第16話「黄金色の小判型でサクサクとした衣」

文字数 9,912文字

 目が覚めるとそこにはコロッケがあった。
 ああ、そうだ。
 目の前にはコロッケ。
 小判型で、黄金色のサクサクとした衣。
 それ以上に、コロッケを形容する言葉があるだろうか。
 四角だったらエビカツになるし、まん丸だったらハムカツかメンチカツになってしまう。
 あの茶色とも黄色とも似つかない、黄金色の衣をまとって、しかも小判型というんだから。それはもう、コロッケに決まっているし、コロッケ以外はありえない。
 百歩譲って、カニクリームコロッケとか、グラタンコロッケとか、カボチャコロッケにサツマイモコロッケの可能性が、たとえ存在していたとしても、それは木を見て森を見ないのと一緒で、つまり、コロッケなわけだ。
 ああ、そうだ。
 つまりだよ、つまり。
 僕が何を言いたいかというと、目に見えるものすべてが、コロッケになっているんだ。

 目が覚めると。
 まずそこから、説明する必要があるだろう。初めに言っておくが、僕は、どうして目が覚めることになったのかは、よく覚えていない。まぁ、どうして眠っていたのか。いつからそこで眠っていたのか。僕には皆目、見当がつかない。
 僕は確か、そうだ、いつものパソコンラックで、ゲームをやっていたはず。あー、ちょっと待てよ、アニメを見ていた?いや、動画を見ながらチャット?デイトレード?いやいやちがう。VRで、バーチャルコンサートに参加していたのか?あー、ちがう。
 全部、やっていたんだった。
 まぁ、いつものようにパソコンの前にいたはずだけど、気づいたら、これ。
 ベッドの上で寝ていたみたいで、目の前は黄金色のコロッケ畑。お花畑だったら、死んだのかもと、思うかもしれないが、コロッケだよ。コロッケ。
 ベッドの上で寝ていたと言ったけど、本当にこれがベッドかどうかはわからない。見た目がコロッケでも、手ざわりが、布団のようだし。あと、目が覚めるといえば病院のベッドの上、そういうもんだろ。まぁ、僕の場合は『知らない天井だ』って言う前に、『うわっコロッケだッ』って、言ったが。
 本当に見えるものが、もう、本当にコロッケ。手近にあるものでいえば、枕とか布団とか、チェスト?なんか四角い箱上の物とか、なんか、そういうのが全部、コロッケになっている。まぁ、もうコロッケにしか見えないから、『何』がコロッケに見えているのか、全くわからない。触った感じとか、そういうのでしかわからない。
 だから、僕がベッドって言った物も、実際の見え方で言うと、薄っぺらいふかふかしたコロッケが体にかかっていて、分厚くて少し硬めのコロッケが体の下にある。そして、枕ぐらいのサイズのコロッケが頭の下。
 目が覚めた瞬間、それはもう胸焼け。
 頭のあたりには、もっとごちゃごちゃした何かが、まぁ、要するにコロッケだけど。ここが病院だとしたら、ナースコールとかそういうのがあると思うが、いずれにしても、どれもコロッケにしか見えない。それなら、下手にいじらない方がいいかな、と。
 そのまま、人を呼ばずに、どれがコロッケに見えて、どれがコロッケには見えないのか。それを少し見極めようと思う。
 やっぱり。この状態で、見るのは怖い。その、人を見るのは。
 人をまだ呼んでいないというのは、それが一番の理由。
 人間までも、コロッケに見えたらどうしようか。本当にどうしようか・・・。
 
