第16話「黄金色の小判型でサクサクとした衣」
文字数 9,912文字
ああ、そうだ。
目の前にはコロッケ。
小判型で、黄金色のサクサクとした衣。
それ以上に、コロッケを形容する言葉があるだろうか。
四角だったらエビカツになるし、まん丸だったらハムカツかメンチカツになってしまう。
あの茶色とも黄色とも似つかない、黄金色の衣をまとって、しかも小判型というんだから。それはもう、コロッケに決まっているし、コロッケ以外はありえない。
百歩譲って、カニクリームコロッケとか、グラタンコロッケとか、カボチャコロッケにサツマイモコロッケの可能性が、たとえ存在していたとしても、それは木を見て森を見ないのと一緒で、つまり、コロッケなわけだ。
ああ、そうだ。
つまりだよ、つまり。
僕が何を言いたいかというと、目に見えるものすべてが、コロッケになっているんだ。
目が覚めると。
まずそこから、説明する必要があるだろう。初めに言っておくが、僕は、どうして目が覚めることになったのかは、よく覚えていない。まぁ、どうして眠っていたのか。いつからそこで眠っていたのか。僕には皆目、見当がつかない。
僕は確か、そうだ、いつものパソコンラックで、ゲームをやっていたはず。あー、ちょっと待てよ、アニメを見ていた?いや、動画を見ながらチャット?デイトレード?いやいやちがう。VRで、バーチャルコンサートに参加していたのか?あー、ちがう。
全部、やっていたんだった。
まぁ、いつものようにパソコンの前にいたはずだけど、気づいたら、これ。
ベッドの上で寝ていたみたいで、目の前は黄金色のコロッケ畑。お花畑だったら、死んだのかもと、思うかもしれないが、コロッケだよ。コロッケ。
ベッドの上で寝ていたと言ったけど、本当にこれがベッドかどうかはわからない。見た目がコロッケでも、手ざわりが、布団のようだし。あと、目が覚めるといえば病院のベッドの上、そういうもんだろ。まぁ、僕の場合は『知らない天井だ』って言う前に、『うわっコロッケだッ』って、言ったが。
本当に見えるものが、もう、本当にコロッケ。手近にあるものでいえば、枕とか布団とか、チェスト?なんか四角い箱上の物とか、なんか、そういうのが全部、コロッケになっている。まぁ、もうコロッケにしか見えないから、『何』がコロッケに見えているのか、全くわからない。触った感じとか、そういうのでしかわからない。
だから、僕がベッドって言った物も、実際の見え方で言うと、薄っぺらいふかふかしたコロッケが体にかかっていて、分厚くて少し硬めのコロッケが体の下にある。そして、枕ぐらいのサイズのコロッケが頭の下。
目が覚めた瞬間、それはもう胸焼け。
頭のあたりには、もっとごちゃごちゃした何かが、まぁ、要するにコロッケだけど。ここが病院だとしたら、ナースコールとかそういうのがあると思うが、いずれにしても、どれもコロッケにしか見えない。それなら、下手にいじらない方がいいかな、と。
そのまま、人を呼ばずに、どれがコロッケに見えて、どれがコロッケには見えないのか。それを少し見極めようと思う。
やっぱり。この状態で、見るのは怖い。その、人を見るのは。
人をまだ呼んでいないというのは、それが一番の理由。
人間までも、コロッケに見えたらどうしようか。本当にどうしようか・・・。
僕は何とか手探りで、窓枠らしきものに手を掛けていた。目が覚めた時は、窓一つない牢屋のような部屋なのかなと思っていたが、どうやら窓もあるらしい。
というのも、透明な窓ガラスでさえ、今の僕にはコロッケに見えるみたいで、ベッドサイドのごちゃごちゃと同じく、壁にあるゴチャゴチャがまさか、アルミサッシだったとは、そこを触ってみるまで、全然わからなかった。
見た目は、当たり前だけど、コロッケ。
なんというか、テレビ画面に映したコロッケみたいな感じで、衣はあるのだけど、触ると奇妙で、スベスベしていて、叩くと、コンコンっていう。無機質な音が鳴る。
その周りの壁らしきものは、叩くと、ドンドンという、鈍い音が鳴る。
だから、この部分だけは他のコロッケとは違う、コロッケ。壁じゃなくて窓なのだろう。
問題は、このコロッケのどこに指をかけて、はたまた、カギを開けてから、開けることができるか、だ。
