第9話「ココアは苦めで」
文字数 10,076文字
行きとは正反対に、崖みたいな坂を一気に自転車で駆け下りていく。カゴの中のココアがガチャガチャと暴れている。車一台も走らない道路のど真ん中、体を左右に傾け(たつもりになり)ながら、右、左、右、左と蛇行していく。そういえば、年明けからスキーに行っていない。スキーなぁ。
雪の降る地方の大学に進学すると、大学に入ってからスキーを始めました、という奴をチラホラと見かける。俺は中学高校とやってきたから、そんなことはないが、関東とか関西とか、そういう、西の方から進学してきましたって言う奴らに限って、スキーを大学に入ってから始めたがる。というのも、それはもう決まっている。スキー場でナンパというか、スキーのできる田舎娘を狙って、スキーをできないことと関西弁を武器に、スキーを習いつつ、女を作ろうというのが魂胆なのだ。そうなってくると、悲しいかな、雪国の大学においてスキーが中途半端にできる田舎出身は、スキー場の男需要でいうと、最底辺になってしまうのだ。なってしまうのか!
人の背丈以上ある塀の角を、やんわりと自転車で曲がっていく。坂を下った勢いそのままに、緩やかなスロープを上がりきると、電柱に付けられた薄暗い防犯灯に照らされ、暗いピンク色をした木々、桜並木が現れる。桜並木と言っても、観光地のように手入れされたものではなくて、たまたま桜の木が多く植えられている公園、と言っただけだ。そこは住宅街の一区画くらいあって、そこそこ広く、取り囲むように桜の木が植えられている。この辺じゃいわゆるお花見スポットみたいな感じで、週末にはレジャーシートを持った人をチラホラと見かける。今日は金曜日の深夜。明日になれば花見客と、それ目当ての屋台があらわれてくるだろう。そして俺たちは、明日のサークル勧誘会に向けて、花見の場所取りを任せられているのだ。
公園にたどり着く。園内の縁に、お散歩コースみたいに整備されたレンガ敷きの道は無視して、公園を対角線に突っ切るように、芝生の上を強引に自転車で漕いでいく。立ちこぎして誰も見ていない中を、自転車の車体を右左とわざとらしく振り回しながら。
公園の隅、満開の桜の木にちょうど良く囲まれたようになっているところに、青黒いブルーシートが引かれ、4人の男が小さく丸を作っている。すぐ側に自転車を止めても4人は気づかない。スマホかなんかを覗き込んでいるみたいだ。買い出しに行かされた身としては、「おつかれ」も「おかえり」の一言もないのは不満だ、自転車のベルを鳴らしてやる。
〈ジリジリジリジリジリッ〉
その音は、春の夜に思ったより響いた。
「うわっ。なんだ山田かよ。静かにしろや。」
野郎共の丸の中で、スマホを持っていた上田が、思ったよりもシリアスな感じで注意してくる。
「だって、労いの言葉が一つもないんだもん。」
「なんやねん。ガキみたいなこと言うなや。じゃんけんで決めよう言ったのは自分やろ。」
上田の言う通りだった。俺が提案して、じゃんけんで負けた。
「それに、お巡りさんが一回来たんだよ。静かにしろって。」
「次、なんかやったら、追い出されるぞ。」
鹿野と谷口が付け加える。
「悪い。ごめん。」
純粋に悪いことをしてしまった、そんな気持ちになった。そうだ、ココアがある。
「これ、ココア買ったから。」
「おう、サンキュー。」
そう言って、一番手前にいた谷口が自転車からココアを取り出し、他の三人に配る。野郎共が女々しく、ココアの缶を両手で挟んで転がしている中、最初に缶を開けたのは
〈プシュッ〉
一瞬、ココアの火柱が立ったんじゃないかと思うくらい、勢いよくココアが噴き出した。
