第19話「『ヤツは四天王の中で最弱』と仲間に言われながら、勇者に倒された悪魔四‥
文字数 10,011文字
流し台の方から、トモヨが私に話しかける。
「うん。のむー。」
私はロフトに寝転がったまま、返事をする。「アケミ」か。私の新しい名前。今となってはこの名前にも、違和感がない。いや、違和感が無くなってしまった、と言うべきか。
「ミルクと砂糖をいくつ入れるー?」
続けざまにトモヨが話しかける。
「いや。ブラックでいいよ。」
「えッ!本当にブラック?」
「うん、ブラックー。」
「えー、あんた、何時からコーヒーをブラックで飲めるようになったの?」
「人間とはね、人知れず成長するものなのだよ。」
「何、バカなこと言っているの。ほら、もうコーヒーできるから降りておいで。」
トモヨが呆れた声で返す。ガチャガチャと戸棚を出し入れする音も聞こえてくる。
私は起き上がると、ロフトの梯子を下りる。ああ、ここまでコーヒーの香りが漂ってくる。
トモヨは、わざわざお盆にマグカップ二つ、スティックシュガーとコーヒーミルクを入れた小さな籠とを乗せて来て、ローテーブルに並べる。お盆を抱くように正座している。
「いただきまーす。」
私はテーブルに着くなり、早速、コーヒーを飲む。ちょっと酸っぱいがコクのあるドリップコーヒーだ。私は深くため息をつく。朝に飲むコーヒーも捨てがたいが、夜に飲むコーヒーというのもオツなものだ。
朝のコーヒーというのは、これから仕事に取り掛かるために飲むもの。いわば、体のスイッチをオンにするために飲むものだが、夜のコーヒーというのは違う。もっと、コーヒーそのものを味わう。たしかに徹夜など事情があれば違うが、やるべきことが終わった夜に飲むというのは、安息するためだけに飲む。それも仕事をするための一呼吸ではなく、もっぱら安息そのものの為に飲むコーヒーだ。だからこそ夜に飲むコーヒーというのは、朝に飲むコーヒーとは少し意味合いが変わって、背徳的なニュアンスもあるかもしれないが、やはり格別なのである。
私はコーヒーをもう一度すすりため息をつくと、トモヨがこちらを見ていることに気づいた。彼女は、私を不思議そうに眺める。手元でコーヒーをかき混ぜている。
「本当にブラックで飲むんだ。」
トモヨの手元には、スティックシュガーとコーヒーミルクが入っていた容器が二つずつ、転がっている。
「そんなに、まじまじと見るようなことじゃないでしょ。」
「スタバじゃ、バニラクリームフラペチーノしか頼まないあんたがねぇ。コーヒーをブラックとは。」
トモヨもため息をつく。まだコーヒーをかき混ぜている。
「あんたの婆さんも草葉の陰で泣いているよ。」
「そんな、大袈裟なことじゃないでしょ。というか、他人のお婆ちゃんを勝手に死んだことにするなよ。」
二人して小さく笑ったあと、私はトモヨの後に続くようにコーヒーをすする。私はトモヨと話を合わせながら、さっきまでの行動を振り返っていた。
コーヒーをブラックで飲むというのは軽率だった。今はどうにか笑い話でことが済んだが、あの時、トモヨが聞き直したことをもっと重くとらえるべきだった。
私の魂が乗り移った女子高生『アケミ』はコーヒーをブラックで飲んではいけなかったのだ。
私が『アケミ』として生きることになったのは、半月前からだった。
私が『アケミ』になる前は、信じてもらえないかもしれないが、別の世界で悪魔をしていた。それも単なる悪魔などではなく、世界を支配する魔王の直属の部下だ。
世界の支配者である魔王様に仕えし悪魔四天王の一人『ルキル・ファファ』。
それが、私であった。
