第10話「彼女は空になった」

文字数 9,917文字

 アパートに夕焼けが照り付けている。ひびだらけな外壁もオレンジに包まれ、階段の鉄骨も黒々と輝く。2階の通路は薄い鉄板の床で、華奢な鉄柵がある。雨風を防ぐような覆いはない。
 そのおかげで、彼は部屋の前の鉄柵に寄り掛かり、夕日を見ることができる。そして今日も。
 スーツが今朝よりも黒ずんで見える。
 そこが彼のいつもの場所だ。
 彼は夕日をどこか遠くにあるように見つめる。温かいオレンジを体いっぱいに受け、目も同じ色に染まってしまいそうだ。
 道路に人影が長く伸びる。カラスが遠くで鳴く。街灯が順々に点く。自動販売機の蛍光灯も点く。街全体から夕焼けの温もりが引いていくと、ゆっくりと月が夜を連れてくる。
 そこまでを見届けると、彼はアパートの部屋へ戻る。
 夕日を見る彼の目には、どこか寂しそうな光がある。体を包んでいたオレンジが滑り落ち、夕日の中へ舞い戻っていく。そのオレンジとの別れを惜しむように、届かない夕日に向かって手を伸ばしているのが見える。
 どうして彼はあのように夕日を見ているのか。それは、彼は夕日の中に彼の彼女を見ているからだ。
 彼女は空になったのだ。
 
 いつも通りの時間に目が覚める。
 今日の仕事は午後からだ。新人が入ったことで、今週のシフトは少し変動し、今日は珍しく午前中がお休みだ。
 カーテンを開けると朝日が部屋に飛び込んでくる。昨日は綺麗な夕焼けだっただけに、今日は晴れ渡っている。カーテンのレースだけ引き戻すと、ソファに座りテレビをつける。
 朝のニュース。右端に今の時刻が表示される。まだ一時間ある。お湯を沸かしコーヒーを淹れ、食パンで簡単な朝食を済ませる。テレビでは、今日の午後から雨になることを伝えている。
 出かける用意を済ませた頃、隣室から慌ただしく部屋を駆けまわる音が聞こえる。彼が目を覚ましたようだ。
 バックに折りたたみ傘を入れて、薄手のコートを羽織る。部屋を出ると彼と廊下ですれ違う。
 スーツにバッグ。寝癖を手で直しながら、軽く会釈をし、後ろをすり抜けていく。やはり彼は傘を持っては出かけない。音を立てながら階段をかけ降りていく。その後ろ姿を見ながら、とてもやりきれない気持ちになる。
 アパートを出て駅に向かって歩く。街道の桜は既に散って、青々とした葉をつける。空は天井が見えそうなほど澄み切っている。この空が午後から雨を降らすとは、到底、思えない。
 駅近くのカフェにたどり着くと、そこで少し時間をつぶす。通りに面した窓側の席でボウルいっぱいのカフェオレを飲む。
 通りを歩く人たちはビニールや黒、時々、派手な色や柄をした傘を持っている。それでも、傘を持っている。彼が傘を持たないことを、やはり、やりきれない気持ちになる。
 だが仕方ない。彼にとって空は彼女なのだ。
 街を照らす晴天の空も。
 街を染め上げる夕焼けの空も。
 街を濡らす雨の降る空も。
 全て彼にとってはかけがえのない彼女の一部なのだ。彼女が空から帰ってこないことが分かっていても、彼は彼女のことを忘れることなどできない。
 昨日の彼はまさしく、空から降り注ぐ彼女を目にとどめようとしていたのだ。
 今日の雨も例外ではない。体いっぱいで彼女を感じるために、彼は雨の日も傘を差さない。雨の予報にも関わらず洗濯物を干そうとする所も、見たことがある。
 その姿を見るたびに、どうしても、やりきれなくなる。どうにかして彼を普通の人に戻してやりたいと思う。
 会計を済ませると、また来た道を戻る。カフェオレ一杯と週刊誌のためだけにカフェまで来たのだ。あの席はすごく良い席だ。春でも熱すぎると感じるくらい、日差しが差し込む。通い始めた頃は、あの日差しだけで、右手が真っ黒に日焼けてしまった。
 今はそんなことが無いように、日焼け止めを塗ってから、カフェに行くようにしている。あの席はとても良いのだが、なぜかいつも空いている。誰もあの日差しの下で、コーヒーを飲みたいと思わないのだろうか。
 あの席が素晴らしい理由の一つに、空の天井が見えることがある。今日は見えなかったが、一度だけ、空が透明な寒天のように澄み切った日、空の天井が見えたのだ。天井といっても、人間が生活する大地が見えているだけだが。
 人間が地球で生活していたのは、今となっては昔のことだ。現代では円柱状のスペースコロニーを量産し、人類はその中で生活している。円柱の側面の内側に人工の大地が作られ、それがコロニーの内部をぐるりと覆っている。コロニーがトイレットペーパーのように自転することで、遠心力が疑似重力をうみだし、かつて地球で暮らしたように生活できる。
 コロニーでも、曇りや雨といった気象現象も再現されている。詳しい原理までは知らないが、コロニーの生体系を保つにはそれらが必要なようだ。
 そしてそれらを制御しているのは、コロニーの生体コンピューターである彼の彼女だ。
 
