第18話「三十三平米の荒野」
文字数 10,516文字
ネチャネチャとした裏通りを進み、街から少し遠い廃ビルの一階を、車庫から入って勝手口へ抜け道すると、小さな酒場が見える。
ちょうど今、ウールコートを真っ黒に濡らした男が店に入る所だ。
店には先客がいた。ジュークボックスの脇に立つ小柄なコート姿は、組んでいた腕を解いて硬貨を取り出すと、ジュークボックスに入れる。ガゴンガゴンと機械が震えると、聞き覚えのある伴奏が聞こえてくる。
花摘む野辺に 陽は落ちて
みんなで肩を くみながら
男はコートをそのままに、カウンターに腰掛けている。ウイスキーのロックを一度、口元まで近づけたかと思うと、飲まずにグラスをテーブルに戻し、反対の手をテーブルに突っ張らせる。男は横顔を見せるように、後ろのコート姿に向かって、唸り声で話す。
「おい。アンタの趣味まで知らないが、夜の雨に陰気な曲を流すのをやめてくれないか?」
コート姿は腕を組んだまま、壁に寄り掛かっている。返事一つもしない。
「おい!お前に話しているんだよ!」
コート姿は下を向いたまま腕を組み直す。どうやら無視しているようだ。
「おい!」
男の声が店内に響く。
痺れを切らした男は、舌打ちしてからジュークボックスの方へ、コート姿の前に立つ。
「おい、お前に言っているんだよ。」
しばし沈黙が流れる。
酒場のマスターはこの事に気づいてはいるが、わざと見ないふりをしている。関わらないようにしているというより、この先の結果がわかっている、そのような感じだ。
「そこまで言っても、聞かないなら俺が止めてやるよ。」
男がジュークボックスの操作盤に手を掛けようとした時、すらっとした腕が男の腕を掴む。白っぽく細い指。女の手だ。
コート姿は壁から一歩踏み出し、目の前に迫っている。壁際では暗くてわからなかったが、コート姿の正体は女だ。男物のトレンチコートを羽織っているが、そのくたびれた感じに対して、頭のカンカン帽は窓から漏れる光を受けて、麦わらの白が鮮やかだ。
「邪魔すんじゃないよ、こちとら仕事でしてんだよ。」
女は低く、底から湧き出すような声だ。カンカン帽のつばの奥、ざんばら髪の向こう側から、ギラギラとした眼光が男を突き刺す。女はまだ、男の腕を強くつかんだままだ。
「し、仕事って、なんだよ。」
強気だった男の声が、しぼんでいく。
「てめえに、話す筋なんてねぇんだよ。気に食わねぇなら、別の店に行きな。」
女の声は変わらずドスの効いた声だ。
男はというと小さい声でモゴモゴした後、出した腕を戻そうとするが、女は掴んだ腕を離さない。男は驚きと恐怖と困惑で、何度も女の手から自分の腕を引き抜こうとするが、女の握力にびくともしない。
その姿は、他所から見れば滑稽かもしれないが、そこに居合わせた
腕がうっ血して冷たくなってから、やっと放す。男が後ろにのけぞると、掴まれた腕をさすりながら、「なんだこの〇〇〇は」と呟くと、マスターに反感と憎しみを込めた一瞥をして、ドタドタとドアを蹴り開けて外へ出ていく。
ジュークボックスから流れる曲は、とっくのとうに終わっていた。
「ラン子さん。仕事なのはわかりますが、お客さんとの喧嘩は困りますよ。」
ダンマリを決めていたマスターがラン子に、コート姿の女に話しかける。ラン子はというと、図々しくもさっきの男の席に腰掛け、置きっぱなしのウイスキーを飲もうとしていた。
「オレだって、マスターに申し訳ないと思っているよ。でもね、こちとらタロウのマネージャーとして、こればっかりはゆずれねぇんだよ。」
ラン子は言い終えると、ウイスキーを一気に飲み干す。