別の世界での私は、『辺境』といわれる地域を支配していた。『辺境』というのは魔王様が支配する世界から見て『辺境』という意味で、平たく言えば、魔王様の領域と人間どもが暮らす領域の境目のことだ。
私はそこで日夜、人間どもを魔王様の支配下に入れるために街を襲い戦争に明け暮れていた。戦争と言っても、人間どもには悪魔に抗えるほどの魔力も戦闘力も備えていない。ほとんど一方的な侵略だ。
そのような日々に飽き始めていた頃、「勇者の子供が生まれた」という報告が届いた。それは特に珍しいことではない。勇者の血族というのが存在するわけではなく、ただ魔力を扱える人間が突然変異として生まれる、という意味に過ぎない。そして、「勇者の子供」が生まれた場合、子供とその母親を捕えて処刑するのが決まりだ。
しかし、その時の私は軽率だった。決まりを守らず、母親だけ処刑して子供は見逃したのだ。
その時の私は興奮に飢えていた。血湧き肉躍るような、思わず武者震いをするような、戦闘を望んでいた。その欲求は、家を燃やせば泣きわめくような人間ども相手では満たせない。私と同等以上に渡り合える存在が必要だった。その時の私はあろうことか、そのような存在を人間の勇者に求めてしまった。それがすべての過ちだった。
あれから百年経ち、そんなことも忘れていた頃、事件が起きた。辺境の悪魔の街が人間どもに襲われ境界が脅かされ始めたのだ。私は報告を聞いて驚愕した。
魔力を扱う人間どもが、何万人も、軍隊となって迫ってきているというのだ。
私はその時になって「勇者の子供」を逃したことを思い出し、そしてそれは取り返しのつかないことだったと気づいた。
人間どもは「勇者の子供」の持つ魔力を何世代にもわたって受け継ぎ、磨き上げることで、悪魔と対等以上に渡り合えるだけの戦闘力を手に入れてしまったのだ。
辺境の統治は私の役目だ。悪魔四天王という肩書に泥を塗るわけにはいかない。後悔している暇などない。私は戦場に赴くことにした。
ここ十年で支配した村々が火の海になっていた。今の状況を見たら、どっちが侵略者かわかったもんじゃない。人間どもの軍隊を見つけた時、軍隊を指揮するヤツから、ある気配を感じた。百年ぶりの気配だ。ヤツもこちらの気配に気づいたようだ。
「おい。お前が悪魔四天王のルキル・ファファだな。」
「いかにも。我ら魔王様が支配する村を焼くとは。己がどうなるか、わかっているのか。」
「何をぬかしやがる。元はというと俺たちの村だ。そんなことよりも今回の目当てはお前だからな、ルキル!」
「フン!我を呼び捨てにするなど。」
「うるせぇ!俺は知っているんだ。俺は先祖の敵討ちに来たんだ。」
「やはりそうか、あの時のガキの末裔か。」
「くらえッ!」
それからはあっという間だった。私は人間どもの力を甘く見ていた。それとも、百年という歳月が少しずつ私の能力を衰えさせたのだろうか。
気づけば私は地にひざまずいていた。ヤツの剣が私の胸を貫いている。
薄れていく意識の中で、私ははっきりと聞いた。
夜空に轟く声。
あれは、悪魔四天王のリルファの声だ。魔力を使って、我々に声を聞かせているのだ。リルファは高笑いしながら吐き捨てる。
「人間どもよ、ルキル・ファファを倒したくらいでお目出度い連中だ。ヤツは四天王の中で最弱。お前らが味わう恐怖というのは、これからが本番だ…」
私はコーヒーを飲み終えて、床に寝転がった。今思い出しても忌々しい記憶どもだ。
人間どもに倒されたこともそうだが、それ以上に四天王どもにもあのように言われてしまうとは。倒されたことに違いないが、辺境一の狂戦士と言われて久しい私を最弱呼ばわりするとは!魔王様の支配する世界で、のほほんと内地で過ごしていた奴らに、愚弄される筋合いなどないはずだ!