 アパートの階段を上る。
 今朝、彼とすれ違った鉄骨の廊下だ。彼は毎晩、仕事から帰ると、ここで彼女にお休みを告げる。ただ、夕日を眺めているだけだがわかる。あの目は、女性を見る目をしているのだから。
 部屋に戻るとテレビをつける。午後の天気予報は変わらない。雨が降る。
 ベランダは日差しが差し込んでいる。
 思い出したようにベランダから彼の部屋の方を覗いてみる。物干し竿が一本かかっているだけで、何もない。今夜は洋服を雨にあてるつもりはないようだ。
 よかった、ソファに寝転ぶ。
 雨に濡らした洋服を着るというのは、どういう感じなのだろう。
 ローテーブルにある、アロマキャンドルを手に取る。
 空から降る雨が彼女の一部というなら、雨に濡れた洋服も彼女の一部となるのだろうか。
 キャンドルを鼻に近づける。ラベンダーの香りがする。
 通販で小物を買ったときに、景品でついてきただけ。そのうち使ってしまおうと思って、テーブルに出している。毎日、鼻に近づけて香りを嗅ぐうちに愛着がわいてしまい、なかなか使えない。このほのかなラベンダーの香りを嗅ぐと、とても落ち着く。
 洋服が雨に濡れる。
 雨の臭いがついた洋服というのも、そういうことなのだろうか。
 彼女の香りをまとった洋服をまとう。彼女がしみ込んだ洋服をその肌にまとわせる。
 それが、彼女を失った彼が心休まる時なのだろうか。彼が一番、彼女に近づくことのできる瞬間なのだろうか。
 キャンドルを裾の内側に、あまり目立たないところにこすりつける。裾が淡く紫色になり、繊維が毛羽たちべたべたとする。鼻を近づける。柔軟剤の水っぽい臭いがするだけで、ラベンダーの香りはしない。手にも香りはついていない。自分の臭いがするだけだ。
 テーブルに戻す。
 日差しに陰りが出てくる。桜の木々が葉をすり合わせる。風が出てきた。もう少しで雨が降るのか。
 テレビの時計を見ると、もう部屋を出る時間になっている。
 
