1.スコーンがのどに引っかかる

文字数 11,719文字

 
  ――その時でした。

「女王さま、王さま。私からのギフトをお受け取りください」
 悲嘆(ひたん)に暮れる人々の前に、若い泉の妖精が進み出たのです。
「なんだと?」
 まだ、贈り物をしていない者がいたことに、全員が驚きました。
 なにしろ、まだたった二百年しか生きていない妖精だったので、物怖(ものお)じして、こっそりとカーテンの陰に隠れていたのです。そして、彼女がそこにいたことさえ、誰も気づいていなかったのです。
 泉の妖精は言いました。
「沼の魔女の力は強すぎて、すべてを打ち消す力は私にはありません。ですが、王女さまにかけられた(のろ)いを少しだけ変えることはできます」
「それは、本当か?」
 王さまはすがるような目で年若い妖精を見つめました。妖精は話し始めました。
「王女さまはみんなに愛されるすばらしい女性におなりでしょう。それこそ、気難(きむずか)し屋の冥界(めいかい)の王ドウンですら魅了(みりょう)されるような。いつの日か、心の底から王女さまを愛する者が現れて、その人が呪いをその身に引き受けてくれるでしょう。そして、王女さまがその人を心から愛するようになれば、二人は次の世への道を見出すことができるでしょう」

