5.赤い実 白い実
文字数 6,491文字
また一つ、すうっと空を横切る影が見えた。
「あなたのお友だちは、なかなか頑張ってくれていますよ」
死者の国、王の城の中庭。
銀のポットを泉に浸 しながら、ドウンは水辺の薔薇 に話しかけた。
「けれどそろそろ飽きるでしょう。彼女たちが戻ったら、お茶にしましょう」
金茶石を敷いたポーチに黒檀 のティーテーブル。その上には、白いカップが三人分用意されている。
ドウンは気づかなかった。テーブルの方を振り返った彼の背後で、恥じらうようにうつむく白い花の芯 がほのかな光を灯 したことに。
* * *
姫さん、父上から土産 が届いてるぞ。
開けてみろよ。
なんだ、変な顔して。
うん。真っ黒な玉だな。
騙 されたと思って食ってみな。
苦いか、甘いか、酸 っぱいか。
口に入れてみなけりゃ、分からない。
浅い眠りの中で、若草の乙女は夢を見ていた。遠い日の記憶だ。
赤い髪の魔法使いが差し出した小箱の中には、焼きすぎて炭になったケーキを丸めたような菓子がお行儀良く並んでいる。
父からの土産だ、と魔法使いは言う。
(きっと、嘘ね)
いつからだろう。父はよそよそしくなった。自分と顔を合わせると、困ったように視線を伏せる。
いつからだろう。戦 が終わると、行く先も告げず、ふいと姿をくらますようになった。母もその居場所を掴 みかねて苛立 っているように見えた。
たまにこうやって、魔法使いが土産を持ってくる。父からだと言って。
それは珍しい花だったり、綺麗なレースのリボンだったり。
あるとき、いかにも値の張りそうな異国の髪飾りを手渡された。深い天空の青に金を散らしたラピスラズリで作られたそれは、十代の小娘が身につけるには、かなり大人びたデザインだった。出先から帰ってくるのを待ち構え、やっとのことで捕まえて礼を言うと、怪訝 な顔をされた。
(だから、このお菓子もきっとそう)
父に顧 みられない娘への、魔法使いの気遣いだ。
エレインは目を開いた。夢は跡形 もなく消え、ほろ苦さだけが彼女に残された。
仰向 けのまま見上げる目に、見覚えのある天井が映った。
「ここは……」
暖炉に燃える赤い火が、むき出しの梁 を照らしている。頭を巡らせると、整然と本の並ぶ棚が目に入った。優しい香りを漂わせているのは、木の壁に吊 るされたさまざまなドライハーブの束だ。
ここはカエル・モリカの城ではない。隠者の庵の一室だ。
(あたしは、なぜここに?)
起き上がろうとして、脇腹 の温もりに気づく。そっと毛布をめくると、シャトンが丸くなっていた。ぷうぷうと可愛らしい寝息が聞こえる。彼女の眠りを妨 げないように気をつけながら、エレインはベッドの上で半身を起こした。
出窓に置かれたランタンが、夜の深さを教えてくれる。
「他に、誰もいないのかしら」
思わずそう呟 いたとき、応 えるようにランタンの光が揺れた。
はっと目を凝 らすと、その傍らにぼんやりと佇 む者がいた。
(いつの間に?)
エレインは両腕でぎゅっと我が身を抱きしめた。誰何 しようと口を開いたが、声が出ない。
『チョコレートの夢か』
口元に優しい笑みを浮かべて、その人物は言った。
(夢?)