 身だしなみを整えて玄関を出る頃、外はもう雲で覆われていた。
 まるで、この瞬間を狙っていたかのよう。
 雨はいつ降り出してもおかしくなさそうだ。カバンから折り畳み傘を取り出す。代わりに大きいビニール傘を持つことにする。当分使っていない。ビニール傘はべたついている。
 朝と同じ道、今はビニール傘を持って歩く。これから降る雨に備えて持つビニール傘ほど、やり場に困るものはない。
 駅前の人混みではめいめいが好きなように傘を持つ。手の動きに合わせて振り回す人もいれば、垂直にかかげて不自然そうに歩く人もいる。
 彼女はこの人たちをどんな思いで見ているのだろうか。
 彼女は今となっては肉体のない、脳みそだけの生体コンピューターだ。溶液にどっぷりと浸かっている。
 肉体を持った人々が雨に濡れるのを嫌がる姿を、空のかなたからせせら笑っているのだろうか。それとも、肉体があった過去を懐かしむように、雨に遣られる姿を愛おしんでいるのだろうか。
 このコロニーの制御室に彼女が鎮座しているのは間違いないが、人間らしい感情を持ち、人間と意思の疎通が取れるかどうかまではわからない。
 あの薄暗い制御室には、彼女をいたわり、彼女のことを考えてくれる人がいるのだろうか。脳みそだけの電子部品になり果てた彼女は、何を考えているのだろうか。独りぼっちでさみしいのかもしれないし、そのような感情すら失われているかもしれない。
 そう思えば思うほど、彼のことがやりきれない。
 彼女が無感情に降らせる雨を、彼女のことだと受け取る彼。ふたりにどのような未来があるのだろうか。
 コンピューターと人間の恋は、コンピューターに自我が芽生えて初めて叶うものなのだ。今の彼女は意思のない無機質同然なのだから、この恋がどう終わるかは、既に分かりきっている。
 だからこそ、早く彼の目を覚ましてあげなければならない。
 それはきっと、空になった彼女の願いでもあるだろう。
 駅に併設されたコンビニに着く。そこで就業前の昼食を選ぶ。
 駅に近いだけあって、次から次へと人が出入りする。慌ただしい人の流れを縫って、サンドイッチやサラダがある並びにたどり着く。
 狭い商品棚にクリスタルパックが敷き詰められている。サラダや冷製パスタだ。棚の上段には野菜スティックのパックが列をなしている。
 白い蛍光灯に照らされたパックを眺める。蛍光灯が古いのだろう。両端が黒ずんでいてチカチカする。薄暗さが透明な商品棚の汚れを、その陰気さを目立たせる。
 パックが照らされる。千切りのキャベツが、スパゲッティが、団子のように丸くまとめられて、パックの底に敷き詰められている。薄暗さがそれら一本一本の重なりを、複雑な絡み合いに影を与えて、異様な現実感が帯びている。
 画一化された容器に収められた有機的な絡み合いは、それだけで十分な存在感だ。
 パスタを取ろうとした手を止める。
 一本一本が動いている?
 小刻みに震えている?
 心臓の鼓動のように、敷き詰められたそれらは、収縮と膨張を繰り返している。
 脈動している。
 パックの行列はおとなしいサラダやパスタではない。
 一つ一つが脈動した物体。
 いや。
 脳みそだ。
 この行列は彼女なのだ。
 パックに詰められた脳みそが、十幾つ、二十幾つも並んでいる。
 目もない、口もない、頭も顔もない。脳みそだけの行列がこちらを見ている、笑っている。ないはずの口がニンマリと三日月を描き、震えている。笑っている。声が聞こえる。
 彼女はひとりではなかった?
 彼女には感情があった?
 彼女たちは笑いかけてくる。
 どうして?
 首筋から嫌な予感がする。
 何かが来る。
 手だ!
 首のすぐ脇を手が伸びる。
 掴まる!
 驚いて振り替える。
 そこには彼女が!
 目が合う。いぶかしげな目。誰?
 手は顔の横をすり抜けていく。
 動けない。
 引き戻される手。
 目の前に来る。その手には。
 その手には、野菜スティックのパックが握られている。
 棚のパックはサラダとパスタに戻っていた。
 
 電車に乗る。乗り換えもなく片道で駅を降りれば、職場のファミレスだ。
 その間に雨はパラパラと降り出し、職場に着くころには、傘が無いと嫌な降り方になっていた。
 ファミレスは雨のせいか、多少混んでいるようだ。昼のピークまではまだ時間があるはずだ。レジにいる新人と先輩に挨拶をして、店内奥の更衣室兼休憩室に向かう。
 誰もいない。今は全員、出払っているのだろう。レジを新人に教える余裕があることから、見かけ以上に忙しいわけでもなさそうだ。定時に出ても問題はないだろう。まだ30分ほどあるから、昼食を取る。
 窓際に置かれた小さい折り畳み机に座る。机に対して場違いなほど大きい湯沸かしポッドが置かれている。その小さい場所にレジ袋と先ほどのポッドで淹れたコーヒーを置く。肘を置くスペースはない。
 サンドイッチはやはり潰れていた。
 全粒粉パンのクラブサンド。シンプルな玉子サンド。包装に白いドレッシングがべったりとしている。
 駅ですれ違った人とぶつかったのだ。ぶつかったと言うより、その人が振り回す、ビニール傘の一突きを食らった。太ももから膝の裏側にかけて、えぐるような突きによって、文字通り突き崩されたのだ。それでサンドイッチを押し潰してしまった。
 その人は詫びることもなく走り去った。濡れた背中を睨みつけることしかできなかった。
 食べ終えた後、ドレッシングで汚れた手を舐めながらゴミをまとめる。時間はまだある。残りのコーヒーを啜る。
 外はまだ雨が降っている。
 テレビの予報では、今日一日いっぱい雨だそうだ。今日、この雨が止むことはない。
 傘を持たずに出かけた彼のことを考える。
 彼がどのような仕事をしているかは知らない。総合職なのか。専門職なのか。このような雨の中を歩き回るような営業職なのか、雨でも構わず屋内でパソコンを操作する事務職なのか。
 窓の向こうはすぐ隣の、ビルの外壁だ。雨が垂直に落ちるため、この壁はあまり濡れていない。灰色に乾いたコンクリートの上の方が、若干、黒く濡れている。この狭い路地に降る雨のほとんどは、地べたの敷石に落ちるようだ。
 コーヒーの香りを嗅ぎながら、ゆっくりと、でも確実に黒く染まっていく外壁を眺める。そのうち全て濡れてしまうだろうが、当分時間がかかりそうだ。
 そうしていると、出勤時間になった。
 
