2.金のオルフェン
文字数 7,093文字
サウィンの夜に行方知れずになる者は多い。
どこそこの村では若い娘が、そちらの町では生まれたての赤ん坊が。
お年寄りが、子どもたちが―――とあちこちで騒ぎが起こる。
ほとんどは駆 け落ちだの、畑の畝 の中で眠りこけていただの、物騒 なところでは人攫 いだのといった人為 的なものばかりである。だが、稀 に『神隠し』としか言いようのない事件もある。
(神隠し……)
まさに、今のオルフェンの状況を言い表すのにぴったりな言葉だ。
自ら望んだこととはいえ、神の手によって、生者 の領域から遠く離れた世界に来てしまったのだから。
後悔はしていない。
あの場に一人で取り残されるのは怖かった。地面を走る白い紐 が描き出した魔法の円陣 にエレインが捕えられ、光に包まれて消えたとき、彼女の世界は変わった。
人智を超えるものは確かに存在する。ただ自分が知らなかっただけだ。
(だって、今まで魔法使いなんて見たことなかったし)
オルフェンが生まれた時、宮廷 に占術師 はいても魔法使いはいなかった。妖精の方は、目撃談は聞いたことがあるけれど、自分とは関わりのない存在だった。
けれど、彼女がこの世に対して抱いていた認識は、見事にひっくり返されてしまった。
もしかしたら、自分が見ていないところでは、世界は全く別の顔をしているのかもしれない。
カエル・モリカの城も別の姿に変わっているかもしれない。
いや、見た目はいつも通りでも、家令 も侍女たちもみんな入れ替わっていて、オルフェンが背を向けたら、その後ろでは「うまく騙 してやった」と魔物たちが舌を出しているかもしれない。
そんな想像に取りつかれてしまった。
このままひとり帰れば、祭りの余韻 が消えた後も、この疑心 はきっと残り続ける。
だから、目の前に確実に存在している冥界の王にすがりついた。
「まさか、死者の国にまで来ることになるとは思わなかったけれど」
ふとこぼれる呟 きを聞く者はいない。オルフェンはぽつんと一人、小さな部屋に座っている。
そこは、どことなくファリアスの、王宮の控えの間に似ていた。
(このお城には、お客さまが訪ねて来るなんてことがあるのかしら)
窓から射しこむ暗いオレンジ色の光が、膝に置いたオルフェンの両手に落ちている。
ふう、と溜め息をつくのと同じタイミングで、静かにドアがノックされた。
「姫君、よろしいでしょうか」
ドアの向こうから若い娘の声がした。
「隣の部屋に、着替えとお湯の用意をいたしました。どうぞお越しください」
「分かりました。参ります」
ドウンの他には誰もいないように見えたが、この城にも住むものがいたらしい。
(そうよね。王さまが一人で、ってわけはないもの。当然よね)
明るい声音 が『死者の国』には不釣 り合いな気もしたが、オルフェンは素直に隣の部屋へと足を向けた。
青い絨毯 の真ん中にぽつんと洗面台が置かれている。金色の猫脚がついた台の上で、白い器からほこほこと湯気が立ち上っていた。
「初めてお目にかかります。イレーネと申します」
傍 らには尼僧姿の娘が立っていて、オルフェンを見ると人懐 こい笑顔を向けた。
「こちらこそよろしく。あなたも聖女さまと同じ名前なのね」
アンセルス、エリウの丘に建つ聖エレイン大聖堂。『イレーネ』という名は大陸のもの。文字に記したものを発音すると、ダナンでは『エレイン』になる。
「はい。本当は聖女などではないのですが、本人です」
にっこりと笑う頬に、可愛らしいえくぼができた。
(本人?)