 * * *

 ここはイニス・ダナエの北東。
 コーンノートはカエル・モリカの町外れにある『(とりで)の城』の一室である。
 日が高くなってもベッドに丸まったまま部屋から一歩も出ようとしない王子さまの足元で、シャトンは本を読んでいた。
「うーん……」
 アリルが寝返りを打った。体にかけた毛布をくるくると巻き込んで、ベッドの(はし)、壁際の方に転がっていく。その動きにつれて、毛布がシャトンと読みかけの本を乗せたままずるずると引きずられていく。
「あんたね、そろそろ起きたらどうなんだい」
 本を前足で押さえながら、サバ猫がたしなめると、
「イヤです」
 間髪(かんはつ)()れず、返事が返ってきた。
 本気で眠いわけでもなく、体調が悪いわけでもない。
「ふて寝してたって、どうにもならないだろうに」
 キャラメル色の巨大ミノムシを見下ろし、前足でちょん、と頭のあたりをつついたとき、
「アリル殿下、客人です」
 ドアの向こうから若い男の声が聞こえた。反射的にびくっと身を縮め、恐る恐る尋ねる。
「キアラン? 客って、まさか……」
「門衛によると、聖騎士を名乗る男と若い娘らしいですが。どうなさいますか?」
(そっちか……)
 ふうー…、と安堵(あんど)の息を吐くと、アリルは毛布から()い出し、ベッドから降りた。
「行く。客間に通してくれ」
「はい」
 足音が遠ざかってく。
「こっちの方が早かったか」
 さっきまでのぐうたらぶりが嘘のように、てきぱきと身支度を整える。明るめの紺のチュニックに袖を通し、革のベルトを締める。剣を取り上げ、しばし眺めてから、()びずに壁に立てかけた。あとは髪をチュニックと同じ色のリボンで一つにまとめたら完了だ。
「行こうか、シャトン」
 無防備にドアを開き、そこでアリルは石になった。
 目の前に美しい少女が立っていた。大きな青い瞳がまっすぐアリルを(にら)みつけている。
 激しい怒りに身を包んでいても、それでも彼女は愛らしかった。瞳と同じ色のドレスが肌の白さをいっそう引き立て、明るい金の髪に(ふち)どられた頬は上気して薔薇色に染まっていた。
 しかし、いかに彼女が魅力的であろうとも、アリルにとっては、今一番会いたくない相手だった。
「や、やあ、オルフェン」
 見事に声がひっくり返った。
「元気だった?」
 笑顔を作るのにも失敗した。ひくひくと口元がひきつっているのが自分でも分かる。
「兄さま、あの男は何者ですか」
 冷たい声で少女は尋ねた。
「あ、あの男って?」
胡散臭(うさんくさ)い薄笑いを顔に貼りつけた、黒っぽい男です」
「胡散臭い?」
「さっきまで、ここにいたでしょう」
 問いながら、じわり、とアリルに詰め寄る。
「ああ、キアランのことか!」
 予期しない質問だった。が、今のアリルにとってはありがたい。
「彼はなかなかの逸材(いつざい)だよ。剣の腕も立つし、物腰も柔らかで何をやらせてもそつがないし。何といってもあの容姿だろう? 女性には人気があるんだ。」
 自然と早口になってゆく。
 触れられたくない話題から少しでも遠ざかろうと、必死にしゃべり続ける。まるで、しでかしてしまった失敗を隠そうともがく子どもみたいに。
「楽器の演奏もできるし、お茶を()れるのも上手だし。君もきっと気に入ると思うな。今は仕えるべき(あるじ)を探して各地を渡り歩いているんだとか。その途中、たまたまこの城に立ち寄ってみたら僕がいたんで、とりあえずここに」
「まさかその逸材は、兄さまのことを『主にふさわしい人物』だなんて、言いませんでしたよね」
「……はい。言われませんでした」 
(情けない)
 主人に叱られた犬のようにしょんぼりうなだれるアリルを横目で見て、シャトンはふん、と鼻を鳴らした。
「それで、そのキアランとかいう馬の骨は、もともとどこの出身なのですか」
「ええっと、ペン・カウ――」
 そう言いかけて、アリルは自ら(ドラゴン)の尾を踏んでしまったことに気づいた。慌てて口を押さえる。
「なんですって!」
 オルフェンが眉をつり上げた。
 ペン・カウル。
 それは山の名であり、町の名でもある。
 イニス・ダナエは起伏(きふく)の少ない島であり、大陸のように年中雪を(いただ)く山脈はない。唯一、山岳地帯と呼べる地形が南西のスウィンダンと北のウィングロットの境界となっている。そこに居並ぶ山々の中で最も高く美しくそびえる山の名が、ペン・カウル。そして、その足もとにある町も同じ名で呼ばれている。
 谷あいに広がるその町は、スウィンダンとウィングロット双方が領有権を主張しており、争いの種となっていた。
 デニーさんの言葉が脳裏(のうり)をよぎる。
『次の王さまになる目がなくなったからさ。東のエリウで騒ぎを起こし、みんながそっちに気を取られている間に北の方から大陸の軍勢を入れて、ウィングロットの領主さまらと組んで国を乗っ取ろうって(たく)らみなんだと』
(しまった……)
 オルフェンはキアランを(はな)から疑っている。
 彼女はダナンの王女。母と同じく女神ダヌの娘だ。ダナンと、ダナンの中心であるミースの王家を守る義務と責任がある。そしてその気概(きがい)もある。
 何者であれ、王子を(たぶら)かす者を許してはおかない。もしも兄をおかしな(はかりごと)に巻き込むもうとする者がいれば、その前に自分がその人間ごと(つぶ)すつもりでいるのだ。
 妹の思いが痛いほど分かっているから、頑張って話題を変えようとしたのに。
 よりによってウィングロット。
 また例の噂につながってしまった。さっきまでの努力はなんだったのか、と迂闊(うかつ)な自分を(ののし)りたくなった。
(やれやれ、しばらくかかりそうだね)
 シャトンはアリルとオルフェンのくるぶしにするりと体をこすりつけると、ドアの隙間から外に抜け出した。
「あっ、シャトン! どこへ……」
 引き留めようとするアリルをもう一度だけ振り返って、にゃおん、と鳴くと、シャトンは客人たちがいるはずの部屋へと向かった。
「兄さま! きちんと説明してください!」
「ええっと、何を?」
「とぼけないで!」
 言い争う兄妹の声を背中に聞きながら、シャトンは弾むように廊下を駆け降りてゆく。
(ま、確かにあのキアランって男は、何か普通じゃない匂いがするんだけれどね)