 僕は何とか手探りで、窓枠らしきものに手を掛けていた。目が覚めた時は、窓一つない牢屋のような部屋なのかなと思っていたが、どうやら窓もあるらしい。
 というのも、透明な窓ガラスでさえ、今の僕にはコロッケに見えるみたいで、ベッドサイドのごちゃごちゃと同じく、壁にあるゴチャゴチャがまさか、アルミサッシだったとは、そこを触ってみるまで、全然わからなかった。
 見た目は、当たり前だけど、コロッケ。
 なんというか、テレビ画面に映したコロッケみたいな感じで、衣はあるのだけど、触ると奇妙で、スベスベしていて、叩くと、コンコンっていう。無機質な音が鳴る。
 その周りの壁らしきものは、叩くと、ドンドンという、鈍い音が鳴る。
 だから、この部分だけは他のコロッケとは違う、コロッケ。壁じゃなくて窓なのだろう。
 問題は、このコロッケのどこに指をかけて、はたまた、カギを開けてから、開けることができるか、だ。
 別に、窓を開けてみる必要なんてないが。今はとりあえず、コロッケじゃない何かを見たい。その気持ちは、わかるだろう。
 四方八方、どこを見ても黄金色の脂っこい衣!せめて、あの外の青空くらい。コロッケ雲くらいは浮いているかもしれないけど、あの清々しい空を見て、この気持ちを一旦、晴れやかにしたいんだ。
 手探りでコンコンする部分と、カチカチする部分を弄り回す。
 目で見る限り、あのレバーを上げ下げする窓の鍵も、小さなコロッケになっている。
 触る感じ、明らかにあのレバーなのだが、異様に硬くて下せない。あぁ、そういえば。レバーにさらに小さなロックが付いているタイプもあった。
 もう、目を開けて作業をしたところで、全てコロッケにしか見えないから、意味が無い。目を瞑って、文字通りの手探りで、窓のレバーらしき物体を弄り回していると、やっと、ガチャリと鍵が開いた。
 もう、うれしくて、窓に張り付く柴犬のように、窓ガラスに爪を立てて、引っ掻くように窓を開ける。
 窓の向こうから見れば、かなりヤバい奴に見えていたかも知れないが、こんなコロッケだらけの世界、窓の向こうだって、まともとは限らないんだ。まぁいいだろう。
 窓が、キャリキャリと独特な音をたてて開く、と。
 待ち望んでいた!
 オレンジ色の哀愁を誘う夕焼け空。
 夕陽を浴びて黄色くなったひつじ雲。
 まばらに空を飛ぶ、コロッケ。
 耳を澄ますと、遠くからカァー、カァーと鳴く声が聞こえてくる。

 

 

 

 あぁ、耳をすませば、そんな童謡まで聞こえてきそう。あぁ、もう、お夕飯の時間か。おっと、これはカレーの匂い。今夜はカレーだ!早くお家に帰らなくちゃ。
 って、やっぱりコロッケじゃないかアアァ!
 目を瞑って、大きく深呼吸する。さっき感じたカレーの匂いは幻覚だったようだ。息を吸うと、ほこりっぽい街の臭いがする。
 ゆっくりと目を開くと、そこには、僕が知っていた町とまるっきり変わった世界が、といっても、恐らく全部、コロッケに置き換わっただけなんだが。
 夕焼け空だと思ったのは、やっぱり、大きなコロッケだ。空がコロッケというより、コロッケの天球、衣を内側にしたコロッケの中にいるような感じ。それに、おおかた予想通りの空飛ぶコロッケ雲。鳥もコロッケになっている。
 この病院?は思いのほか高い建物みたいで、僕がいる部屋もそこそこ高い部屋なおかげで、窓を開けた瞬間、すぐ外の人通り、とはならずに済んだのは、心の準備をする暇を与えてもらえて、あぁ、なんとか良かった。
 あぁ、でも、ここから街を見下ろす勇気が出るはずがない。どうする?コロッケが歩いていたら?ああでもすでに、大きいコロッケがそこそこのスピードで滑っているのが見える。もう、あれは車だ。
 とりあえず、不審に見えないように、窓枠(コロッケ)に肩肘を乗せて、物思いをするように空(コロッケ)を眺める。あぁ、遠くからカラス(コロッケ)の鳴き声が聞こえてくる。今頃、実家(恐らくコロッケ)はどうなっているか。
 僕のゲーミングPC(確実にコロッケ)と4K30インチモニター(これも確実にコロッケ)も、ノイキャン付きゲーミングヘッドセット(これも以下同文)も、トラックボールマウス(以下同文)も、ゲーミングキーボード(以下同文)も、あれ(以下同)も、これ(以下)も、それ(以下)も・・・。
「どうせ、全部コロッケになってんだよ!」
 思わず、大きな声を出してしまった。
 まぁ、だって、ことごとく、コロッケにされてしまったら、誰だって取り乱すのは当たり前だし、僕が悪いわけじゃない。
 あぁ。あのゲーミングPC高かったのに。全部コロッケになっちゃうんじゃ、全部買い直さないといけない。
 はぁ、また、バイト代貯めないと。
 って、機械がコロッケになったんじゃなくて、僕がコロッケに見えているだけなんだから、気にせず、ゲームできるじゃん。よかった。よかった。
 え?でも、窓ガラスの向こうがロクに見えなかった、ていうか、見えるものすべてコロッケな時点で、もう。
「ゲームできねーじゃん!!」
 また、大きな声、さっきより明らかに大きな声を出してしまった。
「どうしましたかー?」
 ドア(コロッケ)の向こうから、女性の優しそうな声と、スタスタという足音が聞こえる。
 あぁ、誰か来るみたいだ。きっと。まさか。いや、きっとそうだよね・・・。
 ガラッ、と勢いよく扉が開く。
 
