第5話「チューブ・ルート・8」
文字数 10,998文字
プッ。プッ。
ザザ。ポーン。
夜の。
ザー、ュウニ時をお伝。
ザー。ザザッー。ザー、ザッ。
ザー、ブチンッ。
レオは歩きながら、腰にぶら下げたハンディ・ラジオの電源を切る。
「もう夜の12時か」レオはつぶやく。レオの後ろを歩くライオにもその時刻を伝えたいが、大分後ろにいる。伝えるのはあきらめて、空を見上げれば満天の星空。オリオン座の三つ星が荒涼としたサバンナに輝く。レオは思わず身震いする。プラネタリウムのようにはっきりした星空。そのはっきり具合が、余計にサバンナの夜を寒々しく感じさせるのだ。
レオは黒のレザージャケットに濃紺のデニムを着ている。冬でも気温は10度を割らないが、サバンナの夜を歩くには少し薄着だ。それでも『寒々しく感じる』だけで済むのは、ここがいわば『チューブ』の中だからだ。
レオとライオが歩いているのは『チューブ・ルート・8』。全天候型主要帝国道路の一つだ。セントラルシティと海岸のシー・タウンを、サバンナを突っ切るように繋ぐ。この全天候型道路は、巨大かつ透明なチューブ(いわゆるトンネル)でできている。つまり、レオが見た星空というのは全てチューブの透明な外壁越しに見たことになる。
本来チューブ・ルートは
レオがリュックから水筒を取り出し、一口飲む。後ろを振り返ると、ライオが50メートルほど後ろにいる。両手をポケットに突っ込み大股でのろのろ歩く。その姿から、ライオがまだ機嫌を直していないことがわかる。
レオは大きくため息をつく。水筒をリュックにしまってから、ライオに向かって叫ぶ。
「いつまでいじけているんだよ、行くぞ!」
レオの声はチューブの中を響くことなく、馬鹿でかい空間の中に吸い込まれていく。しかし、ライオには聞こえたようだ。顔をこちらに向けてライオも叫ぶ。
「じゃあ、俺のポテトチップスを返してください!」
レオはまた始まったと思った。レオはすかさず言い返す。
「食っていい、って言ったのはお前だろ!」
「でも、『のり塩』は食べていいって、言ってないっス!」
語尾の「ス」の摩擦音だけ、耳障りに響く。
レオとライオはこの不毛ともいえる言い争いを、2時間ほど前から繰り返しているのだ。チューブに入る直前、公園で休憩した時のことだ。ライオが「好きなポテチを食べていて下さい」と、バックをレオに渡しトイレに行った。その間にレオが食べたポテトチップスが、他でもなく『のり塩』だった。それ以来、ライオはいじけてあの様である。
もちろん、レオも最初は申し訳なく思った。ポテトチップスはこの辺りでは買えない。だから、自動販売機のジュースやガムで埋め合わそうとしたが、全て断られてしまった。ライオは頑なに、ポテトチップスの『のり塩』にこだわるのだ。それから2時間も経って、今の状態に至る。なにも好転していない。
『のり塩』にこだわり、子供みたいにいじけるライオに対して、レオはいらついていた。レオの中では、もう謝ってたまるか、そんな気持ちで一杯になっていた。
「俺は『コンソメ』より『のり塩』の方が好きなんだ!」
「俺も『コンソメ』より『のり塩』の方が好きなんスよ!」
また、ライオの「ス」の発音だけが妙に響く。レオはこの口癖が好きではなかった。
「じゃあなんで、『のり塩』を二つ準備しなかったんだよ!」
「先輩は『コンソメ』の方が好きだと、思ったんスよ!」
レオはライオが何を言っているんだ、と思った。たしかに『うすしお』と『コンソメ』なら、『コンソメ』を選ぶ。過去にライオからその二つを勧められたときは、『コンソメ』を選んだ。しかし、今回は『のり塩』と『コンソメ』だ。それなら、絶対に『のり塩』だ。
「お前が勝手に、俺が『コンソメ』を好きだと思いこんだのが悪いんだろ!」