固まる今。眼鏡がココアの赤茶色の液体でべったり汚れている。それを見て、思いのほか濃い目のココアなんだなぁと、思った。確かに、缶のラベルにも、『濃いココア』とか書いてあったけど、どうせ、セールストークみたいなもんで、給食とかで時々出てくる牛乳に混ぜるアレみたいに、たしかに、牛乳がココアっぽく甘くなったけど、なんか砂糖と黒いのをちょっと溶かしましたみたいな、気持ち程度のココアっぽい色になる感じで、このココアも、そんなもんだと思っていた。それも、今の顔にかかったのを見ると、案外、ココアしているココア、というのは変な言い方だけど、スキーとか行くときに、水筒にホットココアを用意する時があって、その時にはいわゆる加糖ココアというか、牛乳に溶かせば出来上がりみたいなココアじゃなくて、純ココアというそれだけでは甘くなくて、少しのお湯と砂糖とで一度練って、温めた牛乳で少しずつ伸ばしていくみたいな、そういうのを、それも箱に書いてあるレシピを無視した分量で、ココアの苦みって言うか、そういうのがしっかりわかるくらい、濃いのを作るのが好きだから、こういう市販の、できあいのココアでも、そういう感じで濃いココアであるのは、やっぱり、意外だった。そして、今はまだ固まったままだった。
「大丈夫かよ。ほら、ティッシュ。」
今は黙ったまま、上田からポケットティッシュをもらうと、顔を拭くよりも先に、缶に残ったココアを一息で飲む。そのまま、公園の真ん中にあるトイレに向かって、歩いていく。
ブルーシートにたれたのを上田が拭いている。そして、残り二人、鹿野と谷口の目線。谷口については、プルタブを掴んで危うく、今二号になる所だった。やっぱり、俺が悪いかなぁ。今の方を見る。
「(ごめーん!)」
騒音に対する配慮と、謝罪の気持ちを最大限にこめた、「ごめん」だった。今も後ろ手を振ってこたえる。
俺は自転車の足を立てると、ブルーシートに、ココアがかかっていなかっただろう所に座る。上田はココアを拭いたティッシュをゴミ袋に詰め込む。手がべたべたするようだ。
「俺も手を洗ってくるわ。」
上田も立ち上がって、走っていく。
ブルーシートには俺と鹿野と谷口の3人。鹿野はプルタブをゆっくり、缶のガスを抜くように、〈プシュゥゥ〉と音を立てながら、うまく開ける。俺も谷口もそれに倣って缶を開ける。ちょっと指についた。なめると、甘くて苦い、ああ、思った感じのココアだ。
「アイツも考えれば、わかるだろうに。」
鹿野が足を延ばしながら話す。
「まぁね。アイツってそういう感じだよね。どんくさいっていうか。まぁ、アイツはなんだかんだで、愛されているけど。」
谷口が胡座をかいて話す。
「それだから、彼女もできんのかねぇ。」
谷口が伸びをした後、体を左右にひねりながら付け加える。
今に彼女!初耳だった。
「え!彼女できたの?」
座り直して二人に近づく。なぜか正座だ。
「あれ、山田知らなかったの?」
「アレアレ。彼女出来たのって、年明けの合宿だから、山田は知らないんだぜ。」
「そうか、あの時いなかったのか。」
鹿野と谷口が二人して笑いながら話す。どうやら、俺のいないとき、年明けのスキー合宿がきっかけだったみたいだ。
二人が説明してくれるのを聞く限り、なんというか、非常にありきたりというか、ホイチョイ映画の見過ぎというか、そんなたとえをしても二人には伝わらないというか、まぁ、そういう感じだった。
「彼女はどこに住んでるんだっけ?」
一通り他人のなれそめを話し終えた後、谷口が鹿野に聞く。
「えーっと、ねー」
鹿野があいたココア缶を頭にポコポコ当てながら、必死に思い出そうとしている。大抵、こうゆうことを覚えて知っているのは、鹿野のほうだ。
「九州だから・・・。」
え、キュウシュウ?
「あれ、博多弁を話すから・・・。」
ハカタ?「『ばり』なんちゃら」の博多?
