第7話「エレベーターが動き出すまで」
文字数 10,750文字
希はエレベーターの前に着くと、ボタンを押す。希は羽織った紺のジャケットの前身頃を後ろにやるようにして、黒のストレッチデニムのポケットに手を突っ込む。そこに財布とエコバックがあることを確認すると、安心して腕を組む。
希は職場の若い部下たちの会話を思い出していた。「今日のハロウィンどうする?」「駅前のところで集合する?」「あたし、仕事残しちゃったから、いけないかもー。」「なら俺が手伝うよ。優美ちゃんなんか着てくるの?」「えー、何も用意してないよー。」しかり、しかり、しかり。希は心の中で叫ぶ。何がハロウィンだ。馬鹿どもの仮装大会じゃない。それを大学生ならまだしも、社会人になっても参加しようだなんて、最近の若者というのはどうなっているのよ!
希は腕を組みながらイラついていた。
エレベーターはまだ来ない。18階でとどまっているのだ。希はジャケットのポケットに手をやる。時間を確認したいが、スマートフォンがない。部屋に置いてきてしまったようだ。今なら、エレベーターが付く前に部屋に戻って取ってこられるが、希はそこまでする必要もないと思い、腕をまた組みなおす。
エレベーターはまだ動かない。希はため息をつく。春にこのマンションに住んでからいつもこうだ。見栄を張って31階にしたのが仇になった。希は好きでこのタワーマンションに住んでいたわけではなかった。
遡ること2年前。希が30代にして部長代理に昇進した年、同期の言葉が原因だった。
その同期というのは、希のように仕事熱心という感じではなくて、可愛らしい、女子っぽい感じで、5年ほど前に別企業の商社マンと結婚した。子供はまだいなかったが、今まさに幸せの絶頂、という感じだった。そんな同期が言った言葉。忘年会での席だった。
「
希部長
、昇進おめでとうございます。エッ!部長
って、まだあのアパートに住んでいるの?あんな職場に通うためだけみたいな、部屋に住んでいて人生、楽しい?一人であんな所にいたら、女がおじさんになるよ。」同期はタワーマンションの25階に住んでいた。同期は仕事に関しては、昇進はおろか後輩一人も面倒を見ることもできない。それでも、旦那の年収のおかげでタワーマンションに住み、希のことを見下ろしていた。そしてそれは、希にとって耐えがたいことだった。だから希は無理をしてでも、このタワーマンションを、31階の部屋を、買ったのだ。
希は腕を組みなおす。このエレベーターの待ち時間も、タワーマンションに住む者の特権だと思えばいいか。希はそう考えて、この待ち時間を、今から向かうスーパーの店内をイメージすることに、費やすことにした。
希は今から、夕食を買いに行くつもりだった。いつも通りであれば、そうハロウィンなんかが無ければ、定時に自宅に帰って夕食の買い出しに行くはずがなかった。いつも通りであれば、例の如く1時間ほど残業した後、夕食は駅ナカの飲食店かレストラン、もしくはデパ地下で総菜を買って済ませている、はずだった。しかし、今日はハロウィンだった。いつもより手際よく仕事を終えていく部下たちと、大学生や高校生でごった返す駅構内。いずれも、希の「いつも通り」には存在しないことだ。確かに魔女っ娘ギャルたちに囲まれて、カウンター席で博多ラーメンを啜るという選択肢もあったが、希にとってその選択肢は、終電を逃した夜に3次会帰りのサラリーマンたちに囲まれてラーメンを啜る以上に、選び難い選択肢であった。そのために希は、人混みを避けて自宅に帰り着いた後に、エコバックを片手に夕食を買いだすということになったのだ。
希はまだ来ないエレベーターにやきもきしつつも、今日の夕食をどうするか、考えていた。中華か洋食か和食か。よくある三つの選択肢だが、そのうち、既に中華はランチで選択されてしまっていた。希は今日のランチに餃子を食べていたのだ。
しかしなぜ、ランチに餃子を食べてしまったのだろうか、希はあまり考えずに餃子を選んでいた。希は事務職であるため営業職の人たちのように、食べ物の臭いについて気を払う必要は無い。しかしそうはいっても、まがいなりにも管理職でもあるため、部下たちのコミュニケーションに支障をきたさないためにも、希は臭いの強い食事は避けていた。それにもかかわらず、今日のランチに餃子を食べていたのだ。そのせいか若い職員たちも、希と普段より30センチほど離れて会話をしていた。それを見て、初めて希は自分の口臭に気づき、午後からマスクをして仕事をしていた。希には、なぜ自分が餃子を選んだのか、まだその理由は、はっきりしなかった。だが希の中では、ハロウィンという浮足立った雰囲気への反抗として、自分が餃子を選んだのだと、そのように整理していた。
