第10話「彼女は空になった」
文字数 9,917文字
そのおかげで、彼は部屋の前の鉄柵に寄り掛かり、夕日を見ることができる。そして今日も。
スーツが今朝よりも黒ずんで見える。
そこが彼のいつもの場所だ。
彼は夕日をどこか遠くにあるように見つめる。温かいオレンジを体いっぱいに受け、目も同じ色に染まってしまいそうだ。
道路に人影が長く伸びる。カラスが遠くで鳴く。街灯が順々に点く。自動販売機の蛍光灯も点く。街全体から夕焼けの温もりが引いていくと、ゆっくりと月が夜を連れてくる。
そこまでを見届けると、彼はアパートの部屋へ戻る。
夕日を見る彼の目には、どこか寂しそうな光がある。体を包んでいたオレンジが滑り落ち、夕日の中へ舞い戻っていく。そのオレンジとの別れを惜しむように、届かない夕日に向かって手を伸ばしているのが見える。
どうして彼はあのように夕日を見ているのか。それは、彼は夕日の中に彼の彼女を見ているからだ。
彼女は空になったのだ。
いつも通りの時間に目が覚める。
今日の仕事は午後からだ。新人が入ったことで、今週のシフトは少し変動し、今日は珍しく午前中がお休みだ。
カーテンを開けると朝日が部屋に飛び込んでくる。昨日は綺麗な夕焼けだっただけに、今日は晴れ渡っている。カーテンのレースだけ引き戻すと、ソファに座りテレビをつける。
朝のニュース。右端に今の時刻が表示される。まだ一時間ある。お湯を沸かしコーヒーを淹れ、食パンで簡単な朝食を済ませる。テレビでは、今日の午後から雨になることを伝えている。
出かける用意を済ませた頃、隣室から慌ただしく部屋を駆けまわる音が聞こえる。彼が目を覚ましたようだ。
バックに折りたたみ傘を入れて、薄手のコートを羽織る。部屋を出ると彼と廊下ですれ違う。
スーツにバッグ。寝癖を手で直しながら、軽く会釈をし、後ろをすり抜けていく。やはり彼は傘を持っては出かけない。音を立てながら階段をかけ降りていく。その後ろ姿を見ながら、とてもやりきれない気持ちになる。
アパートを出て駅に向かって歩く。街道の桜は既に散って、青々とした葉をつける。空は天井が見えそうなほど澄み切っている。この空が午後から雨を降らすとは、到底、思えない。
駅近くのカフェにたどり着くと、そこで少し時間をつぶす。通りに面した窓側の席でボウルいっぱいのカフェオレを飲む。
通りを歩く人たちはビニールや黒、時々、派手な色や柄をした傘を持っている。それでも、傘を持っている。彼が傘を持たないことを、やはり、やりきれない気持ちになる。
だが仕方ない。彼にとって空は彼女なのだ。
街を照らす晴天の空も。
街を染め上げる夕焼けの空も。
街を濡らす雨の降る空も。
全て彼にとってはかけがえのない彼女の一部なのだ。彼女が空から帰ってこないことが分かっていても、彼は彼女のことを忘れることなどできない。
昨日の彼はまさしく、空から降り注ぐ彼女を目にとどめようとしていたのだ。
今日の雨も例外ではない。体いっぱいで彼女を感じるために、彼は雨の日も傘を差さない。雨の予報にも関わらず洗濯物を干そうとする所も、見たことがある。
その姿を見るたびに、どうしても、やりきれなくなる。どうにかして彼を普通の人に戻してやりたいと思う。
会計を済ませると、また来た道を戻る。カフェオレ一杯と週刊誌のためだけにカフェまで来たのだ。あの席はすごく良い席だ。春でも熱すぎると感じるくらい、日差しが差し込む。通い始めた頃は、あの日差しだけで、右手が真っ黒に日焼けてしまった。
今はそんなことが無いように、日焼け止めを塗ってから、カフェに行くようにしている。あの席はとても良いのだが、なぜかいつも空いている。誰もあの日差しの下で、コーヒーを飲みたいと思わないのだろうか。
あの席が素晴らしい理由の一つに、空の天井が見えることがある。今日は見えなかったが、一度だけ、空が透明な寒天のように澄み切った日、空の天井が見えたのだ。天井といっても、人間が生活する大地が見えているだけだが。
人間が地球で生活していたのは、今となっては昔のことだ。現代では円柱状のスペースコロニーを量産し、人類はその中で生活している。円柱の側面の内側に人工の大地が作られ、それがコロニーの内部をぐるりと覆っている。コロニーがトイレットペーパーのように自転することで、遠心力が疑似重力をうみだし、かつて地球で暮らしたように生活できる。
コロニーでも、曇りや雨といった気象現象も再現されている。詳しい原理までは知らないが、コロニーの生体系を保つにはそれらが必要なようだ。
そしてそれらを制御しているのは、コロニーの生体コンピューターである彼の彼女だ。
アパートの階段を上る。