ライオは言い返してこなくなった。
レオは考えていた。ライオにはこういった短絡的な思考というか、たった一度の経験をすぐ一般化する癖がある。コーラを頼めばピーチコークを買うし、ホットドックもマスタード抜きにする。どれも、かつて俺が頼んだ奴だが、その時一度だけのことだ。ライオは馬鹿の一つ覚えとは違うが、人のことをよく見ているようで見ていない。臨機応変ということを、いまいち理解していないのだ。そしてライオがやらかす仕事の失敗というものは、必ずこの癖に依拠している。最近、ライオがやった失敗。あれは、今年の夏のことだった。
シー・タウンからセントラルシティへ、業務用の冷凍エビを配送した時だ。そういえば、あの時もチューブ・ルート・8だった。
そうそう、シー・タウンは単なる貿易港だと思われがちだが、実はエビの養殖が盛んだ。実際に、国内で消費される冷凍エビの7割はシー・タウン産だ。
しかし、セントラルシティの住民は馬鹿みたいにエビを食いやがる。スーパーの総菜置き場なんて、エビカツかエビフリッターばかりだ。公園に行けば、エビカツワゴンが立ち並び、大人子供もエビカツだ。店に入ればスーパーの店員はもちろん、服屋も本屋も全員がエビ臭い。エビが主食ではないそうだが、主食を食うとき以外は、とりあえずエビを食うのだろう。そういえば、エビをよく食う癖に、生だったり、丸焼きだったりにして食べることが無い。そう、エビをそのままの形で食べる習慣が無いのだ。
養殖場ではエビを水揚げすると同時に皮を剥ぐ。剥いだらそのまま、ミキサーにかけてミンチにする。一度現場を見せてもらったが、なかなかに壮絶だった。元気に飛び跳ねていたエビが、目を離した隙に、ピンクのグチョグチョになるんだから。本当に、セントラルシティの住民はエビが好きなのか嫌いなのか。住民全員、エビはオートミールかなにかだと勘違いしているんじゃないか?畑から収穫したものを、毎朝石臼で挽いたものを、エビだと思っているんじゃないか。きっとだれも、水槽を泳ぐエビなんて見たことないし、想像したこともないだろう。
おっと、話を戻すと、いつものように俺とライオで業務用の冷凍エビを運んでいた。ミンチにされて、レンガみたいに冷凍されたエビだ。シー・タウンからチューブ・ルート・8に進入する道路。清々しい夏の早朝に出発したんだが、ライオはやらかしてくれた。俺たちは輸送機に乗り込んで、倉庫の温度を確認する。配送中にエビ=ブロックをエビ=スライムにするわけにはいかないから、温度管理は重要だ。それで確認すると、いつもより10度ばかし高かった。そう、マイナス2度だったのだ。もちろん、俺は嫌な予感がした。そう、あのライオの癖だ。俺はライオに確認した。
「積み荷はなんだ?」
「
いつもの
エビっスよ。」「
いつもの
って、どのいつもの
だ?」「どのって、
先週
と同じ・・・。」俺は最悪だと思った。
先週
。それはウエスト・シティに寄り道して、セントラルシティへエビの配送をした時だ。ウエストの奴らはエビを生で食う習慣がある。そのとき、たまたま別業者の依頼を孫請けして、生エビを配送したのだ。尾頭付きのエビを。そのとき温度設定を、氷点下ギリギリに設定したのだ。この輸送機には倉庫が一つしかないから、生と冷凍品を一緒に積むとそういう対応になる。まぁつまり、ライオは普段の冷凍エビの他に、余計な生エビまで積み込みやがったのだ。俺たちは個人の仕入れ配送業者だ。依頼を受けたら、商品の仕入れから配送まですべて行う。だから、依頼に無い商品を仕入れてしまったら、どう捌くかが大変だ。冷凍エビの配送が専門みたいな俺達に、生エビを販売する
俺たちはセントラルシティで、生エビ販売という、ベンチャーをする羽目になったのだ。