『覚えていてくれたのだね。あのようなささやかな物を』
柔らかな茶色の髪、細めた目尻の皺 、金の首環 。その容姿はエレインのよく知る〈誰か〉に似ていた。
しかし、それが誰なのか。まるで思い出すことができない。
『それにしても、あの者は妻に贈るはずのものまで全部、きみに渡してしまったのだな』
あの者? 妻? この人は何の話をしているのだろう。
ごくっとエレインの喉 が鳴った。
「あなたは、どなたですか?」
ようやく声が出た。自分でも聞き取れぬほどかすれ、震えている。
男の口が開いた。
しかし、その声が音になる前に、ベッドから白い塊が躍 り出た。
「またオバケかい!」
シャトンが全身の毛を逆立て、侵入者の前に立ちはだかった。頭を低くして男を威嚇 する。
「この子に近づくんじゃないよ。さっさとどっかに行っちまいな!」
パチパチと、触れれば火花を散らすほどに膨 らんだシャトンの体は、エレインの姿を怪しげなバケモノの目から隠そうと、徐々 に大きくなってゆく。
魔法動物の気迫 に、男の形がぐにゃりと歪 んだ。すうっと存在感が薄くなり、消えそうになる。
「シャトン、やめて!」
しなやかな獣はエレインの制止にも耳を貸さない。低い唸 り声を上げ、ぴたりと標的 に照準を合わせて身構えている。
だめだ。何も聞けずに終わってしまったら、自分はまた何か大切なものを逃してしまう。
今にも去って行こうとする男に向かって懇願 する。
「お願い、聞かせて」
濃く薄く、不安定に揺らいでいた影は、意を決したようにまた男の姿に戻った。
(次の世に旅立つ前に、ひと目会いたかった。謝りたかった)
言葉は、直接心に届いた。
(普通の娘らしい幸せを与えてやれず、すまない。きみが、きみ自身のために生きることができるよう、祈っている。失われたきみの……)
シャトンが飛びかかった。その鋭い爪が男を抉 ろうとしたその直前、影はふっつりと消えた。そうして、二度と戻ってくることはなかった。
「……!」
呼び止めようとして、声を失う。
なんと呼びかければよいのか。
聞きたいことはたくさんあったのに。あったような気がするのに。
行きどころのない思いが胸に渦巻く。
(あなたは誰なの? どうして謝るの? あたしは)
「あたしは……?」
不意に、琥珀 色の大きな瞳が脳裏 に映し出された。
怯 えるような、けれど熱を持った眼差 しでこちらを見つめる赤い髪の少年。
あれは―――。
エレインの頭の中で何かが弾 けた。
気がつくとベッドから飛び降りていた。靴を履 くのももどかしい。
「どこへ行くんだい?」
シャトンの声が追いかけてくる。
「分からない。けれど行かなくちゃ!」
魂の底から突き上げるような強い衝動 のままに、庵の外へ。夜の森へと飛び出した。
凍 るような夜気 が肌を刺す。ざわざわと森が鳴る。
天にそびえる真っ黒な木々のシルエットがエレインを取り囲んだ。
梢 の間に星を散りばめた空がのぞいている。その途方もない孤独。
立ち尽くすエレインの頭上に、木霊 たちの声が降り注 いだ。
(どこへ行こうというのかね)
(サウィンの夜はまだ明けぬ)
(大気は魔力に満ちている)
(己の身を大切にするがよい)
(さあ、庵に戻れ)
(しっかりと鍵を掛けて朝を待て)
道は隠されている。ナラの木立が枝をからめてエレインの行く手を遮 る。
エレインは拳 を握りしめた。
「お待ち、せめてこれを」
シャトンが緑の布を咥 えて追いかけてきた。雪豹 のような白い体が黒い闇の中に浮き上がっている。ふわりとエレインの肩に投げかけてくれたのは、町に出るときに着ていたマントだった。オルフェンと色違いのマントだ。
マントの中から軽いものがすべり落ちて、地面の上でかさっと音を立てた。
「これは」
エレインは膝をついて、そっとそれを拾い上げた。
ナナカマドの小枝が十字の形に組み合わされて麻紐 で結 わえてある。ポケットに留めてあった魔除けのお守りだ。結んであった赤いリボンが無くなっている。
――力のある魔物には効 かないからな。
――怪しいものには絶対近づかないこと。
これをくれた人の声を思い出す。
警告してくれたのに、自分から魔物の巣に飛び込んでしまった。