それで今夜の夕食はまだ決まらないが、総菜コーナーで安いものを適当に買おう、希はそう考えていた。
『チーン』
やっと、エレベーターが到着した。希は誰も乗っていないエレベーターに乗り込む。ゆっくりと閉まる扉、身体から自分の体重が、ふわっと、宙を舞った後、またゆっくりと体重が希の身体の中に納まっていく。
エレベーターの2畳もない空間。希は、自分がマスクをしていないことに気づいた。希は反射的に口を両手で抑える。が、希のまわりには誰もいない、独りぼっちのエレベーター。希は大きなため息をついて、壁に寄り掛かる。もちろん、両手はもう口を抑えていない、ジャケットのポケットに突っ込んである。
希はエレベーターの天井近くにある階の表示を眺める。デジタル表示ではなく、階ごとにランプがあり、それが順番に点いては消える、アナログな表示だ。一番右端が39階で反対側が1階になっており、各階のランプは六角形をしていて、それらが蜂の巣の様にジグザグに連なっている。ランプは階層ごとに若干サイズが違い、階が高いほうから大中小のようになっており、希が乗り込んだ「31階」は、サイズが「大」の最下階だ。
希がエレベーターに乗り込んだのも、つかの間、14階、「小」の最上階のランプが点滅する。この階で人が乗り込むようだ。
希は、だらしなく寄り掛かっていた壁から離れ、背筋を伸ばし、エレベーターの左隅に移動する。そこには張り紙、断水のお知らせが貼ってある。「11月18日(月)午後10時~19日(火)午前6時(予定)」。希は眉をひそめる。夜の10時といえば、希が普段お風呂に入る時間帯だ。しかも月曜日は、先週の仕事の整理や部下のモチベーションの低さも相まって、一番帰りが遅くなる曜日だ。
これは帰りに何処か銭湯でもよらなければ。しかし、こんな寒い時期に外風呂とは、湯冷めはしたくない。嫌だな。
希はそのようなことを考えて、「嫌だな」という感情が、ちょうど顔に出ていた時、エレベーターの扉が開く。
希が入口に目をやると、一人の女性が入ってきた。目が覚めるような白に身を包んでいる。テープカッターをひっくり返したような厚底ブーツで、コツコツと小さな歩幅で歩き、エレベーターの真ん中に立つ。希は思わずその服装を、その足元から眺めてしまう。
ブーツを履いた白いタイツの足、その足を膝から隠す何重にも重ねられたフリルスカート、その雨傘くらいに広がったスカートを、加工した着物の裾が覆い、帯があって衿もあって、その衿にウェーブのかかった前髪の両サイドがかかり、その髪は後ろで夜会巻きにしていて、頭にはバラをあしらったカチューシャがある。
希はこの女性の姿を見て和装なのか洋装なのか迷ったが、希の中で一つだけはっきりしていた。それは、この女性は職場の若い連中と同類、であるということだった。
女性は希のそのジロジロとした目線を不快に感じたのか、希を睨みつける。希はというと、思いがけず視線が合ってしまい、白々しく視線を壁の張り紙に戻す。
二人っきりのエレベーター。本来であれば感じるはずのない、気まずい空気が流れる。
エレベーターは1階を目指して下ってゆく。
13階。
12階。
11階。
10階。
9階。
8階。
〈ガクンッ〉
エレベーターが何かに衝突したように大きく揺れ、電灯が
先ほどの衝撃、希は壁に寄り掛かっていたので、バランスを崩すことなく持ちこたえたが、掴まるところのない女性はブーツの厚底が悪かったのか、尻もちをついていた。
「大丈夫ですか?」
希が女性に手を伸ばす。女性は希の手を、指先を、腕から肩、そして顔と、ゆっくり見た後、いかにも、という作り笑顔をした後、
「ありがと。」
そう言って手を掴んで立ち上がる。希が女性を引っ張り起こすと、しぼんでいたフレアスカートが膨らみを取り戻し、スカートの裾が希の腿に当たる。思っていたより女性に近づいていた。希は女性のスカートを気遣う振りをして、そのスカートについてもいないほこりを払い、希も愛想笑いをして、またエレベーターの隅に戻る。