言葉を失い、目を丸くしたまま突っ立っているオルフェンに、イレーネが石鹸 と布を差し出した。ふわっと薔薇 の香りがした。
「このたびは、王女さまも大変な目にお遭 いになられましたね。分からないことばかりで、さぞもどかしい思いもなさったことでしょう。私が知っていることは全て、順を追って隠さずお話しいたしますから、まずはお湯をお使いください」
窓から見える大地は赤茶 けて、土と空が混じり合ったような色の靄 が地平線を隠している。痩 せた、ひょろひょろと背ばかり高い木々のシルエットが黒く浮き上がっていた。
水の気配はない。
このお湯がどれほど貴重なものかは、オルフェンにも分かる。洗面器に手を差し入れるのがためらわれた。
イレーネはその思いを察したらしく、
「こちらにご用意しましたお支度 は、エリウさまからのお届けものです」
オルフェンが脱いだ白いマントにブラシをかけながら、さりげなく言い添える。
「エリウ、さま?」
「はい。エリウさまは若草の姫の守護を務めておいでです。王女殿下のご厚意に対するささやかなお礼、だそうですよ。だから、どうぞご遠慮はなさらないでくださいね」
今度は妖精女王だ。
(わたしの人生は、これからどうなってしまうのかしら)
ふと、女神に愛された王子と呼ばれる兄の、途方に暮れたような顔が心をよぎった。
中庭の小さな泉の傍 で、冥界の神がフィドルを弾いている。
フィドルにこんな綺麗な音が出せるとは知らなかった。
弦と弓の擦 れる音もしない。雑味 のない、純粋な音色。
(この人が奏でる音色は、どうしてこんなに切ないのだろう)
ふと弓が止まる。
「姫、少しは落ち着かれましたか?」
邪魔をしないよう隠れていたつもりなのに、気づかれてしまった。
(もう少し、聴いていたかったのに)
黄金の髪の娘は、真っ白なドレスの裾 をふわりとたなびかせて、緑に埋もれる敷石を踏んで歩み寄った。
漆黒 を身にまとう神の御前に、しとやかに跪 く。
「陛下におかれましては、私のわがままからなる急な来訪をお受け下り、ありがとうございます。また、先ほどはたいそうお見苦しい姿をお目に掛けましたこと、切 にお詫 び申し上げます」
完璧で、しかしよそよそしい仕草と口調に、ドウンが訝 しげな顔をした。
「どうかしましたか?」
「どうか、とは。何が、でしょう」
「いえ、人というのは不思議ですね。今のあなたは近寄りがたい感じがしますよ。そのドレスのせいでしょうか」
オルフェンが身に着けている白いドレスは、エリウからの贈り物である。
真珠のような光沢 のある布は軽くて柔らかく、とても動きやすい。袖 は中ほどからぱっくりと割れて、しなやかな腕が露 わに見える。王宮の女官たちが見たら、慌てて肩を覆 うためのショールを持って飛んでくるだろう。左の腰骨のあたりで異国風に結んで垂らした金色の帯が、緑の上に流れている。
誰がどう仕立てたものか。ドレスにも帯にも、不思議なことに、どこにも縫 い目が無かった。
「ふうん……」
ドウンは顎 に手をあて、値踏 みするような目で眺めていたが、意地悪な笑みを浮かべると、ゆっくりと間合いを詰めた。そうして、身をかがめると、オルフェンの耳に囁 いた。
「私があなたに贈るなら――」
口調が変わる。
「そう、もっと違うものにしたいな。どうも私の好みに合わない」
死者の王の手が自分の方に差し出されるのを見て、オルフェンはびくっと身をすくめた。指先は彼女の髪をかすめ、すぐに離れる。
「この髪飾りも、ね」
しなやかな指に捕らえられたのは、一匹の白い蝶 だった。
「不法侵入者かな。どうしようねえ」
蝶は羽をつままれたまま、ぴくりとも動かない。それをドウンは目の高さに持ち上げて、からかうような声で物騒なことを言った。
