1.スコーンがのどに引っかかる
文字数 11,719文字
――その時でした。
「女王さま、王さま。私からのギフトをお受け取りください」
「なんだと?」
まだ、贈り物をしていない者がいたことに、全員が驚きました。
なにしろ、まだたった二百年しか生きていない妖精だったので、
泉の妖精は言いました。
「沼の魔女の力は強すぎて、すべてを打ち消す力は私にはありません。ですが、王女さまにかけられた
「それは、本当か?」
王さまはすがるような目で年若い妖精を見つめました。妖精は話し始めました。
「王女さまはみんなに愛されるすばらしい女性におなりでしょう。それこそ、
* * *
ここはイニス・ダナエの北東。
コーンノートはカエル・モリカの町外れにある『
日が高くなってもベッドに丸まったまま部屋から一歩も出ようとしない王子さまの足元で、シャトンは本を読んでいた。
「うーん……」
アリルが寝返りを打った。体にかけた毛布をくるくると巻き込んで、ベッドの
「あんたね、そろそろ起きたらどうなんだい」
本を前足で押さえながら、サバ猫がたしなめると、
「イヤです」
本気で眠いわけでもなく、体調が悪いわけでもない。
「ふて寝してたって、どうにもならないだろうに」
キャラメル色の巨大ミノムシを見下ろし、前足でちょん、と頭のあたりをつついたとき、
「アリル殿下、客人です」
ドアの向こうから若い男の声が聞こえた。反射的にびくっと身を縮め、恐る恐る尋ねる。
「キアラン? 客って、まさか……」
「門衛によると、聖騎士を名乗る男と若い娘らしいですが。どうなさいますか?」
(そっちか……)
ふうー…、と
「行く。客間に通してくれ」
「はい」
足音が遠ざかってく。
「こっちの方が早かったか」
さっきまでのぐうたらぶりが嘘のように、てきぱきと身支度を整える。明るめの紺のチュニックに袖を通し、革のベルトを締める。剣を取り上げ、しばし眺めてから、
「行こうか、シャトン」
無防備にドアを開き、そこでアリルは石になった。
目の前に美しい少女が立っていた。大きな青い瞳がまっすぐアリルを
激しい怒りに身を包んでいても、それでも彼女は愛らしかった。瞳と同じ色のドレスが肌の白さをいっそう引き立て、明るい金の髪に
しかし、いかに彼女が魅力的であろうとも、アリルにとっては、今一番会いたくない相手だった。
「や、やあ、オルフェン」
見事に声がひっくり返った。
「元気だった?」
笑顔を作るのにも失敗した。ひくひくと口元がひきつっているのが自分でも分かる。
「兄さま、あの男は何者ですか」
冷たい声で少女は尋ねた。
「あ、あの男って?」
「
「胡散臭い?」
「さっきまで、ここにいたでしょう」
問いながら、じわり、とアリルに詰め寄る。
「ああ、キアランのことか!」
予期しない質問だった。が、今のアリルにとってはありがたい。
「彼はなかなかの
自然と早口になってゆく。
触れられたくない話題から少しでも遠ざかろうと、必死にしゃべり続ける。まるで、しでかしてしまった失敗を隠そうともがく子どもみたいに。
「楽器の演奏もできるし、お茶を
「まさかその逸材は、兄さまのことを『主にふさわしい人物』だなんて、言いませんでしたよね」
「……はい。言われませんでした」
(情けない)
主人に叱られた犬のようにしょんぼりうなだれるアリルを横目で見て、シャトンはふん、と鼻を鳴らした。
「それで、そのキアランとかいう馬の骨は、もともとどこの出身なのですか」
「ええっと、ペン・カウ――」
そう言いかけて、アリルは自ら
「なんですって!」
オルフェンが眉をつり上げた。
ペン・カウル。
それは山の名であり、町の名でもある。
イニス・ダナエは
谷あいに広がるその町は、スウィンダンとウィングロット双方が領有権を主張しており、争いの種となっていた。
デニーさんの言葉が
『次の王さまになる目がなくなったからさ。東のエリウで騒ぎを起こし、みんながそっちに気を取られている間に北の方から大陸の軍勢を入れて、ウィングロットの領主さまらと組んで国を乗っ取ろうって
(しまった……)
オルフェンはキアランを
彼女はダナンの王女。母と同じく女神ダヌの娘だ。ダナンと、ダナンの中心であるミースの王家を守る義務と責任がある。そしてその