別に、窓を開けてみる必要なんてないが。今はとりあえず、コロッケじゃない何かを見たい。その気持ちは、わかるだろう。
四方八方、どこを見ても黄金色の脂っこい衣!せめて、あの外の青空くらい。コロッケ雲くらいは浮いているかもしれないけど、あの清々しい空を見て、この気持ちを一旦、晴れやかにしたいんだ。
手探りでコンコンする部分と、カチカチする部分を弄り回す。
目で見る限り、あのレバーを上げ下げする窓の鍵も、小さなコロッケになっている。
触る感じ、明らかにあのレバーなのだが、異様に硬くて下せない。あぁ、そういえば。レバーにさらに小さなロックが付いているタイプもあった。
もう、目を開けて作業をしたところで、全てコロッケにしか見えないから、意味が無い。目を瞑って、文字通りの手探りで、窓のレバーらしき物体を弄り回していると、やっと、ガチャリと鍵が開いた。
もう、うれしくて、窓に張り付く柴犬のように、窓ガラスに爪を立てて、引っ掻くように窓を開ける。
窓の向こうから見れば、かなりヤバい奴に見えていたかも知れないが、こんなコロッケだらけの世界、窓の向こうだって、まともとは限らないんだ。まぁいいだろう。
窓が、キャリキャリと独特な音をたてて開く、と。
待ち望んでいた!
オレンジ色の哀愁を誘う夕焼け空。
夕陽を浴びて黄色くなったひつじ雲。
まばらに空を飛ぶ、コロッケ。
耳を澄ますと、遠くからカァー、カァーと鳴く声が聞こえてくる。
♪からす~ なぜ鳴くの~
あぁ、耳をすませば、そんな童謡まで聞こえてきそう。あぁ、もう、お夕飯の時間か。おっと、これはカレーの匂い。今夜はカレーだ!早くお家に帰らなくちゃ。
って、やっぱりコロッケじゃないかアアァ!
目を瞑って、大きく深呼吸する。さっき感じたカレーの匂いは幻覚だったようだ。息を吸うと、ほこりっぽい街の臭いがする。
ゆっくりと目を開くと、そこには、僕が知っていた町とまるっきり変わった世界が、といっても、恐らく全部、コロッケに置き換わっただけなんだが。
夕焼け空だと思ったのは、やっぱり、大きなコロッケだ。空がコロッケというより、コロッケの天球、衣を内側にしたコロッケの中にいるような感じ。それに、おおかた予想通りの空飛ぶコロッケ雲。鳥もコロッケになっている。
この病院?は思いのほか高い建物みたいで、僕がいる部屋もそこそこ高い部屋なおかげで、窓を開けた瞬間、すぐ外の人通り、とはならずに済んだのは、心の準備をする暇を与えてもらえて、あぁ、なんとか良かった。
あぁ、でも、ここから街を見下ろす勇気が出るはずがない。どうする?コロッケが歩いていたら?ああでもすでに、大きいコロッケがそこそこのスピードで滑っているのが見える。もう、あれは車だ。
とりあえず、不審に見えないように、窓枠(コロッケ)に肩肘を乗せて、物思いをするように空(コロッケ)を眺める。あぁ、遠くからカラス(コロッケ)の鳴き声が聞こえてくる。今頃、実家(恐らくコロッケ)はどうなっているか。
僕のゲーミングPC(確実にコロッケ)と4K30インチモニター(これも確実にコロッケ)も、ノイキャン付きゲーミングヘッドセット(これも以下同文)も、トラックボールマウス(以下同文)も、ゲーミングキーボード(以下同文)も、あれ(以下同)も、これ(以下)も、それ(以下)も・・・。
「どうせ、全部コロッケになってんだよ!」
思わず、大きな声を出してしまった。
まぁ、だって、ことごとく、コロッケにされてしまったら、誰だって取り乱すのは当たり前だし、僕が悪いわけじゃない。
あぁ。あのゲーミングPC高かったのに。全部コロッケになっちゃうんじゃ、全部買い直さないといけない。
はぁ、また、バイト代貯めないと。
って、機械がコロッケになったんじゃなくて、僕がコロッケに見えているだけなんだから、気にせず、ゲームできるじゃん。よかった。よかった。
え?でも、窓ガラスの向こうがロクに見えなかった、ていうか、見えるものすべてコロッケな時点で、もう。
「ゲームできねーじゃん!!」
また、大きな声、さっきより明らかに大きな声を出してしまった。
「どうしましたかー?」
ドア(コロッケ)の向こうから、女性の優しそうな声と、スタスタという足音が聞こえる。
あぁ、誰か来るみたいだ。きっと。まさか。いや、きっとそうだよね・・・。
ガラッ、と勢いよく扉が開く。
うわ!