 砦の城は、コーンノート最後の王の居城として知られている。
 西にカエル・モリカの町。背後は絶壁(ぜっぺき)。その崖の下には青く暗い波が渦巻いている。
 この一帯の海はモリカ岩礁(がんしょう)と呼ばれている。海の側からこの岸壁(がんぺき)を仰ぎ見ると、無数の岩の柱がそびえ、その上に薄いカーペットのような地表がかぶさっている。嵐でなくとも、夜や霧の日に、うっかり陸地に近づきすぎて座礁(ざしょう)した船は数知れない。
 城壁の東端には高い塔があり、それが灯台(とうだい)となっている。
 その火を絶やさないこと。これが城主に課せられたもっとも重要な仕事だった。
 海面に目を移すと、折れた柱のような岩が無数に突き出しており、晴れた日にはたくさんの白い鳥がその上で羽を休めている。この鳥たちの中に、海の神マナナン・マクリールの娘が紛れ込んでいて、気に入った男を連れて行くという。とにかく、いつ何時(なんどき)であっても気を抜くことを許されない、船乗りたちにとっては油断のならない難所(なんしょ)であった。
 一方『砦の城』という名の由来は、先史の昔にさかのぼる。
 すぐ近くにある、だだっ広いヒースの野原。
 ここで神々と妖精たちが激しい戦いを繰り広げた、という伝説が残っている。その勝者がダヌが(ひき)いる一族であった。この島がダヌの島、イニス・ダナエと呼ばれるようになったのはこの時以降のことである。敗北した種族は地下深くに潜ったとも、海を越えて落日の向こうの国へ逃れたともいわれている。
 ここ、砦の城は敗者の本拠地であった。
 ヒースの野で馬のいななきやら大勢の者たちが走り回る足音が聞こえただの、崖下に無数の小さな鬼火(おにび)が揺れているのが見えただの。土地柄、怪しげな噂には事欠かない。
 だが、この城のめぐりの景観は美しい。
 今の季節は寒くなる一方だが、春から夏にかけては渡り鳥よろしく、詩人やら画家といった芸術を志す者たちがこの城を訪れる。
 もっとも、怪異を求める物好きは冬の時期をこそ狙ってやって来る。城下の小さな町で、十一月のサウィンの祭りが盛り上がりを見せるのはそういった者たちが(つど)うためでもある。
 砦の城のラウンジは、客人に心地よく過ごしてもらうための工夫が()らしてあった。
 高い天井には柔らかな色彩の絵が描かれている。部屋の隅の燭台(しょくだい)は、蝋燭(ろうそく)を乗せる台座の飾りは可愛らしいガラス細工の花だ。暖炉の上にはドライフラワーや木の実をあしらったリースが飾られ、ほのかにハーブの香りが漂ってくる。大きな窓はたっぷりと陽光を取り入れて、春のような暖かさである。
 細やかな刺繍(ししゅう)(ほどこ)した贅沢(ぜいたく)な布張りの椅子にちょこんと収まったエレインは、得体(えたい)の知れない居心地の悪さを覚えていた。
(来たことない、はずだよね)
 妙に懐かしい。
 その懐かしさがエレインを不安にさせる。
 この部屋を出て右に行くと、階段があって、二階の『階段の間』には泉の妖精の像がある。そこの細長い窓からは中庭の林檎(りんご)の木が見えるはずだ。
(お城の中がどうなっているかなんて、全然知らないのに)
 おとぎ話のお城と、ごちゃまぜになっているのだろうか。
 その中で、壁に掛けられたタペストリーだけは「見覚えがない」と、はっきりと言い切ることができた。振り子を手にした時の(おきな)を中心に、四季の精霊が織り込まれている。大陸から伝わった構図で、特に珍しい意匠(デザイン)でもない。しかし『このタペストリーには見覚えがない』。その感覚にほっと息を吐いた。
「どうした?」
 ぼうっとしていたところに声をかけられて、びくっと身をすくめる。
「落ち着かないか?」
 フランは柔らかな長椅子の座り心地を存分に味わっているようだ。頭の後ろで指を組み、ゆったりと背もたれに体を預けている。
「はい」
 背筋を伸ばしたままエレインが素直に頷くと、フランはにっと笑った。
「気楽にしてろ。今回は身なりもちゃんと整えたし、いいところのお嬢さんに見えるぞ。小さな(やかた)だし、堂々と客をやってりゃいい」
 少々的外れではあったが、気遣いが嬉しい。ふっと肩から力が抜けた。
「こんなに待たされるとはな。あいつならすぐに出てくると思ったんだが」
 この男も不思議だ。会って間もないのに、もう何年も前からの知り合いに思えてくる。
(いろんなことがありすぎたからかな)
 イニス・ダナエのほぼ中心にある湖の島から、東端のエリウの丘へ。
 聖女を(まつ)る神殿で、人ならぬ妖精女王に会った。
 その夜いきなり火事に()い、顔を合わせたばかりの聖騎士に連れられての逃避行。
 馬車に揺られて惑わしの森、隠者の庵へ―――。
 ダナンの上にジグザグの線を描いて、今は王子が滞在(たいざい)しているというこの城にいる。
 こうして改めて思い返すと急激な変化に驚く。
 聖騎士の正体は、銀灰色の髪をした青年隠者が教えてくれた。
『ついでに言うと、あちらが三代目隠者、フラン。僕の師匠でもあります。あなたには何と名乗ったか知りませんけど』
 そういう青年はダナンの王子だった。この聖騎士さまはまだ裏に何か隠していそうだが、不思議と腹は立たない。(だま)されたという気も起らなかった。
 少なくとも、自分に向けられる眼差(まなざ)しは真っ直ぐで、裏に悪意を秘めているようには見えない。こうしてそばにいると、何が起こっても任せておけば大丈夫な気がして、ほっとする。それとも、詐欺師(さぎし)に騙される人は、みな、こんな風に思い込まされてしまうのだろうか。