「タロウさんは、今日も試合ですか?」
ラン子はグラスをテーブルに置き、帽子を脱ぐと、茶髪交じりの前髪を、グラスで濡れた手で掻き上げる。色白のラン子の顔がくっきりとし、その丸顔が既にアルコールで赤くなっている。フゥーと、長く息を吐いてから、グラスをマスターの方に置くと、テーブルの帽子を取り上げ、それで火照った顔を扇ぎながら、やっと、マスターの質問に答える。
「そう。今日はスペシャルマッチなんだ。『タロウ
ラン子はわざとらしく、ため息をつく。
「やっぱ、バーボンはだめだわ。マスター、ブランデーちょうだい。」
マスターはラン子が置いたグラスを拾ってから、付け加える。
「そのウイスキー、出てったお客さんからお代を頂いていませんからね。」
そう言うと、後ろを向いてグラスとブランデーを戸棚から取り出す。
「え!それって、オレが払うことになるの?」
「もちろんです。」
マスターは毅然としている。
ラン子はテーブルにうなだれ「しくじったぁ」と一人ごとを言うが、すぐ起き上がり、さっきと同じように、帽子で自分の顔を扇ぐ。
「バーボン一杯くらい、今日のファイトマネーで大したことねーだろ。」
マスターはブランデーを差し出す。
「その、六馬組のは引き受けたんですか?」
それを聞いて、ラン子は笑う。
「やめてよ、マスター。八百長なんて引き受ける訳ねぇじゃん。オレ等はこう見えてもね、組や八百長なんとは無縁で、清廉潔白に試合してんだから。今日もいつも通り、8ラウンド目で、ラッシュを決めてKOだよ。それだから、ここに来たんだし。」
ラン子は一人上機嫌になって、ブランデーもさっきと同じく飲み干す。マスターは、ラン子の手にあるグラスに〝おかわり〟を注ぐ。
「ここに来たって言うのは、ジュークボックスのことですよね。」
ラン子がまた一気飲みしようとしたところを、マスターが腕を掴んで無理やり止める。思わぬ邪魔に、ラン子は不機嫌そうに睨みつけるが、マスターは構わず小声で「やめなさい」と、ラン子のグラスを取り上げ、カウンターの向こう側に置いてしまう。ラン子が睨みつけるのも構わず、マスターは続ける。
「あれには、どんな意味があるんですか?」
「あれって?」
ラン子の視線はグラスのブランデーだ。
「ですから、ジュークボックスで音楽をかける意味ですよ。前から聞こうと思っていたんです。選曲はいつも『誰か故郷を想わざる』ですよね。」
「ああ、そうだよ。」
ラン子はまだ、ブランデーだけを見ている。それに気づいたマスターは、グラスを持ち上げて、自分の目の高さまで上げる。
「ですから、ラン子さん。いつも決まって、音楽をかけるのはどうしてなんです?」
ラン子はやっと、質問に答えないとブランデーを返してもらえないことを悟った。ラン子は視線をそっぽに向けて頬杖をつき、さっきみたいに帽子で顔を扇ぎながら答える。
「タロウに頼まれてんだよ。8ラウンド目に、何処でもいいから『誰か故郷を想わざる』を流してくれ、って。だけど、オレが知っているのはそれだけ。どうして、そんなことを頼むかまでは知らねぇよ。ただ一つだけ言えるのは、8ラウンド目、つまりアイツが必ず勝負を決めるラウンドで、オレがこの曲を流している傍ら、タロウは対戦相手を殴り倒している、ということだな。」
ラン子は言い終えるとすぐグラスを催促するので、マスターは仕方なく手渡す。
「相手を殴りながら『誰か故郷を想わざる』ですか。タロウさんの故郷はどこなんです?」
「知らねぇ。」
ラン子はぶっきらぼうに答えると、ブランデーをチビチビと飲み始める。それは味わうというより、グラスを取り上げられるのを警戒した感じに、後の言葉を続ける。