「アケミー、何時?」
頭の向こうからトモヨの声がする。寝転がったまま天井を見上げ、コテージの板壁と一体化した時計に目を遣る。
「19時半を過ぎたくらいかな。」
「まだ、1時間以上あるのかー。どうするー?もう一杯コーヒーでも淹れるー?」
流し台の方でトモヨが、洗い物をしていた手を止める。
「いやー、いいよ。これ以上飲むと寝られなくなりそうだしー。」
「確かにー。」
勢いよく、蛇口から水が流れ出る音がする。
「はーあ。早くお風呂に入りたーい!」
トモヨの愚痴だ。また始まった。
「素直に我慢しなよ。今は男子が浴場を使う時間帯なんだから。そうは言っても、あと一時間の辛抱でしょ。」
「ご飯を食べたらすぐ、お風呂に入るのが日課だったんだもん。」
「日課って、こんな時くらい。そう言えば知ってる?ご飯食べた後すぐにお風呂入るのって、体に良くないんだって。」
「なにそれ。」
トモヨが蛇口の水を止める
「まー、どうして良くないかまでは知らないけど。湯船で寝落ちするかもしれないとか、そんなんじゃない?」
「うーん。確かによく寝るけど。」
「ほら、あぶなーい。溺れて死ぬかもしれないんだよ。」
「んー、確かに。」
「ほら、これを機に食後すぐお風呂入るのを辞めたら?」
「前向きに検討します。」
「そうそう、そうしたまえ。」
しばらくして、また蛇口から水が出る音が聞こえてくる。
トモヨが洗い物を済ませた後、私たち二人はコテージを出て、散歩することにした。夜空には雲がかかっているので、満天の星空とはいかなかったが、心地よい夜風が吹いている。
私達こと、アケミ達は高校の夏休みを使って天文部の合宿に来ていた。ただ合宿と言っても特別何かをするわけではなくて、天気が良ければみんなで夜空を眺めましょう程度だ。とりあえず望遠鏡を持ってきてはいるが、夜にならなければ何もできないし、今夜みたいに天気が悪ければ何もできない。
要するに、キャンプ場へ部のみんなと遊びに来ただけ、そのようなものだった。
湖の波打ち際に、丸太を縦に半分にしたようなベンチを見つけたので、私たちはそこで一休みすることにした。
雲の切れ間からは、満月に少し届かず左半分のRが微妙に小さい月が出ている。湖にもぼんやりと映り込み、湖面が穏やかであることがよくわかる。
私はトモヨの左側に、湖の方を向くように座る。なんとなく風が耳の後ろをくすぐる、背中側からお腹側へ風が通り抜けていく。これがいわゆる湖風というものなのか。私はその様なことを考えつつ、風呂の時間までトモヨとどうやって暇をつぶすか、そういえば、時間を確認できるようなものを持ってきていない、そのようなことを考えながら、両手を上へ、胸を突き出すように伸びをしていた。
きっと、トモヨも似たようなことを考えていたのだろう。彼女も私を真似るように伸びをしてから、湖の方を向いたまま話し始める。
「アケミ、トランプか何か持ってきた?」
「持ってきている訳ないでしょ。」
「だよねー。」
トモヨは、両手を背中の方で合わせ、下に伸ばし、体を左右にひねる。
外に出てぶらつけば、何か面白いものでも見つかるかと思っていたが、この暗さではどうしようもない。しかし、天文部員と言いながら、夜空を眺めながら暇つぶしができないのも、なんとも情けない。
夜空は、そんな私たちをあざ笑うかのように、雲の切れ間がアメーバみたいに動き始め、その隙間から星々が踊り出てくる。
そういえば昔漫画で読んだよなぁ、と思いながら親指を夜空に向けて突き出す。しかし、親指で月を隠す前に、雲に囲まれたアメーバは夜空の散歩に出かけてしまい、月は雲に隠されてしまった。
月光が抑えられたおかげで、夜空の星々は輝きを増すが、残念ながらここにいる二人にとって、夜空の星はどれも同じようなもので、名前が有ろうが無かろうが、知らなきゃ名もない星とも同然なわけで。ある種の申し訳なさから、私は夜空から目を離した。
トモヨは空の様子なんてお構いなしで下を見ている。
「アケミ、あのさ…。」
思わぬアケミの声色。今から謝罪でも始まりそうなトーンに身構える。
「あのさ…、神経衰弱しない?」
「は?だから、トランプは持ってきて…」
「いや、大丈夫。トランプが無くてもできる奴だから。」
「ど、どういう意味?」
「だから、神経衰弱。エア神経衰弱。」
そうして始まったのが、『エア神経衰弱』だった。
ルールはとても簡単だ。
交互に
はっきり言って、カードを見つける場所もそのカードの内容も
まぁ、つまり。
本物の神経衰弱みたいに得点を競うのではなくて、「神経衰弱」というルールに則って空想するという、ごっこ遊びだった。
そして今は1回戦目の途中、コテージがなんとなくカードを見つけ出す舞台になっていた。
「えーとね。『戸棚からクラブの10』で、」
トモヨが自分の親指で額をぐりぐりしながら、言葉をひねり出している。そのそばで私は、