何者であれ、王子を
妹の思いが痛いほど分かっているから、頑張って話題を変えようとしたのに。
よりによってウィングロット。
また例の噂につながってしまった。さっきまでの努力はなんだったのか、と
(やれやれ、しばらくかかりそうだね)
シャトンはアリルとオルフェンのくるぶしにするりと体をこすりつけると、ドアの隙間から外に抜け出した。
「あっ、シャトン! どこへ……」
引き留めようとするアリルをもう一度だけ振り返って、にゃおん、と鳴くと、シャトンは客人たちがいるはずの部屋へと向かった。
「兄さま! きちんと説明してください!」
「ええっと、何を?」
「とぼけないで!」
言い争う兄妹の声を背中に聞きながら、シャトンは弾むように廊下を駆け降りてゆく。
(ま、確かにあのキアランって男は、何か普通じゃない匂いがするんだけれどね)
砦の城は、コーンノート最後の王の居城として知られている。
西にカエル・モリカの町。背後は
この一帯の海はモリカ
城壁の東端には高い塔があり、それが
その火を絶やさないこと。これが城主に課せられたもっとも重要な仕事だった。
海面に目を移すと、折れた柱のような岩が無数に突き出しており、晴れた日にはたくさんの白い鳥がその上で羽を休めている。この鳥たちの中に、海の神マナナン・マクリールの娘が紛れ込んでいて、気に入った男を連れて行くという。とにかく、いつ
一方『砦の城』という名の由来は、先史の昔にさかのぼる。
すぐ近くにある、だだっ広いヒースの野原。
ここで神々と妖精たちが激しい戦いを繰り広げた、という伝説が残っている。その勝者がダヌが
ここ、砦の城は敗者の本拠地であった。
ヒースの野で馬のいななきやら大勢の者たちが走り回る足音が聞こえただの、崖下に無数の小さな
だが、この城のめぐりの景観は美しい。
今の季節は寒くなる一方だが、春から夏にかけては渡り鳥よろしく、詩人やら画家といった芸術を志す者たちがこの城を訪れる。
もっとも、怪異を求める物好きは冬の時期をこそ狙ってやって来る。城下の小さな町で、十一月のサウィンの祭りが盛り上がりを見せるのはそういった者たちが
砦の城のラウンジは、客人に心地よく過ごしてもらうための工夫が
高い天井には柔らかな色彩の絵が描かれている。部屋の隅の
細やかな
(来たことない、はずだよね)
妙に懐かしい。
その懐かしさがエレインを不安にさせる。
この部屋を出て右に行くと、階段があって、二階の『階段の間』には泉の妖精の像がある。そこの細長い窓からは中庭の
(お城の中がどうなっているかなんて、全然知らないのに)
おとぎ話のお城と、ごちゃまぜになっているのだろうか。
その中で、壁に掛けられたタペストリーだけは「見覚えがない」と、はっきりと言い切ることができた。振り子を手にした時の
「どうした?」
ぼうっとしていたところに声をかけられて、びくっと身をすくめる。
「落ち着かないか?」
フランは柔らかな長椅子の座り心地を存分に味わっているようだ。頭の後ろで指を組み、ゆったりと背もたれに体を預けている。
「はい」
背筋を伸ばしたままエレインが素直に頷くと、フランはにっと笑った。
「気楽にしてろ。今回は身なりもちゃんと整えたし、いいところのお嬢さんに見えるぞ。小さな
少々的外れではあったが、気遣いが嬉しい。ふっと肩から力が抜けた。
「こんなに待たされるとはな。あいつならすぐに出てくると思ったんだが」
この男も不思議だ。会って間もないのに、もう何年も前からの知り合いに思えてくる。
(いろんなことがありすぎたからかな)
イニス・ダナエのほぼ中心にある湖の島から、東端のエリウの丘へ。
聖女を
その夜いきなり火事に
馬車に揺られて惑わしの森、隠者の庵へ―――。
ダナンの上にジグザグの線を描いて、今は王子が
こうして改めて思い返すと急激な変化に驚く。
聖騎士の正体は、銀灰色の髪をした青年隠者が教えてくれた。
『ついでに言うと、あちらが三代目隠者、フラン。僕の師匠でもあります。あなたには何と名乗ったか知りませんけど』
そういう青年はダナンの王子だった。この聖騎士さまはまだ裏に何か隠していそうだが、不思議と腹は立たない。