また元の位置に戻る。二人が元の位置に戻っても、エレベーターは動き出さない。二人はランプがついたままの「8階」のランプを見つめている。「8階」のランプが消えることもなければ、「7階」のランプが点くこともない。二人して、「8階」のランプを見つめたまま。
最初に口を開いたのは、あの女性だ。
「これ、エレベーター止まっていますよね。」
女性はランプの方を見たまま、話しかける。
「そうですね。」
女性はやけに冷静な口調で話しかける。
「あの、どうしますかね。」
「どうしますかね。」
希はオウム返しみたいな返事をする。女性は少しムッとした顔を希に見せてから、エレベーターのドアの横にある、「非常呼び出しボタン」を押しに行く。コツコツと足音を鳴らしてから、ボタンを押すが手ごたえが無い。人差し指で何度も押すが反応が無い。ため息をついた後、女性は希の方を見て話す。
「あの、携帯か何かで外部に連絡が取れませんか?私、今、持ってなくて。」
「ごめんなさい、私も持ってないの。」
「そうですか。呼び出しボタンも反応しないので。どうしましょう。」
女性はまたため息をついて、床に座り込む。
「どうしましょうね。」
女性は振り返って、希を一瞥した後、次は大きくため息をつく。
希は「どうしようか」と、心の中でつぶやいていた。エレベーターの密室で二人っきり、これはまずい、お昼に餃子を食べたのは失敗だった。希が考えていたのは、そのようなことだった。
希がオウム返しみたいな返事しかしないのは、口臭のために、少しでも口数を減らしたいという心遣いだった。しかし、このままではいけないのは希もわかっていた。自分からも何か話しかけなければ、ただ、マスクなしではどうにも。そう思って、ポケットに手を当てた時、エコバックがあることに気づいた。それはアクリル製であったが、希は何もしないよりはマシだろうと、エコバックを手頃な大きさにたたみ直して、口に当てる。その姿はマスクをしているというより、火災現場で煙に巻かれないように、口を覆っているようにしか見えない。そしてそれは、隣にいる女性も例外ではないだろう。
「外に連絡ができなくても、この時間帯ならすぐ誰かが気づいてくれますよ。」
希はエコバックで口を覆ったまま話す。薄いアクリルの生地が声に振動して唇がビリビリする、水分を通さないため口元がよだれで嫌な濡れかたをする。それでもこの状態で話すのが、希にとっては正解だった。
しかし、隣の女性はエレベーターに入ってきたとき以上に、怪訝な顔をする。
「そうですね。『39階』の高層マンションですもの、一人くらい気づいたって、おかしくないですよね。今日はハロウィンですし。」
女性は少し嫌味っぽい調子で、特に『39階』というところを強調する感じで話す。希はその嫌味っぽさよりも、『ハロウィン』という言葉が気になっていた。ハロウィンだったらマンションの人通りも増えるのか、そんなにも『ハロウィン』は浸透しているのか、希には不思議だった。
「そこに、寄り掛かっていないで、あなたも座ったらどうです?助かる見込みがあると言っても、何時になるかわからないのですよ。」
女性は怪訝そうな顔をしつつも、希を気にかける。フリルの広がりを少しでも小さくして、希のスペースをつくろうとしている。
「そうね、私も座るわ。」
希は女性に勧められたように床に腰を下ろすが、相変わらず壁にくっついたまま、端っこにいる。壁に寄り掛かったまま腰を下ろしていく姿に、女性は目を側める。希は口をエコバックで覆ったままだ。女性は飽きれたように、視線を一度向こうにやってから、深く息を吸って吐いて、希の方を見て話す。
「あの!何か言いたいことがあるんだったら、言ってください。腹立つんですけど。」
希はあっけにとられていた。それもそのはず、希から女性に言いたいことはない。
「ああ、特にないけど。」
女性はその言葉を信じていないようだ。そのまま、希のことを正視している。何か言わないことには、動ずるつもりなどないようだ。希はどうしようか、エレベーターの中を見回して、なるべく視線が合わないようにして、考えていた。女性はその希の姿に見かねて、言い放つ。
「あなたが言い出しそうにないので、私から聞きますけど。」
希の口元にあてられたエコバックを指差す。
「私って、そんなにクサいですか?」
『クサい』!その言葉に希は反応する。『クサい』、誰が、私が?いや違う、女性が『私がクサいか』どうか聞いていた。
なぜ?