今朝、彼とすれ違った鉄骨の廊下だ。彼は毎晩、仕事から帰ると、ここで彼女にお休みを告げる。ただ、夕日を眺めているだけだがわかる。あの目は、女性を見る目をしているのだから。
部屋に戻るとテレビをつける。午後の天気予報は変わらない。雨が降る。
ベランダは日差しが差し込んでいる。
思い出したようにベランダから彼の部屋の方を覗いてみる。物干し竿が一本かかっているだけで、何もない。今夜は洋服を雨にあてるつもりはないようだ。
よかった、ソファに寝転ぶ。
雨に濡らした洋服を着るというのは、どういう感じなのだろう。
ローテーブルにある、アロマキャンドルを手に取る。
空から降る雨が彼女の一部というなら、雨に濡れた洋服も彼女の一部となるのだろうか。
キャンドルを鼻に近づける。ラベンダーの香りがする。
通販で小物を買ったときに、景品でついてきただけ。そのうち使ってしまおうと思って、テーブルに出している。毎日、鼻に近づけて香りを嗅ぐうちに愛着がわいてしまい、なかなか使えない。このほのかなラベンダーの香りを嗅ぐと、とても落ち着く。
洋服が雨に濡れる。
雨の臭いがついた洋服というのも、そういうことなのだろうか。
彼女の香りをまとった洋服をまとう。彼女がしみ込んだ洋服をその肌にまとわせる。
それが、彼女を失った彼が心休まる時なのだろうか。彼が一番、彼女に近づくことのできる瞬間なのだろうか。
キャンドルを裾の内側に、あまり目立たないところにこすりつける。裾が淡く紫色になり、繊維が毛羽たちべたべたとする。鼻を近づける。柔軟剤の水っぽい臭いがするだけで、ラベンダーの香りはしない。手にも香りはついていない。自分の臭いがするだけだ。
テーブルに戻す。
日差しに陰りが出てくる。桜の木々が葉をすり合わせる。風が出てきた。もう少しで雨が降るのか。
テレビの時計を見ると、もう部屋を出る時間になっている。
身だしなみを整えて玄関を出る頃、外はもう雲で覆われていた。
まるで、この瞬間を狙っていたかのよう。
雨はいつ降り出してもおかしくなさそうだ。カバンから折り畳み傘を取り出す。代わりに大きいビニール傘を持つことにする。当分使っていない。ビニール傘はべたついている。
朝と同じ道、今はビニール傘を持って歩く。これから降る雨に備えて持つビニール傘ほど、やり場に困るものはない。
駅前の人混みではめいめいが好きなように傘を持つ。手の動きに合わせて振り回す人もいれば、垂直にかかげて不自然そうに歩く人もいる。
彼女はこの人たちをどんな思いで見ているのだろうか。
彼女は今となっては肉体のない、脳みそだけの生体コンピューターだ。溶液にどっぷりと浸かっている。
肉体を持った人々が雨に濡れるのを嫌がる姿を、空のかなたからせせら笑っているのだろうか。それとも、肉体があった過去を懐かしむように、雨に遣られる姿を愛おしんでいるのだろうか。
このコロニーの制御室に彼女が鎮座しているのは間違いないが、人間らしい感情を持ち、人間と意思の疎通が取れるかどうかまではわからない。
あの薄暗い制御室には、彼女をいたわり、彼女のことを考えてくれる人がいるのだろうか。脳みそだけの電子部品になり果てた彼女は、何を考えているのだろうか。独りぼっちでさみしいのかもしれないし、そのような感情すら失われているかもしれない。
そう思えば思うほど、彼のことがやりきれない。
彼女が無感情に降らせる雨を、彼女のことだと受け取る彼。ふたりにどのような未来があるのだろうか。
コンピューターと人間の恋は、コンピューターに自我が芽生えて初めて叶うものなのだ。今の彼女は意思のない無機質同然なのだから、この恋がどう終わるかは、既に分かりきっている。
だからこそ、早く彼の目を覚ましてあげなければならない。
それはきっと、空になった彼女の願いでもあるだろう。
駅に併設されたコンビニに着く。そこで就業前の昼食を選ぶ。
駅に近いだけあって、次から次へと人が出入りする。慌ただしい人の流れを縫って、サンドイッチやサラダがある並びにたどり着く。
狭い商品棚にクリスタルパックが敷き詰められている。サラダや冷製パスタだ。棚の上段には野菜スティックのパックが列をなしている。
白い蛍光灯に照らされたパックを眺める。蛍光灯が古いのだろう。両端が黒ずんでいてチカチカする。薄暗さが透明な商品棚の汚れを、その陰気さを目立たせる。
パックが照らされる。千切りのキャベツが、スパゲッティが、団子のように丸くまとめられて、パックの底に敷き詰められている。薄暗さがそれら一本一本の重なりを、複雑な絡み合いに影を与えて、異様な現実感が帯びている。
画一化された容器に収められた有機的な絡み合いは、それだけで十分な存在感だ。
パスタを取ろうとした手を止める。
一本一本が動いている?