(ごめんなさい、聖騎士さま)
ナナカマドの枝を額に押し当てる。
あの占い師のふりをした魔物は、最後に何と言ったのだったか。
「どうかしたのかい?」
心配そうにシャトンが覗 き込む。
「思い出さなきゃいけない、っていうことを思い出したの」
「何を?」
「それは分からない。けれど、あたしはたくさんのことを忘れている。それは他の人に聞けば思い出せるというものではなくて、きっと失 くしたものの中にある」
さっき、庵に現れた影が消える前に言いさした『失われたきみの』の先に続くものを見つけなければならない。
心は決まった。
「行かなくちゃ」
ぎゅっとナナカマドの枝を握りしめる。
「どこへ?」
決まっている。これをくれた人のところだ。手がかりはきっとそこにある。
エレインはきっと顔を上げた。
「お願い、森の木々たちよ。道を教えて。あたしが行くべき場所への道を」
森のざわめきが深くなる。
木々は、あちらにこちらに揺れて頭を寄せ合い、何かを相談しているように見えた。
一番大きなナラの木がその太い幹をたわめた。
(いいだろう。それがお前の望みなら、道を開こう)
その言葉を合図に、ぽっかりと森に穴が開いた。
(お前のために、道を開こう)
(赤い火を灯して道を照らそう)
(さあ、お行き。可愛い子)
葉を落とした木々の枝に灯りがともる。赤い実をつけた寄生木 たちが、どこに続くとも知れぬ光の道を架 ける。
(幸運を)
エレインは、ためらわなかった。
「ありがとう!」
輝く笑顔を木々たちに向けると、赤い光を踏んでウサギのように駆けていった。
彼女の姿が道の奥に見えなくってゆく。
シャトンは後を追おうとした。と、灌木 が腕を伸ばしてシャトンの行く手を塞 いだ。目の前で光が消えてゆく。ナラの木立ちがざわざわと元の姿勢を取り戻す。
道が無くなってしまった。
「なんで邪魔をするんだ。お前たち、爪研 ぎ板になりたいのかい!」
シャトンが吠 える。
木々が震えた。
(あれはあの子が望む場所へとつながる道。あの子のための道だ。お前のものではない)
勇敢なナラの木が、静かに答える。
(猫よ、お前にも行かなければならないところがあるのではないか?)
その言葉に、ぴたりとシャトンは動きを止めた。首をかしげて座り込み、しばし考える。
「そういえば、ひとり、助けにいってやらなきゃいけない人間がいたね」
庵を振り返る。
あそこには誰もいない。もはや守るべきものも無い。戻る必要の無い場所だ。
「迎えに行こうにも、どこにいるのかアタシには見当もつかないんだが。それでも案内できるかい?」
(お前の思いが強ければ)
ナラの木が請 け合う。
「それじゃあ頼む」
シャトンは元の大きさに戻った。
「アタシのための道を開いておくれ。手のかかる王子さまがいるところまで」
願いに応えて、寄生木たちが白い実に光を灯す。白い光を踏んで、軽やかに猫は駆ける。
彼女の後ろで木々がざわめき、ぽつりぽつりと、蝋燭 の火が吹き消されるように光の道が消えてゆく。
そうして森はまた、何事もなかったかのように静まり返って、穏やかな夜が帰ってきた。
*
水、水、水。
右も左も上も下も。
「な………」
なんだこれは、と言いかけたフランの口から、ガボッと空気の塊が吐き出された。
(死者の国へ行くためには、死ななきゃいけないってことじゃないだろうな)
いや、今のところフランは死ねない身の上なのだから、この苦しみがずっと続くのかもしれない。
(冗談じゃねえ!)
フランは必死に水を掻 いて泡を追いかけた。自分の吐 く泡だけが方向を知る手がかりだ。それも急がないと見失ってしまう。消えてしまう。
手と足をばらばらに動かしながら、上を目指す。
ずいぶん長い間もがいていたような気がしたが、実際にはそれほどでもなかった。
「くっ、そ……。あのカラスめ」
水面に浮かび上がるとひゅうっと息を吐いて、ついでに悪態 をついた。
ぐっしょりと濡れた髪から、たらたらと水が垂 れてくる。目を開けることができない。だが、瞼 を通して明るさを感じる。どうやら『扉』をくぐり抜けたらしい。
両腕で水を掻くと、すぐに柔らかなものが手に触れた。
(草か?)