希は不思議そうな顔をして、女性の方を見る。女性の顔は真剣だ。小さい卵形の顔をこちらに向けている。
「『クサい』って、あなたがですか?」
希は腑抜けた感じで返答する。
「さっきから、鼻をその布で抑えているじゃないですか。嫌味ですか?」
希はとっさにエコバックを口元から離す。頬のあたりまで、よだれで蒸れてしまい、離した途端、頬に冷たい空気が触れてヒヤッとする。四角くたたまれたエコバックを見つめる。真ん中のあたりが丸く濡れて、シミみたいになっている。希はそこまで考えが至らなかった。まさか、エコバックを相手のために口を抑えていたはずが、自分の鼻を抑えているように見えていたとは。女性は希の考えなど、お構いなしに続ける。
「こういう、タワーマンションの上の方に住んでいるような人からすれば、私みたいなのは下賎に見えるんでしょうね!どうせ、あなたと同じ空気なんて吸いたくない、とでも言いたいんでしょ!」
希はその言い方には、少しカチンときた。
「なによ、その言い方は!そもそも、どうして私が上の階に住んでいるってわかるのよ。」
「あなた、31階に住んでいるんでしょ。」
「うぐっ。」
31階。希の部屋の階はまさにその通りだ。
「ど、どうして、知っているのよ。」
「私がエレベーターを使おうとおもったら、このエレベーターが18階から31階まで、上がっちゃうんだもん。やっと来たかと思えば、あなたが乗っているし。そんなの馬鹿でもわかるわ。」
「31階に住んでいて、何が悪いのよ。」
「別に、31階に住んでいることを悪い、だなんて言ってないでしょ。ただ、そういう高い所に住みたがる人は、地べた這いつくばって生きているような人を、見下しているんでしょうね、って言っただけです!」
女性の小さい顔の小さい頬が紅潮している。見下しているなんてとんでもない。見下されたからタワーマンションに引っ越したのだ。
「私だって、好きこのんで、こんなマンションに引っ越したりしてないわよ!」
「そうは言っても、どうせ、商社マンでも、やっている男に買ってもらったんでしょ。」
それは私じゃなくて、同期のアイツだ!
「私は私のお金で住んでいるの!」
「じゃぁ、どうして、ここに住んでいるの?」
「私だって、わたしだって・・・。」
「ちょっと、どうしたのよ。」
「わたし・・・、」
希は泣きたく、いや、泣いていた。好きでこんなマンションに住んでいるんじゃない、それは希の本音だった。
仕事も碌にできないわ、先に結婚するわ、タワーマンションにも住むわ。それをマウンティングしてくる同期に一泡吹かせてやろうと思って、このマンションを買ったのだ。今度の飲み会で自慢してやろうと思ったら、同期のアイツは、アイツは。
アイツは、産休を取って、そのまま10月に退職しやがったのだ!