 今日の仕事はいつも通り、すぐ終わってしまった。いつもの制服に着替え、普段しないような赤い蝶ネクタイをする。髪の毛をヘアゴムで止める。
 焼けたチーズやチキンブイヨンの香りで店内は満たされている。その中をただ、いつものように業務をこなすだけだった。
 夜勤の人達に引継ぎをおこなった後、挨拶をしてから更衣室に戻る。
 制服を脱ぐと内ももが腫れている。仕事中は気にならなかったが、押すと痛い。軽いみみず腫れのようになっている。こうなるのであれば、駅員に声をかけて捕まえてもらうべきだったかもしれない。
 溜息をついて外を見ると、雨は大分強くなっていた。ビルの外壁も隅々まで濡れて、真っ黒になっていた。空も真っ暗だった。

 傘を開く。
 バリッ、という粘っこい音がした後、うすぼんやりとしたビニールが開く。
 みみず腫れのせいか体が、心が重い。傘を持つ手がだるい。
 レジ袋も同じ手で持っているせいかもしれない。これには、まかないのBLTサンドが入っている。いやもしかしたら、夕食と昼食がサンドイッチで被ったせいかもしれない。
 風はなく、ただ上から大きな雨粒が落ちてくる。ボトボトと音を立てる。歩くとスニーカーに雨が染みてくる。道路では車がゆっくりとした速さで走る。湿ったアスファルトをタイヤがこすりつける、独特の音を立てる。道路と歩道に落ちた雨粒は、人間には気づかないくらいの傾斜を流れ、ガードレール下の排水溝に落ちていく。ジャバジャバと流れ込む音は、雨粒が泣いているようでもあった。
 電車に乗り込む。吊革につかまり、ぼんやりと薄暗い窓を眺める。車内の様子が窓に映っている。
 先ほどの雨のせいか、濡らした傘を持つ人、ワイシャツやブラウスを雨に濡らした人がいる。触れ合うほど混んではいないが、湿気で車内が満員電車のようにこもっている。
 空いたシートに座ると、向かいに会社員が来る。濡れた折り畳み傘をそのままに、右手でぶら下げるように持つ。雨粒が足元に落ちる。小さな水たまりを作り、雨粒が落ちるたび、さらに小さな雨粒を作って、放射状にとばす。
 頭の後ろでも雨が激しくなっていることがわかる。今乗り込んだ人のほとんどが、傘やコート、何かしらを雨に濡らしている。
 混みあってきた。
 キュッ、キュッ、キュッ。
 靴のゴム底が水たまりを踏んで音が鳴る。
 ピチャ、ピチャ、ピチャ。
 雨粒が車内に落ちる、溜まっていく。
 ビシャ、ビシャ、ビシャ。
 ホームの屋根から線路に落ちる雨音。
 人が乗り込んでくる。大量の雨粒と雨の臭いを引き連れて、乗り込んでくる。
 雨の臭いで車内は満たされる。会社員は車内の中央に押されていく。目の前には頭の先から胴回りまで雨でぐっしょりと濡れた、Tシャツの男だ。顔の雨粒を肩口で拭く。
 膝に置かれたバックを強く握りしめる。腕に挟まれてレジ袋がつぶれる。サンドイッチのトマトがパンの間からはみ出る音が聞こえる。
 においがする。雨のにおいだ。彼女のにおいだ。
 ここにいる人間全員が、彼女のにおいをまとっている。恥ずかしげもなく、全身に彼女を浴びて、全身に彼女のにおいを染み渡らせて、全身で彼女のにおいを振りまいている。
 耐えられない。嫌いなにおいだ。嫌いな女のにおいだ。
 バックを抱く腕が震える。レジ袋を押さえつける左手の手首がベタベタする。
 部屋でつけたアロマキャンドルだ。発作のように、顔に押し付ける。
 においがしない。ラベンダーの香りがしない。あの、水っぽい柔軟剤のにおいもしない。するのは雨の臭いだけだ。
 離すと裾口が、雨に濡れているのがわかる。キャンドルをこすりつけたところだけ、水をはじいている。雨の染みがキャンドルを取り囲んでいる。
 彼女のにおいで取り囲まれている。
 膝がガクガクしてくる。降りる駅まではもう少しだ。今のうちにドアの方へ、少しでも彼女のにおいから逃れられる場所へ、逃げたい。すぐ降りられる準備をしよう。バックとレジ袋を抱く力をゆるめる。足元だけを見ていた顔をあげる。
 窓の外、向こうを見るつもりだったが、目に入ったのはTシャツの男だ。
 真っ赤なペイズリー柄のバンダナを広げて、頭を拭っている。髪の毛の水気を吸うと、バンダナは赤黒く染めあがり、白抜きされたペイズリーの文様が、あの今にも這いずり回りそうな、歪なしずく型の微生物が、くっきりと浮かび上がっている。
 男が、頭を拭っているのか、バンダナの中の生物が、男の頭を這いずり回っているのか。
 まわりの人など意に介さない。男はわしづかみにしたバンダナで頭をしきりに撫でまわす。水分を含んで重たくなったため、腕を振り回すたびにバンダナの四隅が、でんでん太鼓のように、振りまわる。
 顔の前の方を拭き終え、首の後ろ、襟足のあたりに腕を伸ばした時だった。
 振り回されたバンダナの隅が、男の頬に張り付いた。
 男の頬にペイズリーの文様が、入れ墨されたように、はっきりとしていた。その音もはっきりしていた。
 その瞬間、文様が男の肌に染み込んだのだ。
 彼女が男に入り込んだのだ。
 電車が止まった。ホームに駆け出した。
 見てしまったのだ。
 彼女は独りぼっちではなかった。
 いや。
 彼女は独りぼっちだが、一人ではなかった。
 寄生?洗脳?遠隔操作?
 彼女は独りぼっちでも、仲間を増やしていたのだ。
 雨が彼女の一部だなんて、それは単なるセンチメンタリズムに過ぎない。
 実際はもっとグロテスクなのだ。彼女は仲間を増やしていたのだ。
 なぜ?
 それは、彼を連れていくためだ。連れていくための手足を集めているのだ。
 彼が危ない。早く知らせないといけない。
 早くその場から離れなければならない。
 早く彼の下へ。
 