試しに引っ張ってみる。それはしっかりと地に根を張っているようだった。
(陸が近くて助かったぜ)
草を握り、それを手繰 って体を岸に寄せた。地面に両肘 を付いて身体を支え、息を整える。
髪をかき上げ顔をこすってようやく目を開くと、最初に視界に飛び込んできたのは、冥界の王の姿だった。銀のポットを手に、驚いたように目を瞬 かせてこちらを見ている。
しばしの間、二人の男は言葉もなく互いの顔を見つめ合った。
先に口を開いたのはドウンだった。
「なんてところから顔を出すんですか」
「……よう、久しぶり」
見知った顔にいつもの口調で話しかけられ、フランは気が抜けてへたりと草の上につっぷした。『死者の国』にたどり着いてほっとする、というのもおかしな話ではある。
「先に水を汲んでおいて、本当に良かった。あなたが沐浴 した後の泉水 でお茶を淹 れるなんて、ぞっとしませんから」
ポットを手にしたままぶつぶつと文句を言う冥界の王の姿は、何やら懐かしくもあった。フランの頬が緩 む。
「何を笑っているのですか。さっさと上がっていらっしゃい、大魔法使い」
「……上がれん。マントが重い」
疲れと、たっぷりと水を吸った聖騎士のマントが邪魔をする。裾 がどこかに絡まっているような感覚もある。
「あなたという人は」
ドウンは呆 れたように首を振った。
「私が侵入者に寛大であったことに感謝するんですね。もう一組の客が戻ってきたら引き上げて差しあげますから、しばらくお待ちなさい」
「客?」
「忘れたんですか? あなた、町で彼女を放ってさっさとどこかに行ってしまったでしょう。やむを得ず、私が保護したんですよ。あのままだったら、ごろつきに絡 まれて大変なことになっていたかもしれません。行動するときには、もっと冷静な状況判断を―――」
お小言を聞いているうちに、もう一組の客とやらがやってきた。
「あっ」
ジェムドラウ川のほとりで別れたっきりになっていた、ダナンの王女。オルフェンだった。
本当に忘れていた。
金色の頭に止まっている白い蝶はエリウの侍者 、イレーネか。
「あら、聖騎士さま。水浴びですの?」
オルフェンが小首をかしげる。のん気なご挨拶に、赤い頭ががくりと垂れた。
「マントが重くて、水から上がれないそうです」
「服を着たまま入れば、当然そうなるわよね」
ドウンの簡素な説明に頷いて、オルフェンが後ろを振り返った。
「キアラン、フラン、あの人を泉から出してあげて。決して傷つけてはだめよ」
「は?」
間の抜けた声が魔法使いの口から漏れる。
金の王女の背後から現れたのは、漆黒 と赤銅 、見事に輝く毛並を持った二匹の獣であった。
灰色狼ほどの大きさの、今までに見たこともない美しい犬たちだ。二匹は恐れ気もなく、水から半身をのぞかせて間抜け面を晒 している男に近づくと、肩から脇のあたりに鼻を寄せた。鋭い牙が肉まで届かぬように慎重に男が身につけた衣服だけを咥え、全身の力を使ってぐいと引いた。
ずるずると、畑から収穫される大根のような格好で、哀れな男は泉から引き揚げられた。
この無様 な姿に、冥界の王がどんな嘲 りの言葉を投げつけてくるかと身構えたが、彼の方もそれどころではないようだった。
目を見開き、二匹の犬たちをまじまじと見つめている。犬たちはオルフェンの膝にすり寄り、褒 めてもらう順番を争っている。
「ふふ、見違えたでしょう」
犬たちの首を左右の腕で抱き寄せ、頭を撫でてやりながら得意げにオルフェンが言う。
「わたしもびっくりしたわ。気がついたら、もう冬毛が生えそろっていたのだもの。シャトンもだけれど、魔法動物ってすごいのね」
呆然とドウンが呟く。
「いや、そんなはずはありません。もう何百年もあの姿だったのですから」
「そうなの? でも、ほら。綺麗になったでしょう?」
「ええ。この目で見てもまだ信じられませんが」
クローバーの上でマントを絞っているびしょ濡れの男に向けて、ドウンが言う。
「詳しい説明は省きますが、オルフェン殿下が新しい名前を与えたことで、この子たちの魂は新たな力を得たようです。申し訳ありませんが、ここにいる間、あなたは別の名を使ってください」