「握り潰 してしまおうか」
「だめ!」
オルフェンが勢いよく跳 ね上がり、ドウンの腕に飛びついた。
「そんな残酷なことしないで!」
ぎゅうっと腕にしがみつく少女を見下ろし、冥界の王は朗 らかな笑い声を上げた。
「ほんの冗談。この子を殺したら、私がエリウに殺される」
ぱっとドウンが指を離す。解放された蝶は何事もなかったかのように羽ばたいて、少し離れたところで少女の姿に変わった。
「非礼 をお許しください」
尼僧姿のイレーネは、平然と微笑 んで軽く頭を下げた。
「けれど、私にはここにいる資格がありますよ。死者の魂ですから」
「そうだね。あなたはここで迷っている魂たちとは全然違うけれど。でも歓迎するよ、大陸の聖女どの。憂鬱 な影どもには飽 き飽 きしているんだ」
憂鬱な影、と聞いてオルフェンはあたりを見回した。
「さすがに、この中庭にはいないかな」
くつくつとドウンが笑う。
「亡者たちは、この城には近づいてこない。ずうっと飽きもせず、何もない荒れ地をうろつき回っているよ」
無関心の中に、軽蔑 の色が混じっている。オルフェンは眉 を曇 らせた。
「私の領土が次の世への単なる通り道だということは、知っているだろう。ほとんどの魂がここを素通りしてゆく。ただ、生きていたころの世に強い思いを残す者たちだけが『安らぎの野』からの呼び声も聞かず、かといって元の世界にも戻れずに彷徨 っている」
「それは、どうにかしてあげられないの?」
ドウンが目を伏せて、ゆるやかに首を横に振る。
「無理だね」
その声はひどく優しげで、しかし取り付く島もなかった。
「彼ら自分の心の声だけを聞いている。外の景色は見たかい?」
「窓から、少しだけ」
「そう、それじゃ分からなかったかな。あれは彼らの心そのものだ。前の世からの思いに囚 われ、それが報 われないことに絶望して、神々や運命を呪っている。ここも昔はこれほど荒れ果てた地ではなかった。導きの声を拒 む者たちが、この世界をこのような姿に変えてしまった。情けをかける気にもなれない」
「でも、それなら」
オルフェンは、ぎゅうっと両手を握りしめた。
「彼らがあなたの領土を荒らしているのなら、よけいに何とかしないといけないわ」
爪が柔らかな手のひらに食い込む。その激しさに、ドウンは驚いたように目を瞬 かせた。紫の目が、オルフェンの顔を覗き込む。
「なぜあなたが、そんなことを気にするの? 私の領地がどうなろうと、あなたには関係ないだろう。ああ、それとも影の方を心配しているのかな。身内がいるかもしれないからね」
「そうじゃない、そうじゃなくて!」
伝えることのできないもどかしさに、オルフェンの語気が荒くなった。が、冥界の王は楽しげだった。
「ようやく、調子が戻りましたか」
ぽん、と軽く金の頭に手をのせる。
「そうやって向きになっている方が、ずっとチャーミングですよ。金のオルフェン」
「あっ」
すっかりカエル・モリカの、砦の城と同じ調子に戻っていた。
(なんて、無作法なことを)
オルフェンの頬がかっと熱くなった。
「そうだ。亡者どもなどより、もう少し面白いものをお見せしましょう。気に入っていただけるかどうかは分かりませんが」
ドウンは中庭の隅に向けて、高く指笛を吹き鳴らした。
その音を合図に、もっそりと何かが立ち上がった。とぼとぼと、力ない足取りでこちらに近づいてくる。
(オルフェンさま、用心なさってください)
イレーネがこっそりと囁 く。頷きはしたが、いきなり襲 い掛かってくるような気配はない。目を凝 らしてじっと見つめるうち、だんだん輪郭 が見えてきた。
(ヤギ、かしら)
それは、二匹いた。
「さあ、お前たち。祝福されしダヌの娘、金の王女にご挨拶なさい」