 バックとレジ袋を抱えてホームを駆ける。乗る人も降りる人もまばらなホームでは、やんわりとした人の流れができている。ドアが閉まるころ、散らばった人間が階段に向かって凝集する。空から降ってくる雨から体をかばいきれなかった人間たちが、たった一つの上り階段に群がってくる。出口はこれしかない。たった一つの出口に向かって駆ける。後ろから迫って来る。
 階段をのぼる。
 後ろの方で、早足に階段をかける足音、ヒールが地面をける音が聞こえる。
 のぼっても、のぼっても、足音が離れない。
 ずっと後ろをついてくる、階段をのぼり終えてもまだ聞こえる。
 改札が見える。改札さえ抜ければ。
 目の前に来た時、視界の外から女性が割り込んでくる。女性はコートから取り出した切符を改札に入れる。
 足音が近づく。女性の後ろにつくしかない。足音がもうすぐ側だ。
 ポーン、ガシャン。
 ICカードを取り出した時、女性の目の前で改札が閉まる。
 改札から出られない。
 追いつかれてしまう。
 前の女性はもう一度切符を改札に通すが、結果は同じだ。
 もうだめだ、捕まる。
 足音が近づく。
 コツコツコツ。
 足音が迫る。
 ガシャン。
 隣の改札が開く。
 足音は通り過ぎ、隣を抜けていく。
 ハイヒールの後ろ姿が、向こうに消えていく。前にいた女性が頭を下げながら、脇をすり抜けていく。
 改札を抜けると駅の待合室には誰もいない。駅の通りでは、傘を差した人たちが行き交う。改札から出た人たちも、傘を取り出し、その人混みの中に加わっていく。
 その中にTシャツの男も混じっていた。
 
