4.導く者
文字数 8,322文字
オルフェンは『死者の国』をふわふわ漂う亡者たちと話をしようと、努力を続けていた。
灰色の影たちは、オルフェンが近づくとするりと逃げる。ぱちんと弾けるように消えるものもいる。そうしてまた、オルフェンの手が届かないところにふわんとわだかまるのだった。
「どうしてなの?」
悔しそうにオルフェンが爪を噛 む。
その手に白い蝶が止まった。
「おやめくださいな。形が悪くなりますよ」
「イレーネ……」
オルフェンがゆっくりとその手を下ろした。
「やっぱり、無理なのかしら」
途方に暮れたようにうつむくその傍 らで、蝶が尼僧の姿に変わった。
「あなたの輝きが、強すぎるのですよ」
生きている人間は亡者を恐れるが、実際には命ある者の方が強いのだ。
「ここにいる影たちは生者の世界に恋い焦 がれ、命ある者たちをうらやんでいます。ですが、命の輝きはあの者たちには眩 しすぎるのです」
「そうなの?」
オルフェンが驚いたようにイレーネを見つめる。
「はい」
イレーネは寂しげに微笑んだ。
「私も命無き者ですから、分かります。オルフェン殿下、あなたの放つ金の光はあまりにも目映 く美しく、そして恐ろしい」
「わたしが、怖い?」
その言葉は衝撃だった。
(亡者にも、怖いと思う気持ちがあるの?)
生きている者からすれば、死者の霊は恐ろしい。よほど親しい間柄であれば話は別だが、できれば出くわしたくないと思う。身の毛がよだつ。それは本能的な恐れだ。嫌悪 に近いかもしれない。
ならば、それと同じような感覚を、あの影たちは自分に対して抱いているのか。本来なら『死者の国』に生者などいるはずがないのだから。
―――関わり合いになりたくない。
―――どうかそばに来ないでほしい。
―――見えないところに行ってほしい。
(そんな風に思われていたの?)
―――私が怖いですか?
冥界の神は尋ねた。
生者からも亡者たちからも畏怖 され、忌避 されることに慣れたものの孤独。あの時は気づかなかったけれど、なんと哀しい言葉だろう。
「ああ、誤解なさらないでくださいな」
オルフェンがしょんぼりとうなだれるのを見て、イレーネがなだめる。
「あなたの光は命無き者には恐ろしいほどに輝かしい。けれど、生への憧れや執着が強ければ強いほど、惹 かれずにはいられない。ほら、お気づきになりませんか?」
オルフェンは顔を上げ、イレーネが示す方を見た。
「あそこにも。あそこにも」
離れた場所に、亡者の影がいくつも揺らいでいる。心なしか、さきほどよりも数が増えているようだ。
「決して向こうからは近寄って来ませんけれど、あなたの光に魅 せられ、引き寄せられて来た者たちです」
その言葉に同意するように、くうん、と二匹の獣がオルフェンにすり寄る。
―――彷徨 う灰色の影たちに慈悲 深き救いの手を。
(わたしは、そんな大層な者じゃないけれど)
オルフェンは両手で獣たちをぎゅうっと抱きしめた。
「そうね。やってみるわ」
冥界の獣たちは嬉しそうに短い尾をパタパタと振った。
イレーネの助言でオルフェンはやり方を変えた。
「もっとゆっくり、こっそりと近づいて、そうっと話しかけましょう」
何度も逃げられて、失敗して、ようやく応じてくれる影が現れた。ひとり。ふたり。
それを他の影たちがじっと見ている。少しずつ反応が変わってゆく。逃げずにこちらが近づくのを待ってくれる。
なぜ次の世に向かわないのかというオルフェンの問いかけに、ある影は「生きている間に隠した己 れの財産が気になるのだ」と答えた。
「家の近くに隠したのなら、きっと家族が見つけて役立ててくれるわよ」
すると、「自分以外の者に使われるのは我慢がならない」と言う。
「じゃあ、様子を見てきたら? ちょうど今夜はサウィンだし、一度里帰りをしてもいいんじゃないかしら」
それもできないと言う。「自分が戻ったところを誰かに見られて、それでお宝の隠し場所を見つけられてしまったら、死んでも死に切れないのだ」と。
まるで笑い話のような、亡者の言い分。
今までのオルフェンなら、とっくに癇癪 を起こしているところだ。だが、それでは誰も救えない。
忍耐強く耳を傾け、思いやりの中にほんの少しの皮肉をこめてオルフェンは提案した。
「それはとても心配ね。ならば、隠し場所を忘れないうちに、早く生まれ変わった方がいいと思うわ。そうしたら自分で使えるじゃないの。一刻も早く『日没の向こうの国』に向かってはどうかしら」