「そういえば、出身はおろか、家族の話も聞いたこともねぇな。まぁ、アイツはロクに口がきけない上に、読み書きもままならねぇからな。本当に、人を殴ること以外、何の取柄もねぇ奴だ。」
また、ブランデーを口に含む。フンッと、鼻で笑ってから付け足す。
「そういう意味では、アイツの故郷っていうのは、ボクシングのリングかもな、知らねぇけど。」
「リングが故郷ですか…。」
マスターは感慨深げに、自分にいれたブランデーを電球にかざして、その琥珀色を眺める。
酒場に漂う、物憂げな雰囲気が嫌になったのか、居心地悪そうにラン子は立ち上がる。
「そういや、さっきの客を追い出しちまったお詫びに、もう一曲入れるよ。」
そう言って、ジュークボックスの方に近づこうとした時、酒場のドアが勢いよく開く。
「おい!ラン子はいるか!タロウがやられたぞ!」
顔なじみのハチが叫ぶ。ハチは誰かを肩に担いでいる。白っぽいチェスターコートを着た寸胴な男。コートの襟口から裾にかけて真っ赤な染みが、頭から被ったように付いている。タロウだった。
タロウがベッドで目が覚める。
大人が立ち上がるだけでやっとの天井、そのすぐ下の細長い窓からは光が入ってきて、外の陽気を知らせている。それに窓の光線は、部屋のほこりを際立たせる。タロウは咳払いしながら起き上がると、ラン子がベッドにもたれて寝ているのが見えた。
タロウはどうして自分がここにいるのか、思案しようとしたとき、脳天から下顎にかけて突き抜けるような鈍痛で、全てを思い出した。思わず、頭を抑えようとした時、部屋があまりにも埃っぽいせいか、右腕に巻かれた包帯が鼻をくすぐったせいか、大きいクシャミが出る。
それを聞いて、ラン子が目を覚ます。
「あ?あー。傷の具合はどうだ。」
ラン子はコートをぴったりとまきつけ、体を縮こませている。
「うん…。」
タロウはうなずく。
「昨晩、ハチに手当てしてもらってよ、アイツが言うには、脳震とうと打撲切り傷もろもろとかで、まぁ、出血の割には心配するほどでもないって…」
タロウはドアに掛けられている、自分のコートに目を遣る。所々、黄ばんではいたが、滑らかな白が気に入っていたチェスターコートは、襟から腰のあたりにかけて、地の色とは対照的な赤黒い染みができていた。
「…まぁ、傷口が塞がれば、どうってことはないって。それと、今はマスターの部屋に寝かせてもらっているんだ。マスターは下の店で寝ているからよ、後で飯つくらせてもってくるよ。試合が終わってからなんも食ってねぇだろ。」
タロウは自分の手を見つめる。「そう言えば昨日は試合だった」その様なことを考えながら、タロウは自分の拳を見つめるが、対戦相手がどのような顔だったか、思い出せない。それは、ただそれは、頭にできた傷が原因ではなかった。
タロウは頭の傷の具合を確かめようと、頭を触る。包帯の薄い乾いた柔らかさの中に、突き抜けた短い髪の毛がチクチクと触れる。
「おい、あまり、怪我を
ラン子は次々と話すが、タロウはというと、ほとんど「うん」と相槌を打つだけだった。それは、いつものことであったが、今のタロウは昨日のことを遡ることに、集中していた。
意識が薄れていく、黒服の集団が立ち去っていく、黒服がコートから封筒を抜き去っていく、鉄パイプや酒瓶を持った集団が取り囲んでいく、会場の裏口から出ると呼び止める声がする、コートを取り出し羽織る、外したグローブとシューズをナップザックに入れる、更衣室のストーブに干しておいたズボンとワイシャツを着る、更衣室のドアを開ける、会場の歓声を背中で聞いている、リングを降りる、レフリーが自分の腕を掴んだ・・・!