 アパートも雨に降られていた。昨日の夕焼けとは比べ物にならない。黒くどっぷりと濡れ、年老いた犬の様だった。
 そして彼は廊下にはいなかった。
 部屋に戻るとバックとレジ袋をリビングに置き、風呂場に向かう。
 異様に新しいユニットバスでシャワーを浴びる。長くもない髪を洗い終え、後は身体を流すだけとなったとき、雷が鳴る。
 大分近くで落ちたようで、風呂場も僅かに揺れた。真っ暗になった。
 停電したようだ。
 暗くても身体だけなら洗える。冷たいが水は出る。とりあえず、シャワーは浴び終えてから風呂場を出る。
 頭にバスタオルを巻いて、リビングに戻る。リビングも真っ暗だ。カーテンを閉めていない窓も真っ暗だ。街全体が停電してしまったようだ。
 濡れた髪を乾かすことができず、ソファに座る。電気が無ければ何もできない。これなら、まかないのサンドイッチを食べてしまおう。冷蔵庫から麦茶を取り出す。
 真っ暗な空間で、ほとんど手探りでサンドイッチの包装を解いていく。パックに長方形型に切られたのが二つ入っている。
 一つ取り出してかじりついてみる。
 店長はBLTと話していたが、実際はキッチンの残り物で作ったようだ。肉がベーコンでなければ、トマトとレタス以外の野菜が挟まっている。
 明かりが無いとどうしても、食事が味気なくなってしまう。サンドイッチは特に香りがあるわけでもない。
 口に残ったブロッコリーの繊維質を噛みながら、明かりになりそうなものを探す。暗さに目が慣れてきても、あるかどうかわからない物を探すとなると、多少見えたところで、何の頼りにもならない。
 目を瞑って、テーブルの上をカルタ取りのように、手をかざして探す。
 指先に硬くてすべすべしたものが触る。
 アロマキャンドルだった。
 顔に近づけると、やはり、ラベンダーの香りがする。
 このアロマキャンドルに火を点けてしまうのか。何度か香りを嗅いではテーブルに戻すのを繰り返す。決心がつかない。火を点けた時のことを想像してみる。
 真っ暗な空間の中に灯るロウソクの火。部屋一杯に広がるラベンダーの香り。
 もう一度、アロマキャンドルを手に取る。
 使うためにテーブルに出していたのだ。気に入ったのなら、次はお金を出して買えばよい。なにより、今は明かりが欲しい。
 決心はついた。テーブルには一式があったので、火を点けるまではすぐだった。
 キャンドルの明かりが揺らめく。
 しかし、ラベンダーの香りは想像したほどではなかった。長く外に出していたせいか、部屋いっぱいに広がることはなかった。
 サンドイッチを食べ終え、ソファに座る。その時、窓に人影がある。
 頭をよぎる。彼女の存在。
 停電の夜に乗じて、彼の所に来たのだ。
 キャンドルを持って身を隠すと、人影も消える。今度の決心は早かった。玄関からビニール傘を持ってくる。
 キャンドルは物陰に置いてベランダに出る。彼の部屋へは非常用の壁を突き破ればすぐだ。彼のベランダまで来る。カギは開いている。ここからでは様子がわからない。彼もまだ帰ってきていない。武器らしいものはこの傘だけだ。振り回すだけでも威力はあるだろう。ガラスの引き戸を開ける。何かが光る。
 誰かが屈んでいる。
 彼女だ。
 物陰に隠れて彼が帰るのを待っている。
 やられるよりも先にやれ、だ。
 わき腹に傘の持ち手を当てる。立ち上がると同時に突進する。体重を込めて突き刺す。
 ガシャン。
 硬い感触。刺さるよりぶつかる、だ。
 パチン。
 突如、停電が復旧する。
 一瞬、真っ白になった視界が落ち着いてくる。見覚えのある部屋だ。床には鏡の破片が散っている。キャンドルの火が揺れる。
 半開きのベランダに人影が写っている。
 アロマキャンドルの火が消える。
 それは雨に濡れた私だった。
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登場人物紹介

こんにちは!

『みかん箱』 執筆者の三柑八朔です。

「登場人物」の場所を使って、各短編の簡単なあらすじを紹介していきます。

興味のある作品を探す参考にしてください!

