第20話「記憶の暗がり〜序章〜」
文字数 10,679文字
厚い雲が空を覆い、砂っぽいアスファルトの道路に目線よりも高いブロック塀のおかげで灰色一色な路地を、革靴の男が早歩きしている。男は道なりに歩き続けブロック塀が切れたところ、アパートの玄関に向かって曲がる。男は目的の部屋の前に来ると、くたびれたジャケットと仕事鞄とを片手にまとめ、空いた手でインターホンを押す。家主が出てくるまでの間、男はその手を自分の頭の後ろにまわす。男の手のあたりにはプラグの差込口があった。
「はーい、開いてまーす」
ドアの向こうから若い男の声が聞こえる。それを聞くと男はドアを開けて中へ入る。半畳もない玄関にはおびただしい数の靴が、ほとんど同じようなデザインの運動靴が脱ぎ捨てられている。男はかかとを踏むようにして屈まずに革靴を脱ぐと、散らかった廊下を進む。無造作に開けられた缶コーヒーのダンボールに、壁沿いに積み重ねられたネット通販のダンボールが、ただでさえ狭い廊下をより狭くしている。男はそれらを突き崩さないように、体をひねりながら奥の広い部屋に出る。
「センパーイ、待っていました! お忙しいところ、本当にありがとうございます」
若い男はパソコンに向かいながら話す。手元は目にも止まらない速さでタイピングしている。そして、若い男の後頭部にもプラグの差込口があり、今はコードが繋がれずっと後ろに伸びている。
男はその頭から伸びるコードの先を視線で辿る。ラップの芯よりも少し細いくらいのコードは、山積みの本や印刷物の上を這うように進み、ダイニングテーブルの上にあるティッシュ箱ほどの機械につながる。そしてその機械からハブのように細いコードが、テーブルに座った人間たちの後頭部につながっている。テーブルには6人の男性が座っているが全員同じジャージ、灰色に青のラインが入ったものを着用しており、その柄は玄関に脱ぎ捨てられた運動靴のそれと同じであった。
男はそれを見つけるとため息をつく。それから若い男の方へ、大股になって足元の資料を踏まないように近づき、後ろからパソコンを覗き込む。
「おい、
久藤と呼ばれた若い男はパソコンから目を離さず、手元を動かしたまま答える。
「
久藤はキリのいい所で手元を止めると、パソコンから目を離して山内の方に向き直る。山内はさっきのように後頭部を触りながら話す。
「お前に助けてくれって言われたから来たけど、博論の手伝いなんて何すればいいんだ。まさか手分けして書くだなんて言うなよ」
「まさか、先輩の
久藤は立ち上がると本と資料の山から探し物を始める。
「おい、RAMを借りるってどういうことだよ」
山内には久藤の言う意味が分からなかったようで、久藤の丸まった背中に向かって話しかける。
「先輩って本当に情報に疎いといいますか、はっきり言っちゃうと遅れていますよ。もー、同じ情報研の先輩として恥ずかしいですよ」
「お前に先輩と言われても、俺はただの学部卒だよ。お前みたいに研究者じゃないんだ」
「研究者って…、自分はまだ博士課程ですけどね。おっと、あったあった」
久藤は立ち上がり山内の方に振り返ると手には、アダプターの付いたコードを持っている。
「それを頭に差すのか?」
「そうです。これで先輩の脳と自分の脳を繋ぐんですよ。そうすると、先輩の情報処理能力を自分が借りることができるんですよ」
山内は怪訝そうな顔をしている。
「センパーイ、大丈夫ですよ。アダプタがちゃんとついているんで、先輩のROMを覗き見たりはしませんから。純粋に処理能力だけを使いますから」
山内は久藤からコードを受け取るが、そのプラグの方をしげしげと見ている。
「使用者側にそれ用のポートを増設する必要があって、まだ普及しているとは言えないですけど、民間でも利用が始まっていますし、安全性も実証されていますから。大丈夫ですから」
久藤はそう言いながら自分の後頭部を山内に見せる。差込口が二つあって一つは既にコードに繋がれており、もう一つは金色にメッキされている。久藤は山内に見せるようにコードの一方をそれに差し込む。山内もそれを見てコードのプラグを自分の頭の後ろにまわす。
「あ、センパーイ。ちょっとストップ」
その声に山内は顔を上げて久藤の方を睨む。