ゆらゆらと落ち着き無く揺れていた灰色の影が、虚 を突かれたようにぴたりと動きを止める。その後、一瞬にして白い光に変わった。
そうして呆気 にとられるオルフェンの周りをくるっと回り、すうっと流れ星のように尾を引いてあっという間に赤黒く煙る空の向こうへと消えてしまった。
「あれで、よかったのかしら」
その様子をぽかんと見送って、オルフェンが呟 く。
「ええ。彼の迷いを断ち切る、最善の答えだったみたいですね」
オルフェンの肩の上で、蝶の姿になったイレーネが請 け合った。
「わたし、気負い過ぎていたのかもしれない」
ふう、とオルフェンが溜め息をつく。
「ここにいる亡者のみなさんは自分の立場を分かっていて、でも踏ん切りがつかなくて。どんなふうでもいいから、誰かが背中を押してくれるのを待っているのかもしれない」
ならば、生者と変わらない。
「あなたたちはどう思う?」
ぴったりと自分のそばに付き従う二匹の獣に話しかける。
「ずっと亡者たちを見守り続けてきたのだもの。わたしなんかより、ずっとよく分かってるわよね。どうかしら。わたしの考え方は合っているかしら」
神の世の英雄たち、キアランとフランがそれに答えてぱたぱたと短いしっぽを振る。その顔が笑っているように見えた。
「ありがとう。心強いわ」
お礼に、と、まだらに毛の抜けた背中を掻 いてやる。ごっそりと綿ぼこりのような塊 が剥 がれてオルフェンの指にからみついた。オルフェンは少し驚いた顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。
「ああ、毛変わりの時期だったのね」
二匹の顔を交互に見ながら話しかける。
「冬毛が生えそろったら、きっと綺麗な姿になるわ。私が保証する。昔飼っていた犬もそうだったもの」
頭をなでてやると、獣たちは気持ちよさそうに目を細めた。
垂れた耳、長い鼻面。
犬、と口に出すと、彼らが地上の犬に近い姿に見えてきた。オルフェンが飼っていた犬よりはかなり大型で。そう、狩猟犬に近い。
「オルフェンさま、あちらを」
イレーネの声に振り返る。
彷徨 える亡者がひとり、向こうから近づいてくる。
ふらふらと揺れる影は、この地で見た影の中で、最も人らしい形を保っていた。
背の高い男性だ。長いマントと首環 を身につけている。生きているときには高貴な身分だったに違いない。
「お嬢さん」
はっきりとした声音 で、影が話しかけてきた。
「私の話も、聞いてもらえるだろうか」
古風なアクセント。綺麗な発音。オルフェンの背筋が自然と伸びた。
「ええ、もちろんです。どうぞお話しください」
*
走って、走って、走り続けて―――。
フランは息が上がってきた。
ワタリガラスは真っ直ぐに飛んで行く。角を曲がりもせず、横道に逸 れることもない。なのに、同じ風景が何度も立ち現れる。一度や二度ではない。まるで狭い場所をぐるぐると回っているかのように。
フランは知っている。これは必要な手続きだ。
例えば、魔法を使って弾指 の間に遠い場所に移動する。傍 から見れば、易々 と術を使っているように見えるだろう。しかし、行ったことのない場所に跳 ぶことはできない。瞬時に離れた場所に跳ぶためには、前もって入念な準備を施しておく必要がある。
生身の、しかも『不死の呪 い』の掛かった体で『死者の国』に入るのだ。いきなり冷たい水に飛び込むようなもの。カラスはその危険を知っていて、安全な道を選んでくれている。
「痛っ」
汗が目に入る。ごしごしと目をこするフランの前に、音もなく、妖精たちの群れが飛び出してきた。避ける暇も無い。フランはたたらを踏んだ。
「おっと」
無音の集団はフランに気づきもしない。陽気に騒ぎ、踊りながら横切ってゆく。その何人かがフランの体を通り抜けていった。
先導役のカラスが羽ばたきながら宙で停止し、くるりと向きを変えてフランの方を向いた。
「そろそろあんたの目にも、あの世への入り口が見えてくるころだ。景色が他の所よりぼんやりと黒ずんでいるところ。分かるかい?」
フランは前方に目を凝 らした。そうしてゆっくりと視線を少しずつ右へ、左へ移動させる。
少し離れた場所、頭の高さほどのところに黒い闇がぽかりと浮かんでいるのが見えた。丸く渦を巻いている。
「あそこか」