タロウが思い出せるのは、いつもそこまでだった。レフリーが自分を止めた瞬間。その瞬間まで、自分がどこか別の所にいたように、記憶が途切れてしまう。ただ、
「まぁ、もう少し寝てろや。オレは少し、下に降りているから。」
タロウはラン子が部屋を出ていくのを見届けると、頭から降ろした手をじっと見つめる。グッと手に力をこめる。指の付け根がズキズキとする。
ただ、途切れてしまった記憶、リング上での記憶はこの拳が覚えている。必死に誰かを殴りつけていたこの拳、一生懸命を追いかけていた。指の間をするりするりと抜けていく、ジリジリと首筋を焼き付ける光、額を流れていく汗、いくら捕まえようとしても捕まらない。細長い黒い影は、必死に繰り出す両手をあざ笑うように、ふらふらと泳ぐ。こんな、自分の目の前に在るのに!今度こそは、今度こそはと思って、右手を伸ばした時、誰かが自分の腕を掴んでいるのだ。「ストッープ!ストッープ!」と叫ぶ声が、汗くさい腕が、自分を羽交い絞めにしてくる。
「お客さま、申し訳ありません、まだ開店時刻じゃ…。」
下の方からマスターの声が聞こえる。続いて、硬い足音が建物中を響くと、そのいくつかが階段を駆け上がって来る。
「なんだ、てめぇら。あっ!」
ドアのすぐ前で、ラン子の声が聞こえたと思ったら、ドアが開く。
タロウには見覚えのある姿、黒コートの集団が現れてくる。
「いやはや。慌ててお見舞いに来たのだけれど、ラン子君も、タロウ君も、思っていたよりも、元気そうで何よりだよ。」
妙な、ゆったりとした口調で話すのは六馬組若頭のナガオカだ。黒コートの中でも頭一つ低いナガオカは、脱いだコートを部下に持たせると、ドカッとタロウのベッドに座る。ライトグレーのスリーピーススーツ、内ポケットからオイルライターとタバコを取り出すと、その場でふかしはじめる。
タバコの白っぽい煙が、黒コートの集団を背景にして、存在感を持って、ただでさえ狭い屋根裏部屋の空間を占拠していく。その中で際立っていたのは、ベッドのシーツの白でも、タロウの包帯の白でも、もちろん、ドアに掛けられたチェスターコートの白でもなく、ナガオカのスーツのライトグレーだった。
ひとしきりタバコをふかすと、ナガオカは少し咳き込む。
「いいでしょ、このライター。駐留軍から譲ってもらったの。それにしてもこの部屋、ほこりっぽいね。窓でも開けた方が、怪我にいいんじゃないかな。」
そう言って、ナガオカは部屋を見回すと、ドアに掛けられた、タロウのコートを見つける。
「いやはや。本当にうちの若いのが失礼したねぇ。血の気が多いというか、折角のコートが台無しだ。どうせだったら、全部真っ赤に染めた方が、良かったかもしれないねぇ。」
ナガオカが言い終わらないうちに、ラン子が黒コートをかき分けて、部屋の中に入って来る。
「あぁ、なんだって?てめぇの血で染めるのを手伝ってくれるって言うのか?ナガオカ。」
ナガオカはタバコを一口吸ってから、
「そうそう。今日は二人に話があって来たんだよ。あの地下ボクシングは、僕たちのシマになったからさ。それで、あまり勝手なことをして欲しくないんだよ。まぁ、今回のは軽い授業料だと思ってさ。」
「なんだぁ。てめぇらの縄張りは闇市だけで、地下はてめぇらのじゃねぇだろ。」
「それは、諸般の事情というものだ。君達には関係ないことだよ。」
ラン子は何か察したように鼻で笑うと、壁際のローテーブルに腰掛け、ナガオカと対面するように座る。
「ナガオカ、焦ってるんだろ?マツダが
ナガオカは図星だったらしく、ちびてきたタバコに口を付ける
「闇市に加えて地下も押さえて、手柄を立てたつもりかもしれねぇけどよ、それは無茶ってやつだぜ。アンタが地位にこだわるのはわかるけど、アンタは若頭っていう器じゃねぇんだよ。」
ナガオカはフィルターまで火が付いたタバコを、床に投げ捨て踏みつぶすと、立ち上がる。
「さっき言ったように、お前たちには関係ないことだ。大切なことは、今の地下は俺のシマだっていうことだ。いいか、地下が俺の物である限り、勝手は許さない。」
そう言うと部下からコートを受け取る。部屋から出る前に、
「よく聞け、来週の試合も『9ラウンド目』だ。いいな。それができないようなら、試合中でも構わず、消えてもらう。今は、俺が地下のルールだ。」
そう付け加えると、ナガオカは黒コートの集団を連れて、部屋から出ていった。