「5、 4、 3、…」
「あーあーあー、と。『靴箱の一段目からクラブの2』!」
トモヨがカウントギリギリで2枚のカードの場所を言う。このカウントは最初のルールになかったものだった。
ゲームを始めてすぐは良かったのだが、中盤になるとカードの場所をスラスラ言えなくなってきた。それはカードのペアを作れないというより、カードを見つけ出す場所のアイデアが切れたような感じだった。それでもお互い、単なる気持ちの問題だったが、相手が一度カードを見つけた場所から同じカードを見つけたくない、というこだわりから、意地でも新しい場所から新しいカードを見つけ出そうとした。その時点で神経衰弱の持つゲーム性、自分に限らず相手がめくったカードの場所も覚えてペアを探すという、本来のゲーム性からは遠く離れて、カードが隠れていそうな場所の連想ゲームと化していた。そして、そのような連想ゲームの進行を円滑にするために、5秒以内にカードの場所を宣言するというルールが追加されたのだ。そして、時間をオーバーしたらその時点で負け。もはや、本来のゲームの様相が何処かへ行っていた。そもそも、神経衰弱をエアですること自体に無理があったのだ。将棋やオセロならまだしも。
そのように、ゲームとしてあるべき姿を見失った神経衰弱であったが、ゲームである以上、私も負けたくなかった。
「えーとね、」
「1234…」
トモヨが、カウントを食い気味に、しかも気持ち早い。
「あー『テーブルの下にクラブのジャック』と、『枕の下にハートのエース』!」
私は早口に言い切るが、
「はーい、アウトー!」
トモヨは腹立つ顔で言ってくる。
「え!カウント、まだだったじゃん。」
「カウントじゃなくて、カードの場所だよ。」
「場所って、別にどこからでも問題ないでしょ。」
「いやいや、『ハートのエース』が出てくるのは、『タンスの影』からって、相場が決まってるのだよ。」
「なにそれ、『タンスの影』って。」
「これだから、現代っ子というのは…。」
トモヨは相変わらず、腹立つ顔をしている。このように、理不尽な形でルールが追加されていくのも、このゲームの特徴だった。
「そういえば、罰ゲームを決めてなかった。」
理不尽の執行者が
いけしゃあしゃあ
と、こんなことを言い出す。「後出しジャンケンはだめだよ。」
「わかっているよ、次は罰ゲームありでやろうよ。」
「罰ゲームって、どうするの?」
「じゃあねぇ…」
トモヨが一瞬、さっきのような低いトーンの声を出したかとおもうと、
「じゃあさ、どんな質問でも
トモヨは満面の笑みで、こちらに聞いてくる。
『どんな質問でも真面目に』それはもしかしたら?何か嫌な予感がする。コテージでのコーヒーの件。私が本物のアケミじゃないことに気づいた?そんなまさか。コーヒー一つぐらいで、そんな質問を友達にぶつけたりはしないだろう。
トモヨは、こちらの様子などお構いなしに、言い加える。
「そんな、怖い顔をしないでよ。質問するといっても、あれだよ。天文部で誰が好き、だとか、そんな感じだよ。」
「ああ、そうだよね。」
私は何を動揺していたのか。トモヨのあっけらかんとした態度に安心した。
「じゃ、さっきのゲームに勝った私からね。」
あえて触れなかったが、さっきのゲームはトモヨの中では私の負けになっていたらしい。
「それじゃ…、『引き出しからスペードのジャック』と『机の端にハートの6』ね。」
トモヨはスラスラと答える。
「私は、『椅子の上にクラブの8』に『ペン立ての中にダイヤの9』」
「ペン立ての中って…」
トモヨは笑っている。物言いはつかなそうだ。
「『赤い絨毯の上にハートのクイーン』と『机の本の間にスペードの2』」
トモヨはスラスラと答えているが、私にはトモヨがどんな場所をイメージしているのか、わからなかった。別に相手がイメージしている場所に合わせて、後攻がカードの場所を宣言する必要は無いのだが、さっきはコテージという具体的な場所をイメージ出来ただけに、少し混乱というか、気になって来る。なるべくトモヨのイメージと合うようにカードの場所を考える。机かぁ。
「『机のランプシェードにスペードのキング』で、『机の本立ての隙間にハートの3』」
「机から離れなさいよ。」
トモヨが少し不満そうに言う。
「『出窓にクラブの4』と『出窓の脇にあるチェストからハートの5』ね。」
出窓にチェストがある部屋か。私はどこかで見覚えがあるような気がしていた。
「出窓の植木鉢に…」
と言いかけた時、トモヨが、
「本当に、本当に出窓にあったのは植木鉢?」
「え?」
私は不意を突かれた。
「出窓にあるのは植木鉢じゃないでしょう?」
トモヨは何かを知っているように聞く。
「出窓には…」
私は考えをめぐらす。出窓にある物。私が知っている出窓に、置いてあるもの。
あれ、『私が知っている出窓』って?