 うわ!
 どうやら、また眠っていたようだ。
 目が覚めたらベッド。
 今度は本当に、ベッドの上だ。
 そう、ベッドの上!
 コロッケなんかじゃない!元の世界だ。帰ってきたんだ!いや、というより、元の見え方ができるようになったんだ。
 水色の布団カバーにシーツ。
 とっても無機質だけどコロッケじゃない。脂っこい、あのざらざらとしたような見た目じゃなくて、正真正銘のシーツだ。布地だ。肌触りの質感と見た目が一致している。
 あぁ、これほど、シーツの水色に飢えていた、だなんて。
 ふかふかした夏用布団を、自分の頬っぺたのところまで引っ張り上げて、すりすりさせる。パリッと、すべすべしたカバーの質感。涼しげな感じ。
 あぁ、ため息が出てくる。ひとしきり、その質感を楽しんだら、布団を押しのけて床に敷かれたラグに足をつける。
 ヒヤッとする。ラグの長い毛足が、足の裏をくすぐる。カバーの時のように、毛足の感触を楽しむように、足をグーパーする。
 大きく伸びをする。
 ベッドから起き上がると、目の前には、出窓があって、小さな鉢植えの観葉植物が、凛としている。
 出窓に寄り掛かって、窓の向こうを見る。窓を開けなくても外の景色が見える。
 清々しい空。まばらな電柱の向こうから、朝陽がのぼっているのが見える。チュンチュンと鳴いているのは、スズメだろうか。
 はぁ。
 ため息が出る。こんなに朝早く起きたのはいつぶりだろうか。
 本当に、嫌な夢を見たんだなぁ。
 まさか、見えるものすべてがコロッケになるだなんて。そんなの夢に決まっているだろう。
 本当に夢の与える現実感というのは恐ろしいものだ。どんな突飛なことでも、それが普通だと思い込んでしまうというか、ある意味、強迫観念みたいなものに駆られて、夢に、されるがままになってしまう。
 広い世界には明晰夢といって、夢の世界を自分のものにできる人がいるらしいが、僕にはそんな才能というのは、恐らくないだろう。
 はぁ。
 せいぜい、自分の思う通りになるのは、夢の世界でも、現実でもなく、PCの世界だけ。それも、いつまでもこちらに背を向ける、TPSのキャラクターだけ。
 とは言ったものの、今年の大会は本戦の一回戦負け。メンバーは、来年は就活だから参加できない、と言うし。みんな、eスポーツのプロを目指すわけじゃなかったのかよ!
 既に悪夢の輪郭はぼやけ始めていたが、どんな夢だったか、あぁ、なんかよくコロッケが出てきたなぁ、程度に思い出しながら、部屋の真ん中にある椅子に座る。
 丸いハイテーブル。それにちょうどいいくらいの、カウンターチェア。
 つま先だけがラグの長い毛足に触れる。
 ハイテーブルには、サンドイッチが一切れ。それと牛乳とオレンジジュース。
 なんか、こんな時間に起きた上に、ちゃんと朝ご飯を食べるのもすごい、久しぶりだ。
 サンドイッチを片手でもって、本当に薄っぺらいサンドイッチだけど、久しぶりの朝食。ろくに食欲もない自分にはこれくらいがちょうどいい。
 端っこを控えめにかみつく。
 うーん。
 乾いた口の中に引っ付いて食べづらいが、見た目よりも食いでがある。
 もったりとした、触感にジャガイモの甘さに牛肉の香ばしさ。うーん。やっぱり、コロッケにはソースだな。って。
 コロッケの味がする!
 手元のサンドイッチを見直す。
 それは、ひどく薄っぺらい。と言ってもハムサンドくらいの厚さ。要するに、コロッケを挟むような余地など、無いくらい薄い。
 なぜ、そのようなサンドイッチからコロッケの味が?
 試しに、行儀は悪いが、サンドイッチの中身を開いてみる。
 パンと、パンとハムが合わさったのに分かれる。べったりとマヨネーズとマスタードを合わせたようなソースがついている。
 ハムサンドだ。
 これは標準的なハムサンドだ。試しに片方を、パンだけのをかじってみる。
 歯ざわりからしておかしい。