「分かったようだね。それじゃ、ここでお別れだ。あんたの幸 いを祈っているよ」
「恩に着る!」
カラスに軽く手を上げて、フランは黒い闇の中へと踏み込んだ。
マクドゥーンの姿が渦の中に消えるのを見届けると、カラスはちょこんと着地した。
茅葺きの屋根の上。周囲に元の喧噪 が戻ってくる。
「やれやれ、無事に行ったか」
そう呟 くと戦利品を足下に置いた。
表を向いた面にはクローバーが描かれている。ありふれたデザインだ。くるりとメダルを裏返して、カラスは目をぱちくりさせて笑った。
「おやおや。これはなかなか味なこと」
もう片面にはマクドゥーンの兄、聖ヨハネルの横顔が刻印されていた。
*
居住まいを正したオルフェンの前で、
「少々長くなるのだが」
そう前置きをしてから男は話し始めた。
「私には、妖精の恋人がいた」
ふとオルフェンは、砦の城でドウンが聞かせてくれた『風鈴草の歌』を思い出した。
私の太陽は遠くに行ったきり
他の誰かを照らしている
「もともと世話好きな性質であったのか、行き届きすぎるほどよく尽くしてくれた。それは私が結婚してからも変わらなかった」
歌と同じだ。オルフェンは眉をひそめた。
「恋人がいたのに、他の方と結婚なさったの?」
「ああ、私の妻は人間だ」
「それは、不実ではなくて?」
男は「なにが?」と不思議そうに首をかしげる。
「あなたの恋人は自分以外の方と結婚するのを、悲しくお思いになったでしょう」
「いや、特にそのような様子はなかったが……」
「察しの悪い方ね」
風鈴草の谷はずっと夜のまま
花が咲く日は来ない
「もう、これだから男の方は!」
影は困惑したようにゆらゆらと揺れている。なぜ怒られているのか分からない、と本気で思っているらしい。オルフェンは溜め息をついた。
「いいわ、その件は後でじっくりとお話ししましょう。続けてくださいな」
「分かった」
ひとつ頷くと、男は再び語り始める。
「妻となった女性は、その周辺一帯を治める部族の長 の家系だった。私は選ばれて、彼女の隣に座する栄誉を得たのだ」
本人の実力というより、妖精の恋人のおかげなのだろう、とオルフェンは密 かに思った。
「妻は統治者として優れた手腕を持っていた。人心を掴 むことにも、また軍事にも長 けていた。妻が女王として君臨すると、領土は拡大していった」
(あの、オルフェンさま……)
肩の上でイレーネが囁 く。オルフェンは顔を男の方に向けたままゆっくり頷いた。
思うところ、言いたいことはいろいろあるが、今は心のままに語ってもらおう。
「私は妻を愛していたが、同時に恐れてもいた。どこまで進めば彼女は満足するのだろうか、と。支配者としての彼女は貪欲 だった。自分の国を富ませるためなら、己れの手を汚すことも厭 わない。子が生まれれば、母として穏 やかな生活を望むようになるのではと期待をかけたが、叶 わなかった。私の人生は、このまま戦乱に明け暮れるのだろうか。歴戦の強者たちでさえ、死は避けてはくれない。自分の身は恋人に守られてはいるが、目の前で次々と人が死んでゆくのを見るのは心が痛かった。無辜 の民も、多くが止むことの無い戦さに巻き込まれて失われていった。朝には元気だった者が、夜には冷たい骸 に変わる。そうして烏や野の獣たちの腹を満たす。このような世がいつまで続くのだろう。嘆きの声が耳から離れない。耐えられなかった」
歴史書が語らない、当事者だけが知る事実だ。
(なるほど。そういう経緯 があったのね)
妖精からの贈り物。癒 しの祝福 。
「悪気があったとは思わない。善意から出た行為だと信じている。周囲の者たちはそうは思わなかったようだがね。幼い娘が癒しの手を持つことになったのは、素直に嬉しかった。相当のことがない限り娘の身は安全になったのだし、娘が怪我を負った兵士たちを気遣って日暮れの陣内 をちょこちょこと走り回っている姿は微笑ましく、見ると心が軽くなった。あの子が過酷 な運命を背負わされたことに、当時は全く気づいていなかったのだ」
オルフェンの推測は確信に変わった。
目の前にいる亡者は、間違いなく自分のご先祖だ。
「おかしいと気づいたのは、妻の方が早かった。同じ年頃の娘たちが女らしいまろみを帯びるようになっても、華奢 な少女のまま。それ以上おとなになることがなかった。そうしてあどけなさを残したまま二十歳の誕生日を迎えた日、私たちは大魔法使いの口から、彼女が不死の身であることを知らされたのだ」