「出窓には…」
そこから先の言葉が続かない。
トモヨが私の肩に手を掛ける。
「出窓からは何が見える?」
私たちのいる場所からは、広大な湖がゆっくりと波打つ音が聞こえる。その奥に黒っぽいジグザクとしたものが、夜空よりも暗い影が立ちはだかっている。
ただ、今の私から見えていた景色はもっと違うものだった。出窓から見えるもの。
「茶色いや、黄金色の地平線…」
「その、黄金色は麦畑ね。」
麦畑。
私がここに来る前。私がまだ『辺境』を治める者だった頃。私の部屋にある出窓から見えたのは人間の奴隷が耕す麦畑だった。
「なら、出窓に何があったかわかるでしょう?」
トモヨは私の右手首を掴む。まるでそこに出窓があるように。目の見えない人に手探りで、そこにある何かを握らせるように。私の右腕を見えない出窓の上を滑らせていく。小指に硬いものが触れる。
「花瓶…。」
出窓には花瓶があった。禍々しいほどに黒い一輪挿し。あれは魔王様から与えられる悪魔四天王の証。
「ところで、その花瓶の所にはどんなカードがあったの?」
そうだった、まだ神経衰弱の途中だった。私は慌ててカードのスートと数を答える。
「えーッと、『出窓の花瓶の下にダイヤのクイーン』が、それと…」
「クイーンなら、既にもう一枚見つけているよね。」
トモヨがこちらを見ている。掴んだ私の右手をさっきとは反対に滑らせる。まるで出窓から振り返り、部屋の中を見渡すように。
一人で使うには広い部屋。窓から光が差し込む。赤い絨毯がキラキラとしている。絨毯の刺繍が光っている。絨毯の上、小さなカードが見える。
「赤い『絨毯の上にハートのクイーン』が。」
「そうね、それで一つのペアができたわね。」
トモヨの私の腕を掴む力が弱まったかと思ったら、また強くに握りしめる。
「ペアができたら、また新しく2枚カードを探さないとね。」
そう言うと私の手首を下の方に、何か床から拾い上げさせるように下げる。
「足元にある絨毯、その下に何がある?」
トモヨに言われるがまま、絨毯をゆっくりとめくりあげる。赤茶けたオーク材の床板が顔を見せる。トモヨが私の右手を持ち上げるにしたがって、絨毯もめくれてくる。右手が目線より高くなったとき、周りの床板よりも一際、色が黒くなっている部分が見えた。たしかに、床板に使われているのは板目なので所々に木の節があり、魚の目玉なような模様があるが、この黒い部分は床板の模様というより、明らかに染みだった。
何かを垂らした後のような。
「ねぇ、何が見えるの?」
トモヨが私の耳元でささやく。
「黒い、黒い染みが…。」
「どうして、黒い染みがあるの?」
「わ…わからない…。」
「わからないはずないじゃない。部屋に絨毯を敷いたのは貴方、なのだから。」
私は、怖くなっていた。何かを思い出しそうだった。トモヨは耳元で続ける。
「ほら、どうして絨毯なんて部屋に敷いたの?何を隠すために絨毯を敷いたの?」
隠す?