「いや、そんな目で見ないでくださいよ。RAMはROMのと違って、接続と同時に意識が飛んじゃうんですよ。まぁ、ROMみたいに記憶と接続するんじゃなくて、RAMはいわば意識と接続するようなものですから。なので、そこのソファで横になって下さい、自分が差し込みますんで」
「ソファって、どれだよ」
山内は部屋の中を見回すがどこにもソファらしきものが無かった。久藤は頭を掻きながら、本が何層にも積まれた塊を指差す。
「いやぁ、あれがソファだったんですけどね。報告書が終わったら片付けますから」
「報告書が終わってからじゃ遅いだろ」
「本当に申し訳無いです。あの辺は神経科学とかの本が中心ですけど、夢分析に関して書かれた本もいくつかあるので、きっと、いい夢見れますよ」
「あのな…」
山内は言いかけた言葉をそこで切り上げるとソファだったものに向かってずんずんと進み、持っていたカバンとジャケットを枕にして、本の塊の上にドカッと倒れ込む。それを見て久藤が「あーちょっと、図書館の本もあるんですから」とぼやくが、山内は構わずうつぶせになると本の上で伸びをする。
ギシギシと本の表紙がすれる音がする。
久藤は苦い顔をしつつ山内のもとに来る。
「じゃぁ先輩、今から繋ぎますんで終わったら起こしますね。まぁ大抵の場合、接続を切ったらすぐ目が覚めますけどね」
久藤はそう言うと山内からプラグを取り上げると、それを山内の後頭部に差し込む。
グサリ。
後頭部の2センチ程深い所で硬い金属が擦れあう音が骨の振動で頭の内側で反響するように、頭の外側にある耳へ届く。山内は今になって不安を感じ始めたが、その意識はテレビの電源を切ったようにプッツリと途切れた。
人類とデバイスの発達はウェアラブルを最後にして足踏みしていた。
持ち運びができるノートパソコンの登場からスマートフォンにスマートウォッチ、そしてコンピュータ内臓の眼鏡やコンタクトレンズへと、確実にデバイスと人間の距離を縮めてきたがそれは限りなく0に近づくことは出来ても、0にすること、つまり人間の意識とコンピュータを完全につなぐことは出来なかった。結局、コンピュータによってもたらされた情報を視覚や聴覚、触覚でもって改めて人間の脳にインプットする必要があったのだ。そのインプットにかかる2つのロス、1つ目は情報を脳にインプットするのに掛かる時間的なロスと、情報をインプットする際に誤読や勘違いを起こしかねないという正確性のロス。後者のロスは時間をかけることで防ぐことができたとしても、前者のロスと合わせれば大量の時間的なロスを生む。情報というものは時間を経ることによって際限なく増えていく。その莫大な情報量に対して人類がそれらをインプットに掛ける時間、その寿命というのは有限であり圧倒的に短かった。
しかし人工知能は別だった。USBでデータを右から左へ動かすように、人工知能にはそれがアクセスできる領域に電子情報として保存すればよいだけだ。そのようになると、人間と人工知能の違いというものが自我の存在であり、情報の処理能力に限って言えばその違いは、人間的な意識による取捨選択能力だけになっていた。そして人間が持つという取捨選択能力も、人工知能が一度に扱える情報量の前では無きも等しかった。
そのような人類と人工知能との越え難き壁、圧倒的な情報量の差を超えるべくして生まれたのが、人間のROM化であった。
人間とコンピュータを繋ぐ実験の中で発見された問題が、人間の脳が処理できる情報の形式と、コンピュータが処理できる情報の形式とが違うことであった。いうなれば、コンピュータに入力された情報と人間が感覚でもって脳に入力した情報とでは互換性が無かったのだ。その問題に対して当初は情報の形式を脳に合わせてインポートすることが試みられたが、結局は情報をコンピュータ上で処理することになり、それは人間とコンピュータの互換性にならなかった。ただ、コンピュータで情報を加工するのではなく人間の脳から直接人間の脳へ接続することで、それらの課題をクリアすることができた。そしてこの技術は人間の脳に存在する暗黒領域の発見。いわゆる「脳は普段10%の能力しか発揮していない」という都市伝説が、研究によって裏付けられたことにより、この暗黒領域の活用が進むことになった。