 ざあー…ん、ざあー…ん。
 黙って座っていると、崖に打ちつける波の音だけが耳に響く。時を忘れそうになる。
 コンコン、と控えめなノックの音がその沈黙を破った。
「よろしいでしょうか」
「どうぞ」
 柔らかな男の声にフランが答える。
 開きかけた扉の隙間から小さな生き物がするりと入り込んで、迷うことなくエレインの方に走り寄ってきた。
「あら、シャトン?」
 にゃあ、とエレインの顔を見つめて挨拶(あいさつ)すると、軽やかに膝の上に飛び乗り、猫の習性のままに二、三度足を踏み踏みするとくるりと丸くなって収まった。のびやかな知己(ちき)の姿に、心が(なご)んだ。
「おや? この小さな貴婦人(レディー)は、そちらのお嬢さまとお知り合いでしたか」
 シャトンに続いて、黒い装束(しょうぞく)に身を包んだ騎士が姿を現した。さらさらと流れるコーヒー色の髪。物憂げな蒼紫(あおし)の瞳に長い睫毛(まつげ)が影を落としている。非の打ち所のない優雅な仕草で茶器を運んできたのは、この世の者とも思われぬ美青年だった。金の首環(トルク)が、全身の黒の中で浮き上がることなく、しっくりと馴染(なじ)んでいる。
「げっ!」
 一目その姿を見るなり、フランが立ち上がった。青年がおや、と軽く目を(みは)る。
「これはこれは。客人のお一人はあなたでしたか」
「お前がここにいると知っていたら、来なかったよ」
「ご挨拶ですねえ」
 ふう、とわざとらしい溜め息をついて、青年は銀の盆をテーブルに置くと、慣れた手つきでお茶を淹れた。
「では、エレインお嬢さま。こちらをどうぞ。お砂糖はいかがなさいますか」
「あたし…、いえ、私の名前をご存じなんですか?」
「ええ、当然でしょう」
「でも、初対面だと思うんですが……」
 青年は、ああ、と思い当たったように微笑んだ。
「亜麻色の髪の姫君、この姿でお会いするのは初めてですね。今は流れの騎士をしています。名は、キアランとお呼びください」
 湖の島で会ったことがあるのかもしれない。騎士がニムを訪ねてくるのもそう珍しい事ではなかった。と、エレインが記憶をたどろうとすると、足下にその騎士が(ひざまず)いた。
 左手を胸に当て貴婦人への礼をとる。洗練されたしぐさに気後れして、とっさに身を引こうとしたが、その前に手を取られてしまった。
「その桜貝のようなドレスも良くお似合いです。若草色の瞳と相性もいいですし。余分な装飾がないのがまたいい。あなたの可愛らしさを損ないませんからね」
 キアランはエレインの手を押し戴いて軽く口づけし、にっこりと微笑む。エレインが頬を染めた。
 ケッ、とフランが吐き捨てる。
(キアラン)、かよ」
「そういうあなたは、(フラン)、でいいのかな。今度は聖騎士ですか。まったく、何度転職すれば気が済むんだか」
 ドキドキする胸を静めようと空いた手でシャトンの背を撫でながら、エレインはうつむいたまま二人の顔を交互にそっと盗み見た。仲がいいのかどうかは不明だが、息はぴったりだ。多分昔ながらの友人とか、そういうものなのだろう。
「人間にはいろいろ都合というものがあるんだ。それより、あいつはどうした」
「殿下ですか? あなたの弟子だそうですが、この城の中であいつ呼ばわりはいかがなものかと」
「で、何かあったのか?」
 キアランはわざとらしく視線をフランからエレインに移した。痛ましげな眼差しでエレインの瞳を覗き込む。
「聖都では大変な目に遭われたとか。火事に盗賊、おまけに他国の間諜(かんちょう)が何人も紛れ込んでいたそうですね。御身(おんみ)がご無事で何よりでした」
「あ、ありがとうございます……」
 まだ左手はとられたままである。どうしていいか分からずにおろおろしていると、シャトンが前足でキアランの手を払いのけてくれた。
「で、それがどうしたって?」
 イライラを隠そうともせず、語気を荒くしてフランが先を(うなが)す。
「その件で、殿下に黒幕容疑がかかっていまして。今、取り調べが行われております」
「何だって?」
 気色(けしき)ばむフランを横目で見て、キアランがくすっと小さく笑った。
取調官(とりしらべかん)は殿下が最も苦手とする貴婦人(レディー)です。心配はいりません。そろそろ進退(しんたい)(きわ)まった殿下が、こちらに救けを求めていらっしゃるでしょう」
 ぴくっとシャトンが耳をそばだてた。
 足音が近づいてくる。二人分。一人はすたすたと、もう一人はよたよたと。
 ほどなく、人間たちの耳にもその音は届いた。
「ほら、ね」
 足音は客間の前で止まった。
 ギイ……、ときしんだ音を立てて扉が内側に押し開けられる。扉にもたれかかるようにして、(せい)(こん)も尽き果てたといった風情(ふぜい)の王子がよろめきながら中に部屋の中へと足を踏み入れた。
「お待たせ、した……。キアラン、僕にも何か飲み物と食べ物を……」
 そうして、ばったりと絨毯(じゅうたん)の上に倒れ込んだ。