レオはチューブの外壁に寄り掛かり、そのようなことを思い出していた。レオはあの時ライオをどう叱ったか、また、どう許したか、思い出せなかった。いずれにしても大量の生エビだった。それらを捌ききるのに精一杯だった。遠くでライオが座り込むのが見える。しかし、今回は『コンソメ』と『のり塩』だ。それもポテトチップスの。どうしてこんなことになったのだ?レオも同じように座り込む。
確かに、エビしか食わないセントラルシティで、ポテトチップスを探すのは至難だ。それでも、シー・タウンまで行けば、いくらでも手に入る。それを、なぜここまでこだわるのか。レオはイラついてきた。
よし、一発ぶん殴ってやろう。レオはそう思って立ち上がった。ライオの方を見た時、ずっと後ろの方に明かりが見えた。遠くてはっきりしないが、かなり強いライトに間違いない。あれは輸送機のライトだ。地面効果翼機のだ。それも、超ド級サイズの。
ゴーォォオ。ゴーォォオ。ゴーォォオ。
ビリビリビリビリビリビリビリビリビリ。
地鳴りのようなエンジン音。チューブの内側も震えている。足元も震えてきた。
ライオもこの異変に気付いたようだ。あたりを見まわしている。
そもそもチューブは人が歩くような道路ではないから、歩道のような通路もない。非常時の避難所が時々あるくらいだ。注射器の押し子のように地面効果翼機が迫る。とりあえず、そこへ逃げなければ。
レオは偶然近くにあった避難所に逃げ込む。しかし、ライオはまだ避難所がどこにあるか、見つけられていない。
ゴオオオ。ゴオオオ。ゴオオオ。
輸送機が近づいてきた。もう船首まではっきり見える。
ライオは進むか引き返すかで、迷っているようだ。レオがいる方、前方に避難所があることに気付いていない。レオも心配になり、避難所から飛び出す。
初めて見る超ド級地面効果翼機だ。だいぶ向こうにあるはずだが、既に手のひらほどのサイズがある。レオはライオのもとに走る。無風だったはずのチューブ内に、風が、厳密には風圧が発生している。レオは顔の前に手をやり、風圧とライトの光をしのぐ。
ライオもレオのことに気づいた。風圧に煽られるように、こちらへ走ってくる。レオは吹き飛ばされてくるライオの勢いそのままに、捕まえて、避難所の方へ引き返す。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッゴゴゴゴゴゴゴゴ。
もうすぐそこだ。地響きしか聞こえてこない。後ろを振り向く暇もない。二人は避難所へ飛び込む。
ゴゴゴゴゴゴオオオオォォォォォォォオ。
輸送機が通り抜けていく。頭の後ろを地震のような揺れと音の塊が通り抜けていく。走る車のサイレンのような、残響だけがある。
レオがライオの上に覆いかぶさっていた。先にレオが立ち上がり、服のほこりを払う。遅れてライオも立ち上がる。二人とも無言のまま上着についたほこりを払う。ライオはジャンパーだったため、念入りに払うほどではいない。しかし、この気まずい空気を先にどうにかする勇気がなかった。そのため、レオが払い終わるまでライオも、ジャンパーの同じところをはたく。レオはジャケットにできた細かい擦り傷を気にしながらも、あきらめてライオの方を見る。ライオもそれに気づいて、はたく手を止める。ライオは視線を少し逸らす。レオはじっと見ている。ライオはレオが何かを言ってくれるのを待っている。レオもライオが何かを言い出すのを待っている。時が流れる。
「「あのさ。」。」
二人の言葉が被る。レオがそのまま続ける。
「なんか言うことあるだろ。」
ライオは向き直り、伏し目がちにはなす。
「『コンソメ』が好きそうだと思って、ごめんなさい。」