少なくとも、自分に向けられる
ざあー…ん、ざあー…ん。
黙って座っていると、崖に打ちつける波の音だけが耳に響く。時を忘れそうになる。
コンコン、と控えめなノックの音がその沈黙を破った。
「よろしいでしょうか」
「どうぞ」
柔らかな男の声にフランが答える。
開きかけた扉の隙間から小さな生き物がするりと入り込んで、迷うことなくエレインの方に走り寄ってきた。
「あら、シャトン?」
にゃあ、とエレインの顔を見つめて
「おや? この小さな
シャトンに続いて、黒い
「げっ!」
一目その姿を見るなり、フランが立ち上がった。青年がおや、と軽く目を
「これはこれは。客人のお一人はあなたでしたか」
「お前がここにいると知っていたら、来なかったよ」
「ご挨拶ですねえ」
ふう、とわざとらしい溜め息をついて、青年は銀の盆をテーブルに置くと、慣れた手つきでお茶を淹れた。
「では、エレインお嬢さま。こちらをどうぞ。お砂糖はいかがなさいますか」
「あたし…、いえ、私の名前をご存じなんですか?」
「ええ、当然でしょう」
「でも、初対面だと思うんですが……」
青年は、ああ、と思い当たったように微笑んだ。
「亜麻色の髪の姫君、この姿でお会いするのは初めてですね。今は流れの騎士をしています。名は、キアランとお呼びください」
湖の島で会ったことがあるのかもしれない。騎士がニムを訪ねてくるのもそう珍しい事ではなかった。と、エレインが記憶をたどろうとすると、足下にその騎士が
左手を胸に当て貴婦人への礼をとる。洗練されたしぐさに気後れして、とっさに身を引こうとしたが、その前に手を取られてしまった。
「その桜貝のようなドレスも良くお似合いです。若草色の瞳と相性もいいですし。余分な装飾がないのがまたいい。あなたの可愛らしさを損ないませんからね」
キアランはエレインの手を押し戴いて軽く口づけし、にっこりと微笑む。エレインが頬を染めた。
ケッ、とフランが吐き捨てる。
「
「そういうあなたは、
ドキドキする胸を静めようと空いた手でシャトンの背を撫でながら、エレインはうつむいたまま二人の顔を交互にそっと盗み見た。仲がいいのかどうかは不明だが、息はぴったりだ。多分昔ながらの友人とか、そういうものなのだろう。
「人間にはいろいろ都合というものがあるんだ。それより、あいつはどうした」
「殿下ですか? あなたの弟子だそうですが、この城の中であいつ呼ばわりはいかがなものかと」
「で、何かあったのか?」
キアランはわざとらしく視線をフランからエレインに移した。痛ましげな眼差しでエレインの瞳を覗き込む。
「聖都では大変な目に遭われたとか。火事に盗賊、おまけに他国の
「あ、ありがとうございます……」
まだ左手はとられたままである。どうしていいか分からずにおろおろしていると、シャトンが前足でキアランの手を払いのけてくれた。
「で、それがどうしたって?」
イライラを隠そうともせず、語気を荒くしてフランが先を
「その件で、殿下に黒幕容疑がかかっていまして。今、取り調べが行われております」
「何だって?」
「
ぴくっとシャトンが耳をそばだてた。
足音が近づいてくる。二人分。一人はすたすたと、もう一人はよたよたと。
ほどなく、人間たちの耳にもその音は届いた。
「ほら、ね」
足音は客間の前で止まった。
ギイ……、ときしんだ音を立てて扉が内側に押し開けられる。扉にもたれかかるようにして、
「お待たせ、した……。キアラン、僕にも何か飲み物と食べ物を……」
そうして、ばったりと
行き倒れの王子のために、軽食が用意された。
スコーンとサーモンを挟んだサンドイッチ。薄く切った林檎のシロップ煮。そしてお代わり用のお茶をたっぷりと。
「マーマレードか……。それはまあいいとして、クリームが少ないな」
王子さまはぶつぶつと文句を言いつつ、紅茶にとぽとぽとミルクを注ぐ。そしてクリームとジャムを乗せたスコーンを頬張り、ごふっとむせた。
いつもなら背中をさすってくれるシャトンは、客人の膝の上だ。
「んもう!」
シャトンの代わりに、オルフェンがどんっ、と兄の背中を叩いた。
「す、すまない」
けほけほと咳き込みながらカップに手を伸ばすアリルを見て、キアランが呆れたように肩をすくめる。