 行き倒れの王子のために、軽食が用意された。
 スコーンとサーモンを挟んだサンドイッチ。薄く切った林檎のシロップ煮。そしてお代わり用のお茶をたっぷりと。
「マーマレードか……。それはまあいいとして、クリームが少ないな」
 王子さまはぶつぶつと文句を言いつつ、紅茶にとぽとぽとミルクを注ぐ。そしてクリームとジャムを乗せたスコーンを頬張り、ごふっとむせた。
 いつもなら背中をさすってくれるシャトンは、客人の膝の上だ。
「んもう!」
 シャトンの代わりに、オルフェンがどんっ、と兄の背中を叩いた。
「す、すまない」
 けほけほと咳き込みながらカップに手を伸ばすアリルを見て、キアランが呆れたように肩をすくめる。
「聞きしに勝るご隠居っぷりですね」
「フォローはしない」
 フランが同意する。
「で、何を揉めていたんだ?」
「全く、ひどいんですよ。デニーさんから聞いた話に、また尾ひれがついてしまって」
 まだ時おり咳き込みながらアリルが説明しようとすると、その先をオルフェンが引き取った。
「両親から見限られて小さな城に追いやられた兄さまが、自棄(やけ)を起こして王位の簒奪(さんだつ)、国の乗っ取りを企てた、って」
「そりゃまた、荒唐無稽(こうとうむけい)な」
「あり得ないね」
 フランとシャトンが口を挟んだのは同時だったが、オルフェンにはシャトンの言葉はニャアとしか聞こえない。ちら、と鋭い視線をフランに向けた。
「わたしだって、そこまで兄さまが愚かだとも行動的だとも甲斐性(かいしょう)があるとも思いませんけど。それに、人の話は最後まで聞いてくださいな」
「……はい」
 その語気と目力の強さに、フランが身をすくめる。
「ウィングロット公と手を組んで北の国と同盟を結び、盗賊たちを語らってエリウの街に火を放った。聖殿を皮切りにダナンの東方を混乱に(おとしい)れて、注意をそちらに引きつけておいてから北の方から王都に攻め込む作戦だったのが、聖職者たちや民衆の消火活動が予想以上に迅速(じんそく)に行われたため企みは失敗したとか。ですが、そのどさくさに紛れて聖女さまのご聖体を盗み出し、行きがけの駄賃(だちん)とばかり聖女さまに仕える娘たちの中で一番可愛らしい乙女を(さら)った、と」
 そこにいる全員が黙り込み、微妙な表情で王子から視線を()らした。
 リュウグウノツカイ(なみ)の尾ひれがついている。
「何人かに確かめたのですけれど、少しずつ話が変わっていて。さらに腹が立つことには、こちらが真剣に耳を傾けているというのに、誰もかれもが最後に――なんちゃって、とかいうオチをつけるのです」
 最初に噴き出したのはどちらだったか。フランとキアランが声を上げて笑った。
「つまり、誰も殿下が謀反(むほん)を企んだなどという話は信じていないのですね」
 素早く笑いを収めたキアランとは対照的に、フランは目に涙がにじむまで笑い続けた。
「やけに民に信用があるじゃないか。よかったなあ、アリル殿下」
「はいはい。よかったですよ」
 もそもそとスコーンを口に運びながら、むっつりとアリルが答える。
 そんな微笑ましいと言えなくもないやり取りを、エレインとシャトンは少し離れたところから眺めていた。と、そこに、先ほどと似た感覚が訪れた。
 奇妙な既視感(きしかん)
 現実の風景と自分の間を透明な薄い(まく)(へだ)てる。
 不意にはっきりとした男の声が頭の中に響いた。
『火のない所に煙は立たぬ。これは好機(こうき)なのだよ』
 それは、誰の声だったか。考えるより先にエレインの口が動いていた。
「あ、あの……」
 皆の目がエレインに集まる。現実が戻って来た。
 ぎゅうっと両手をを握りしめて、言葉を探す。シャトンが心配そうにその顔を見上げた。