どうやら、また眠っていたようだ。
目が覚めたらベッド。
今度は本当に、ベッドの上だ。
そう、ベッドの上!
コロッケなんかじゃない!元の世界だ。帰ってきたんだ!いや、というより、元の見え方ができるようになったんだ。
水色の布団カバーにシーツ。
とっても無機質だけどコロッケじゃない。脂っこい、あのざらざらとしたような見た目じゃなくて、正真正銘のシーツだ。布地だ。肌触りの質感と見た目が一致している。
あぁ、これほど、シーツの水色に飢えていた、だなんて。
ふかふかした夏用布団を、自分の頬っぺたのところまで引っ張り上げて、すりすりさせる。パリッと、すべすべしたカバーの質感。涼しげな感じ。
あぁ、ため息が出てくる。ひとしきり、その質感を楽しんだら、布団を押しのけて床に敷かれたラグに足をつける。
ヒヤッとする。ラグの長い毛足が、足の裏をくすぐる。カバーの時のように、毛足の感触を楽しむように、足をグーパーする。
大きく伸びをする。
ベッドから起き上がると、目の前には、出窓があって、小さな鉢植えの観葉植物が、凛としている。
出窓に寄り掛かって、窓の向こうを見る。窓を開けなくても外の景色が見える。
清々しい空。まばらな電柱の向こうから、朝陽がのぼっているのが見える。チュンチュンと鳴いているのは、スズメだろうか。
はぁ。
ため息が出る。こんなに朝早く起きたのはいつぶりだろうか。
本当に、嫌な夢を見たんだなぁ。
まさか、見えるものすべてがコロッケになるだなんて。そんなの夢に決まっているだろう。
本当に夢の与える現実感というのは恐ろしいものだ。どんな突飛なことでも、それが普通だと思い込んでしまうというか、ある意味、強迫観念みたいなものに駆られて、夢に、されるがままになってしまう。
広い世界には明晰夢といって、夢の世界を自分のものにできる人がいるらしいが、僕にはそんな才能というのは、恐らくないだろう。
はぁ。
せいぜい、自分の思う通りになるのは、夢の世界でも、現実でもなく、PCの世界だけ。それも、いつまでもこちらに背を向ける、TPSのキャラクターだけ。
とは言ったものの、今年の大会は本戦の一回戦負け。メンバーは、来年は就活だから参加できない、と言うし。みんな、eスポーツのプロを目指すわけじゃなかったのかよ!
既に悪夢の輪郭はぼやけ始めていたが、どんな夢だったか、あぁ、なんかよくコロッケが出てきたなぁ、程度に思い出しながら、部屋の真ん中にある椅子に座る。
丸いハイテーブル。それにちょうどいいくらいの、カウンターチェア。
つま先だけがラグの長い毛足に触れる。
ハイテーブルには、サンドイッチが一切れ。それと牛乳とオレンジジュース。
なんか、こんな時間に起きた上に、ちゃんと朝ご飯を食べるのもすごい、久しぶりだ。
サンドイッチを片手でもって、本当に薄っぺらいサンドイッチだけど、久しぶりの朝食。ろくに食欲もない自分にはこれくらいがちょうどいい。
端っこを控えめにかみつく。
うーん。
乾いた口の中に引っ付いて食べづらいが、見た目よりも食いでがある。
もったりとした、触感にジャガイモの甘さに牛肉の香ばしさ。うーん。やっぱり、コロッケにはソースだな。って。
コロッケの味がする!