ライオは赤くはれた頬をさすりながら、レオの横を歩く。ポテトチップスの一件は、グーパン一発で片が付いたのだ。
チューブの景色は相変わらず、荒涼としたサバンナだ。まだずっと先の方だが、トンネルの入り口が見える。あのトンネルを抜ければ、セントラルシティから出たことになる。それでもチューブはまだまだ続くし、シー・タウンもまだまだ向こうだ。
レオとライオは歩き続ける。ライオは頬に手をやりながら、何か話せる話題がないか探していた。ライオとしては、この沈黙はレオにとっては気まずいものだと考えていた。悪いのは自分だが、殴りつけたレオにも一抹の罪悪感があるはずだ。それを失くさせるために、自分から話しかける必要がある。自分は殴られたことを気にしていない、そのことを伝える必要がある。ライオはそう考えていた。
「先日のベースボールの試合見ましたか?」
ライオは少し追い越すように、レオの斜め前に歩き出て話す。
「試合って。」
「あれっスよ。『シー・シャークス』と『ウエスト・ウエスタンズ』の試合っスよ!」
ライオは少し興奮気味に話す。それに対して、レオはやや冷めた調子だ。
「ああ。あれね。」
「そうそう、そうっスよ。見ましたよね?」
「それで、あの試合。どっちが勝ったんだ?」
「見ていないんスかー!」
うなだれるライオ。気にせず歩くレオ。ライオとしてはこのまま、この話題で続けるべきか、変えるべきか迷うところだった。ただ、レオが勝敗を気にしているあたり、まだこの話題は生きていると考え、話を続ける。
「先輩はどっちが勝ったと思いまス?」
「・・・。」
レオは一瞬考えるような仕草をして、また歩き始める。そのまま、時間が流れる。『シー・シャークス』か『ウエスト・ウエスタンズ』か。たった二択の質問を答えるには長すぎる。ライオは気づいた。流されたのだと。
「待ってくださいっスよ。教えますから。2対8でシャークスの負けっス。」
「そうか。」
「いやー。ついに9連敗っスよ。9連敗!どうしちゃったんスかねー。シャークスは。」
レオは既に相槌を打つのをやめていたが、ライオは話し続ける。
「あの試合、途中まではよかったんスよ。俺、スタジアムで見ていたんスけど、先頭打者ホームランで、幸先いいじゃん!って思ったんスけど、守備がボロボロっスよ。いやーあれはファーストがダメなんスかね。失点さえしなかったんスけど、毎回ノーアウト満塁のピンチ。打たせて取るって言えば聞こえはいいかもっスけど。まぁ、結局8回裏からボコスカ、点を取られちゃって。9回表、シャークスが三者凡退でゲームセット。ホーム戦だって言うのに、ホント、あり得ないっスよ。」
ライオとしては一通り話したいことを話し終えたが、レオはもう隣にいなかった。ポテチの一件ほどではなくても、人の話を聞くような距離ではないところにレオがいた。
「先輩。ちょっと待ってくださいよ。」
ライオは慌てて後ろを追いかける。話題をどうしようか。ライオの頭はそれで一杯だ。
「そうそう、そうっスよ。始球式にあのアイドルが来てたんスよ。知ってます?イセエビのデカいぬいぐるみ、背負ってる奴なんスけど。あれが地元アイドルとか、ちょっと凄いっスよね。引いちゃうっつーか。」
「『グローブ・スターズ』だ。」
「え?なんスか。」
「だから『グローブ・スターズ』だ。背中にあるのはイセエビじゃなくて、ロブスターだ。ちゃんとハサミがあるだろ。」
レオが両手をチョキにして、リュックに着けた缶バッチを見せつけてくる。
ハンバーガーくらいある大判の缶バッチ。緑地に山吹色で「G☆S」が書かれている。それに重なるように、ロブスターのシルエットが朱色で描かれている。色合いが少し渋めであったため、なにかバンドのグッズだとライオは思っていた。まさか、アイドルのグッズだったとは。そしてそれをレオが持っていたとは。また拳が飛んでくるかもしれない、と身構える。しかし飛んできたのは、拳でも目つぶしでもなかった。レオはチョキにした両手をチョキチョキさせながら話す。