内心の苦悩を映して、影は身もだえするように揺れてねじれた。
「呪われた娘。人々はそう噂した。この国の者たちは死をもたらす苦痛は恐れても、死そのものはそれほど恐れない。魂がまた転生することを知っているからだ。人の身でありながら『不死』となることは、この地に生きるものとしての道に背 くことだ。妖精の娘は呪いをかけた咎 で追放され、娘は年老いた隣国の領主に嫁いだ。娘が遠くに行ってしまうと、正直私はほっとした。姿を見るのも辛かったから」
ここでオルフェンの怒りがピークに達した。
「あなたねえ!」
語気荒く、先祖である男に詰め寄る。男はびくっと身を縮め、背後の木に張り付いた。
「自分が情けないと思わないの? 何ひとつ自分で決めていないじゃないの。みんな周りにお膳立 てしてもらって、助けられているのが当たり前みたいになってて、自分から恋人や女王さまに何ひとつしてあげていないじゃないの!」
勢いに圧 されて、男の影はぴたりと木の幹にくっついたまま、どんどん平たく小さくなってゆく。人の形を保つのが精一杯の亡者に、オルフェンはさらに追い打ちをかけた。
「呪われた娘ですって? 見ているのが辛いって、本人の方が辛いに決まってるわよ。でも文句ひとつ言わずに、親の都合を受け入れて、愛せるかどうかも分からない相手との政略結婚に臨 んだのでしょう? エレインが可哀そうよ!」
「私は平凡な男なんだ。大それた望みは持っていなかった。愛する家族との穏やかな暮らしを望むちっぽけな人間で……」
ぶるぶると震えながら言い訳を試みた影は、はっと顔を起こした。
「エレイン? お嬢さんは娘を知っているのか? それとも、私が娘の名を教えたんだったか」
とぼけた言い様に、オルフェンは溜め息をついた。
「知っているわよ。お友達になったんだもの」
「あの子が、呪われた娘だと知って?」
「だから、その呪われた、って言うのやめなさいよ。最初は知らなかったけど、今は知っているわよ。だからどうだっていうの? エレインはエレイン。それだけよ」
腕組みをして右の足先でとんとんと地面を叩きながら、オルフェンはかつて王であった者を睨 めつける。男は、そんな娘を珍しいものでも見るように、つくづくと眺めた。
「ひとつ尋ねたいのだが」
「なあに?」
「お嬢さんは、何者かな?」
おずおずと窺 う影を見下ろすように顎を上げ、手を腰に当てて、オルフェンは尊大に答えた。
「わたしの名前はオルフェン。父はダナンの王、母は女王。つまりわたしは、あなたの子孫ってことよ。初めまして、ご先祖様」
クネド王は何も言わなかった。
赤茶けた土の上、枯れ木の根元にぺたんと座り込んでいる。ややあって、恐る恐る、といった風情で尋ねる。
「子孫?」
「そうよ」
「お嬢さんが、私の?」
「ご不満かしら」
「とんでもない!」
びくっと飛び上がって、ぶんぶんと手と頭を振り、勢い込んで否定する。
「こんなに立派な子孫に恵まれるとは、なんという僥倖 だろうか。妻が知ったら喜ぶだろう。ああ、よく見ればその見事な金髪と勝気そうな青い瞳は妻によく似て……」
卑屈、と言っても差し支えのない統一王の姿に、オルフェンの怒りが冷えた。
イレーネはくすくす忍び笑いを洩らしている。
「もう、いいわ。それで、ご先祖様はどうして二百年もここに留まっておられるの?」
「二百年? そんなになるのか。あの日、あの子が湖の女王の島で……」
今度は遠くを懐かしむ口調になる。放っておいたら、また話がどこかに行ってしまう。
「わたしの問いに答えていただけるかしら」
オルフェンはばっさりと切り捨てた。
子孫の剣幕 に、イニス・ダナエ伝説の王、クネドはびくっと怯 んだ。
「い、いや。その。あ、何故私がここに留まっているかというと、娘が心配だったからだ」
慌てて話を戻す。
「心から愛し、愛される者と出会うことができなければ、あの子は永遠に一人ぼっちだ。あの子の行く末を見届けない限り、私は次の世へと旅立つことができないのだ」
「それじゃ、エレインのそばにいってあげたらどう? さっきの人にも言ったけど、今夜はサウィンなのよ。死者が地上に帰ってもいい日なのに」
「合わせる顔がなくて。それに、嫌われていたらどうしようか、と」
これが年頃の娘と喧嘩をした直後の父親の言葉だったら、オルフェンは微笑ましいと思っただろう。
しかし―――