ラン子はコートに両手を突っ込んで、考え事をしながら天井を見ている。ナガオカの話をどこまで真面目に聞いていたのか、わからない。ラン子は、建物の中から足音が無くなるのを確認すると、けだるそうに立ち上がり、タロウに向かって話しかける。
「平静を装っていたけど、あれは相当、焦っているな。」
「うん。」
タロウは、さっきまでナガオカが座っていたところ、少し布団がつぶれたところをぼんやりと見つめながら、相槌を打つ。
「地下は本来、別の組のシマで、八百長とか目立つことは嫌がる連中で、まぁ、そのおかげで、オレ等ものびのびと試合をできたんだけど、あの話しぶりから言って、ナガオカのヤツ、組の幹部を殺ったんだろ。」
「うん。」
タロウがまた、聞いているかわからない返事をする。
「あの部下の数と言い、報復を恐れているんだぜ。そうなりゃ、アイツが殺されるのも時間の問題だ。俺たちは、アイツが自滅するまで、いつも通り、やろうや。」
「うん。」
「じゃぁ。今から飯持ってくるからな。」
そう言ってラン子は、部屋を出ていく。
「うん。」
タロウは誰もいない、空間に向かって返事をする。タロウはラン子の話を聞いて、自分がまだご飯を食べていないことを思い出した。「そう言えば、昨日の夕方から何も食べていないや」タロウはそう考えて、ローテーブルの方に目を遣ると、床に付いた黒い汚れを見つけた。
それは、ナガオカがタバコを踏み消したせいでできた、焦げであった。
ぼんやりと付いた黒い汚れ。雑巾で良く擦れば取れそうなくらい淡かった。
タロウはその黒い汚れと、リング上で追いかけていた影、細長い黒い影とが、重ね合うように感じたが、床の焦げはあまりにものっぺりとしていて、とても重なりそうになかった。
あの時、自分が捕まえようとしていた物は何だったのだろうか、タロウはまた、そのことを考え始めていた。
ただ、床に付いた焦げではないこと、そのことが、はっきりしただけだった。
ナガオカが来た日から、あっという間に時間が経ち、今日はタロウの復帰戦。ナガオカとの約束の試合だ。
ラン子は待合室でタロウと別れ、試合会場を後にすると、とぼとぼ道を歩いていた。長く続いた雨の日もタロウが襲われた日から、晴れの日が続くようになり、道路も空気もカラッとしていた。むしろ乾燥しすぎて、未舗装の砂利道のチリが舞い上がり、空気が砂っぽいほどであった。
街の桜はとっくに葉がついてしまい、山桜も見頃を終えた今、春の訪れというのは疑いようもない。駅の様子にしても、決して生活に余裕があるとは言えなくとも、全く春めいたこの陽気に、表情に出さずとも誰も彼もその裏側には、春を喜ぶ少し浮ついた感情が無意識のうちに、行き交う人々の中に共有されていた。そのような春の気配は、残飯を煮詰めた湯気に、工業用アルコールと汚物、時々血の臭いが漂う闇市、この火傷にできた膿のような湿り気をも確実に乾かせていくようであった。実際、闇市の隅には手押し屋台で「本物の餡子」と書かれた幟が立ち、ベニヤに並べられた白い饅頭に、女子供が殺到することからも、容易に想像できるのだった。
ラン子は街の賑わいから距離を取って道路の隅を、馬車が立てる土煙から鼻と口を守りながら歩く。そして、いつもの酒場に入る。
「あっ、ラン子さんか。タロウさんと一緒じゃなくて、大丈夫なんですか。」
ラン子は左手だけ挙げて、返事代わりにすると、珍しくカウンターではなく窓際のテーブル席に座る。それを見たマスターは、ドアの掛札を「closed」にひっくり返してから、ブランデーとグラス二つを持って、ラン子の向かいに座る。
「ラン子さん、らしくないですね。」
マスターは話しながらブランデーを注ぎ、ラン子に差し出すが、左手で断られてしまう。ラン子は何かを考えているようだった。マスターは仕方なく自分で飲む。しばらくして、ラン子が話し始める。
「少し、当てが外れてね。他の組に手を出させないために、明るい内から試合を始めるらしいんだ。ナガオカもその部下も来ているし。これはもしかしたら、八百長を飲むしかないかもってね。」
「それで、どうされたんですか?」
「アイツに話したんだけど、首を縦に振らねぇんだよ。どういう訳だが。『いつも通り』それの一点張りなんだよ。」
「そう、だったんですか。」
マスターは、ブランデーを転がすようにグラスを持って回すと、言いづらそうに、息を吐いてから口を開ける。
「あまり、気休めみたいなことは言わない方がいいんでしょうけど、タロウさんにはタロウさんなりに、考えがあるんじゃないんですか。タロウさんだってベテランな訳ですし。ラン子さんもあまり心配せずに、タロウさんが言ったように、いつも通りに徹すれば、いいんではないでしょうか。」