 本来であれば、すべすべ、もっちりした食パンの感触と、ソースのべたべた、ひやっとした感触が唇をとおして伝わるはずだった。しかし実際には、ざらざらとして、脂っぽい感触。
 まぎれもない、揚げ物の衣、コロッケの感触なのだ。
 さっきまで見ていた、悪夢の内容が頭をよぎる。
 黄金色の室内。枕も、布団も、ベッドもコロッケになっている。一苦労して開いた窓の向こうの景色。空も、雲も、鳥も。
 ああ、あの後、部屋の扉が開いて…。
 うっ!
 どうしても、思い出せない。
 あの時、扉を開けて部屋に入ってきた存在というのが。
 思わず、頭を抱えてラグの上にうずくまる。
 目の前には、さっきまで自分が裸足で乗っていたラグ。毛足の長いラグだ。
 右手を伸ばして触ってみる。
 見た目のもじゃもじゃした感じとは違って、手はその毛の中に入っていく。
 毛は目に見えているのだが、触れることができていない。そういう感じだろうか。恐る恐る、ラグの中を手で探っていく。
 固いもの。というよりざらざらとした、ラグの見た目と比べると、固く感じるものに触れる。撫でるとよりはっきりとわかる。ざらざらと、パン粉一つ一つの形がわかるくらい、かなり目の粗いパン粉なのだろう、ってそんなことはどうでもよくて、ラグの底にあるのは、いや、ラグの底というより、ラグの正体は、きっと、コロッケなのだ。
 とはいえ、この足元にあった、しかも足で何度か踏みしめた、コロッケ(ラグ)を、ちぎって確かめる気にはなれなかった。ただ、感触は、さっきのサンドイッチと似たような感じだったことから、間違いないだろう。
 気を取り直して立ち上がり、部屋をぐるりと見まわす。
 出窓が一つに、ベッド、ハイテーブルにカウンターチェア。そして、その奥にドアが一つ。
 そういえば、ここは自分の部屋じゃない。何よりも、肝心なパソコンが無い!
 なぜ、目覚めてから気づかなかったんだ。あまりにも、先ほどの悪夢がひどすぎたあまり、ここが自分の部屋かどうか、気づかなかったのだろうか。
 気を取り直そうと、テーブルの上のコップ、オレンジジュースの方を取り上げる。
 顔の前まで持ってきて気づく。
 もしやこれも?
 コップの中身は、コップの傾きに合わせて、滑らかに、確かに滑らかに、まるで液体のように動く。
 恐る恐る、口元に近づける。
 もう、コップの中身を疑問に感じた瞬間から、オレンジジュースを飲んで、心をシャキッとさせようなんて言う、魂胆は失敗していることはわかっている。
 それでも、条件反射なのだろうか。この液体がなんなのか(いや、絶対にコロッケだけど)を確かめたいという欲求、いや、単純にコップを持ってしまったら、その中身を飲んでみる、そういう、習慣がそうさせるのだ。
 実際にやった。言うまでもなかった。
 人生で初めて口にする。液体状のコロッケ。いくら気持ち悪くても、ここには口の中のコロッケをすすぐための、コロッケ以外の存在はない。
 とりあえず、これではっきりした。
 この空間にある物は、さっきの夢とは反対に、部屋にあるものすべてが、コロッケなのだ。確かに、部屋にあるものがコロッケに置き換わっているのではなく、コロッケの味がするだけなのかもしれないが、触感まで、まるでコロッケのそれのように変わっているのだから、この場合、味がコロッケに変えられたというより、やっぱり、コロッケそのものとすり替わっている、と考えた方が実際に即しているかもしれない。
 そんなことは、実際にはどうでもよくて、一番大事なのは、ここはどこで、どうやったら、元の世界に帰られるかだ。
 目の前にはドアが一つ。
 出窓は残念ながらはめ殺しになっている。あのドアを開けて出るしかない。
 ドアを開けて出るか?
 何か嫌な予感が頭をよぎる。
 もし、この世界で人間にすれ違ったら、それは人間なのだろうか?
 ドアノブを掴んだ状態で固まる。
 