手元のサンドイッチを見直す。
それは、ひどく薄っぺらい。と言ってもハムサンドくらいの厚さ。要するに、コロッケを挟むような余地など、無いくらい薄い。
なぜ、そのようなサンドイッチからコロッケの味が?
試しに、行儀は悪いが、サンドイッチの中身を開いてみる。
パンと、パンとハムが合わさったのに分かれる。べったりとマヨネーズとマスタードを合わせたようなソースがついている。
ハムサンドだ。
これは標準的なハムサンドだ。試しに片方を、パンだけのをかじってみる。
歯ざわりからしておかしい。
本来であれば、すべすべ、もっちりした食パンの感触と、ソースのべたべた、ひやっとした感触が唇をとおして伝わるはずだった。しかし実際には、ざらざらとして、脂っぽい感触。
まぎれもない、揚げ物の衣、コロッケの感触なのだ。
さっきまで見ていた、悪夢の内容が頭をよぎる。
黄金色の室内。枕も、布団も、ベッドもコロッケになっている。一苦労して開いた窓の向こうの景色。空も、雲も、鳥も。
ああ、あの後、部屋の扉が開いて…。
うっ!
どうしても、思い出せない。
あの時、扉を開けて部屋に入ってきた存在というのが。
思わず、頭を抱えてラグの上にうずくまる。
目の前には、さっきまで自分が裸足で乗っていたラグ。毛足の長いラグだ。
右手を伸ばして触ってみる。
見た目のもじゃもじゃした感じとは違って、手はその毛の中に入っていく。
毛は目に見えているのだが、触れることができていない。そういう感じだろうか。恐る恐る、ラグの中を手で探っていく。
固いもの。というよりざらざらとした、ラグの見た目と比べると、固く感じるものに触れる。撫でるとよりはっきりとわかる。ざらざらと、パン粉一つ一つの形がわかるくらい、かなり目の粗いパン粉なのだろう、ってそんなことはどうでもよくて、ラグの底にあるのは、いや、ラグの底というより、ラグの正体は、きっと、コロッケなのだ。
とはいえ、この足元にあった、しかも足で何度か踏みしめた、コロッケ(ラグ)を、ちぎって確かめる気にはなれなかった。ただ、感触は、さっきのサンドイッチと似たような感じだったことから、間違いないだろう。
気を取り直して立ち上がり、部屋をぐるりと見まわす。
出窓が一つに、ベッド、ハイテーブルにカウンターチェア。そして、その奥にドアが一つ。
そういえば、ここは自分の部屋じゃない。何よりも、肝心なパソコンが無い!
なぜ、目覚めてから気づかなかったんだ。あまりにも、先ほどの悪夢がひどすぎたあまり、ここが自分の部屋かどうか、気づかなかったのだろうか。
気を取り直そうと、テーブルの上のコップ、オレンジジュースの方を取り上げる。
顔の前まで持ってきて気づく。
もしやこれも?
コップの中身は、コップの傾きに合わせて、滑らかに、確かに滑らかに、まるで液体のように動く。
恐る恐る、口元に近づける。
もう、コップの中身を疑問に感じた瞬間から、オレンジジュースを飲んで、心をシャキッとさせようなんて言う、魂胆は失敗していることはわかっている。
それでも、条件反射なのだろうか。この液体がなんなのか(いや、絶対にコロッケだけど)を確かめたいという欲求、いや、単純にコップを持ってしまったら、その中身を飲んでみる、そういう、習慣がそうさせるのだ。
実際にやった。言うまでもなかった。
人生で初めて口にする。液体状のコロッケ。いくら気持ち悪くても、ここには口の中のコロッケをすすぐための、コロッケ以外の存在はない。
とりあえず、これではっきりした。
この空間にある物は、さっきの夢とは反対に、部屋にあるものすべてが、コロッケなのだ。確かに、部屋にあるものがコロッケに置き換わっているのではなく、コロッケの味がするだけなのかもしれないが、触感まで、まるでコロッケのそれのように変わっているのだから、この場合、味がコロッケに変えられたというより、やっぱり、コロッケそのものとすり替わっている、と考えた方が実際に即しているかもしれない。
そんなことは、実際にはどうでもよくて、一番大事なのは、ここはどこで、どうやったら、元の世界に帰られるかだ。
目の前にはドアが一つ。
出窓は残念ながらはめ殺しになっている。あのドアを開けて出るしかない。
ドアを開けて出るか?