人間を情報デバイスにすることは人身売買につながるなど、倫理的な問題が投げかけられたが、情報のやり取り時のプライバシーの確保、もっとも、人工知能とロボット工学の発展により一部の肉体労働と研究職を除いた職種が無くなり始めていた時代には、持て余した脳の記憶領域に労働的価値を与えてくれるものとして、大多数の人類からは新しい職業としてすんなりと受け入れられた。そして、久藤が話した人間のRAM領域の借用というのもこの技術の延長線にあたる。
またこの技術は人間を、知識の倉庫としてのROM人間と、知識を引き出して活用するRAM人間の2種類に分けることになった。
久藤はパソコンの前で伸びをすると、自分の後頭部に接続されているコード2本を無造作に引き抜く。それと同時に山内が意識を取り戻す。久藤は山内が仰向けになり意識を取り戻したのを確認すると、ソファの向こうにあるテーブルの方へ向かう。テーブルに置かれた機器の電源を落とすと周りに座っている男たちの頭からコードを引き抜いていく。男たちはコードを抜かれた者から白昼夢でも見ていたようにフラフラと立ち上がっていく。全員分のコードを抜き終えると男たちの気分について口頭で確認する。そして久藤は男たちに礼を告げ玄関まで彼らを案内すると、ダンボールからぬるい缶コーヒーを手渡しそこで見送るのだった。
山内は初めておこなったRAM接続というものを、脳の表面を羽毛で撫でまわされたようなゾワゾワした感覚として堪能していた。
久藤は缶コーヒーを一本、山内に手渡す。
「センパーイ。本当に助かりましたよ。これで、なんとかなりそうです」
久藤はそう言いながら山内の足元に座る。山内が缶コーヒーを胸に抱えたまま、起き上がろうとしないことに気づくと、
「先輩、大丈夫ですか?もしかして接続するのは久しぶりですか?RAM接続はROM接続と違って意識が全部なくなるので、変な酔い方はしないはずなんですけどね」
山内は缶コーヒーを寝そべったまま開けると、そのままの姿勢で飲み始める。
「先輩こぼさないでくださいよ。もう」
久藤はそう言うと自分も缶コーヒーを開けて飲み始める。一口を長く口に含んでから飲み下すと久藤が山内に話しかける。
「今、仕事は何しているんですか?」
「整理だよ」
「整理ってなんですか?」
「蔵書の整理。いや、蔵書って言うよりかは書き散らしたメモ書きみたいのが殆どだな」
山内は片方の手を頭の後ろに回して首を少し動かしてから、話を続ける。
「ある死んだおじさんの遺品整理をたのまれているんだ。ただそのおじさんっていうのがとんでもない蔵書狂だったらしくて、蔵書に関するメモ書きが大量に残されていたんだ。まぁ、それらの整理っていうのを遺族に頼まれているんだよ」
「ふーん、そうだったんですか」
久藤は一足先に飲み終えた缶コーヒーを握りつぶす。
「先輩、その仕事は楽しいっていうか…」
久藤は言葉のその先を慎重に吟味してから続ける。
「その仕事って言うのは大学でやってきたことを活かせているんですか?いや、これは別にそういう意味じゃなくて…」
「どういう意味だよ」
山内は笑っている。久藤は言葉を探すようにしながら、
「いや…その、先輩がもしですよ。もし。今の仕事から何か別の新しい仕事を探していらっしゃるんだったら、自分が紹介できますよっていう意味で…」
「ハハハ、後輩に仕事を紹介される羽目になるとわな」
「そんな、紹介だなんてものじゃなくて。先輩の協力が欲しいんですよ」
「博論のか?」
「そうじゃなくて、研究室ですよ。研究室に戻ってきてほしいって、言っているんですよ」
山内は久藤に背を向けるように起き上がり、背負向けたまま離し続ける。
「研究室に戻ってこいって言われてもな。学校に入り直すほどの金もないし」
「お金なんて大丈夫ですよ。研究員として雇用されるんですから、むしろお金がもらえるんですよ」
「そう言ってもらえるのは、嬉しいけどな」
山内は残りの缶コーヒーを飲み干す。
「まぁあれだよ。研究の内容に興味が無くなった、ていうのかな。今の仕事のほうが性に合っているんだよ」
「性に合っているって…。じゃあ、どうして今日は手伝いに来てくれたんですか?」