 ドアノブを掴んでから、どれくらい、考えていたんだろう。とりあえず、ドアノブを開ける行為への、恐怖心をなくすために、もっと別のことを考えようと、気をそらしていた。
 このコロッケの味がするオレンジジュースというのは、面白い。ということだった。
 ○○味の飲み物は今までたくさんあった。だが、大体のそれは、○○味のする何かであって、今回のオレンジジュースのように、完璧にコロッケの味がする、飲み物というのは今まで巡り合ったことが無い。
 いや、この場合は、コロッケ味のオレンジジュースというのは正しくなく、そもそもこれをオレンジジュースと言ってよい物なのか。
 いずれにしても、飲み物でありながら、その対象物の味わいを触感まで含めて、再現するというのは、○○味ドリンク界隈では、革命児のような存在ではないだろうか。
 これを実用化することができたら、もっと、すごい発見になるかもしれない。
 たとえば、コロッケジュースをご飯にかけて、コロッケ茶漬けとか、グラタンに混ぜればグラタンコロッケになるし、カニ鍋の付け合わせにすれば、もうそれだけでカニコロッケにもなりうるわけだ。って。
 何を考えているんだ。
 ここの出来事は夢であって、現実じゃないんだ。とりあえず、このドアを開けて、現実に戻るんだ。
 目を強く、しっかりと瞑る。
 頭をよぎる黒い影。黄金色の空間。扉の向こうから現れた存在。
 動悸が、呼吸が、冷や汗が。
 ドアノブをしっかりとつかんでいたはずの手に、力が入らない。生卵を握り潰そうとしたときのように、体が躊躇しているのか。腕が震える。
 ドアノブを掴んだまま、ガタガタと、肩から先が自分の一部ではなくなったようだ。
 思わず、もう片方の左手で、右腕の手首をつかむ。
 右手それ自体が、ドアの一部になってしまったように、左手で、右手を引っ張って、ドアを開く。
 右手は左手を振りほどきそうなほど震えている、それも何とか抑えて、手でドアを開けるというより、体ごと、ドアにもたれかかって、全身でドアを開ける。
 倒れる!
 