「一度くらい試してみなさいよ! 今までに何度サウィンがあったと思っているの!」
「い、いや。たまに、気が向いた時に冥界の王が消息を教えてくれるし、機を見計らって」
「その機はいつ来るの? ああ、もう。情けないったら!」
「す、すまない」
「オルフェンさま、そのへんで」
「そうね。取り乱して悪かったわ。それじゃ、子孫から有難い助言をひとつ」
息を整え、ひとつ咳払いをしてから噛んで含めるように話す。
「エレインが永遠に一人ぼっち、だなんて。そんな心配はしなくていいわ。エレインにはエレインの人生があるの。あの子を愛する人はいる。今は口に出さなくてもね。エレインがその人を愛するようになるかどうかは、その人の努力次第ね。それから、嫌われている、ってこともないと思う。現在のあの子が、王女だったころの記憶を失っているのは、当然ご存じよね。兄さまからの又聞きだけれど、それでも眠っているときに泣きながら『お父さま』って口にすることがあったそうよ。聞いたのは猫のシャトン。耳はいいから間違いないと思うわ」
「ほ、本当か?」
うろたえるご先祖に、鷹揚に頷いて見せると、最後の一言を言い放つ。
「彼女なら今、ケイドンの森の隠者の庵にいるはずよ。さっさと会いに行ってあげなさい。ほら、ぐずぐずしないの。今、すぐに。じゃないと蹴り飛ばすわよ!」
ひゅうっ、という音が聞こえそうな勢いで、影は逃げるようにどこかへと流れて行った。
「お手柄ですね」
イレーネの褒め言葉も、なぜか虚 しく聞こえる。
「あの人の血を継いでいるのね。兄さまも、わたしも」
オルフェンは盛大に溜め息をついた。
「なんだかとても疲れたわ。もうひとつだけ仕事をしたら、ドウンさまのお城に帰りましょう」
「お仕事、ですか。どのような?」
「イレーネ、『安らぎの野』がどちらにあるか、分かる?」
「はい。ここからそう遠くはありませんよ」
「そこに目印をつけたらどうか、と思って。大体、この重苦しい雰囲気が良くないのよ。ここに長い間留まっていたら気が滅入 るのも当然よ」
「あら、オルフェンさまでもそう思われますか」
亡者たちの抱える暗い思いが、この地に澱 む。その澱みにまた。亡者たちが囚われる。悪循環だ。
「ええ。たとえ一時的に道を見失っても、『安らぎの野』への入り口に分かりやすい目印があれば、迷える亡者の数も減るんじゃないかしら」
「分かりました。でも、ドウンさまの許可をいただいてからですよ。まずは仮の印だけにしてくださいね」
「ええ。そうするわ」
オルフェンは金の帯の結び目から、十字に組んだナナカマドの枝を取り出した。祭りに出かける前、マクドゥーンがくれた手製の魔除けだ。
「それじゃ、案内をお願いね。キアラン、フラン、行くわよ」
二匹の犬がしっぽを振って後を追いかける。
獣たちの毛並みは、城を出る時に比べると見違えるほど変化していた。
灰色の影たちは、オルフェンが近づくとするりと逃げる。ぱちんと弾けるように消えるものもいる。そうしてまた、オルフェンの手が届かないところにふわんとわだかまるのだった。
「どうしてなの?」
悔しそうにオルフェンが爪を
その手に白い蝶が止まった。
「おやめくださいな。形が悪くなりますよ」
「イレーネ……」
オルフェンがゆっくりとその手を下ろした。
「やっぱり、無理なのかしら」
途方に暮れたようにうつむくその
「あなたの輝きが、強すぎるのですよ」
生きている人間は亡者を恐れるが、実際には命ある者の方が強いのだ。
「ここにいる影たちは生者の世界に恋い
「そうなの?」
オルフェンが驚いたようにイレーネを見つめる。
「はい」
イレーネは寂しげに微笑んだ。
「私も命無き者ですから、分かります。オルフェン殿下、あなたの放つ金の光はあまりにも
「わたしが、怖い?」
その言葉は衝撃だった。
(亡者にも、怖いと思う気持ちがあるの?)
生きている者からすれば、死者の霊は恐ろしい。よほど親しい間柄であれば話は別だが、できれば出くわしたくないと思う。身の毛がよだつ。それは本能的な恐れだ。
ならば、それと同じような感覚を、あの影たちは自分に対して抱いているのか。本来なら『死者の国』に生者などいるはずがないのだから。
―――関わり合いになりたくない。
―――どうかそばに来ないでほしい。
―――見えないところに行ってほしい。
(そんな風に思われていたの?)
―――私が怖いですか?