「そうだ。福岡だよ、福岡。」
「そうそう、福岡から来たって言ってた。」
二人は、「あー思い出したすっきり」みたいな感じで話しているけど、南東北から北九州なんて、それはもう、
「遠距離恋愛なの!」
「「そうだよ。」」
二人は「何言ってんのお前」みたいなテンションで返事してくるけど、なんかもう、ホイチョイ映画だろ、ホイチョイ映画。
「その彼女、福岡で芝スキーしてるって、言っていたな。」
「その芝スキーも調べると、結構大きな規模の大会もあるらしいね。」
なんかもう、二人にとって遠距離恋愛とかは、「そうだよ」×2で済まされるくらい、とりとめのないことらしい。だが、俺はそこにこだわる。
「え!それじゃあ。今は仙台に住んでいて、その福岡の彼女は博多に住んでるの?」
「博多じゃなくて、北九州市な。」
鹿野が付け足す。
「それで、本当に付き合ってるの?」
「お前、以外と失礼なこと言うんだな。」
「春休みに福岡に行ったって、今が話していたよ。彼女に会ったかどうかまでは言っていなかったけど、この時期に福岡だなんてな。桜の時期ではあるけど、男一人だなんてなぁ。」
本当に鹿野は、こういうことはなんでも知っている。
「え、アイツ、春休みに会いに行ったの。」
谷口が食いつく。
「会ったのかまでは知らないけど、九州に行ってきたって。て、お前らもお土産をもらったじゃん。」
「え、お土産?」
まるで思い当たるものが無い。きっと年明けの合宿よろしく、俺のいないときの話だろう。
「食ったじゃん、『からすみ』。」
「「あれがそうなの!」」
次は俺と谷口がかぶる。
「誰が『からすみ』食って、『あれ、福岡に行ってきたの?』って、なるんだよ。明太子ならワンチャンあったかもだけど。」
「いや、『からすみ』は長崎な。」
「それにしたって。」
え、長崎?
鹿野にもう一度確認する。
「『からすみ』って、長崎なの?」
「『からすみ』は長崎だよ。日本人なのに、そんなことも知らないのか。日本の三大珍味だろ。」
本当に鹿野はこうゆうことも詳しい。でも、今大事なのはそこじゃない。
「博多と長崎って、そんなに近いの?」
三人は沈黙する。
ここにいる三人が全て、九州地方の土地勘があるわけが無くて、今さっきの沈黙というのは、「もしやそれは」みたいな気持ちによる沈黙とかではなく、もっと純粋に、「どうなの?」みたいな沈黙だった。そして、俺たちはスマホを取り出す。早かったのは、やはり鹿野だった。
「え?直通がない?」
「そんなわけないだろ。現代日本だぜ。設定がおかしいんだろ。」
谷口が後に続く。そもそも調べるつもりがないから、二人がスマホをいじるのを見る。
「あー、あるある。高速バスか特急だよ。どっちも2時間くらい。」
二人して鹿野のスマホを覗く。九州っていうのはこういう距離感なのか。スマホの地図では、右端に福岡、左に見切れているのが長崎、そしてその間に佐賀だ。真ん中をルート案内の青くジグザクしたラインが引かれている。
谷口がなんとなく、総括する。
「あれだろ。彼女と博多でとんこつラーメン食った後に、もう少しさっぱりしたものが食べたくなって、長崎にちゃんぽん食いに行ったってことだろ。」
「わざわざ、2時間かけてはしごしに行くなよ。」
鹿野が突っ込む。
「とんこつ食った後にバスとか、他の人に迷惑だろ。」
「それより、」
スルーされた。
「一日目に博多を観光した後に、長崎に『グラバー園』でも見に行ったのだろ。」
「いや、『長崎ペンギン水族館』だな。」
谷口がスマホを見ながら、食ってかかる。
「だったら、ベタに『ハウステンボス』だろ。」
鹿野が乗っかかる。鹿野はスマホを見ていなかったが、俺はスマホを出していないから、それ以上加われない。
「えー、いや。『対馬野生生物保護センター』かもしれない。」
「どうして、そんなに動物がいる所にこだわるんだよ。」
「いや、ここ、『ツシマヤマネコ』がいるんだぜ。」
「だから、なんだよ。」