 うわ!
 夢の中ですっころんで、その時の感覚と、実際の重力の向きのずれに体が混乱して、全身がビクッ、ってなる。
 布団の中にいた。
 今度、今度こそ、正真正銘、布団の中だ。
 今になってわかる。
 最初の黄金色の世界は夢中無で、その次のコロッケ味の世界は夢で、ここは現実だ。
 この汗くさい布団。妙に整頓された机。世界地図が貼ってある壁に、子供っぽいカーテン。
 実家の僕の部屋だ。
 スマートフォンの時間を見る。夜の18時。そうか、今夜、高校の同級生とネトゲする予定だから、それに備えて、夕寝をしていたのか。
 もぞもぞと布団から出る。
 スーツケースから、分厚いノートパソコンを取り出し机に置く。それにヘッドセットも。
 地元組はみんなデスクトップだろう。
 前回は十分な環境を用意することができず、後れを取ってしまったが、今回はそうはならない。
 何と言っても、最新のゲーミングノートパソコンを用意したのだ。この時のためだけに。帰省先・旅行先でも最低限の環境でゲームができるように。いつでもどこでも、だれにも、後れを取らないために。
 このこだわりこそが、現役のプロゲーマー志望の本気というものだ。今夜、生まれ変わった私の姿を見せてやろうじゃないか。
 パソコンを充電器につなぐのに、コンセントを探していたら、扉の向こうから声が聞こえてくる。
「晩御飯だよー。」
母親の声だ。
 もう、夕飯の時間か。
 一人暮らししていると、それも大学生の一人暮らしとなると、とかく食事のリズムというのは崩れがちになる。
 18時という時間に夕飯を食べるのも久しぶりだ。
 半開きになっているドアの隙間を縫うように、部屋の外を出る。
 三歩もない短い廊下。
 壁の向こうから、にぎやかな声が聞こえる。近所の子供たちが遊びまわっているようだ。
 階段をゆっくりと降りる。
 まだ、寝ぼけているのか、足元がおぼつかない。単純に寝疲れたんだろう。お昼ご飯を食べてすぐ、布団に入ったような気がする。
 帰省の時に利用した夜行バスでは、ずっと寝ていたし、その後の乗り継ぎでも、ほとんど寝ていた。
 なんだかんだで、半日以上寝ていたのかもしれない。といっても、移動中の睡眠は、寝ているようで半分寝ていないようなものだから、まあ、疲れるだけなんだが。
 首のあたりが凝っているみたいだ。
 手すりにつかまりながら、ゆっくり階段を降りつつ、首もぐるぐると回す。
 この調子じゃ、今夜に影響が出そうだ。
 ああ、変な寝方をしたものだから、ああやって、変な夢を見る羽目になったんだ。
 リビングにつながるドアを開く。
「なぁに。また、寝てたの。」
母親がカウンターキッチンの向こうにいる。
「別にいいだろ。今夜、高校の友達と約束があるんだよ。」
「夜更かしするのは自由だけど、変な時間にうるさくしないでよ。ご近所があるんだから。」
「わかっているよ。」
いつもの小言だ。
 ダイニングテーブルには、既に父親が座っている。スマートフォンをいじっているようだ。母親と違って、こっちは何にも言わない。
 テーブルには既に、口の開いた缶ビールと飲みかけのグラス。父親は既に飲んでいるようだ。
「お父さん、ビールもらっていい?」
「うん。」
父親のそっけない返事。
 缶を拾い上げてそのまま・・・。
 飲み口が唇に触れた瞬間、固まる。
 さっき見た夢。ハムサンド、オレンジジュース、コロッケ。
「足りなかったら、冷蔵庫にまだあるぞ。」
 父親の声で我に返る。
「ああ、うん。わかった。」
 缶ビールは結局、口を付けないまま、テーブルに、自分の席の前に置く。さっきのことが気になる。キッチンの冷蔵庫を開ける。
「もう晩御飯なのに、何、開けているの?」
茹でた蕎麦を取り分けながら、母親がぼやく。
 ドアポケットのいつもの所。そこに、紙パックのオレンジジュースがある。
 オレンジジュースをグラスに注ぐ。
 オレンジ色の、気持ちねっとりとした液体。恐る恐る。グラスを傾ける。
 オレンジジュースが、乾いたグラスの中をじわじわと、迫って来る。初めて、青汁を飲むときみたい。
 オレンジジュースが唇に触れる。じっとりと、染みてくる。上唇と下唇の間を通り抜けて、口の中へ。
 酸っぱい。
 これは、オレンジジュースだった。
「なに、気持ち悪い飲み方しているの。早く、向こう側から、お皿を降ろしてよ。」
母親が、蕎麦をよそった器をカウンターに乗せている。
 グラスのオレンジジュースを一気に飲んで、カウンターの向こう側に移動して、器をテーブルに降ろす。
 晩御飯はかけ蕎麦。それに、付け合わせがコロッケ。
「え?コロッケ!」
「総菜コーナーで安かったのよ。あんたも好きでしょ。コロッケ。」
 母親がエプロンを外しながら、テーブルの方に歩いてくる。「どうせ蕎麦だけだったら、文句言うんでしょ」とか、「お父さん、ご飯ですよ。ほら、スマホをしまって」とか、言いながら、席に着く。
「いただきます。」
 母親と父親が、かけ蕎麦を何も言わずに、ずるずると啜る。
 テーブルの真ん中に置かれたコロッケ。皿に移してレンジでチンしたのだろう。衣が湿気っている。
 箸で掴んで、まじまじと見る。
 黄金色の小判型。ただ衣はじっとりしている。
 コロッケだ。
 当たり前だが。
 母親と父親はまだ、コロッケには手を付けていない。
 今日あったこと、厳密には夢で見たことだけど、思い出す。
 さんざん、コロッケには、嫌な思いをさせられたもんだ。
 はぁ。
 ため息をつく。
 今日、このコロッケを食べたら、当分、コロッケは食わなくていいな。
 そう思って、大きな口を開けてかぶりつく。
「!!!」
 