読んで面白かった作品には、「いいね」していただけると嬉しいです。

第一話 「本は巡っていく」

ジャンル:ドラマ、青春、ブックカフェ

吉田は、無人のブックカフェ”ABC”から金になる本を盗もうとしていた。高校生活を満喫するには金がいるのだ。しかし、彼を阻むように、自称:常連の女性はいつまでも「1万6千円」の本を読んでいる。早くその本を読み切ってくれ!果たして彼は、最後の高校生活を「せどり」で彩ることができるのだろうか。

第二話「私の無限なべ」

ジャンル:ドラマ、記憶、キムチ鍋

契約期間満了により、実質リストラされた藤村は、引越しを明日に控えたアパートで最後の晩餐をしていた。メニューはキムチ鍋。明日の朝まで気持ちよく飲み明かすつもりだったが、その気持ちとは裏腹に、真っ赤な鍋からチラつくのはあの忌々しい記憶ばかり。彼女は今夜のキムチ鍋を食べ切れるのか。

第三話「津山恋愛事務所」

ジャンル:ドラマ、恋愛?、パシリ

輸入雑貨の仕入れやら、ネットニュースの書き起こしやら、恋愛事務所の「恋愛」の二文字からは程遠い雑用・パシリを押しつけられる新人所員のリョーイチ。先輩所員サムさんの寿退所を受けて、トコロテン方式に所長ヌル子と「恋愛相談」の現場へ駆り出される。さすが、『恋愛成就率99%』は伊達じゃない!

第四話「雨粒と星粒」

ジャンル:ドラマ、お葬式、親族

「お母さんが死んだ」、瑞希はタクシーに揺られながら考えていた。熱気と湿気でむせかえる式場。お坊さんのお経を背景にして、知らない人たちがすすり泣く声、それとお焼香の香りと手に残るザラザラした感じ。なぜだろう、私だけ取り残された感じ。そういえば、叔母さんの優希さんも泣いていなかった。

第五話「チューブ・ルート・8」

ジャンル:ややSF、二人の男、ポテトチップス

オリオン座の三つ星が輝く冬の夜、サバンナの星空をプラネタリウムにしてレオとライオは歩いていた。二人の故郷へ繋がる全天候型道路「チューブ・ルート・8」。透明なトンネル状の道を歩くレオとライオの仲に一つの危機が訪れていた。ポテトチップスの『のり塩』。それが全ての始まりだった。

第六話「夜曜日の日」

ジャンル:実験小説?、交換日記、大学生

「僕はいつもね、そう、あれ以来、よく聞くレコードがあってね、レコードなんて君からすれば、ハイカラ気取りって言われるかもだけど、レコードというのはね、CDのように究極的には0か1かに変換されうる情報とは違って、0~1という幅があってでね。あぁ、ところでレコードのタイトルだけど、、、

第七話「エレベーターが動き出すまで」

ジャンル:ドラマ、タワーマンション、ハロウィン

ハロウィンの夜。希のマンションからは仮装行列が見える。今日に限ってテキパキと仕事を終える部下たちと、ハロウィンの人混みのおかげで、希は仕事帰りに夕食を食べ損ねていた。今から夕食を買い出そうと希がエレベーターに乗ると、運悪く緊急停止してしまう。見知らぬ”和服白ゴス”の女性と一緒に。

第八話「血のないふたり」

ジャンル:ドラマ、アンドロイド、夜のお散歩

夜行バスに揺られて、夜の街にやってきたアンドロイドの子供のルルとミル。雪が降る寒々とした街で、あてのない、探し物をしている。コンビニ、屋台、牛丼屋・・・。夜の街をめぐり、いろんな人とも出会うルルとミル。結局、探し物は見つからないまま、何を探しているのかもわからないまま。夜が明ける。

第九話「ココアは苦めで」

ジャンル:ドラマ、場所取り、他人のなれそめ

スキー同好会の山田たちは、明日のサークル勧誘会に向け、花見の場所取りを徹夜でしていた。何かと競技スキー部には見下されがちなだけに、イベントではそのパリピで存在感を示したい!そして今年こそ念願の女子部員を!そんな野望を抱く山田をよそに、同好会随一の草食系に彼女ができたとか?

第十話「彼女は空になった」

ジャンル:SFホラー?、アパートの隣人、雨

彼が毎日夕日を眺め、大雨の夜は雨に打たれ、快晴の朝は日差しに焼かれる理由。それは、彼の彼女が空になったから、人工惑星の制御装置の生体コンピューターになったから。人間と機械の恋は、かなわない恋。彼を現実に引き戻すため、そして彼女の野望を食い止めるため、行動をしないといけない。

第十一話「小町ちゃんよ、永遠に。」

ジャンル:ドラマ?、町おこし、マスコット

『みなさん、こんにちは!今日古町の特別広報部長の京小町です!今日古町と言えばジャガイモ!夏の新ジャガは、ほっぺが落ちちゃうくらい美味しいんですけど、名産品はそれだけじゃないんです!魅力いっぱいの今日古町を今日からたくさん紹介していきます!みなさん、どうぞよろしくお願いします!』