ドウンの足元にぐったりと座り込んでうなだれた冥界の獣たちは、オルフェンが今までに見たことのない姿をしていた。
大きさはヤギと同じくらいだが、犬にも見えたし、豚にも見えた。ひどく年老いているのか、病 のせいなのか。どちらも痩 せこけて、みすぼらしい。黒っぽい体毛はまだらに抜け落ち、皮膚 病にかかったキツネを思わせた。
敵意は感じられない。地に投げ出した前足に顎を乗せ、哀れな目で、静かにオルフェンの顔を見上げている。
(冥界の獣、精霊のようなものなのかしら)
よく見ると、二匹の体の色や模様、耳の形などに少しずつ違いがある。
怖いとは思わないが、どう接してよいのか分からない。
扱いに困り、オルフェンは傍 らのドウンを振り仰いだ。
「この子たちは?」
「女神ダヌの眷属 と戦い、敗 れた者たちです。かつては英雄と呼ばれし者の成れの果てですよ」
オルフェンが息をのむ。見開かれた青い瞳が、さらに大きくなった。
「あなたもご存じでしょう。はるか去 にし世に、ダナン全土で繰り広げられた神々の戦 のことを。カエル・モリカ、ヒースの野の伝説を。敗れた者たちの多くは力を失って忘れ去られ、消えてゆきました。私とこの者たちは、数少ない生き残りなのです」
冥界の王は自嘲 気味 に笑う。
「皮肉なことですね。あの、みじめな死者の魂のおかげで私は消えずに済んだ。安らぎの国への旅路の途中にある『宿屋の主人』などという新たなお役目まで頂戴 しました。私がどうしてもあれらを好きになれないのは、ある意味、同族 嫌悪 に近いのかもしれません」
「そんなこと……」
ドウンの瞳の奥に、また、面白がるような光がよぎった。
「お優しい姫君、この者たちを哀れと思 し召 しですか? ならば、束 の間 の夢ではありますが、ここにいらっしゃる間、この獣たちをあなたの従者としてやってください。そうして願わくば、彷徨 う灰色の影たちにも慈悲 深き救いの手を」
冥界の神の苦しみも、この獣たちの思いも、自分には理解することなどできない。
端 から期待などされていないのも分かっている。自分はこの世界に属する者ではない。何の力も持たない、生身 の人間の小娘に過ぎないのだから。
ドウンが言うように、ここに住まうものたちにとって、オルフェンの来訪はサウィンの夜が見せる束の間の儚 い夢だ。
(それでも、何かはしなくちゃ)
自分にできることは何だろう。
オルフェンは、二匹の元 英雄たちの前に座り込んだ。
「わたしを助けてくれる?」
獣たちの喉 から、弱々しげな、肯定 とも取れる音が漏 れた。
「あなたたちを、何て呼べばいいのかしら?」
獣からの返答はない。代わりにドウンが答えた。
「何とでも。名はとうに失われました。お好きなように」
冥界の王は腕を組み、楽しそうに成り行きを見守っている。
「それじゃ、地上世界にいる騎士と同じ名で呼んでもいい? わたしが知る限り、とても頼りになる人たちなの」
獣たちがちらりとドウンの方を見た。
「姫君のよろしいように」
「それじゃね、真っ黒なあなたはキアラン。赤い色が混じっているあなたはフラン。そう呼ぶことにするわ」
そばで聞いていたイレーネは思わず噴 き出した。視界の端でドウンが硬直 するのが見えた。
キアラン。
フラン。
獣たちは「くうん」と甘えた声を出し、差し伸べられた手のひらに鼻面 をこすりつけた。
その愛情と忠誠 の表現を、王女さまは「汚い」と払いのけることなく受け入れた。
「気に入ってくれたのかしら。嬉しいわ。どうぞよろしくね、キアラン、フラン」
ドウンは呆気にとられ、目を丸くしたまま、木にでもなったように突っ立っている。
イレーネはまだ、こみ上げる笑いを押さえることができない。。