「おい、待て。さっぱり分からん。省略するな」
ドウンの勝手な言い分に『フラン』が抗議しようとしかけた、まさにその時だった。
亡者たちが彷徨 う音無き荒野に、激しい雷鳴が轟 いた。
「あなたのお友だちは、なかなか頑張ってくれていますよ」
死者の国、王の城の中庭。
銀のポットを泉に
「けれどそろそろ飽きるでしょう。彼女たちが戻ったら、お茶にしましょう」
金茶石を敷いたポーチに
ドウンは気づかなかった。テーブルの方を振り返った彼の背後で、恥じらうようにうつむく白い花の
* * *
姫さん、父上から
開けてみろよ。
なんだ、変な顔して。
うん。真っ黒な玉だな。
苦いか、甘いか、
口に入れてみなけりゃ、分からない。
浅い眠りの中で、若草の乙女は夢を見ていた。遠い日の記憶だ。
赤い髪の魔法使いが差し出した小箱の中には、焼きすぎて炭になったケーキを丸めたような菓子がお行儀良く並んでいる。
父からの土産だ、と魔法使いは言う。
(きっと、嘘ね)
いつからだろう。父はよそよそしくなった。自分と顔を合わせると、困ったように視線を伏せる。
いつからだろう。
たまにこうやって、魔法使いが土産を持ってくる。父からだと言って。
それは珍しい花だったり、綺麗なレースのリボンだったり。
あるとき、いかにも値の張りそうな異国の髪飾りを手渡された。深い天空の青に金を散らしたラピスラズリで作られたそれは、十代の小娘が身につけるには、かなり大人びたデザインだった。出先から帰ってくるのを待ち構え、やっとのことで捕まえて礼を言うと、
(だから、このお菓子もきっとそう)
父に
エレインは目を開いた。夢は
「ここは……」
暖炉に燃える赤い火が、むき出しの
ここはカエル・モリカの城ではない。隠者の庵の一室だ。
(あたしは、なぜここに?)
起き上がろうとして、
出窓に置かれたランタンが、夜の深さを教えてくれる。
「他に、誰もいないのかしら」
思わずそう
はっと目を
(いつの間に?)
エレインは両腕でぎゅっと我が身を抱きしめた。
『チョコレートの夢か』
口元に優しい笑みを浮かべて、その人物は言った。
(夢?)
『覚えていてくれたのだね。あのようなささやかな物を』
柔らかな茶色の髪、細めた目尻の
しかし、それが誰なのか。まるで思い出すことができない。
『それにしても、あの者は妻に贈るはずのものまで全部、きみに渡してしまったのだな』
あの者? 妻? この人は何の話をしているのだろう。
ごくっとエレインの
「あなたは、どなたですか?」
ようやく声が出た。自分でも聞き取れぬほどかすれ、震えている。
男の口が開いた。
しかし、その声が音になる前に、ベッドから白い塊が
「またオバケかい!」
シャトンが全身の毛を逆立て、侵入者の前に立ちはだかった。頭を低くして男を
「この子に近づくんじゃないよ。さっさとどっかに行っちまいな!」
パチパチと、触れれば火花を散らすほどに
魔法動物の
「シャトン、やめて!」
しなやかな獣はエレインの制止にも耳を貸さない。低い
だめだ。何も聞けずに終わってしまったら、自分はまた何か大切なものを逃してしまう。
今にも去って行こうとする男に向かって
「お願い、聞かせて」
濃く薄く、不安定に揺らいでいた影は、意を決したようにまた男の姿に戻った。
(次の世に旅立つ前に、ひと目会いたかった。謝りたかった)
言葉は、直接心に届いた。
(普通の娘らしい幸せを与えてやれず、すまない。きみが、きみ自身のために生きることができるよう、祈っている。失われたきみの……)
シャトンが飛びかかった。その鋭い爪が男を
「……!」
呼び止めようとして、声を失う。
なんと呼びかければよいのか。
聞きたいことはたくさんあったのに。あったような気がするのに。
行きどころのない思いが胸に渦巻く。
(あなたは誰なの? どうして謝るの? あたしは)
「あたしは……?」
不意に、
あれは―――。
エレインの頭の中で何かが
気がつくとベッドから飛び降りていた。靴を
「どこへ行くんだい?」