 うわ!
 目を開く。
 コロッケ?(コロッケ?)の上にいた。
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登場人物紹介

こんにちは!

『みかん箱』 執筆者の三柑八朔です。

「登場人物」の場所を使って、各短編の簡単なあらすじを紹介していきます。

興味のある作品を探す参考にしてください!

読んで面白かった作品には、「いいね」していただけると嬉しいです。

第一話 「本は巡っていく」

ジャンル:ドラマ、青春、ブックカフェ

吉田は、無人のブックカフェ”ABC”から金になる本を盗もうとしていた。高校生活を満喫するには金がいるのだ。しかし、彼を阻むように、自称:常連の女性はいつまでも「1万6千円」の本を読んでいる。早くその本を読み切ってくれ!果たして彼は、最後の高校生活を「せどり」で彩ることができるのだろうか。

第二話「私の無限なべ」

ジャンル:ドラマ、記憶、キムチ鍋

契約期間満了により、実質リストラされた藤村は、引越しを明日に控えたアパートで最後の晩餐をしていた。メニューはキムチ鍋。明日の朝まで気持ちよく飲み明かすつもりだったが、その気持ちとは裏腹に、真っ赤な鍋からチラつくのはあの忌々しい記憶ばかり。彼女は今夜のキムチ鍋を食べ切れるのか。

第三話「津山恋愛事務所」

ジャンル:ドラマ、恋愛?、パシリ

輸入雑貨の仕入れやら、ネットニュースの書き起こしやら、恋愛事務所の「恋愛」の二文字からは程遠い雑用・パシリを押しつけられる新人所員のリョーイチ。先輩所員サムさんの寿退所を受けて、トコロテン方式に所長ヌル子と「恋愛相談」の現場へ駆り出される。さすが、『恋愛成就率99%』は伊達じゃない!

第四話「雨粒と星粒」

ジャンル:ドラマ、お葬式、親族

「お母さんが死んだ」、瑞希はタクシーに揺られながら考えていた。熱気と湿気でむせかえる式場。お坊さんのお経を背景にして、知らない人たちがすすり泣く声、それとお焼香の香りと手に残るザラザラした感じ。なぜだろう、私だけ取り残された感じ。そういえば、叔母さんの優希さんも泣いていなかった。

第五話「チューブ・ルート・8」

ジャンル:ややSF、二人の男、ポテトチップス

オリオン座の三つ星が輝く冬の夜、サバンナの星空をプラネタリウムにしてレオとライオは歩いていた。二人の故郷へ繋がる全天候型道路「チューブ・ルート・8」。透明なトンネル状の道を歩くレオとライオの仲に一つの危機が訪れていた。ポテトチップスの『のり塩』。それが全ての始まりだった。

第六話「夜曜日の日」

ジャンル:実験小説?、交換日記、大学生

「僕はいつもね、そう、あれ以来、よく聞くレコードがあってね、レコードなんて君からすれば、ハイカラ気取りって言われるかもだけど、レコードというのはね、CDのように究極的には0か1かに変換されうる情報とは違って、0~1という幅があってでね。あぁ、ところでレコードのタイトルだけど、、、

第七話「エレベーターが動き出すまで」

ジャンル:ドラマ、タワーマンション、ハロウィン

ハロウィンの夜。希のマンションからは仮装行列が見える。今日に限ってテキパキと仕事を終える部下たちと、ハロウィンの人混みのおかげで、希は仕事帰りに夕食を食べ損ねていた。今から夕食を買い出そうと希がエレベーターに乗ると、運悪く緊急停止してしまう。見知らぬ”和服白ゴス”の女性と一緒に。

第八話「血のないふたり」

ジャンル:ドラマ、アンドロイド、夜のお散歩

夜行バスに揺られて、夜の街にやってきたアンドロイドの子供のルルとミル。雪が降る寒々とした街で、あてのない、探し物をしている。コンビニ、屋台、牛丼屋・・・。夜の街をめぐり、いろんな人とも出会うルルとミル。結局、探し物は見つからないまま、何を探しているのかもわからないまま。夜が明ける。

第九話「ココアは苦めで」

ジャンル:ドラマ、場所取り、他人のなれそめ

スキー同好会の山田たちは、明日のサークル勧誘会に向け、花見の場所取りを徹夜でしていた。何かと競技スキー部には見下されがちなだけに、イベントではそのパリピで存在感を示したい!そして今年こそ念願の女子部員を!そんな野望を抱く山田をよそに、同好会随一の草食系に彼女ができたとか?

第十話「彼女は空になった」

ジャンル:SFホラー?、アパートの隣人、雨

彼が毎日夕日を眺め、大雨の夜は雨に打たれ、快晴の朝は日差しに焼かれる理由。それは、彼の彼女が空になったから、人工惑星の制御装置の生体コンピューターになったから。人間と機械の恋は、かなわない恋。彼を現実に引き戻すため、そして彼女の野望を食い止めるため、行動をしないといけない。

第十一話「小町ちゃんよ、永遠に。」

ジャンル:ドラマ?、町おこし、マスコット

『みなさん、こんにちは!今日古町の特別広報部長の京小町です!今日古町と言えばジャガイモ!夏の新ジャガは、ほっぺが落ちちゃうくらい美味しいんですけど、名産品はそれだけじゃないんです!魅力いっぱいの今日古町を今日からたくさん紹介していきます!みなさん、どうぞよろしくお願いします!』