山内は空いた缶を積み上げられた本の上に置いて立ち上がると、久藤の方に向き直る。
「ばーか。かわいい後輩が助けてくれって言ってきたから、助けに来てやったんだろう。別に、お前の研究に興味があるから来たんじゃないよ。それぐらい考えればわかるだろう」
座ったままの久藤の肩を叩くと、そのまま玄関の方に向かって歩く。
「じゃあ、俺はこれで帰るから。報告会がんばれよ」
「先輩、待ってください!」
久藤は山内を呼び止めると、ポケットから自分の名刺を取り出す。
「先輩、これ自分の連絡先なんで。気が変わったらいつでも連絡ください。それと」
勝手に名刺を山内の胸ポケットに入れると、ダンボールの山に置いてあったコピー用紙を取り出す。
「大学からの注意喚起で『ROMオークションについて』ってあるんですけど、先輩は聞いたことありますか?」
山内はその文面を一瞥すると険しい顔をしてから答える。
「極端な言い方をすると人身売買だよ。本来ROMっていうのは記憶領域が空っぽな状態で雇用されるんだ。つまり、新品のUSBをお店で買うのと一緒で何も記録されていないROMを雇用してから、その雇用主が必要な情報をROMに記憶させるんだ。そして解雇する時は記憶も消去する。こういったROMの異動は全て監理庁が認定・登録して管理しているんだけど、時々逸脱が起きるんだよ。監理庁と雇用主の目をかいくぐって、企業の記録などを記憶したまま脱走したりするのとか。あとは、違法改造でROM化したヤツとかな。どちらも関わったら即アウトだけど、違法改造は特に気を付けろよ。」
「違法改造っていうのは…」
久藤は不安そうに自分の後頭部を触る。
「監理庁の認可がおりていないところで手術することだよ。お前のは大学でやったんなら大丈夫だよ」
「そう、そうですよね…」
久藤が苦笑いする。
「オークションは会場に行かない限り関わることは無いが、違法改造には気を付けろよ。変なヤツと脳みそ繋いだら、いわゆるコンピュータウイルスの人間版を押し付けられて、そのまま脳みそが破壊されて人生終わり、ていうこともあるんだから」
「先輩、詳しいんですね」
「昔いたんだよ。デリヘルにせがまれて脳みそ繋いだら、そのまま一週間も夢から覚めなかった人が。命と脳みそに別状はなかったけど、身ぐるみ全部はがされていたな」
「マジですか」
「監理庁ができる直前でいろいろと緩かったんだよ。まぁ、シャバな研究者になるんだったら、『オークション』なんかには関わらないようにするんだな。ROMの個人所有は認められてないんだから」
「気を付けます」
改まった久藤の肩を山内は横から叩くと、
「まぁ、まともにやっていれば大丈夫だよ。今回のROMの連れ込みはグレーだけどな。じゃ、またな」
そう言い添えると山内は部屋を出て革靴を履き、サンダルだけになった玄関を後にする。
後ろ手でドアを閉めると、外は日が落ちて夜になっている。山内は久藤に見せられた注意喚起の内容について思い返していた。その注意喚起は、学校の近辺で違法のオークション会場が摘発されたことを受けて発表されたものだった。摘発された会場、そこは山内には思い当たりがある場所だった。
真っ暗な駐車場。
そこは、数年前までは冷凍食品を生産していた工場の廃墟だった。いくつもある窓のない小部屋を抜けると、曲がりくねったベルトコンベアが敷き詰められた広い空間に出る。何か肉を揚げたようなそれも酷く人工的な風味がする臭いと混じって、古い油の臭いが充満している。山内は服の袖で鼻を覆うと足元の非常灯だけを頼りにして、空間の奥へ向かう。
硬くなったビニールカーテンをくぐると、途端に周りが明るくなった。足元はアスファルトの踏みなれた感じになり、壁と天井が金属製の板で覆われている。山内は奥へ向かうとそこには簡便なステージが作られており、他の参加者がそのステージを囲むように立っていた。ステージは鉄パイプと鉄板を組み合わせただけのようなもので、そのステージと接続するようにテントが、そのテントもステージと同じくパイプを柱に鉄板を屋根にして、周りをビニールシートで囲むことで中身を見えないようにしただけだ。山内は会場の明るさに目が慣れ会場を見回すと壁に沿うように巨大な棚があり、足元には消えかかった白線で導線が引かれていることが分かった。工場の倉庫のようだった。