「彼女が自然観察指導員になりたいかもしれないだろ、芝スキーもしてるっていうし。」
「芝スキーと自然観察指導員がどうして、つながるんだよ。」
「ほら、どっちも自然だし。」
「したら、今もスキーしてんじゃん。」
「そっか、二人とも自然観察指導員に、」
「そうはならねーだろ。」
二人が始める漫才みたいなやり取りを、むなしく眺める。スルーされた。
結局、「博多からすみお土産事件」の真相はわからないまま、そもそも、このメンツで真相も何もわかるはずがないんだけど、よくわからないまま、今と彼女は将来、自然観察指導員になるために、北九州一帯の自然環境の視察の折、長崎に立ち寄り、フランスのフォアグラ生産のアレ的な感じで、からすみの生産にも問題点があるとかで、その検証にからすみを購入してきた、みたいな感じで落ち着いた。なんだよ、からすみの生産方法の問題って。からすみとフォアグラの共通点といえば、食いすぎたら、痛風になるくらいだろ。要するに、よくわからないままだった。
そんなこんなで、上田と今がトイレから帰ってきた。
(さぁ、渦中の奴が来たぞ)
今は顔と髪の毛全部が濡れていて、手のひらくらいのタオルハンカチで、拭っては絞ってを繰り返している。トイレの流しで頭ごと水をかぶったようだ。ただでさえ寒い春の夜に狂気の沙汰だ。およそ、彼女が博多にいるような奴がやるようなことではない。
(というのは蛇足か)
上田は両手をパーカーの前ポケットに突っ込んでいる。ブルーシートにさっきいた場所に収まり、今はブルーシートの端っこに立ったまま、まだ靴も脱がず、さっきのようなことをしている。
「なんだよ、今。頭ごと洗ってきたのかよ。」
谷口が頭だけそっちに向ける。
「うーん。」
返事をしているのか唸っているのか、よくわからない返事だ。
そんな後姿を見ていると、きっと思い過ごしなのだろうけど、悪いことをやってしまったような、ドラマやアニメで登場するお嬢様学校の理事長の娘の腰巾着みたいなのが自分で、今にたいして、良く振った炭酸ジュースをあげるみたいな陰湿な嫌がらせをしているというか、上の指示でやらされているような、そういう遠回りな罪悪感だ。
(別に、悪くはないはずなんだけど)
話題が見つからない5人が、5人で座るには広すぎるブルーシートにいびつな丸を描いている。このいびつな丸で、それぞれがスマホをいじっている。なんだか、自分が戻ってきてしまったせいで、なにか空気を悪くさせてしまったような、なにかそんな感じを感じなくもない。さっきまで、自分がココアを買ってくるまでは、あんな4人して上田のスマホを囲んでいたのに。スマホ?そういえば、あのスマホで何を見ていたんだ。さて、これを話題に挙げてみるべきか。
言い出そうと、ブルーシートを見回す。上田。鹿野。谷口。今。四人がまさしく三者三様というか、一人も被ることのない姿勢でスマートフォンを見ている、この風景はまさに見覚えのあるやつというか、デジャブ的なもので、俺が「ココア買い出しじゃんけんっ」と叫んだ時とほぼ同じだ。ゲームのリセットボタンを押してこの瞬間に戻ってきたような、それでも、今が未だに髪の毛をハンカチで拭いてることから、これはリセットされた瞬間じゃなくて、今この瞬間なんだって、辛うじてわかるんだけど。それはさておき、この沈黙に耐え切れないのは自分だけじゃないはずだ。それだけが根拠だ。
「ココア買い出しじゃんけん!」
(ん?)
4人が顔をあげる。びっくりするくらいの「何に言ってんのお前」×3だ。
(あれ、今が勘定されてない)
「最初はグー!」
右手を今までないくらい握りしめる。昨晩爪を切っていないことを忘れていた。刺さる。
(刺さってから気づく)
3人が「ちょいちょい」みたいな感じになっている。顔は困惑というより、もっと単純にあきられている。
「じゃーんけーん」
右手を天高く振り上げる。
(空じゃなくて、もう天だ)
そして、3人とも目が点だ。
(お、今だけはやる気だぞ?)