「一本取られましたね、ドウンさま」
「あ、ああ。まったく、驚かせてくれる。とんでもない王女さまだ」
オルフェンはひとしきり新しい従者の毛皮を掻 いてやると、元気よく立ち上がった。
毛まみれのドレスをつまんで、ドウンに向かって頭を下げる。
「それでは、陛下。わたしはこれから亡者の様子を見て参りますね」
「あ、ああ。お気をつけて……」
冥界の王は、そう答えるのが精一杯だった。
「キアラン、フラン、ついてらっしゃい」
すっかり毒気 を抜かれたドウンをよそに、少し活力を取り戻した『キアラン』と『フラン』を連れて、オルフェンは子鹿のように軽やかな足取りで中庭から出て行った。
「お待ちください、殿下。私も参ります」
イレーネが後を追い、あとにはぽつんと、ドウンだけが残された。
途方に暮れた顔をして、白い薔薇を見下ろす。
「あなたの血族はどうなっているんですか、エレイン」
白い薔薇は何も言わず、そっと頭を揺らした。
城が遠くなる。埃 っぽい乾いた空気が体を包む。
ようやくオルフェンは足を緩 めた。
大きく息を吸い込み、吐き出す。口の中がカラカラだ。今になって身体が震えてきた。
「驚きました」
小走りに追いついてきたイレーネが、息を弾 ませて言う。
「あんなに堂々と神と渡り合う人間を、初めて見ました。さすがは王女さま、ですね」
堂々と? そんなことはない。
「怖かったわ」
声がかすれた。
「でも、怖いって認めてしまったら、心がくじけて、動けなくなるもの。虚勢 を張ってでも、平気なふりをしなきゃいけないときもあるのよ」
自分に言い聞かせるように、一語一語、噛 みしめながら言葉を吐き出す。オルフェンの足元で、二匹の獣が気遣うように、くうんと鼻を鳴らして体をすり寄せた。
「それで、これからどうなさるのですか?」
こちらの方が楽だから、と蝶の姿に戻ったイレーネがオルフェンの右肩に止まる。
「ここで迷っている方々とお話しをしてみる」
「亡者と、お話しですか。できるのでしょうか」
「試してみる価値はあると思う。どのくらい前かは知らないけれど、みんなダナンに生きていた人たちで、わたしはダナンの王女なのだもの」
きっと前を見つめて、オルフェンは頷いた。
「やってみる。片っ端から捕まえて話しかける。次の世への道を見つけてもらう」
と、さっそくふらふらと揺れる影を見つけ、駆け出す。
影の動きはのろい。オルフェンと二匹の従者たちは、やすやすとその行く手に回り込んだ。
「すみません。少しお時間をいただけないかしら」
むき出しになったオルフェンの腕にうっすらと鳥肌 が立っているのに、イレーネは気づいた。
(これがダヌの娘。ダナンの王女、金のオルフェン)
そうして、改めて彼女の勇気に感嘆した。
どこそこの村では若い娘が、そちらの町では生まれたての赤ん坊が。
お年寄りが、子どもたちが―――とあちこちで騒ぎが起こる。
ほとんどは
(神隠し……)
まさに、今のオルフェンの状況を言い表すのにぴったりな言葉だ。
自ら望んだこととはいえ、神の手によって、
後悔はしていない。
あの場に一人で取り残されるのは怖かった。地面を走る白い
人智を超えるものは確かに存在する。ただ自分が知らなかっただけだ。
(だって、今まで魔法使いなんて見たことなかったし)
オルフェンが生まれた時、
けれど、彼女がこの世に対して抱いていた認識は、見事にひっくり返されてしまった。
もしかしたら、自分が見ていないところでは、世界は全く別の顔をしているのかもしれない。
カエル・モリカの城も別の姿に変わっているかもしれない。
いや、見た目はいつも通りでも、
そんな想像に取りつかれてしまった。
このままひとり帰れば、祭りの
だから、目の前に確実に存在している冥界の王にすがりついた。