「ウィングロットの方々は、どうなるのですか?」
「どうなる、って?」
 オルフェンが首をかしげる。
「だって、噂だと王子さまと一緒に反乱を起こした、ってことになっているのでしょう。王子さまは全く疑われてなくても、ウィングロットの領主さまは?」
 フランとキアランが顔を見合わせた。
「おい、今のウィングロット公は――」
「大層なご高齢ですよ。御病床に()しているそのわきで、連日連夜、次代領主の座をめぐって後継者候補たちが騒ぎ立てているとか」
(ご高齢の、領主……)
 ずきん、とエレインの胸の奥が痛んだ。
「ふうん。じゃ、その候補者とやらの一人が、アリル殿下と組んで領主の地位を得ようとする、っていうのも不自然な流れじゃないってことか」
「決して上策、とは言えませんけどね。殿下にダナンの王座についていただき、恩を売っておいて……」
「ゆくゆくは昔の地位を取り戻して、ウィングロットをダナンから切り離し、対等の国にする、ってか。無謀(むぼう)だな」
「ええ。絵空事(えそらごと)、と呼ぶにもお粗末すぎます」
 男二人の口調はのん気だが、内容は穏やかどころではない。
 みるみるエレインの顔が(くも)るのを見て、キアランがにっこりと微笑んで見せた。
「心配はいりませんよ。クネド王の時代とは違います。戦さなど起こりませんから」
(クネド王……)
 びくっとエレインの肩が震えた。
 キアランはどこか楽しげだ。
「ほら、何年か前にもありましたよね。先代のウィングロット公が、大陸のノヴァークの王に(そそのか)されて反乱を起こそうとしたことが」
 スコーンを頬張っていたアリルが小さくむせた。できれば触れられたくない過去が、そこにある。彼の中の黒歴史と言っていい。
 粉末が飛び散るのを見て、オルフェンがつっけんどんな仕草でカップを取り上げ、お茶を注いで差し出した。
「ありがとう……」
 口元を(ぬぐ)ってから、妹が淹れてくれたお茶で口の中に残っているスコーンを流し込む。王子が一息つくのを待って、キアランが話を続ける。
「もともとあの領主自身が人望のない人物でしたから。仲間だと思っていた近隣の小領主たちには早々に見限られ、後ろ盾になってくれるはずのノヴァークにもあっさり見捨てられ、ほとんど犠牲もなく鎮圧(ちんあつ)されました。ああ、当然領主は()るされましたけれど、それくらいは仕方ないですよね」
 最後にさらりと付け加えた一言に、エレインは全身の血が凍ったような感覚に(とら)われた。
「おい」
 フランの目が(けわ)しくなる。
「余計なことを言うな」
 キアランは首をかしげた。
「余計なこと? 何がですか? クネド王の時代に比べれば、甘すぎるくらいの措置(そち)だったでしょう。現王はお優しいですから」
「父を馬鹿にしないで!」
 オルフェンが気色ばむ。
「馬鹿になど。血を流す王が優れた王とは限りませんよ。あの用兵はお見事でした」
 アリルにとっては苦い思い出だ。
先鋒隊(せんぽうたい)だけ五百騎、でしたか」
 ファリアスを出た時は百だった。
「それだけの数を動かしながら相手に悟られることなく敵地に乗り込んだ」
 敵襲(てきしゅう)を知らせる狼煙(のろし)(つら)なりが途切れるよう、前もってウィングロットに属する砦を二つほど懐柔(かいじゅう)してあった。出陣前に父が打った手について、他の者はいざ知らず、アリルは全く耳にしていなかった。
「道中兵士による略奪(りゃくだつ)もなく、そのおかげで民たちの覚えも良くなったらしいですね」
 略奪をさせないため、人選はもとより、相応の報酬(ほうしゅう)を払えるだけの人数しか動かさなかったのだ。
「本気を見せるだけで相手の戦意を失わせるとは……」