何か嫌な予感が頭をよぎる。
もし、この世界で人間にすれ違ったら、それは人間なのだろうか?
ドアノブを掴んだ状態で固まる。
ドアノブを掴んでから、どれくらい、考えていたんだろう。とりあえず、ドアノブを開ける行為への、恐怖心をなくすために、もっと別のことを考えようと、気をそらしていた。
このコロッケの味がするオレンジジュースというのは、面白い。ということだった。
○○味の飲み物は今までたくさんあった。だが、大体のそれは、○○味のする何かであって、今回のオレンジジュースのように、完璧にコロッケの味がする、飲み物というのは今まで巡り合ったことが無い。
いや、この場合は、コロッケ味のオレンジジュースというのは正しくなく、そもそもこれをオレンジジュースと言ってよい物なのか。
いずれにしても、飲み物でありながら、その対象物の味わいを触感まで含めて、再現するというのは、○○味ドリンク界隈では、革命児のような存在ではないだろうか。
これを実用化することができたら、もっと、すごい発見になるかもしれない。
たとえば、コロッケジュースをご飯にかけて、コロッケ茶漬けとか、グラタンに混ぜればグラタンコロッケになるし、カニ鍋の付け合わせにすれば、もうそれだけでカニコロッケにもなりうるわけだ。って。
何を考えているんだ。
ここの出来事は夢であって、現実じゃないんだ。とりあえず、このドアを開けて、現実に戻るんだ。
目を強く、しっかりと瞑る。
頭をよぎる黒い影。黄金色の空間。扉の向こうから現れた存在。
動悸が、呼吸が、冷や汗が。
ドアノブをしっかりとつかんでいたはずの手に、力が入らない。生卵を握り潰そうとしたときのように、体が躊躇しているのか。腕が震える。
ドアノブを掴んだまま、ガタガタと、肩から先が自分の一部ではなくなったようだ。
思わず、もう片方の左手で、右腕の手首をつかむ。
右手それ自体が、ドアの一部になってしまったように、左手で、右手を引っ張って、ドアを開く。
右手は左手を振りほどきそうなほど震えている、それも何とか抑えて、手でドアを開けるというより、体ごと、ドアにもたれかかって、全身でドアを開ける。
倒れる!
うわ!
夢の中ですっころんで、その時の感覚と、実際の重力の向きのずれに体が混乱して、全身がビクッ、ってなる。
布団の中にいた。
今度、今度こそ、正真正銘、布団の中だ。
今になってわかる。
最初の黄金色の世界は夢中無で、その次のコロッケ味の世界は夢で、ここは現実だ。
この汗くさい布団。妙に整頓された机。世界地図が貼ってある壁に、子供っぽいカーテン。
実家の僕の部屋だ。
スマートフォンの時間を見る。夜の18時。そうか、今夜、高校の同級生とネトゲする予定だから、それに備えて、夕寝をしていたのか。
もぞもぞと布団から出る。
スーツケースから、分厚いノートパソコンを取り出し机に置く。それにヘッドセットも。
地元組はみんなデスクトップだろう。
前回は十分な環境を用意することができず、後れを取ってしまったが、今回はそうはならない。
何と言っても、最新のゲーミングノートパソコンを用意したのだ。この時のためだけに。帰省先・旅行先でも最低限の環境でゲームができるように。いつでもどこでも、だれにも、後れを取らないために。
このこだわりこそが、現役のプロゲーマー志望の本気というものだ。今夜、生まれ変わった私の姿を見せてやろうじゃないか。
パソコンを充電器につなぐのに、コンセントを探していたら、扉の向こうから声が聞こえてくる。
「晩御飯だよー。」
母親の声だ。
もう、夕飯の時間か。
一人暮らししていると、それも大学生の一人暮らしとなると、とかく食事のリズムというのは崩れがちになる。
18時という時間に夕飯を食べるのも久しぶりだ。
半開きになっているドアの隙間を縫うように、部屋の外を出る。
三歩もない短い廊下。
