1.死者の王

文字数 1,767文字

 白い蝶を見送った後、ドウンはひとり風の中にいた。
 海鳥の声がやけにやかましい。岸壁に巣があるのだろう。
 日が西に傾いてゆく。空が赤く染まり、カエル・モリカの町が黒いシルエットの中に沈んでゆく。あの夕日が向かう方角に、生あるものの魂が帰る場所がある。

 彼の()べる領土は、生あるものたちの世界と『安らぎの園』の狭間(はざま)にある。冥界(めいかい)、あるいは『死者の国』と呼ばれる異界である。
 かつて、自分にはもっと違う役割があったはずなのだが。あまりに遠い昔なので思い出すことができない。
 女神ダヌ率いる神々に敗北を(きっ)してから、彼と彼を取り巻く世界は一変(いっぺん)した。共に戦ったものたちは神としての姿を失ってちりぢりになり、消息も知れない。なぜ自分だけが存在を許されたのか、その理由を彼は知らない。
 女神の思し召しとやらは分からない。
 ダヌの支配下にあって彼の領土として定められた、死者の国。
 この地に光が差すことはない。砂埃(すなぼこり)のような(もや)の中に、ぼんやりと荒野が広がるばかりだ。
 葉を落とした木々の(こずえ)から聞こえるのは、ワタリガラスのしわがれた鳴き声だけ。
 地を動くものといえば、次の世への道を見い出せずさまよう亡者(もうじゃ)のみ。
 そんな無表情な赤茶(あかちゃ)けた世界に、一人の娘が現れた。
 名をエレインという。
 (おのれ)の正体すら定かでないうすぼんやりとした亡者の中にあって、彼女は明らかに異質だった。まばゆい命の輝きがその身からあふれていた。
 彼女が歩むと、その(あと)に柔らかな緑が芽吹いた。彼女が触れた枯れ枝は(つぼみ)をつけ、愛らしい花を咲かせた。
 ―― 奇妙な娘だ。
 ドウンは自分の心が動くのを感じた。
 その感情は、変化のない世界でゆるゆると、永遠にも近い時を過ごしてきたドウンにとって不可解なものだった。が、決して不快ではなかった。
 夜の眠りの間に生者の魂が彼の領土を訪れることは、ままある。しかし長くとどまることはない。ふいと消えれば、ああ地上に朝日が昇ったのだと分かる。。
 しかし、地上の時間にして二百年近く、彼女はここに留まった。
 その娘が何者で、どういう経緯(いきさつ)でここに来たのか。そのようなことはどうでもよいことだった。娘がときおり地上のことを語る、その声を聞くのは心地よかった。歌うのを聞けば、胸に優しいさざ波が立った。
 何の前触れもなく、エレインが地上世界に呼び戻されたとき、冥界は深い喪失感(そうしつかん)に満たされた。
 そのとき、ドウンは初めて自分の心を知った。
 ―― 退屈。
 彼はとうに、冥界の神という地位に()いていたのだ。延々(えんえん)と黄昏の中に(まど)う亡者たちの『番人』という役割に。
 思いがけず与えられ、すぐに取り上げられた(つか)の間の夢。
 その夢は、彼に失っていた感情を思い出させた。失ったままの方が幸せだった――と彼は思った。
 どういうわけか、彼女の魂の半分が冥界に残された。地上の事情など知るよしもない。しかしその輝きは間違いようもなく、彼女の一部であった。
 取り残された魂の半分は白い薔薇となり、彼女の過去の記憶と共に彼の領土で眠っている。その傍らで風が、木の葉が、彼女の名を呼びながら哀しい歌を歌っている。その歌を聴き続けるのは苦痛だった。
 耐えきれず、生者の世界にさまよい出た自分がここにいる。

 ヒースの野から砦の城へと戻る。
 町の家々に灯された明かりが、暖かな星のように(またた)いている。
 城に入れば従者見習いの少年が駆け回っている。次々と燭台に火が灯されてゆく。ぽつんぽつんと増えてゆく火は、さながら闇から()き出し流れる光の小川だ。
 辺鄙(へんぴ)な地であるというのに、どこもかしこも生者の活気に満ちている。うるさいほどだ。
 中庭に回って林檎の木の下に立ち、王子の居室を見上げた。
 今、手の届くところに彼が求めてやまぬ乙女がいる。
 彼が生者の運命に関わることは許されない。しかし彼女の魂の半分は彼の領土にある。
 もし彼女が本心から望めば、ここから連れ去ることができるだろうか。
 そもそも、なぜ自分は彼女と出会ったのだろう。そこにどんな意味があるというのか。出会いさえしなければ、このような迷いとは無縁でいられたはずだ。じわじわとやってくる消滅のときを待つことができたであろうに。
「女神のなさることは、分からぬ」
 空を仰いだまま目を閉じる。天からこぼれ落ちる優しい光が、閉じた(まぶた)を通って心の奥底を照らした。
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登場人物紹介

アリル

ダナンの王子。四代目『惑わしの森』の隠者。

21歳という若さながら枯れた雰囲気を漂わせている。

「若年寄」「ご隠居さま」と呼ばれることも。


シャトン

見た目はサバ猫。実は絶滅したはずの魔法動物。

人語を解する。

まだ乙女と言ってもいい年頃だが、口調がおばさん。

フラン

赤の魔法使い。三代目『惑わしの森』の隠者。

墓荒らしをしていた過去がある。

聖女や不死の乙女と関わりが深い。

エレイン

亜麻色の髪に若草色の瞳。

聖女と同じ名を持つ少女。


エリウ

エリウの丘の妖精女王。

長年、聖女エレインの守り手を務めた。

オルフェン

ダナンの王女。アリルの妹。

「金のオルフェン」と称される、利発で闊達な少女。

宮廷での生活より隠者暮らしを好む兄を心から案じている。

ドーン

冥界の神。死者の王。

もとはダヌと敵対する勢力に属していた。

人としてふるまう時は「キアラン」と名乗る。

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