われにも肉親への情はある。妹が頭を冷やすまでの間だ。あの男に対して抱いている未練だのなんだのをすっぱり断ち切ることができたら、戻ってこれるようにしてある。このような騒ぎはもうごめんだ」
「ふむ。
エリウが同意した。
「これで目を
ニムが頷く。
――フィニが頭を冷やすまで。
熱が冷めるまでに、どのくらいの時が流れるのだろうか。人間にとってクネドの時代はとうに伝説となっているというのに、まだ覚めやらぬ夢。
(何も言うまい)
彼女たちの価値観は人間とは違う。口を挟む
(とりあえず、庵に行くか)
そうして思いを現世に向けた。