「「ポン」」
声は2人だった。そして、あいこになった。二人してチョキを出していた。
(足せば4だ。俺を除いた人数)
他の三人はもう、「「「は?」」」という吹き出しが頭から生えていた。もう、清々しい感じ。「さっき、ココア買いに行ったやん。」
上田が気づく。
(いや、全員気づいている)
「どうしたの。飲み足りなかったの?」
鹿野が付け足す。谷口に関しては、吹き出しが右に同じになっている。
こうも、真剣な感じで返されると、ちょっと、白けるというか。
(厳密には、白けているのは俺以外だが)
右手のチョキが弱弱しく、縮んでいく。これじゃ、パーにも勝てそうもない。
3人から、いい加減にしろよ、面白くないから、という、非常に冷ややかな視線を受けつつ、あーどうしよう、やっぱり、さっきの上田のスマホの話に無理やり戻そうかどうか、考え始めていたら、今が自分のチョキを引っ込める。
「ほら、皆さん。あいこですよ。」
拭き筋だらけの眼鏡で3人を見る。煽る様に手をホラホラ、みたいな感じにする。
「あーいこーで。」
今が音頭を取る。
「しょ!」
次の瞬間、ブルーシートの中央には手が5つ出ていた。グー・グー・グー・チョキ・チョキ。自分と今の負けだ。
谷口が笑っている。きっと勝ったからだ。
「今度はなんか食い物な。」
「俺は肉まんで、あればピザまん。」
鹿野と上田は注文が早い。
「え、じゃ・・・。」
つられて谷口も注文するがつっかかる、今が遮って、
「じゃ。僕はココアで。」
「お前も負けただろーか!」
谷口が突っ込む。乾いた笑い。
突っ込んでもらえている。
今も笑いながら立ち上がり、靴を履き始める。
「山田さん、自分行って来るんで。先輩はココアでいいですよね。」
今が自転車借りますね、と俺の自転車にまたがって、自分の方を見て確認を取っている。いや、負けたのは俺と今だから。谷口が、ポテチあればのり塩で!と、呑気だ。
「いやいや。今だけが負けたわけじゃないから。」
右手を振り上げて2回戦の準備をするが、今は頑なだ。
「さっき、先輩に買っていただいたんで、いいですよ。自分行ってきますから。」
「いやいや、そこははっきりさせないと。」
なんで、今はこだわるんだ?
「ならもう、2人で行けば。」
上田が割り込んでくる。
他の2人は自分のスマホに夢中だ。
「じゃあ、先輩、2人で行きましょう。」
なんだかんだで、今と二人きりになってしまった。今と自転車を押しながら、二人並んであの崖みたいな坂を上っている。今から誘っておきながら、なにも話し出さないまま、もうこんなところまで来てしまった。こんなことになるくらいなら、今一人で行かせればよかった、か。
一人で何も考えずに登ればそれほど気にならないこの坂も、誰かと並んで歩いて、しかもこんな気まずい感じで歩くとなると、およそ、永遠とも思えてくる。なんなら、今からでもじゃんけんの続きをして、勝ち逃げしてしまいたい、もう、それくらいだ。しかし、こんな風に自転車を押しながら、誰かと歩くというのも、本当に高校生以来というか、本当にあの時くらいだ。そう、押して歩くとなれば。
高3の夏。学祭の後夜祭も終わった日の夜。夜空の具合だけで言えば、今夜くらい澄み切っていた。最後の最後まで教室の片づけで残って、別に明日に回せばよかったのに、なんとなく、日直だったからというだけで、二人して教室の片づけを一通りしてしまって、それを担任に見つかって、途中だったけど、二人して学校の坂から降りて歩いた。そのとき、一緒に歩いたクラスメートの、彼女の名前は忘れてしまったけど、今でも自転車を押して歩きながら、夜空を見上げると思い出す。
そんな感傷を、博多遠恋症候群と歩きながら思い出すなんて。もしや九州の夜桜を、今日こんな風に、彼女とやらと歩いたのだろうか。
彼女?ああ、そうだ。
「あのさ。今さ。」
「はい。なんですか。」