「グローブ・スターズは、その辺のアイドルとは違うんだぞ。」
その言葉が枕詞だった。ライオは初めて言葉の持つ暴力性というものに気づいた。それも、罵詈雑言のような暴言ではない。ただ一方的に。それでいて、時折同意を求めるように、相槌を求める。こちらが興味を持っているかどうかなどお構いなしだ。ただただ、レオが話したいことを話し続ける。
立て板に水という慣用句があるが、それはまだ可愛いほうだ。水というよりも、もっと、こう、攻撃的な物だ。雨の様に降り注ぐパチンコ玉?いやちがう。高圧洗浄機だ。輸送機を洗浄する時に使う高圧洗浄機だ。機体に穴を開けそうな程、強力なやつだ。
チューブ内を航行する分には、ひどく汚れはしないが、チューブの外は例外だ。孫請けとかで、セントラルシティとは反対に行くことがある。最近では『カントリー』とか言われる方面だ。そっち方面はチューブが整備されていない。まぁ、シー・タウンもカントリーの一部だけど。その辺は50年ほど遡ると、『ナンバリングタウン』と言われた地方だ。帝国全体を時計の文字盤に見立てた時、セントラルシティはその時針や分針の付け根。それを取り巻くようにある国境辺縁は文字盤の数字。そして名称も時計回りに数字を当てはめていったのだ。それはもう機械的に、『1』『2』『3』『4』と。それに『ナンバリングタウン』出身者は『ナンバーズ』と呼ばれて田舎者扱いされた。
しかし、その名称も民主化運動を契機に、見直されていった。帝国が中央偏重主義でナンバーズへの差別がひどかったこと。特に職業・住居差別がひどかった。それと工業化が進展して、地方で職を失ったナンバーズが都市に流れ込んだこと。それら諸々が重なって、差別が顕在化したのが運動の原因だろう。それによって地方命名が始まったのだ。それで、駄洒落だと思うかもしれないが、俺らの地元は『4』からシー・タウンになった。
街に名前が付いても、カントリーと一括りにされてしまう。所詮、名前が変わっただけ、それだけだ。確かに露骨な差別は少なくなった。それも単純で、純粋なセントラルシティ民より、元ナンバーズが増えただけ。都市の本当の中央部、いわゆる城壁内には、俺たちは未だに入れない。まぁ、そういうものさ。
レオはまだ話し続ける。最初はグローブ・スターズの結成について話す。
彼女たちはスタイルといった外見ではなく、ハート、精神で選ばれたのだ。1次審査が冬の海でカニ漁。200人近くの応募者を、6、7人一組にして計30艘、カニ漁船に乗せたそうだ。それも無期限のサバイバル。カニ漁に耐え切れなくなった者を脱落させ、定員の20人に減るまで続けるのだ。彼女たちの根性というのだろうか、そのサバイバルは2ヶ月に及んだ。明らかに労働法的にアウトだと思うし、シー・タウンの名産品もエビのはずだ。なぜ、カニ漁なのかは触れないでおこう。そう、彼女たちのカニ漁ドキュメンタリーは、DVDになっているそうだ。先輩は年末にこれを見ながら年を越すらしい。特に、現リーダーのエイリちゃんがライバルであるはずの船員を励ます姿。現参謀役のルルーちゃんがサボる船員を叱る姿。船員が全員脱落し、独りぼっちで健気に漁を続けるリコちゃんの姿。リコちゃんは2次審査で脱落するのだが。そうした彼女たちの姿から、先輩はパワーをもらえるのだそうだ。そして2次審査でやっと、歌唱というまともなアイドルオーディションが始まる。そうだ、リコちゃんが脱落した原因はこれだ。2次審査の歌唱曲は1次審査の開始時に教えられる。しかも2次審査は1次審査終了の明後日。