私は隠すために絨毯を敷いたのか。
それも、この黒い染みを隠すために。
いや、今となっては黒い染みだが、最初はもっと赤い。赤い染みだったのだ。
『辺境』に勇者の子供が生まれた時まで時間を遡る。
兵隊によって私の部屋まで連れてこられた勇者の子供とその母。本来であれば、二人の記録を付けた後、処刑室に連れて始末してしまうはずだった。しかし、あの時の私はそうしなかった。
戦いに飢えていた私は、勇者の子供の目の前で、その母を殺したのだ。
私の腕が母の腹を突き刺す。
母は震える声で息子に別れを告げる。
泣くことも忘れた息子は、見開いた眼で母の今際を焼き付ける。
足元に広がっていく血の水溜まり。
兵隊に連れられて部屋を出される息子。
彼は最後まで一言も発さなかった。
私は部下に死体の処分をさせながら、出窓から外を見ていた。兵隊に解放された彼は麦畑の中を走っていく。
私は種を蒔いたのだ。憎しみの種を。その種がいずれ芽を出し、私の前にもう一度、彼が現れることを、彼が復讐しに来ることを楽しみにしていた。
出窓の一輪挿しにはノアザミが荒々しく咲いている。
無意識に私はトモヨの方を向いていた。
トモヨも私をじっと見ている。その黒い瞳に吸い込まれそうだった。
「思い出した?」
トモヨは口元だけ、奇妙に笑いながら話しかけてくる。
私は思わず飛びのいた。
バカな。このことを知っているのは城の者だけのはず。いや、それだけじゃない。あの時、居合わせた者。
勇者の息子が!
「なんだ、何が言いたい!」
私は両手を突き出し、臨戦態勢に入っていた。
「そんな怖い顔しないでよ。」
トモヨは立ち上がり、無遠慮に近づいてくる。
まさか、異世界に来てでも私の魂を葬り去りに来るとは。争いとは無縁のこの世界。この平和な生活をもう少し堪能しようと思っていたが、それは私の思い上がりに過ぎなかったか。悪魔四天王のとしての気位があるといっても、今は単なる女子高生のアケミ。なんの能力もない。勇者に刃向うほどの能力など残されていない。
私は突き出した両手を下していた。
ここは潔く負けを認めるか。この世界に悪魔など必要ない。私は消え去る運命なのだ。
そう決心して目を瞑った。
トモヨが私の肩を掴む。
「いやー、久しぶりだな。俺だよ俺!」
私の肩をポンポンと叩きながら続ける。
「お前、辺境のルキルだろ? 俺は内政担当のリルファだよ、リルファ!忘れたか?」
私は頭が真っ白になっていた。
私たちはまたベンチに並んで座っていた。トモヨ改め、元悪魔四天王の一人、リルファが話す。
「だから!ナオコっているだろ。合宿には来てねーけどさ。アイツはアスウスなんだよね。それと、副部長のナミがヴァヴァネでさ。アイツが真面目なフリしていてウケるよな。はー、これでやっと四天王全員見つかったよ。」
「ごめんごめん、ちょっと待って。」
私はまだよくわかっていなかった。
「もしかして、他の四天王も来ているのか?」
「当たり前だろ。」
リルファは呆気なく答えてから、
「いやー、マジごめん。お前が負けた時にさ、最弱とか言っちゃったけど、勇者がマジ強くて、うちら全滅よ。まぁ、負けちまったけどさ、こうやって平和な世界に転生できたんだから。ツイているつーか、なんつーか。あ!まさかお前、転生できたのは自分だけだとか、思っていたんじゃねーだろうな!」
リルファは笑いながら話すと、何かを思い出したように立ち上がる。
「そういえば、風呂の時間!早く行こうぜ。それとなんだけどさ、2年で転部してきたココアっているだろ。アイツ、魔王くさいんだよ。二人で揺さぶりをかけてみようぜ。」
リルファは私の腕を引っ張り立たせる。
「ルキル、そう言えばだけど。お前が絨毯を敷いて隠したのって、なんの染みなんだ?」
「あー、あれはね…。あれは、コーヒーの染みだよ。エスプレッソを溢しちゃって。」
「なんだよそれ、子供かよ。」
私は、トモヨに向かって苦笑いする。
素直に答えるべきだったかも知れなかった。しかしその時の私は、母親が口癖のように言う言葉を思い出していた。
「アケミ!終わり良ければすべて良しよ!」