シャトンの声が追いかけてくる。
「分からない。けれど行かなくちゃ!」
魂の底から突き上げるような強い
天にそびえる真っ黒な木々のシルエットがエレインを取り囲んだ。
立ち尽くすエレインの頭上に、
(どこへ行こうというのかね)
(サウィンの夜はまだ明けぬ)
(大気は魔力に満ちている)
(己の身を大切にするがよい)
(さあ、庵に戻れ)
(しっかりと鍵を掛けて朝を待て)
道は隠されている。ナラの木立が枝をからめてエレインの行く手を
エレインは
「お待ち、せめてこれを」
シャトンが緑の布を
マントの中から軽いものがすべり落ちて、地面の上でかさっと音を立てた。
「これは」
エレインは膝をついて、そっとそれを拾い上げた。
ナナカマドの小枝が十字の形に組み合わされて
――力のある魔物には
――怪しいものには絶対近づかないこと。
これをくれた人の声を思い出す。
警告してくれたのに、自分から魔物の巣に飛び込んでしまった。
(ごめんなさい、聖騎士さま)
ナナカマドの枝を額に押し当てる。
あの占い師のふりをした魔物は、最後に何と言ったのだったか。
「どうかしたのかい?」
心配そうにシャトンが
「思い出さなきゃいけない、っていうことを思い出したの」
「何を?」
「それは分からない。けれど、あたしはたくさんのことを忘れている。それは他の人に聞けば思い出せるというものではなくて、きっと
さっき、庵に現れた影が消える前に言いさした『失われたきみの』の先に続くものを見つけなければならない。
心は決まった。
「行かなくちゃ」
ぎゅっとナナカマドの枝を握りしめる。
「どこへ?」
決まっている。これをくれた人のところだ。手がかりはきっとそこにある。
エレインはきっと顔を上げた。
「お願い、森の木々たちよ。道を教えて。あたしが行くべき場所への道を」
森のざわめきが深くなる。
木々は、あちらにこちらに揺れて頭を寄せ合い、何かを相談しているように見えた。
一番大きなナラの木がその太い幹をたわめた。
(いいだろう。それがお前の望みなら、道を開こう)
その言葉を合図に、ぽっかりと森に穴が開いた。
(お前のために、道を開こう)
(赤い火を灯して道を照らそう)
(さあ、お行き。可愛い子)
葉を落とした木々の枝に灯りがともる。赤い実をつけた
(幸運を)
エレインは、ためらわなかった。
「ありがとう!」
輝く笑顔を木々たちに向けると、赤い光を踏んでウサギのように駆けていった。
彼女の姿が道の奥に見えなくってゆく。
シャトンは後を追おうとした。と、
道が無くなってしまった。
「なんで邪魔をするんだ。お前たち、
シャトンが
木々が震えた。
(あれはあの子が望む場所へとつながる道。あの子のための道だ。お前のものではない)
勇敢なナラの木が、静かに答える。
(猫よ、お前にも行かなければならないところがあるのではないか?)
その言葉に、ぴたりとシャトンは動きを止めた。首をかしげて座り込み、しばし考える。
「そういえば、ひとり、助けにいってやらなきゃいけない人間がいたね」
庵を振り返る。
あそこには誰もいない。もはや守るべきものも無い。戻る必要の無い場所だ。
「迎えに行こうにも、どこにいるのかアタシには見当もつかないんだが。それでも案内できるかい?」
(お前の思いが強ければ)
ナラの木が
「それじゃあ頼む」
シャトンは元の大きさに戻った。
「アタシのための道を開いておくれ。手のかかる王子さまがいるところまで」
願いに応えて、寄生木たちが白い実に光を灯す。白い光を踏んで、軽やかに猫は駆ける。
彼女の後ろで木々がざわめき、ぽつりぽつりと、
そうして森はまた、何事もなかったかのように静まり返って、穏やかな夜が帰ってきた。
*
水、水、水。
右も左も上も下も。
「な………」
なんだこれは、と言いかけたフランの口から、ガボッと空気の塊が吐き出された。
(死者の国へ行くためには、死ななきゃいけないってことじゃないだろうな)
いや、今のところフランは死ねない身の上なのだから、この苦しみがずっと続くのかもしれない。
(冗談じゃねえ!)