つまりカニ漁の合間に、2次審査の歌の練習をする必要があるのだ。この日程は、開始半月で一人になったリコちゃんにはかなり不利なものだった。もちろん船の操縦等はスタッフがおこなう。でも彼女たちにかかわる家事、食事や掃除、洗濯は彼女たちで分担する想定だった。つまり、家事とカニ漁をすべて一人でこなしながら、歌の練習をする必要があったのだ。当然、そのようなことを少女が一人でこなせるはずがない。1次審査が終了し、海に残っていた船が港に着港する。どの船も最低でも2人、一番多いのはエイリが乗る船で4人。彼女たちは、ライバルでもあるお互いの身体を支えながら下船してくる。その姿も十分感動ものだ。その中、リコだけがたった一人で、フラフラになりながら船室から出てくる。港には既に19人いる。その時点で、少女が孤独な戦いをしていたことは明白だ。永遠とも思えるカニ漁をたった一人で戦ったのだ。疲労困憊で真っ白な手と顔。船べりにつかまり、身体を引きずるように桟橋へ向かう。地面に足が付いたその時、リコは安心したような顔をして、崩れ落ちる。彼女たちの悲鳴がこだましていく。誰が見ても少女は明後日の2次審査に出られる状態ではなかった。しかし少女は、リコは来たのだ。車いす姿で立ち上がれなかったが、課題の3曲を歌い切った。他と比べれば、決して歌いこんだとは言えない。つっかかったり、音程が外れたり。恥をさらすだけだから歌わない方がいい。そう考える人もいるかもしれないが、そこには最後まで諦めない少女の姿があった。当日中に発表された2次審査通過者。少女は呼ばれなかった。それでも、涙ながらでも、笑顔で「ありがとうございました」そう言った。振り返らず、会場を後にしたのだ。車いす越しでも、少女の肩が、悔しさに震えているのがわかった。
レオは身振り手振りを交えながら話す。ライオは、「へぇ」とか、「そうなんスね」みたいな相槌を交互に繰り返す。突っ込みたいところもあったがやめておいた。ただ、機械的に聞こえないように、機械的な相槌を打つ。
ライオは考えていた。レオの永遠とまで思わされるこの話。何かに例えようとしていたこと。そうだ、高圧洗浄機みたいだと思ったのだ。輸送機の翼にこびりついた塩分をそぎ落とす、高圧洗浄機。シー・タウンからファー・タウンへ向かうとき、半日ほど塩湖の上を飛ぶことになる。荷物を運んで帰ってきた後のその清掃が大変だ。塩分は言うまでもなく錆の原因になる。出発する前に塗装を厚めに吹き付けて、戻ってきたら、付着した塩分と一緒に塗装を剥ぐ。その塗装を剥ぐのに高圧洗浄機を使うのだ。この作業はもう、一週間がかりの作業だ。機体をバラした後、剥し残しが無いように丹念に洗浄していく。その時の水の勢いと言ったら、穴をあけそうなほど、強烈な勢いだ。ドドドドと手に伝わる振動。その音に合わせて面白いように落ちていく、塩と塗装。その感触というか、感覚はストレス解消にはもってこいだ。ただその後、塗装をし直して組み直すのは、億劫だが。
しかし、何時まで経ってもレオの話は終わらない。デビューアルバムについて、一曲目から順番に解説していく。俺だってデビュー曲は知っている。「ロ・ロ・ロ・ロブ・スター」だ。そうこうしているうちに、だいぶ歩いたようだ。遠くにあったトンネルも、つまらない話をしているうちに、もう目の前だ。レオは気にせず話す。収録曲順がどうとか話している。トンネルに入ると薄暗くなってくる。あのオレンジ色の灯りが、ぼんやりとレオの顔を照らす。足元の様子がおぼつかなくなってきた。暗くて、良く見えない。構わずレオは話し続ける。ライオは考えていた。どうして、俺たちはこんなところを歩き続けているのか。何のために歩き続けているのか。この先に何が待っているのか。