「まさか、死者の国にまで来ることになるとは思わなかったけれど」
ふとこぼれる
そこは、どことなくファリアスの、王宮の控えの間に似ていた。
(このお城には、お客さまが訪ねて来るなんてことがあるのかしら)
窓から射しこむ暗いオレンジ色の光が、膝に置いたオルフェンの両手に落ちている。
ふう、と溜め息をつくのと同じタイミングで、静かにドアがノックされた。
「姫君、よろしいでしょうか」
ドアの向こうから若い娘の声がした。
「隣の部屋に、着替えとお湯の用意をいたしました。どうぞお越しください」
「分かりました。参ります」
ドウンの他には誰もいないように見えたが、この城にも住むものがいたらしい。
(そうよね。王さまが一人で、ってわけはないもの。当然よね)
明るい
青い
「初めてお目にかかります。イレーネと申します」
「こちらこそよろしく。あなたも聖女さまと同じ名前なのね」
アンセルス、エリウの丘に建つ聖エレイン大聖堂。『イレーネ』という名は大陸のもの。文字に記したものを発音すると、ダナンでは『エレイン』になる。
「はい。本当は聖女などではないのですが、本人です」
にっこりと笑う頬に、可愛らしいえくぼができた。
(本人?)
言葉を失い、目を丸くしたまま突っ立っているオルフェンに、イレーネが
「このたびは、王女さまも大変な目にお
窓から見える大地は
水の気配はない。
このお湯がどれほど貴重なものかは、オルフェンにも分かる。洗面器に手を差し入れるのがためらわれた。
イレーネはその思いを察したらしく、
「こちらにご用意しましたお
オルフェンが脱いだ白いマントにブラシをかけながら、さりげなく言い添える。
「エリウ、さま?」
「はい。エリウさまは若草の姫の守護を務めておいでです。王女殿下のご厚意に対するささやかなお礼、だそうですよ。だから、どうぞご遠慮はなさらないでくださいね」
今度は妖精女王だ。
(わたしの人生は、これからどうなってしまうのかしら)
ふと、女神に愛された王子と呼ばれる兄の、途方に暮れたような顔が心をよぎった。
中庭の小さな泉の
フィドルにこんな綺麗な音が出せるとは知らなかった。
弦と弓の
(この人が奏でる音色は、どうしてこんなに切ないのだろう)
ふと弓が止まる。
「姫、少しは落ち着かれましたか?」
邪魔をしないよう隠れていたつもりなのに、気づかれてしまった。
(もう少し、聴いていたかったのに)
黄金の髪の娘は、真っ白なドレスの
「陛下におかれましては、私のわがままからなる急な来訪をお受け下り、ありがとうございます。また、先ほどはたいそうお見苦しい姿をお目に掛けましたこと、
完璧で、しかしよそよそしい仕草と口調に、ドウンが
「どうかしましたか?」
「どうか、とは。何が、でしょう」
「いえ、人というのは不思議ですね。今のあなたは近寄りがたい感じがしますよ。そのドレスのせいでしょうか」
オルフェンが身に着けている白いドレスは、エリウからの贈り物である。
真珠のような
誰がどう仕立てたものか。ドレスにも帯にも、不思議なことに、どこにも
「ふうん……」
ドウンは
「私があなたに贈るなら――」
口調が変わる。
「そう、もっと違うものにしたいな。どうも私の好みに合わない」
死者の王の手が自分の方に差し出されるのを見て、オルフェンはびくっと身をすくめた。指先は彼女の髪をかすめ、すぐに離れる。
「この髪飾りも、ね」
しなやかな指に捕らえられたのは、一匹の白い
「不法侵入者かな。どうしようねえ」
蝶は羽をつままれたまま、ぴくりとも動かない。それをドウンは目の高さに持ち上げて、からかうような声で物騒なことを言った。
「握り
「だめ!」
オルフェンが勢いよく