希は逆恨みだということは百も承知だったが、アイツのせいで欲しくもないマンションを買わされた、そう思っていた。
「わたし、だって、好きでこんな高い所に住んでいないもん。本当は高井戸のアパートでよかったんだもん。こんなところに引っ越さなくても、良かったんだもん。よかったんだもん・・・。」
希は泣いていた、大人にしては情けないほど泣きじゃくっている。
その姿を見て、女性はいたたまれない気持ちになっていた。口喧嘩を始めたのは女性からだったが、誰がこのような結果になると予想できただろうか。女性は、その大人げなくわんわん泣く希と二人っきりになったまま、助けを呼べるはずもないエレベーターの中で、右往左往するだけだった。
未だに動き出さないエレベーターの中で、希は女性の膝の中に顔をうずめていた。女性はまるで子供をあやすように、丸くなった背中を手前から向こうへ撫でる。希はしゃっくりをこらえながら、頭を上げる。目元は涙で腫れている。
「ありがとう。大分、落ち着いたわ。」
「そう、どういたしまして。」
女性はスカートについた希の涙の跡を見て、本人の前で拭くわけにもいかず、ただスカートの形だけを直す。希はエコバックをハンカチ代わりにして拭きながら、話しかける。
「あなたのそのスカート、すごい、いい匂いね。なんかすごく、落ち着いたわ。」
「ああ、そう。スーパーの安いのなんだけど。まぁ、でもよかったわ。」
女性はやれやれ、といった調子で希の顔を見てこたえる。そのとき、希が持っているもの、エコバックを見て、女性は思い出したようだ。
「そう、そのエコバックはどうしてなの?」
希はアクリルのエコバックでは涙がぬぐえず、ジャケットの袖で涙も鼻水も一緒に拭いていた。女性の質問に手を止めてこたえる。
「これは、今日のお昼に。」
「今日のお昼?」
うつむいて話す希の顔を、女性は覗き込むようにする。
「今日のお昼に、餃子を食べたからよ。」
「お昼の餃子がどうしたって、」
女性の話を遮って希が続ける。
「今日のお昼に、食べた餃子のにおいがまだするから、それを隠すためよ。」
女性には思いもよらない返答だったのか、口を開けたまま固まる。そして、笑いだす。
「そんな、笑わないでよ。」
「だって、餃子の臭いを気にしていたんだなんて。ハハハ。」
「ちょっと、そんなに笑わないでよ。」
「ハハハ、ごめんなさい。とりあえず言っておくと、においはしないから大丈夫よ。それでも、こんなところに住んでいる人でも、中華屋で餃子なんて、食べるんだ。」
狭いエレベーターの中で、まだ女性の笑い声が響いている。
女性はまだお腹を抱えて笑っている。希には、何がそんなに面白かったのかわからないが、その姿を見て、女性との距離が少し縮まったように感じていた。そこで希は一つだけ、気になっていたことを聞いてみることにした。
「その恰好は、ハロウィンだからですか?」
女性は自分の服装について聞かれているのだと、すぐに察し、まじめな顔になる。次の希の言葉次第では暴力も辞さない、それぐらい、急に真剣な顔つきになる。
「下は洋服だけど、上は和服だし、どういう格好なのかなって、思って。そう、私が働いている所の部下も、ハロウィンになったら変な格好をするのよ。だから、あなたもハロウィンだからそういう格好をしているのか、少し気になって。」
女性は希に言われたことを自分の中で整理するように、目を閉じたあと、ゆっくりと目を開けて、はっきりと言う。
「これは、私服です。」
「それが・・・、私服なの?」
希の目が女性の服装を、床の上にちょこんと座ったその姿を、上へ下へともう一度見直す。厚底ブーツに、白タイツに、大きく広がったフリルスカートに、上半身には丈を縮めたような和服に、頭にはカチューシャ。これを私服だと言い張るとは、希は目を丸くしていた。そのような希に対して、女性は言い聞かせるように話す。
「いいですか?これは、仮装でもコスプレでもなくて私服、いえ、私の『魂』です。わかります?」
「服が?」
「そうです、服が。」
言うまでもなく、希は女性が話していることについてピンとは来ていなかった。魂か。自分にも『魂』だと言いきれるような服があるだろうか。希は頭の中で、自分の部屋のウォークインクローゼットを開ける。