山内が会場に着いてからしばらくすると、後ろで扉が閉まる音が聞こえる。その心臓を揺さぶる音を合図に、スーツ姿で顔に黒子のような布を垂らした男がステージに上がる。
「みなさま、ようこそおいでくださりました。巷では此処を『人間オークション』『人身売買』などと言っているそうですが、とんでもございません。我々はそのような非人道的な組織なんかではございません。あくまでも、フリーで活躍されているROMの皆さまと、本日会場にお集まりいただいたROMを必要とする皆さま、お二方の出会いを仲介しているだけでございます。言うなれば、二人の出会いを創造する『愛のクピド』を自負している次第でございます。」
会場が失笑であふれる。
「どうにも冗談が過ぎたようですね。前置きはこれくらいにしまして、早速『オークション』を、おっと、失礼いたしました。違いますね。早速、『お見合い』を開始いたします」
男はマイクも無しに良く通る声で宣言すると、ステージの端に寄る。右手をテントの方に向けるとまた、良く通る声で喋りだす。
「最初にご紹介するのは彼女です」
白いポンチョを被った十代くらいの少女が、別のスーツの男に手を引かれてステージに上がる。
「見ての通り可愛らしい彼女です。この手ざわりの良い黒髪も…、おっと、お客様あまり興奮なさらないでください。彼女の魅力はこの容姿だけではもちろんございません。私達がご紹介するのはROMの方達です。例にもれず彼女もROM化されているのですが、何て言うことでしょう、手術担当者の気まぐれで、脳内のセパレーションがなされていません。それはつまり接続すると、彼女の意識と彼女の感覚が手に取るように、最早、一体化することができるのです。どうですか皆さん。可愛らしい彼女と意識を共有することができるのです、可能性を感じませんか?おっと、私達はそのようなつもりで申し上げたわけではございませんよ、あくまでも、ROMとして、感覚の共有は皆さまの知見を広める一助になりうるのではないでしょうか、と申し上げているのみでございますよ…さて、それでは希望者を募りましょう。最初は…」
山内は金額を宣言する男たちを遠巻きに見ながら考えていた。脳みそのセパレーションをしていない人間だって? そんなのと頭を接続すればどうなるかだなんて目に見えている。意識が混濁して気持ち悪くなるか、下手をすれば記憶障害が起きるだけだ。一生懸命、金額を吊り上げている奴らは何を考えているか知らないが、彼らの期待するようなことにはならないだろう。もしくは彼らが期待するような情報が彼女のROM領域に書き込まれているか、そのような落ちだろう。
山内は退屈になってきて倉庫の棚に寄り掛かり、オークションの成り行きをぼーっと眺めていた。
山内がこんな場所に居るのは彼の先輩に頼まれたからであった。彼の先輩というのは、デリヘルに身ぐるみ全部はがされた人のことだ。当時はROM化に関する法整備が整っておらずそのような事件は泣き寝入りするしかなかったが、諦めきれなかったその先輩は山内にデリヘルがオークション会場に来てないか、来ているというのはつまり『出品』されていないか確認をお願いしたのだ。それは要するに「先輩がデリヘルにやられた」というのは
山内は内ポケットから似顔絵を取り出す。先輩が描いたデリヘルの似顔絵だ。子供のお絵かきをも飛び越え、むしろこの顔とそっくりの奴を連れて来て欲しくなるほどの出来栄えで、このほとんど当てにならない落書きを山内が鼻で笑うと、グチャグチャにしてポケットに突っ込み直す。そして山内は思わず、
「ハー、こんな口車に引っかかる先輩も先輩もだよ。こんな似顔絵まで寄こしやがって」
独り言を言うと、盛り上がってきたステージに背を向けて会場を出ることにする。足元の白線を頼りに倉庫の出口まで来たら、扉の前で体格の大きい男が2人、仁王立ちしていた。
「すみません。もう帰ります」
山内が男の脇をすり抜けようとしたら、大きな腕が2本行く手を阻む。
「お客様。お一人での退場は禁止されていますので、会場へお戻りください」
「え? 一人での退場が禁止って…」
もう一人が口元をニヤニヤさせながら答える。