「そんな残酷なことしないで!」
ぎゅうっと腕にしがみつく少女を見下ろし、冥界の王は
「ほんの冗談。この子を殺したら、私がエリウに殺される」
ぱっとドウンが指を離す。解放された蝶は何事もなかったかのように羽ばたいて、少し離れたところで少女の姿に変わった。
「
尼僧姿のイレーネは、平然と
「けれど、私にはここにいる資格がありますよ。死者の魂ですから」
「そうだね。あなたはここで迷っている魂たちとは全然違うけれど。でも歓迎するよ、大陸の聖女どの。
憂鬱な影、と聞いてオルフェンはあたりを見回した。
「さすがに、この中庭にはいないかな」
くつくつとドウンが笑う。
「亡者たちは、この城には近づいてこない。ずうっと飽きもせず、何もない荒れ地をうろつき回っているよ」
無関心の中に、
「私の領土が次の世への単なる通り道だということは、知っているだろう。ほとんどの魂がここを素通りしてゆく。ただ、生きていたころの世に強い思いを残す者たちだけが『安らぎの野』からの呼び声も聞かず、かといって元の世界にも戻れずに
「それは、どうにかしてあげられないの?」
ドウンが目を伏せて、ゆるやかに首を横に振る。
「無理だね」
その声はひどく優しげで、しかし取り付く島もなかった。
「彼ら自分の心の声だけを聞いている。外の景色は見たかい?」
「窓から、少しだけ」
「そう、それじゃ分からなかったかな。あれは彼らの心そのものだ。前の世からの思いに
「でも、それなら」
オルフェンは、ぎゅうっと両手を握りしめた。
「彼らがあなたの領土を荒らしているのなら、よけいに何とかしないといけないわ」
爪が柔らかな手のひらに食い込む。その激しさに、ドウンは驚いたように目を
「なぜあなたが、そんなことを気にするの? 私の領地がどうなろうと、あなたには関係ないだろう。ああ、それとも影の方を心配しているのかな。身内がいるかもしれないからね」
「そうじゃない、そうじゃなくて!」
伝えることのできないもどかしさに、オルフェンの語気が荒くなった。が、冥界の王は楽しげだった。
「ようやく、調子が戻りましたか」
ぽん、と軽く金の頭に手をのせる。
「そうやって向きになっている方が、ずっとチャーミングですよ。金のオルフェン」
「あっ」
すっかりカエル・モリカの、砦の城と同じ調子に戻っていた。
(なんて、無作法なことを)
オルフェンの頬がかっと熱くなった。
「そうだ。亡者どもなどより、もう少し面白いものをお見せしましょう。気に入っていただけるかどうかは分かりませんが」
ドウンは中庭の隅に向けて、高く指笛を吹き鳴らした。
その音を合図に、もっそりと何かが立ち上がった。とぼとぼと、力ない足取りでこちらに近づいてくる。
(オルフェンさま、用心なさってください)
イレーネがこっそりと
(ヤギ、かしら)
それは、二匹いた。
「さあ、お前たち。祝福されしダヌの娘、金の王女にご挨拶なさい」
ドウンの足元にぐったりと座り込んでうなだれた冥界の獣たちは、オルフェンが今までに見たことのない姿をしていた。
大きさはヤギと同じくらいだが、犬にも見えたし、豚にも見えた。ひどく年老いているのか、
敵意は感じられない。地に投げ出した前足に顎を乗せ、哀れな目で、静かにオルフェンの顔を見上げている。
(冥界の獣、精霊のようなものなのかしら)
よく見ると、二匹の体の色や模様、耳の形などに少しずつ違いがある。
怖いとは思わないが、どう接してよいのか分からない。
扱いに困り、オルフェンは
「この子たちは?」
「女神ダヌの
オルフェンが息をのむ。見開かれた青い瞳が、さらに大きくなった。
「あなたもご存じでしょう。はるか
冥界の王は