 秋の収穫を前に戦さを仕掛けるバカはいない。そういう油断がウィングロットにはあった。冬の訪れの早いノヴァークの使者たちはもう国に引き上げた後だった。まともな戦いになるはずがない。
 しかし、こちらにも犠牲が無かったわけではない。死者こそ出なかったが、アリルと同じ年頃の年若い見習い騎士が一人、流れ矢で重傷を負った。それがどういう意味を持つのか、アリルは考えたくもなかった。
 ()めた頭で過去を振り返る兄とは対照的に、オルフェンは向きになってキアランにくってかかる。
「まるで、見て来たかのように話すのね」
「おや、そう聞こえましたか」
 上目づかいに睨むオルフェンを、キアランは涼しげな表情で受け流した。その態度に腹を立てたオルフェンが、また何か言い返していたが―――。
 アリルは紅茶をすすりながら、別のことを考えていた。
 フランは気のない様子で、だらんと天井を仰いでいた。
 そこに、
 ガターン。
 と、何かが倒れる音が響いた。
「!」
 全員がはっと振り返る。
 事が起こった時、真っ先に動いたのはシャトンだった。
 くらっとエレインの頭が傾いた瞬間、ぶるっと身を震わせ、全身の毛を膨らませたかと思うと、虎ほどの大きさになった。そうして、くずおれてきたエレインの上半身を背で受け止め、頭をぶつけないよう椅子やらサイドテーブルを足で押しのけた。
 他の者たちが聞いたのは、シャトンに押しやられた椅子がひっくり返った音だった。
「アリル」
 シャトンに名を呼ばれて、あたふたとアリルが立ち上がる。
「キアラン、医者を呼んで。オルフェン、部屋の用意を――いや、僕の部屋へ運ぶ。ベッドを整えてくれ」
「兄さまの部屋ですって?」
 オルフェンが異論を唱えかけたが、珍しくアリルの勢いが勝った。
 二人が部屋を飛び出していく。その後ろからシャトンがくったりと意識のないエレインを背に乗せ、雪豹(ゆきひょう)を思わせる優雅な足取りで悠々(ゆうゆう)と開いたままの扉から外へと出て行った。
「俺は?」
「師匠はそのへんを片付けておいてください」
「……」
「それから、彼女を休ませたら、じっくりと聞かせてもらいますからね。僕に隠していることを、全部!」
 不満なのか。困惑しているのか。憮然としたフランを部屋に残してアリルは扉を閉めた。
(喉がつまる)
 この不快な感覚は、パサパサしたスコーンのせいではない。
 アリルは、彼にしては珍しく、本気で怒っていた。他の誰にでもなく、自分自身に対して、だ。
 その昔、師匠と二人で庵で暮らしている間、おや、と思ったことは幾度もあった。胸に芽生えた小さな疑問たちを放っておいたのは自分だ。そのときは大した問題ではなかったから。
 あのエレインという少女も。
 初めて会ったとき、影の薄い娘だと思った。いや、存在感がないのではない。まるで彼女の肉の体を見えない膜が包んでいるかのように、妙に『生身(なまみ)』が感じられないのだ。
 彼女は記憶を失っているという。しかもその自覚が彼女にはないらしい。そんなことがあり得るのか、どうしてそのような状態になったのか、師匠は言葉を(にご)して教えてくれなかったし、自分も追及しなかった。あまりに立ち入ったことを聞くのは(はばか)られたので。
 時折感じる不自然さはそのせいかと思った。しかし、それだけではないのかもしれない。
(あの娘は、もしかして――)
 無垢(むく)な少年だった時代からずっと引っかかっていた、引っかかっていることすら忘れていた疑惑の欠片(かけら)の存在を、彼女が思い出させてくれた。
 目の前に現れたいくつかの新たな欠片のおかげで、疑惑に対する答えが、おぼろげながらも形を取り始めた。