「お客さ~ん。貴方、ここがどういう所かわかってきたんでしょう? そして、ステージで何が行われているか見てきたんでしょう? つまり。そういう意味ですよ」
山内は予想外の事態にさっきまでの余裕は無くなり、血の気が失せていく。無理やり通るにしても、
まとも
に喧嘩をして勝てそうな相手ではない。そもそもこのような場所で、まとも
な事態で事が済むはずがないだろう。山内は焦ってズボンのポケットに手を遣り財布を探す。財布を探し当てるが、その財布の厚さからいくらあるか確認するほどでもなかった。山内は、このような大事なことを教えてくれなかった先輩に対する怒りと、そして今をどう切り抜けるか、そしてその絶望的な展望に頭が真っ白になっていた。山内はなすすべなく男二人に両腕を掴まれて会場へ連れ戻される。山内も「とりあえず、オークションが終わるまで待とう」と、開き直りかけていた。そのとき、目の前に白い影が現れた。
「ちょっと、私の男をどうするつもりな訳?」
山内の目の前に、ステージに立っていた少女達と同じ服装の女性が現れた。赤みがかった栗色の髪が首元で切りそろえられていて、山内は会場で見た記憶が無い姿だった。女性は山内の腕を掴むと、
「いいから、アンタたちどけなさいよ。今から彼といいことするんだから。何? それともここで、おっぱじめて欲しいの?」
男達もその女を見ると、厄介な奴に会ってしまったというような態度で、そそくさと山内を置いて何処かへ行ってしまう。女性はその男たちに向かって舌を出す。男たちがその場から居なくなると、山内を扉の方まで引っ張っていく。山内も夢中になって女性と扉を押し開ける。
「あー、涼しい」
女性が呟く。
開けた扉は駐車場につながっており、だだっ広い空間に乾いた夜風が吹いている。
山内が自分のアパートに着く頃、もう真夜中だった。自分の部屋のドアを開ける。
「ただいまー」
家に帰るたびに、そう声を出すことが染みついてきていた。
「おかえりー、どこ行っていたの?」
アパートの奥から女性の声が聞こえる。山内が中へ入ると、ジャージを着た女性が低い窓枠に腰掛けている。山内はそれを見つけると、
「後輩の研究の手伝いに行っていたんだよ。手伝いて言っても、専ら
これ
だけどね」山内は自分の頭を人差し指でコツコツする。
「ふーん」
女性は窓の向こうを眺めたまま答える。
「そういえば、久しぶりに君と会った日のことを思い出したよ」
「ふーん」
「それと、あの廃工場にあった会場は摘発されたらしいね」
「ふーん」
「ふーん」
「ふーん…」
八畳一間の和室に女性の「ふーん」という鼻を抜ける声が響く。女性の声が少しずつ小さくなり、聞こえるか聞こえないかくらいの大きさになる。その消え入りそうな大きさでも、山内には遠い耳鳴りのように確かに聞こえていた。山内は部屋の隅に腰掛け、話しかけるのをあきらめる。女性の声に混じって妙にはっきりとした蚊の羽音が聞こえる。ゆらゆらとした羽音は、女性のはだけた右足のすねに止まる。
それに気づいた女性は右手でその場所を叩き、ぺちんという音が鳴ったかと思えば、また、ぷ~んという羽音が部屋を響く。女性は顔をしかめて蚊の行方を真剣な顔で探す。
その一部始終を見ていた山内は小さく笑う。その声を聞いた女性は不満そうな顔をすると、山内の前まで来る。
それを見て山内は含み笑いをしながら言う。
「なんだよ」
「忘れてないよね」
「わかっているよ。後輩が切羽詰まっていたから、手伝に行ってあげただけだから」
「ふーん」
その声を聞いて察した山内は立ち上がると、脱いだジャケットを着直して、
「わかったから。今は先に飯を食べに行こう。ほら着替えて。外で待っているから」
山内はそれだけを早口に言うと、足早に玄関を出るのだった。
山内が遺品整理を頼まれているという遺族はこの女性であった。そして整理すべき遺品というのは、全て女性の脳に記憶されている。山内は女性と接続することで散逸した記憶を整理していた。
このあと山内が女性の記憶を整理するうちに、女性に父親の遺品が刻まれた理由、女性がオークションに会場にいた理由、女性が山内に近づいた理由、そして、山内自身の命にもかかわる真実に触れることになるが、その様な未来を今の山内には知る余地もなかった。