第十二話「クリスマス・モーフィング」

ジャンル:ドラマ、掌編集、クリスマス

時代も場所も登場人物も違う、クリスマスな掌編集。四畳半で凍える青年、サンタを待ちわびる子供、独り身の女性、そして、クリスマスも仕事の男・・・。決してハートウォーミングしないけれど、これを読んだ皆さんのクリスマスが、作中のどの登場人物よりも、少しでも良いものであることを祈っています。

第十三話「ランドルトの環だけ残す」

ジャンル:ドラマ、青春、身体測定

学校へ行って帰ってくる、いつもどおりの毎日。ただちょっとだけ違うのは、全校生徒がアンドロイドなくらい。そして今日も始まる人間ごっこ。そんな生活にサトーは辟易し始めていたが、例えアンドロイドといえども高校生ならば、ティーンエイジャーらしい悩みはあるわけで。退屈な一日が始まる。

第十四話「『ままならない日々_近藤の場合』~とけない氷~」

ジャンル:ドラマ、ラムバック、ある人の日常

一人で呑むようになったのはいつからだろう。大学の失恋から?仕事を始めてから?目の前のグラスは答えてくれない。近藤は不確かな意識の中で、明日飲むための感情を製氷棚に入れ、今日飲んだ昨日の感情をトイレに吐き出す。そうやって今夜も、彼女のままならない日々が終わ(始ま)るのだった。

第十五話「川に落ちた日」

ジャンル:ドラマ、川の流れ、感傷

桃に、河童に、オフィーリア。川に流されるものは古今東西、幾らでもあるといえど、まさか私が流されるとは。晴天の青空に、心地よくかぶさる草木、そして、体の裏側をヒンヤリとさせる川の水。それらは心地よく、とても良いものかもしれない。ただ、どうして私は川に流されているのだろうか。

第十六話「黄金色の小判型でサクサクとした衣」

ジャンル:コロッケ、コロッケ、コロッケ

 「あれは確かにコロッケだったんだ。」「いや、間違いないね。」「まさかあれがコロッケじゃない、訳ないじゃないか。」「あれはコロッケなんだ。」「あああ。」「あれはコロッケコロッケ。」「間違いなくコロッケなんだ。」「ああああああ。」「何と言おうと幾ら否定されようと。」「あれは、あれは、」

第十七話「読みかけの本」

ジャンル:ドラマ、『雪国』、帰省

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」実家へと向かう特急列車の中で、いつものように浜村は『雪国』を開きます。帰省する時の習慣でした。読むといっても最初の十数頁、島村が駒子と再会する所まで。ただ、浜村にはそれだけで充分でした。故郷に帰るには、それだけで十分でした。

第十八話「三十三平米の荒野」

ジャンル:ドラマ、なんちゃって戦後、地下ボクシング

戦争の傷が未だ癒えず、柔らかな春雨からも、古いガソリンのような臭いがしてくる街で、肩寄せ合って生きる二匹の狼がいた。ボクサーの『タロウ撲師』と、その自称マネージャーのラン子。焼けた街で何かを探して生きる二人に、闇市を仕切るヤクザ達の抗争が、どうしようもなく巻き込んでくる。

第十九話「『ヤツは四天王の中で最弱』と仲間に言われながら、勇者に倒された悪魔四天王の一人である俺は、気が付くと異世界転生して女子高生と入れ替わっていた、まではまだよくて、その女子高生の友人が「エア神経衰弱を始めよう」とか言い始めて、仕方なく付き合っているんだけども、この状況を的確に表現できるいい言葉を教えてほしい」

ジャンル:ドラマ、転生もの?、トランプ

第二十話「記憶の暗がり〜序章〜」

ジャンル:SFもどき、記憶、プロローグ

人類は情報を保管する〈ROM〉人間と、その情報を活用する〈RAM〉人間の2種類に分けられていた。RAMとして生きていた山内は違法なROM人間オークションであるROMの女性と出会うが、脳には彼女の死んだ父の遺品が刻まれていた!これは山内と彼女がその父の謎に立ち向かうまでの序章。

第廿一話「」(更新予定日:4月13日7:00)

ジャンル:ショートショート?、戦争、一兵卒

→ごめんなさい!来週更新します。作品の形式をやや変える予定です(?)

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