「聞きしに勝るご隠居っぷりですね」
「フォローはしない」
フランが同意する。
「で、何を揉めていたんだ?」
「全く、ひどいんですよ。デニーさんから聞いた話に、また尾ひれがついてしまって」
まだ時おり咳き込みながらアリルが説明しようとすると、その先をオルフェンが引き取った。
「両親から見限られて小さな城に追いやられた兄さまが、
「そりゃまた、
「あり得ないね」
フランとシャトンが口を挟んだのは同時だったが、オルフェンにはシャトンの言葉はニャアとしか聞こえない。ちら、と鋭い視線をフランに向けた。
「わたしだって、そこまで兄さまが愚かだとも行動的だとも
「……はい」
その語気と目力の強さに、フランが身をすくめる。
「ウィングロット公と手を組んで北の国と同盟を結び、盗賊たちを語らってエリウの街に火を放った。聖殿を皮切りにダナンの東方を混乱に
そこにいる全員が黙り込み、微妙な表情で王子から視線を
リュウグウノツカイ
「何人かに確かめたのですけれど、少しずつ話が変わっていて。さらに腹が立つことには、こちらが真剣に耳を傾けているというのに、誰もかれもが最後に――なんちゃって、とかいうオチをつけるのです」
最初に噴き出したのはどちらだったか。フランとキアランが声を上げて笑った。
「つまり、誰も殿下が
素早く笑いを収めたキアランとは対照的に、フランは目に涙がにじむまで笑い続けた。
「やけに民に信用があるじゃないか。よかったなあ、アリル殿下」
「はいはい。よかったですよ」
もそもそとスコーンを口に運びながら、むっつりとアリルが答える。
そんな微笑ましいと言えなくもないやり取りを、エレインとシャトンは少し離れたところから眺めていた。と、そこに、先ほどと似た感覚が訪れた。
奇妙な
現実の風景と自分の間を透明な薄い
不意にはっきりとした男の声が頭の中に響いた。
『火のない所に煙は立たぬ。これは
それは、誰の声だったか。考えるより先にエレインの口が動いていた。
「あ、あの……」
皆の目がエレインに集まる。現実が戻って来た。
ぎゅうっと両手をを握りしめて、言葉を探す。シャトンが心配そうにその顔を見上げた。
「ウィングロットの方々は、どうなるのですか?」
「どうなる、って?」
オルフェンが首をかしげる。
「だって、噂だと王子さまと一緒に反乱を起こした、ってことになっているのでしょう。王子さまは全く疑われてなくても、ウィングロットの領主さまは?」
フランとキアランが顔を見合わせた。
「おい、今のウィングロット公は――」
「大層なご高齢ですよ。御病床に
(ご高齢の、領主……)
ずきん、とエレインの胸の奥が痛んだ。
「ふうん。じゃ、その候補者とやらの一人が、アリル殿下と組んで領主の地位を得ようとする、っていうのも不自然な流れじゃないってことか」
「決して上策、とは言えませんけどね。殿下にダナンの王座についていただき、恩を売っておいて……」
「ゆくゆくは昔の地位を取り戻して、ウィングロットをダナンから切り離し、対等の国にする、ってか。
「ええ。
男二人の口調はのん気だが、内容は穏やかどころではない。
みるみるエレインの顔が
「心配はいりませんよ。クネド王の時代とは違います。戦さなど起こりませんから」
(クネド王……)
びくっとエレインの肩が震えた。
キアランはどこか楽しげだ。
「ほら、何年か前にもありましたよね。先代のウィングロット公が、大陸のノヴァークの王に
スコーンを頬張っていたアリルが小さくむせた。できれば触れられたくない過去が、そこにある。彼の中の黒歴史と言っていい。
粉末が飛び散るのを見て、オルフェンがつっけんどんな仕草でカップを取り上げ、お茶を注いで差し出した。
「ありがとう……」
口元を
「もともとあの領主自身が人望のない人物でしたから。仲間だと思っていた近隣の小領主たちには早々に見限られ、後ろ盾になってくれるはずのノヴァークにもあっさり見捨てられ、ほとんど犠牲もなく
最後にさらりと付け加えた一言に、エレインは全身の血が凍ったような感覚に
「おい」
フランの目が
「余計なことを言うな」
キアランは首をかしげた。
「余計なこと? 何がですか? クネド王の時代に比べれば、甘すぎるくらいの