なんか、今らしい返事というか。この沈黙を全く気まずく感じていなかった奴の返事だ。
「お前さ、彼女出来たんだってな。」
今はさっきの返事とは打って変わり、微妙な間を作ってから、
「あ、はい。そうですけど。」
(やっぱりできていたんだ)
「へー。どんな子なの。」
「えーとですね・・・」
今が自分の彼女について話し出す。話し出すも何も、沈黙に耐え切れなくなって、自分から話を振っただけに、悪く言えないのはそうなんだけど。
今が話す自分の彼女。気心の知れた自分の女について話すような。あの普段からぼやぼやしていて、なんか、曖昧ではっきりしないような今が、自分の女について話す。自分が参加しなかった合宿でのなれそめから、その蔵王でどんなコースを滑って、彼女は彼女で芝スキーをしているだけあって、体使いはすごい上手だとか。なんというか。今さっき、鹿野と谷口から聞いた(二人の解釈にもとづいた)なれそめというものに、今の口から(当人たちによる注釈のはいった)なれそめを聞かされるという、なんというか、物事を客観と主観に見るということを深く学ばせられる、そんな気持ちだ。そう、そんな気持ち。そんな気持ちか?
今が話し終える頃、坂は上り終え、向こうにコンビニが見え始める。
「そういえば、あの『からすみ』も、九州のお土産だったんだな。」
核心に迫る、そんな思いだ。
「あー。そうですね。」
さっきの饒舌とは打って変わる。まさか、そうなのか?そうだったのか?
「その時にも、その彼女にもあったんだろ。」
この白々しさは、自分でもどうかと思う。
「あー、そうです、ね。」
やっぱり、歯切れが悪い。
「どうしたの、もしかして?」
次の一言を期待している自分がいる。
今はうつむいたまま自転車を押す。何か懐かしい物でも見るように、星空を一望した後、サドル、ハンドルと視線をずらし、また、最初の位置に頭が戻る。そのまま、黙ったまま、歩き続けて、最後の信号まで来た。
青信号が点滅し始めるなり、足を止める。目の前をスクーターや車が通り抜ける。
信号は青になったが、今は歩きだそうとしない。つられて、青信号を目の前にして立ち止まる。また、点滅して赤になる。大きく呼吸をして、やっと話始める。
「彼女、今年の春から留学に行くんです。」
え?
「4月からドイツに行くって。一年間。蔵王で会ったのも、日本の友達との壮行会を兼ねていたらしくって・・・」
そうして話し出すのは彼女の旅立ち。来年の4月まで日本で会うことができない、ということと、今年の夏はお金をためてドイツまで会いに行くという決心。
お土産がどうして『明太子』ではなく『からすみ』だったのか、それは些末なことで、事実というか、実際というのは、ある意味で現実的なのだ。
今は話し終えた。目は少しうるんではいたが、すっきりしたのか、並んで歩き始める。ゲスな期待というか、なんというか申し訳ない気持ちになる。
「へー。そうだったのか。」
(すごく、当たり障りのない返答)
「年明けに彼女ができたって、さっき鹿野たちに教えられてさ、びっくりしていたんだけど。いろいろとあるんだな。」
自転車を止める。カギをかけて店に行こうと思ったら、今がこちらを見ている。
「あれ、さっきまで知らなかったんですか。」
「だって俺、合宿にいってねーもん。」
今の口が開いている。
「先輩、勘違いしていました。てっきり、僕に彼女ができた腹いせに、ココアをかけられたんだと思って。」
なんじゃそりゃあ?うつむく今。なんというか。
「あれは全くの偶然というか。しかもココアを渡したのは俺じゃなくて谷口だろ。」
「たしかに、そうですね。」
今が申し訳なさそうに笑う。
「一人で買い出しに来ていたら、危うく先輩に、ココアをぶっかける所でしたよ。」
今はそう言って、コンビニの棚からサイダー1本を取り出す。
補足:北九州市では『博多弁』ではなく『北九州弁』が話されているそうです。