レース越しに外を眺めていたラン子は、思い直したように、マスターの方に向き直る。
「そうだな、マスターの言う通り、いや、タロウの言う通りだな。」
ラン子は少しぎこちなく笑うと、ブランデーのボトルを取り上げ、自分で注ぎ始める。マスターは気を取り直した姿に安心して笑い返す一方で、声のトーンを落とす。
「差し出がましいかもしれませんが、そろそろ堅気な仕事を探したほうがいいんじゃないですか。今やっていることは、何時までも続けられるようなものではないですし。それに今回みたいなことも、また起きないとも言えないですよ。時代だって変わってきています。私で良ければ仕事を紹介しますよ。」
「そういうもんじゃないんだ。」
ラン子は自分のグラスを見つめたまま、
「そう簡単に、割り切れるもんじゃないんだ。オレも、タロウも。」
「そうですか・・・」
マスターにしては珍しく、少し残念そうな顔をすると、
「まぁ、困ったらいつでも言ってください。力になりますから。」
「マスターには悪いな。今度と言い、いつも世話になってしまっているな。」
酒場で、マスターとラン子が話している頃、リング上では、いつも通りとは言えない展開になっていた。
試合は現在、4ラウンド目。タロウはいつものように、対戦相手のぜい肉をそぎ落とすような、ボディーブローを繰り返していた。相手の体力をじわじわと削るボディーブローは、試合の後半、7、8ラウンド目から効き目が出てくるはずだったが、今の相手の状態を見ると、既に立っているのもやっと、という具合だった。試合全体を通して感じる違和感。相手の繰り出すパンチも当たらないというより、そもそもタロウに届いていない。殴る前から腰が引けているような、素人を相手にしている感覚だった。タロウも無意識の内に、試合を8ラウンド目まで続けるために、有効打を出さないようになっていた。
そして6ラウンド目。試合再開のゴングと同時に、リングの中央に押し出された相手は、そのまま意識を失って、タロウの脇をかすめるように倒れる。
あまりにも呆気なく試合が終わった。
レフリーが相手の様子を確認し、タロウの腕を持ち上げる。観客たちの前でタロウの勝利を宣言する。
しかし、いつも通りではなかった。
会場から聞こえるのは歓声ではなかった。
「やる気のねぇ、試合しやがって!」
「4ラウンド目で決着が付いていただろ!」
「わざと、ラウンド数を稼ぎやがったな!」
誰が吹聴したのか、気づけば「仕込みだ!」「八百長だ!」という怒声に変わる。観客の中には柵を乗り越え、リングに上がろうとする者もいる。身の危険を感じたレフリーが、タロウをリングに残して一目散に逃げる。
リングに取り残されたタロウを、暴徒となった連中が取り囲む。割れた四合瓶やパイプ椅子、中には肥後守を持っている者までいる。それでもタロウは棒立ちしている。多勢に無勢とは言え、相手はボクサーだ。誰も、自分から向かおうとはしない。
「なんか、言ったらどうだ!」
坊主頭の男が、手の酒瓶を突き付けて叫ぶ。その声に続いて周りの連中も、やいのやいの騒ぎ出す。
〈ッダァーン!!〉
銃声が鳴った。男が倒れる。さっきの坊主頭だ。銃弾は脳天を撃ち抜かれ、辺りが血で染まる。その時、連中の緊張が頂点になった。野次馬でリングを取り囲んだのは逃げ出し、武器を片手にリングに上がったのは、ついに襲い掛かる。
パイプ椅子が振り下ろされる。割れた酒瓶、折れた棒切れが突き出される。時々、キラッと光るのは、肥後守かドスだ。
タロウは殴り返すこともできず、ただ、両手で頭を守るだけ。ガラスの破片、棒切れのトゲが体に刺さる。キラッ。腕や胴に鈍い痛みが走る。汗で冷えた体に、生暖かいものが流れる。ぬめつく液体を踏んで、体のバランスを崩した瞬間、真横に振られたパイプ椅子がこめかみに命中する。
その時、タロウは夢を見ていた。
いつも捕まえられなかった細長い黒い影。それが今は手元にある。ゆっくりと、潰さないように手を開く。それは一匹のドジョウ。声が聞こえる。頭を上げて振り返ると、田んぼの縁に母さんが立って、手を振っている。
「太郎、帰るわよー!」
太郎は嬉しくなって、さっきのドジョウもどこへやら。大きく手を振って応える。
母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん。
「そこにいたんだね、僕の母さん。」
ちょうど今時分、ラン子のいる酒場ではジュークボックスが鳴り止んだ。