「父を馬鹿にしないで!」
オルフェンが気色ばむ。
「馬鹿になど。血を流す王が優れた王とは限りませんよ。あの用兵はお見事でした」
アリルにとっては苦い思い出だ。
「
ファリアスを出た時は百だった。
「それだけの数を動かしながら相手に悟られることなく敵地に乗り込んだ」
「道中兵士による
略奪をさせないため、人選はもとより、相応の
「本気を見せるだけで相手の戦意を失わせるとは……」
秋の収穫を前に戦さを仕掛けるバカはいない。そういう油断がウィングロットにはあった。冬の訪れの早いノヴァークの使者たちはもう国に引き上げた後だった。まともな戦いになるはずがない。
しかし、こちらにも犠牲が無かったわけではない。死者こそ出なかったが、アリルと同じ年頃の年若い見習い騎士が一人、流れ矢で重傷を負った。それがどういう意味を持つのか、アリルは考えたくもなかった。
「まるで、見て来たかのように話すのね」
「おや、そう聞こえましたか」
上目づかいに睨むオルフェンを、キアランは涼しげな表情で受け流した。その態度に腹を立てたオルフェンが、また何か言い返していたが―――。
アリルは紅茶をすすりながら、別のことを考えていた。
フランは気のない様子で、だらんと天井を仰いでいた。
そこに、
ガターン。
と、何かが倒れる音が響いた。
「!」
全員がはっと振り返る。
事が起こった時、真っ先に動いたのはシャトンだった。
くらっとエレインの頭が傾いた瞬間、ぶるっと身を震わせ、全身の毛を膨らませたかと思うと、虎ほどの大きさになった。そうして、くずおれてきたエレインの上半身を背で受け止め、頭をぶつけないよう椅子やらサイドテーブルを足で押しのけた。
他の者たちが聞いたのは、シャトンに押しやられた椅子がひっくり返った音だった。
「アリル」
シャトンに名を呼ばれて、あたふたとアリルが立ち上がる。
「キアラン、医者を呼んで。オルフェン、部屋の用意を――いや、僕の部屋へ運ぶ。ベッドを整えてくれ」
「兄さまの部屋ですって?」
オルフェンが異論を唱えかけたが、珍しくアリルの勢いが勝った。
二人が部屋を飛び出していく。その後ろからシャトンがくったりと意識のないエレインを背に乗せ、
「俺は?」
「師匠はそのへんを片付けておいてください」
「……」
「それから、彼女を休ませたら、じっくりと聞かせてもらいますからね。僕に隠していることを、全部!」
不満なのか。困惑しているのか。憮然としたフランを部屋に残してアリルは扉を閉めた。
(喉がつまる)
この不快な感覚は、パサパサしたスコーンのせいではない。
アリルは、彼にしては珍しく、本気で怒っていた。他の誰にでもなく、自分自身に対して、だ。
その昔、師匠と二人で庵で暮らしている間、おや、と思ったことは幾度もあった。胸に芽生えた小さな疑問たちを放っておいたのは自分だ。そのときは大した問題ではなかったから。
あのエレインという少女も。
初めて会ったとき、影の薄い娘だと思った。いや、存在感がないのではない。まるで彼女の肉の体を見えない膜が包んでいるかのように、妙に『
彼女は記憶を失っているという。しかもその自覚が彼女にはないらしい。そんなことがあり得るのか、どうしてそのような状態になったのか、師匠は言葉を
時折感じる不自然さはそのせいかと思った。しかし、それだけではないのかもしれない。
(あの娘は、もしかして――)
目の前に現れたいくつかの新たな欠片のおかげで、疑惑に対する答えが、おぼろげながらも形を取り始めた。
ヨハルとフラン。
初代惑わしの森の隠者。
エレイン。
エリウの丘。
庵の納屋に押し込まれた、薔薇の模様が彫り込まれた木の棺。
アリルの部屋では、シャトンとオルフェンが気を失ったままのエレインを
そこを離れ、ふと思い立って、足をクローゼットの奥へと向けた。
通路から森の庵へ。庵の
二代目の手記だ。
三代目に会って間もない頃、書架を整理していて見つけた薄い冊子。
最後のページを開いて、中に書かれている言葉を読み返す。ノートを握る手に力がこもった。短いセンテンスを見つめながら、
「鈍いな、僕も……」
アリルの背後で白い蝶がふわふわと羽ばたき、窓から差し込む光の中に淡く溶けて消えた。