「皮肉なことですね。あの、みじめな死者の魂のおかげで私は消えずに済んだ。安らぎの国への旅路の途中にある『宿屋の主人』などという新たなお役目まで
「そんなこと……」
ドウンの瞳の奥に、また、面白がるような光がよぎった。
「お優しい姫君、この者たちを哀れと
冥界の神の苦しみも、この獣たちの思いも、自分には理解することなどできない。
ドウンが言うように、ここに住まうものたちにとって、オルフェンの来訪はサウィンの夜が見せる束の間の
(それでも、何かはしなくちゃ)
自分にできることは何だろう。
オルフェンは、二匹の
「わたしを助けてくれる?」
獣たちの
「あなたたちを、何て呼べばいいのかしら?」
獣からの返答はない。代わりにドウンが答えた。
「何とでも。名はとうに失われました。お好きなように」
冥界の王は腕を組み、楽しそうに成り行きを見守っている。
「それじゃ、地上世界にいる騎士と同じ名で呼んでもいい? わたしが知る限り、とても頼りになる人たちなの」
獣たちがちらりとドウンの方を見た。
「姫君のよろしいように」
「それじゃね、真っ黒なあなたはキアラン。赤い色が混じっているあなたはフラン。そう呼ぶことにするわ」
そばで聞いていたイレーネは思わず
キアラン。
フラン。
獣たちは「くうん」と甘えた声を出し、差し伸べられた手のひらに
その愛情と
「気に入ってくれたのかしら。嬉しいわ。どうぞよろしくね、キアラン、フラン」
ドウンは呆気にとられ、目を丸くしたまま、木にでもなったように突っ立っている。
イレーネはまだ、こみ上げる笑いを押さえることができない。。
「一本取られましたね、ドウンさま」
「あ、ああ。まったく、驚かせてくれる。とんでもない王女さまだ」
オルフェンはひとしきり新しい従者の毛皮を
毛まみれのドレスをつまんで、ドウンに向かって頭を下げる。
「それでは、陛下。わたしはこれから亡者の様子を見て参りますね」
「あ、ああ。お気をつけて……」
冥界の王は、そう答えるのが精一杯だった。
「キアラン、フラン、ついてらっしゃい」
すっかり
「お待ちください、殿下。私も参ります」
イレーネが後を追い、あとにはぽつんと、ドウンだけが残された。
途方に暮れた顔をして、白い薔薇を見下ろす。
「あなたの血族はどうなっているんですか、エレイン」
白い薔薇は何も言わず、そっと頭を揺らした。
城が遠くなる。
ようやくオルフェンは足を
大きく息を吸い込み、吐き出す。口の中がカラカラだ。今になって身体が震えてきた。
「驚きました」
小走りに追いついてきたイレーネが、息を
「あんなに堂々と神と渡り合う人間を、初めて見ました。さすがは王女さま、ですね」
堂々と? そんなことはない。
「怖かったわ」
声がかすれた。
「でも、怖いって認めてしまったら、心がくじけて、動けなくなるもの。
自分に言い聞かせるように、一語一語、
「それで、これからどうなさるのですか?」
こちらの方が楽だから、と蝶の姿に戻ったイレーネがオルフェンの右肩に止まる。
「ここで迷っている方々とお話しをしてみる」
「亡者と、お話しですか。できるのでしょうか」
「試してみる価値はあると思う。どのくらい前かは知らないけれど、みんなダナンに生きていた人たちで、わたしはダナンの王女なのだもの」
きっと前を見つめて、オルフェンは頷いた。
「やってみる。片っ端から捕まえて話しかける。次の世への道を見つけてもらう」
と、さっそくふらふらと揺れる影を見つけ、駆け出す。
影の動きはのろい。オルフェンと二匹の従者たちは、やすやすとその行く手に回り込んだ。
「すみません。少しお時間をいただけないかしら」
むき出しになったオルフェンの腕にうっすらと
(これがダヌの娘。ダナンの王女、金のオルフェン)
そうして、改めて彼女の勇気に感嘆した。