「せんぱーい。やっぱりあのバグ、再現性無いっスよ。」
Tシャツに短パン姿の男がゲームのコントローラーを片手に話す。髪の毛はぐしゃぐしゃで、顔の脂が光っている。当分、お風呂に入っていないのだろう。先輩と呼ばれた男は、Yシャツを腕まくりにして、チノパンを履いている。缶ジュースを二つ、両手に持って、Tシャツの男の隣りに座る。
「グラフィック抜けとか、どこにもないか?」
「どこにもないっスよ。何度やっても、トンネルの所で、見えない壁にぶつかります。もう、20回もリセットしたんでスからね。もう、親指が
つり
そうっスよ。」Tシャツの男が左手をコントローラーから離し、ぶんぶんと振る。Yシャツの男が「そうか」と呟いて、缶をTシャツの男に渡す。テーブルの報告書に目をやる。そこには「フラグが立つ前に、シー・タウンへ侵入可能」とある。発生条件は「チューブ・ルート・8を歩き続ける」だ。
「なんだよ、『歩き続ける』って。もっと具体的に書けよ。」
「明日、担当したデバッカーの子、呼び出しまスか?」
「そうだな。あと、今日のデバッカーを統括した社員も呼んどけ。焼きをいれないとな。」
二人の男はテレビ画面の前で缶ジュースを飲む。画面の中ではすらりとした男二人が、トンネルの黒い影の前で立ち尽くしている。親指を伸ばしながら、Tシャツの男は話す。
「レオとライオはこのタイミングで、シー・タウンに戻っちゃダメなんスかね。」
Yシャツの男がコーラを吹き出しそうになる。シャツで口元を拭ってからこたえる。
「ダメに決まっているだろ。ここで歩いて帰ったら、物語が続かなくなるだろ。次の日の朝に事件が起きるんだから。」
「やっぱり、そーですよね。」
Tシャツの男は自分で質問しておきながら、やや鬱陶しそうに返事をする。
「それにしても、こんなことするプレイヤーなんているんスかね。」
Yシャツの男は質問をされ、少し考えるように腕を組む。そしてこたえる。
「まぁ。レオが『昨夜、シー・タウンでライブが』って呟くから。2週目以降のプレイヤーは試すかもしれないな。」
「まぁ。そうっスよね。しかし、なんでアイドルオタクだなんて。そんな裏設定を作ったんスかね。」
「さあな。プランナーのセンスだろ。」
「そのアイドルはゲーム中に一回も出てこないのに。無駄だと思うんスけどね。」
「まぁ、チームリーダーがあの人だから。余計なものの登場を許さなかったんだろ。」
Tシャツの男は、顔をしかめながら、空いた缶をテーブルに置く。
「なんだ?半日もデバックしたら、ゲームの登場人物に情でも湧いたのか?」
「そんなんじゃないっスけど。」
「俺たちは、言われたとおりにプログラミングするのが仕事なんだから。その辺のことは、プランナーとかデザイナーとかに任せるんだな。」
そう言って、Tシャツの男は立ち上がり、テーブルの報告書をまとめ始める。
「今日はここまでだ。日が出始めているからな。明日も定時出社だぞ。」
「定時出社って。今から帰ったら間に合わないスよ。今日も会社に泊まるんスか?」
「仕方ないだろ。追い込みの時期なんだから。早く寝る支度しろよ。今日はお前が仮眠室を使っていいから。」
そう言うなり、Yシャツの男は書類をカバンに入れた後、トイレに入っていく。Tシャツの男は「またか」と呟いてうなだれる。
Tシャツの男はテレビの画面を見る。ゲームの中の二人は突っ立ったままだ。呼吸に合わせて、胸のあたりが小さく上下する。表情はない。ゲームの中は今でも真夜中だ。オリオン座が輝いている。
「サバンナでオリオン座なんて、地球じゃ見えないっスよ。」
「なんか、言ったか?」
Yシャツの男がトイレから出てきた。「なんでもないっス」と返事をして、Tシャツの男はゲームの電源を切る。
画面は真っ暗になった。