第十二話「クリスマス・モーフィング」

ジャンル:ドラマ、掌編集、クリスマス

時代も場所も登場人物も違う、クリスマスな掌編集。四畳半で凍える青年、サンタを待ちわびる子供、独り身の女性、そして、クリスマスも仕事の男・・・。決してハートウォーミングしないけれど、これを読んだ皆さんのクリスマスが、作中のどの登場人物よりも、少しでも良いものであることを祈っています。

第十三話「ランドルトの環だけ残す」

ジャンル:ドラマ、青春、身体測定

学校へ行って帰ってくる、いつもどおりの毎日。ただちょっとだけ違うのは、全校生徒がアンドロイドなくらい。そして今日も始まる人間ごっこ。そんな生活にサトーは辟易し始めていたが、例えアンドロイドといえども高校生ならば、ティーンエイジャーらしい悩みはあるわけで。退屈な一日が始まる。

第十四話「『ままならない日々_近藤の場合』~とけない氷~」

ジャンル:ドラマ、ラムバック、ある人の日常

一人で呑むようになったのはいつからだろう。大学の失恋から?仕事を始めてから?目の前のグラスは答えてくれない。近藤は不確かな意識の中で、明日飲むための感情を製氷棚に入れ、今日飲んだ昨日の感情をトイレに吐き出す。そうやって今夜も、彼女のままならない日々が終わ(始ま)るのだった。

第十五話「川に落ちた日」

ジャンル:ドラマ、川の流れ、感傷

桃に、河童に、オフィーリア。川に流されるものは古今東西、幾らでもあるといえど、まさか私が流されるとは。晴天の青空に、心地よくかぶさる草木、そして、体の裏側をヒンヤリとさせる川の水。それらは心地よく、とても良いものかもしれない。ただ、どうして私は川に流されているのだろうか。

第十六話「黄金色の小判型でサクサクとした衣」

ジャンル:コロッケ、コロッケ、コロッケ

 「あれは確かにコロッケだったんだ。」「いや、間違いないね。」「まさかあれがコロッケじゃない、訳ないじゃないか。」「あれはコロッケなんだ。」「あああ。」「あれはコロッケコロッケ。」「間違いなくコロッケなんだ。」「ああああああ。」「何と言おうと幾ら否定されようと。」「あれは、あれは、」

第十七話「読みかけの本」

ジャンル:ドラマ、『雪国』、帰省

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」実家へと向かう特急列車の中で、いつものように浜村は『雪国』を開きます。帰省する時の習慣でした。読むといっても最初の十数頁、島村が駒子と再会する所まで。ただ、浜村にはそれだけで充分でした。故郷に帰るには、それだけで十分でした。

第十八話「三十三平米の荒野」

ジャンル:ドラマ、なんちゃって戦後、地下ボクシング

戦争の傷が未だ癒えず、柔らかな春雨からも、古いガソリンのような臭いがしてくる街で、肩寄せ合って生きる二匹の狼がいた。ボクサーの『タロウ撲師』と、その自称マネージャーのラン子。焼けた街で何かを探して生きる二人に、闇市を仕切るヤクザ達の抗争が、どうしようもなく巻き込んでくる。

第十九話「『ヤツは四天王の中で最弱』と仲間に言われながら、勇者に倒された悪魔四天王の一人である俺は、気が付くと異世界転生して女子高生と入れ替わっていた、まではまだよくて、その女子高生の友人が「エア神経衰弱を始めよう」とか言い始めて、仕方なく付き合っているんだけども、この状況を的確に表現できるいい言葉を教えてほしい」

ジャンル:ドラマ、転生もの?、トランプ

第二十話「記憶の暗がり〜序章〜」

ジャンル:SFもどき、記憶、プロローグ

人類は情報を保管する〈ROM〉人間と、その情報を活用する〈RAM〉人間の2種類に分けられていた。RAMとして生きていた山内は違法なROM人間オークションであるROMの女性と出会うが、脳には彼女の死んだ父の遺品が刻まれていた!これは山内と彼女がその父の謎に立ち向かうまでの序章。

第廿一話「」(更新予定日:4月13日7:00)

ジャンル:ショートショート?、戦争、一兵卒

→ごめんなさい!来週更新します。作品の形式をやや変える予定です(?)

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