壁の向こうから、にぎやかな声が聞こえる。近所の子供たちが遊びまわっているようだ。
階段をゆっくりと降りる。
まだ、寝ぼけているのか、足元がおぼつかない。単純に寝疲れたんだろう。お昼ご飯を食べてすぐ、布団に入ったような気がする。
帰省の時に利用した夜行バスでは、ずっと寝ていたし、その後の乗り継ぎでも、ほとんど寝ていた。
なんだかんだで、半日以上寝ていたのかもしれない。といっても、移動中の睡眠は、寝ているようで半分寝ていないようなものだから、まあ、疲れるだけなんだが。
首のあたりが凝っているみたいだ。
手すりにつかまりながら、ゆっくり階段を降りつつ、首もぐるぐると回す。
この調子じゃ、今夜に影響が出そうだ。
ああ、変な寝方をしたものだから、ああやって、変な夢を見る羽目になったんだ。
リビングにつながるドアを開く。
「なぁに。また、寝てたの。」
母親がカウンターキッチンの向こうにいる。
「別にいいだろ。今夜、高校の友達と約束があるんだよ。」
「夜更かしするのは自由だけど、変な時間にうるさくしないでよ。ご近所があるんだから。」
「わかっているよ。」
いつもの小言だ。
ダイニングテーブルには、既に父親が座っている。スマートフォンをいじっているようだ。母親と違って、こっちは何にも言わない。
テーブルには既に、口の開いた缶ビールと飲みかけのグラス。父親は既に飲んでいるようだ。
「お父さん、ビールもらっていい?」
「うん。」
父親のそっけない返事。
缶を拾い上げてそのまま・・・。
飲み口が唇に触れた瞬間、固まる。
さっき見た夢。ハムサンド、オレンジジュース、コロッケ。
「足りなかったら、冷蔵庫にまだあるぞ。」
父親の声で我に返る。
「ああ、うん。わかった。」
缶ビールは結局、口を付けないまま、テーブルに、自分の席の前に置く。さっきのことが気になる。キッチンの冷蔵庫を開ける。
「もう晩御飯なのに、何、開けているの?」
茹でた蕎麦を取り分けながら、母親がぼやく。
ドアポケットのいつもの所。そこに、紙パックのオレンジジュースがある。
オレンジジュースをグラスに注ぐ。
オレンジ色の、気持ちねっとりとした液体。恐る恐る。グラスを傾ける。
オレンジジュースが、乾いたグラスの中をじわじわと、迫って来る。初めて、青汁を飲むときみたい。
オレンジジュースが唇に触れる。じっとりと、染みてくる。上唇と下唇の間を通り抜けて、口の中へ。
酸っぱい。
これは、オレンジジュースだった。
「なに、気持ち悪い飲み方しているの。早く、向こう側から、お皿を降ろしてよ。」
母親が、蕎麦をよそった器をカウンターに乗せている。
グラスのオレンジジュースを一気に飲んで、カウンターの向こう側に移動して、器をテーブルに降ろす。
晩御飯はかけ蕎麦。それに、付け合わせがコロッケ。
「え?コロッケ!」
「総菜コーナーで安かったのよ。あんたも好きでしょ。コロッケ。」
母親がエプロンを外しながら、テーブルの方に歩いてくる。「どうせ蕎麦だけだったら、文句言うんでしょ」とか、「お父さん、ご飯ですよ。ほら、スマホをしまって」とか、言いながら、席に着く。
「いただきます。」
母親と父親が、かけ蕎麦を何も言わずに、ずるずると啜る。
テーブルの真ん中に置かれたコロッケ。皿に移してレンジでチンしたのだろう。衣が湿気っている。
箸で掴んで、まじまじと見る。
黄金色の小判型。ただ衣はじっとりしている。
コロッケだ。
当たり前だが。
母親と父親はまだ、コロッケには手を付けていない。
今日あったこと、厳密には夢で見たことだけど、思い出す。
さんざん、コロッケには、嫌な思いをさせられたもんだ。
はぁ。
ため息をつく。
今日、このコロッケを食べたら、当分、コロッケは食わなくていいな。
そう思って、大きな口を開けてかぶりつく。
「!!!」
うわ!
目を開く。
コロッケ?(コロッケ?)の上にいた。