フランは必死に水を
手と足をばらばらに動かしながら、上を目指す。
ずいぶん長い間もがいていたような気がしたが、実際にはそれほどでもなかった。
「くっ、そ……。あのカラスめ」
水面に浮かび上がるとひゅうっと息を吐いて、ついでに
ぐっしょりと濡れた髪から、たらたらと水が
両腕で水を掻くと、すぐに柔らかなものが手に触れた。
(草か?)
試しに引っ張ってみる。それはしっかりと地に根を張っているようだった。
(陸が近くて助かったぜ)
草を握り、それを
髪をかき上げ顔をこすってようやく目を開くと、最初に視界に飛び込んできたのは、冥界の王の姿だった。銀のポットを手に、驚いたように目を
しばしの間、二人の男は言葉もなく互いの顔を見つめ合った。
先に口を開いたのはドウンだった。
「なんてところから顔を出すんですか」
「……よう、久しぶり」
見知った顔にいつもの口調で話しかけられ、フランは気が抜けてへたりと草の上につっぷした。『死者の国』にたどり着いてほっとする、というのもおかしな話ではある。
「先に水を汲んでおいて、本当に良かった。あなたが
ポットを手にしたままぶつぶつと文句を言う冥界の王の姿は、何やら懐かしくもあった。フランの頬が
「何を笑っているのですか。さっさと上がっていらっしゃい、大魔法使い」
「……上がれん。マントが重い」
疲れと、たっぷりと水を吸った聖騎士のマントが邪魔をする。
「あなたという人は」
ドウンは
「私が侵入者に寛大であったことに感謝するんですね。もう一組の客が戻ってきたら引き上げて差しあげますから、しばらくお待ちなさい」
「客?」
「忘れたんですか? あなた、町で彼女を放ってさっさとどこかに行ってしまったでしょう。やむを得ず、私が保護したんですよ。あのままだったら、ごろつきに
お小言を聞いているうちに、もう一組の客とやらがやってきた。
「あっ」
ジェムドラウ川のほとりで別れたっきりになっていた、ダナンの王女。オルフェンだった。
本当に忘れていた。
金色の頭に止まっている白い蝶はエリウの
「あら、聖騎士さま。水浴びですの?」
オルフェンが小首をかしげる。のん気なご挨拶に、赤い頭ががくりと垂れた。
「マントが重くて、水から上がれないそうです」
「服を着たまま入れば、当然そうなるわよね」
ドウンの簡素な説明に頷いて、オルフェンが後ろを振り返った。
「キアラン、フラン、あの人を泉から出してあげて。決して傷つけてはだめよ」
「は?」
間の抜けた声が魔法使いの口から漏れる。
金の王女の背後から現れたのは、
灰色狼ほどの大きさの、今までに見たこともない美しい犬たちだ。二匹は恐れ気もなく、水から半身をのぞかせて間抜け面を
ずるずると、畑から収穫される大根のような格好で、哀れな男は泉から引き揚げられた。
この
目を見開き、二匹の犬たちをまじまじと見つめている。犬たちはオルフェンの膝にすり寄り、
「ふふ、見違えたでしょう」
犬たちの首を左右の腕で抱き寄せ、頭を撫でてやりながら得意げにオルフェンが言う。
「わたしもびっくりしたわ。気がついたら、もう冬毛が生えそろっていたのだもの。シャトンもだけれど、魔法動物ってすごいのね」
呆然とドウンが呟く。
「いや、そんなはずはありません。もう何百年もあの姿だったのですから」
「そうなの? でも、ほら。綺麗になったでしょう?」
「ええ。この目で見てもまだ信じられませんが」
クローバーの上でマントを絞っているびしょ濡れの男に向けて、ドウンが言う。
「詳しい説明は省きますが、オルフェン殿下が新しい名前を与えたことで、この子たちの魂は新たな力を得たようです。申し訳ありませんが、ここにいる間、あなたは別の名を使ってください」
「おい、待て。さっぱり分からん。省略するな」
ドウンの勝手な言い分に『フラン』が抗議しようとしかけた、まさにその時だった。
亡者たちが