冥界の神は尋ねた。
生者からも亡者たちからも
「ああ、誤解なさらないでくださいな」
オルフェンがしょんぼりとうなだれるのを見て、イレーネがなだめる。
「あなたの光は命無き者には恐ろしいほどに輝かしい。けれど、生への憧れや執着が強ければ強いほど、
オルフェンは顔を上げ、イレーネが示す方を見た。
「あそこにも。あそこにも」
離れた場所に、亡者の影がいくつも揺らいでいる。心なしか、さきほどよりも数が増えているようだ。
「決して向こうからは近寄って来ませんけれど、あなたの光に
その言葉に同意するように、くうん、と二匹の獣がオルフェンにすり寄る。
―――
(わたしは、そんな大層な者じゃないけれど)
オルフェンは両手で獣たちをぎゅうっと抱きしめた。
「そうね。やってみるわ」
冥界の獣たちは嬉しそうに短い尾をパタパタと振った。
イレーネの助言でオルフェンはやり方を変えた。
「もっとゆっくり、こっそりと近づいて、そうっと話しかけましょう」
何度も逃げられて、失敗して、ようやく応じてくれる影が現れた。ひとり。ふたり。
それを他の影たちがじっと見ている。少しずつ反応が変わってゆく。逃げずにこちらが近づくのを待ってくれる。
なぜ次の世に向かわないのかというオルフェンの問いかけに、ある影は「生きている間に隠した
「家の近くに隠したのなら、きっと家族が見つけて役立ててくれるわよ」
すると、「自分以外の者に使われるのは我慢がならない」と言う。
「じゃあ、様子を見てきたら? ちょうど今夜はサウィンだし、一度里帰りをしてもいいんじゃないかしら」
それもできないと言う。「自分が戻ったところを誰かに見られて、それでお宝の隠し場所を見つけられてしまったら、死んでも死に切れないのだ」と。
まるで笑い話のような、亡者の言い分。
今までのオルフェンなら、とっくに
忍耐強く耳を傾け、思いやりの中にほんの少しの皮肉をこめてオルフェンは提案した。
「それはとても心配ね。ならば、隠し場所を忘れないうちに、早く生まれ変わった方がいいと思うわ。そうしたら自分で使えるじゃないの。一刻も早く『日没の向こうの国』に向かってはどうかしら」
ゆらゆらと落ち着き無く揺れていた灰色の影が、
そうして
「あれで、よかったのかしら」
その様子をぽかんと見送って、オルフェンが
「ええ。彼の迷いを断ち切る、最善の答えだったみたいですね」
オルフェンの肩の上で、蝶の姿になったイレーネが
「わたし、気負い過ぎていたのかもしれない」
ふう、とオルフェンが溜め息をつく。
「ここにいる亡者のみなさんは自分の立場を分かっていて、でも踏ん切りがつかなくて。どんなふうでもいいから、誰かが背中を押してくれるのを待っているのかもしれない」
ならば、生者と変わらない。
「あなたたちはどう思う?」
ぴったりと自分のそばに付き従う二匹の獣に話しかける。
「ずっと亡者たちを見守り続けてきたのだもの。わたしなんかより、ずっとよく分かってるわよね。どうかしら。わたしの考え方は合っているかしら」
神の世の英雄たち、キアランとフランがそれに答えてぱたぱたと短いしっぽを振る。その顔が笑っているように見えた。
「ありがとう。心強いわ」
お礼に、と、まだらに毛の抜けた背中を
「ああ、毛変わりの時期だったのね」
二匹の顔を交互に見ながら話しかける。
「冬毛が生えそろったら、きっと綺麗な姿になるわ。私が保証する。昔飼っていた犬もそうだったもの」
頭をなでてやると、獣たちは気持ちよさそうに目を細めた。
垂れた耳、長い鼻面。
犬、と口に出すと、彼らが地上の犬に近い姿に見えてきた。オルフェンが飼っていた犬よりはかなり大型で。そう、狩猟犬に近い。
「オルフェンさま、あちらを」
イレーネの声に振り返る。
ふらふらと揺れる影は、この地で見た影の中で、最も人らしい形を保っていた。
背の高い男性だ。長いマントと
「お嬢さん」
はっきりとした
「私の話も、聞いてもらえるだろうか」
古風なアクセント。綺麗な発音。オルフェンの背筋が自然と伸びた。
「ええ、もちろんです。どうぞお話しください」
*
走って、走って、走り続けて―――。
フランは息が上がってきた。
ワタリガラスは真っ直ぐに飛んで行く。角を曲がりもせず、横道に
フランは知っている。これは必要な手続きだ。
例えば、魔法を使って
生身の、しかも『不死の
「痛っ」
汗が目に入る。ごしごしと目をこするフランの前に、音もなく、妖精たちの群れが飛び出してきた。避ける暇も無い。フランはたたらを踏んだ。
「おっと」
無音の集団はフランに気づきもしない。陽気に騒ぎ、踊りながら横切ってゆく。その何人かがフランの体を通り抜けていった。
先導役のカラスが羽ばたきながら宙で停止し、くるりと向きを変えてフランの方を向いた。