 ヨハルとフラン。
 初代惑わしの森の隠者。
 エレイン。
 エリウの丘。
 庵の納屋に押し込まれた、薔薇の模様が彫り込まれた木の棺。

 アリルの部屋では、シャトンとオルフェンが気を失ったままのエレインを介抱(かいほう)している。楽な衣服に着替えさせるから、とアリルはベッドのそばから追い払われた。
 そこを離れ、ふと思い立って、足をクローゼットの奥へと向けた。
 通路から森の庵へ。庵の書架(しょか)の前に立ち、一番上の段から薄い一冊の覚え書きを取り出す。
 二代目の手記だ。
 三代目に会って間もない頃、書架を整理していて見つけた薄い冊子。
 最後のページを開いて、中に書かれている言葉を読み返す。ノートを握る手に力がこもった。短いセンテンスを見つめながら、自嘲的(じちょうてき)に吐き捨てる。
「鈍いな、僕も……」
 アリルの背後で白い蝶がふわふわと羽ばたき、窓から差し込む光の中に淡く溶けて消えた。
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登場人物紹介

アリル

ダナンの王子。四代目『惑わしの森』の隠者。

21歳という若さながら枯れた雰囲気を漂わせている。

「若年寄」「ご隠居さま」と呼ばれることも。


シャトン

見た目はサバ猫。実は絶滅したはずの魔法動物。

人語を解する。

まだ乙女と言ってもいい年頃だが、口調がおばさん。

フラン

赤の魔法使い。三代目『惑わしの森』の隠者。

墓荒らしをしていた過去がある。

聖女や不死の乙女と関わりが深い。

エレイン

亜麻色の髪に若草色の瞳。

聖女と同じ名を持つ少女。


エリウ

エリウの丘の妖精女王。

長年、聖女エレインの守り手を務めた。

オルフェン

ダナンの王女。アリルの妹。

「金のオルフェン」と称される、利発で闊達な少女。

宮廷での生活より隠者暮らしを好む兄を心から案じている。

ドーン

冥界の神。死者の王。

もとはダヌと敵対する勢力に属していた。

人としてふるまう時は「キアラン」と名乗る。

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