まず左手にはハンガーパイプが伸びている。手前には秋冬もののジャケットが数着、グレーや紺、深緑といった落ち着いた色合いのものが並び、その隣にトップス、ブラウスやニット、タートルネックまでもハンガーにかけて並んでいる。色合いも薄めのものが中心だ。その奥には、春夏物がプラスチックのケースに入って積んである。正面には姿見があって、白地に薄緑の縦縞が入ったパジャマを着た希が映っている。そして右側。さっきより半分ほどの長さのハンガーパイプに、ボトムスが、ほとんどが細身のスラックスかデニム、それも黒か濃紺かだ。スカートは一着もない。そのわきにある衣装ダンスには、インナーが入っているだけだ。
インナーにまさか魂だなんて、そう考えた希だったが、一着だけ思いれのある下着があった。いわゆる勝負下着だ、でもそれも、今は手元にはない、このマンションに引っ越すときに処分してしまったのだ。
希が想いを巡らしている間、女性はひとしきり、自分の魂、その服について、熱く語る。
「世間では私が着ているような服を“ロリータ”とか言って、子供が着るものだとか、自己顕示欲が強い奴が着るものだとか言うけど、私が着ているのは、そんな低俗な人たちと一緒にしないでほしいの。あなたが言ったように、ハロウィンみたいなイベントで、コスプレとか、仮装とか、そういった目的でロリータファッションに袖を通す人もいるけど、私は、あんなのと一緒にしてほしくないし、比べてほしくもないし、そもそもあんなのを“ロリータ”の一つだなんて、私は認めない。まぁ、確かにね、あのようなイベントをきっかけに、“ロリータ”に興味を持つような娘はいるかもしれないけど。それでもどうせ、あんな人たちが着るのは、ドンキで買ったやつか、適当にインターネットででも注文したやつを、コスプレか何かの一種だとでも思って着ているんでしょう。本人はそう思っていなくても、私からすればバレバレ。底の浅さというか、まず、自分で着ておきながら、今まさに着ている服を馬鹿にしているということが分かって、たまらなくなるの。それに、そういう人たちって、服を着ているんじゃなくて、服に着られているだけだから、アホっぽくもみえるのよ。そう、服というものは、体や心を“着飾る”ものだと考えている人が多いようだけど、本当はその逆なのよ。体や心が考えているもの、感じている物を“さらけ出す”のが服なのよ。だから、何も考えないで服を着ているような奴は、特に“ロリータ”を着る奴は嫌いよ。あと、私が着ているようなものを、“和ロリ”とか“和ゴス”とか括られたりするけど、そういうのもやめてほしいわ。まぁ、便宜上は仕方ないと思うけど。でも、さっき言ったように、これは“和ロリ”でも、“和ゴス”でもなくて、“ワタシ”自身なのよ。わかる?」
希はというと、外から見ると半分呆けたように、実際にもそうだが、考え事していた。そのため、突然女性から話を振られて、返答をどうしようか、慌ててしまう。
「まぁ、あなたにもあるでしょう?何か自分にとって、『魂』、みたいな物が。」
「まぁ、わたしの場合、服ではないかな。」
「そうね、あなたの場合、服ではないでしょうね。」
希ははっきり言いやがった、と思ったが、その通りなので何も言い返せなかった。私の『魂』は何か、希は考えてみる。
「私の『魂』ね。そんなものは、ないかもしれない。今まで仕事しかしてこなかったし。そして、見栄だけで、こんなマンションを買っちゃうし。なんにもないわ。」
自分の浅はかさ、30年以上も生きてきたのに、隣の女性のように誇れるものが無い、そのみじめさのあまり、希は小さくなろうとしていた。が、その希の手を女性が掴む。
「何言っているの。すごいじゃない!あなたは仕事に『魂』をそそいで、このマンションの一部屋を手に入れたのよ。そのことまで、卑下する必要なんてないのよ。あなたの『魂』は仕事、それでいいじゃない。かっこいいじゃない。」
希は顔を上げる。女性と目が合う。女性はうんうんと、何度もうなずいている。希の目にはまた涙がたまっている。それに合わせて、うんうんと、うなずく。
希と女性が抱き合う、そのとき、エレベーターが動き出す。
動き出してからはあっという間だった。エレベーターは無事に1階に到着する。
マンションのエントランス。女性は希に別れを告げた後、もうすっかり暗くなった、駅の大通りへ歩いていく。
大通りには魔女やジャック・オ・ランタンといった、ベタなものから、アニメのキャラクターを模したコスプレの集団が歩く。その中に女性は消えていく。目立ちそうな真っ白な服装も、あの群衆の中ではすぐ見えなくなってしまった。
希はその姿を見送った後、夕食を買いに、マンションすぐ脇のスーパーへ歩く。
希は今夜の夕食を考えていた。どうしようか。夜も中華にしようか、もっとこうニンニクのきいた、ガツンとしたものにしよう。そうして希も、スーパーの中へ消えていった。