「そろそろあんたの目にも、あの世への入り口が見えてくるころだ。景色が他の所よりぼんやりと黒ずんでいるところ。分かるかい?」
フランは前方に目を
少し離れた場所、頭の高さほどのところに黒い闇がぽかりと浮かんでいるのが見えた。丸く渦を巻いている。
「あそこか」
「分かったようだね。それじゃ、ここでお別れだ。あんたの
「恩に着る!」
カラスに軽く手を上げて、フランは黒い闇の中へと踏み込んだ。
マクドゥーンの姿が渦の中に消えるのを見届けると、カラスはちょこんと着地した。
茅葺きの屋根の上。周囲に元の
「やれやれ、無事に行ったか」
そう
表を向いた面にはクローバーが描かれている。ありふれたデザインだ。くるりとメダルを裏返して、カラスは目をぱちくりさせて笑った。
「おやおや。これはなかなか味なこと」
もう片面にはマクドゥーンの兄、聖ヨハネルの横顔が刻印されていた。
*
居住まいを正したオルフェンの前で、
「少々長くなるのだが」
そう前置きをしてから男は話し始めた。
「私には、妖精の恋人がいた」
ふとオルフェンは、砦の城でドウンが聞かせてくれた『風鈴草の歌』を思い出した。
私の太陽は遠くに行ったきり
他の誰かを照らしている
「もともと世話好きな性質であったのか、行き届きすぎるほどよく尽くしてくれた。それは私が結婚してからも変わらなかった」
歌と同じだ。オルフェンは眉をひそめた。
「恋人がいたのに、他の方と結婚なさったの?」
「ああ、私の妻は人間だ」
「それは、不実ではなくて?」
男は「なにが?」と不思議そうに首をかしげる。
「あなたの恋人は自分以外の方と結婚するのを、悲しくお思いになったでしょう」
「いや、特にそのような様子はなかったが……」
「察しの悪い方ね」
風鈴草の谷はずっと夜のまま
花が咲く日は来ない
「もう、これだから男の方は!」
影は困惑したようにゆらゆらと揺れている。なぜ怒られているのか分からない、と本気で思っているらしい。オルフェンは溜め息をついた。
「いいわ、その件は後でじっくりとお話ししましょう。続けてくださいな」
「分かった」
ひとつ頷くと、男は再び語り始める。
「妻となった女性は、その周辺一帯を治める部族の
本人の実力というより、妖精の恋人のおかげなのだろう、とオルフェンは
「妻は統治者として優れた手腕を持っていた。人心を
(あの、オルフェンさま……)
肩の上でイレーネが
思うところ、言いたいことはいろいろあるが、今は心のままに語ってもらおう。
「私は妻を愛していたが、同時に恐れてもいた。どこまで進めば彼女は満足するのだろうか、と。支配者としての彼女は
歴史書が語らない、当事者だけが知る事実だ。
(なるほど。そういう
妖精からの贈り物。
「悪気があったとは思わない。善意から出た行為だと信じている。周囲の者たちはそうは思わなかったようだがね。幼い娘が癒しの手を持つことになったのは、素直に嬉しかった。相当のことがない限り娘の身は安全になったのだし、娘が怪我を負った兵士たちを気遣って日暮れの
オルフェンの推測は確信に変わった。
目の前にいる亡者は、間違いなく自分のご先祖だ。
「おかしいと気づいたのは、妻の方が早かった。同じ年頃の娘たちが女らしいまろみを帯びるようになっても、
内心の苦悩を映して、影は身もだえするように揺れてねじれた。
「呪われた娘。人々はそう噂した。この国の者たちは死をもたらす苦痛は恐れても、死そのものはそれほど恐れない。魂がまた転生することを知っているからだ。人の身でありながら『不死』となることは、この地に生きるものとしての道に
ここでオルフェンの怒りがピークに達した。
「あなたねえ!」
語気荒く、先祖である男に詰め寄る。男はびくっと身を縮め、背後の木に張り付いた。
「自分が情けないと思わないの? 何ひとつ自分で決めていないじゃないの。みんな周りにお
勢いに
「呪われた娘ですって? 見ているのが辛いって、本人の方が辛いに決まってるわよ。でも文句ひとつ言わずに、親の都合を受け入れて、愛せるかどうかも分からない相手との政略結婚に
「私は平凡な男なんだ。大それた望みは持っていなかった。愛する家族との穏やかな暮らしを望むちっぽけな人間で……」
ぶるぶると震えながら言い訳を試みた影は、はっと顔を起こした。
「エレイン? お嬢さんは娘を知っているのか? それとも、私が娘の名を教えたんだったか」
とぼけた言い様に、オルフェンは溜め息をついた。
「知っているわよ。お友達になったんだもの」
「あの子が、呪われた娘だと知って?」
「だから、その呪われた、って言うのやめなさいよ。最初は知らなかったけど、今は知っているわよ。だからどうだっていうの? エレインはエレイン。それだけよ」
腕組みをして右の足先でとんとんと地面を叩きながら、オルフェンはかつて王であった者を
「ひとつ尋ねたいのだが」
「なあに?」
「お嬢さんは、何者かな?」
おずおずと
「わたしの名前はオルフェン。父はダナンの王、母は女王。つまりわたしは、あなたの子孫ってことよ。初めまして、ご先祖様」
クネド王は何も言わなかった。
赤茶けた土の上、枯れ木の根元にぺたんと座り込んでいる。ややあって、恐る恐る、といった風情で尋ねる。
「子孫?」
「そうよ」
「お嬢さんが、私の?」
「ご不満かしら」
「とんでもない!」
びくっと飛び上がって、ぶんぶんと手と頭を振り、勢い込んで否定する。
「こんなに立派な子孫に恵まれるとは、なんという
卑屈、と言っても差し支えのない統一王の姿に、オルフェンの怒りが冷えた。
イレーネはくすくす忍び笑いを洩らしている。
「もう、いいわ。それで、ご先祖様はどうして二百年もここに留まっておられるの?」
「二百年? そんなになるのか。あの日、あの子が湖の女王の島で……」
今度は遠くを懐かしむ口調になる。放っておいたら、また話がどこかに行ってしまう。
「わたしの問いに答えていただけるかしら」
オルフェンはばっさりと切り捨てた。
子孫の
「い、いや。その。あ、何故私がここに留まっているかというと、娘が心配だったからだ」
慌てて話を戻す。
「心から愛し、愛される者と出会うことができなければ、あの子は永遠に一人ぼっちだ。あの子の行く末を見届けない限り、私は次の世へと旅立つことができないのだ」
「それじゃ、エレインのそばにいってあげたらどう? さっきの人にも言ったけど、今夜はサウィンなのよ。死者が地上に帰ってもいい日なのに」
「合わせる顔がなくて。それに、嫌われていたらどうしようか、と」
これが年頃の娘と喧嘩をした直後の父親の言葉だったら、オルフェンは微笑ましいと思っただろう。
しかし―――
「一度くらい試してみなさいよ! 今までに何度サウィンがあったと思っているの!」
「い、いや。たまに、気が向いた時に冥界の王が消息を教えてくれるし、機を見計らって」
「その機はいつ来るの? ああ、もう。情けないったら!」
「す、すまない」
「オルフェンさま、そのへんで」
「そうね。取り乱して悪かったわ。それじゃ、子孫から有難い助言をひとつ」
息を整え、ひとつ咳払いをしてから噛んで含めるように話す。
「エレインが永遠に一人ぼっち、だなんて。そんな心配はしなくていいわ。エレインにはエレインの人生があるの。あの子を愛する人はいる。今は口に出さなくてもね。エレインがその人を愛するようになるかどうかは、その人の努力次第ね。それから、嫌われている、ってこともないと思う。現在のあの子が、王女だったころの記憶を失っているのは、当然ご存じよね。兄さまからの又聞きだけれど、それでも眠っているときに泣きながら『お父さま』って口にすることがあったそうよ。聞いたのは猫のシャトン。耳はいいから間違いないと思うわ」
「ほ、本当か?」
うろたえるご先祖に、鷹揚に頷いて見せると、最後の一言を言い放つ。
「彼女なら今、ケイドンの森の隠者の庵にいるはずよ。さっさと会いに行ってあげなさい。ほら、ぐずぐずしないの。今、すぐに。じゃないと蹴り飛ばすわよ!」
ひゅうっ、という音が聞こえそうな勢いで、影は逃げるようにどこかへと流れて行った。
「お手柄ですね」
イレーネの褒め言葉も、なぜか
「あの人の血を継いでいるのね。兄さまも、わたしも」
オルフェンは盛大に溜め息をついた。
「なんだかとても疲れたわ。もうひとつだけ仕事をしたら、ドウンさまのお城に帰りましょう」
「お仕事、ですか。どのような?」
「イレーネ、『安らぎの野』がどちらにあるか、分かる?」
「はい。ここからそう遠くはありませんよ」
「そこに目印をつけたらどうか、と思って。大体、この重苦しい雰囲気が良くないのよ。ここに長い間留まっていたら気が
「あら、オルフェンさまでもそう思われますか」
亡者たちの抱える暗い思いが、この地に
「ええ。たとえ一時的に道を見失っても、『安らぎの野』への入り口に分かりやすい目印があれば、迷える亡者の数も減るんじゃないかしら」
「分かりました。でも、ドウンさまの許可をいただいてからですよ。まずは仮の印だけにしてくださいね」
「ええ。そうするわ」
オルフェンは金の帯の結び目から、十字に組んだナナカマドの枝を取り出した。祭りに出かける前、マクドゥーンがくれた手製の魔除けだ。
「それじゃ、案内をお願いね。キアラン、フラン、行くわよ」
二匹の犬がしっぽを振って後を追いかける。
獣たちの毛並みは、城を出る時に比べると見違えるほど変化していた。