小刻みに震えている?
心臓の鼓動のように、敷き詰められたそれらは、収縮と膨張を繰り返している。
脈動している。
パックの行列はおとなしいサラダやパスタではない。
一つ一つが脈動した物体。
いや。
脳みそだ。
この行列は彼女なのだ。
パックに詰められた脳みそが、十幾つ、二十幾つも並んでいる。
目もない、口もない、頭も顔もない。脳みそだけの行列がこちらを見ている、笑っている。ないはずの口がニンマリと三日月を描き、震えている。笑っている。声が聞こえる。
彼女はひとりではなかった?
彼女には感情があった?
彼女たちは笑いかけてくる。
どうして?
首筋から嫌な予感がする。
何かが来る。
手だ!
首のすぐ脇を手が伸びる。
掴まる!
驚いて振り替える。
そこには彼女が!
目が合う。いぶかしげな目。誰?
手は顔の横をすり抜けていく。
動けない。
引き戻される手。
目の前に来る。その手には。
その手には、野菜スティックのパックが握られている。
棚のパックはサラダとパスタに戻っていた。
電車に乗る。乗り換えもなく片道で駅を降りれば、職場のファミレスだ。
その間に雨はパラパラと降り出し、職場に着くころには、傘が無いと嫌な降り方になっていた。
ファミレスは雨のせいか、多少混んでいるようだ。昼のピークまではまだ時間があるはずだ。レジにいる新人と先輩に挨拶をして、店内奥の更衣室兼休憩室に向かう。
誰もいない。今は全員、出払っているのだろう。レジを新人に教える余裕があることから、見かけ以上に忙しいわけでもなさそうだ。定時に出ても問題はないだろう。まだ30分ほどあるから、昼食を取る。
窓際に置かれた小さい折り畳み机に座る。机に対して場違いなほど大きい湯沸かしポッドが置かれている。その小さい場所にレジ袋と先ほどのポッドで淹れたコーヒーを置く。肘を置くスペースはない。
サンドイッチはやはり潰れていた。
全粒粉パンのクラブサンド。シンプルな玉子サンド。包装に白いドレッシングがべったりとしている。
駅ですれ違った人とぶつかったのだ。ぶつかったと言うより、その人が振り回す、ビニール傘の一突きを食らった。太ももから膝の裏側にかけて、えぐるような突きによって、文字通り突き崩されたのだ。それでサンドイッチを押し潰してしまった。
その人は詫びることもなく走り去った。濡れた背中を睨みつけることしかできなかった。
食べ終えた後、ドレッシングで汚れた手を舐めながらゴミをまとめる。時間はまだある。残りのコーヒーを啜る。
外はまだ雨が降っている。
テレビの予報では、今日一日いっぱい雨だそうだ。今日、この雨が止むことはない。
傘を持たずに出かけた彼のことを考える。
彼がどのような仕事をしているかは知らない。総合職なのか。専門職なのか。このような雨の中を歩き回るような営業職なのか、雨でも構わず屋内でパソコンを操作する事務職なのか。
窓の向こうはすぐ隣の、ビルの外壁だ。雨が垂直に落ちるため、この壁はあまり濡れていない。灰色に乾いたコンクリートの上の方が、若干、黒く濡れている。この狭い路地に降る雨のほとんどは、地べたの敷石に落ちるようだ。
コーヒーの香りを嗅ぎながら、ゆっくりと、でも確実に黒く染まっていく外壁を眺める。そのうち全て濡れてしまうだろうが、当分時間がかかりそうだ。
そうしていると、出勤時間になった。
今日の仕事はいつも通り、すぐ終わってしまった。いつもの制服に着替え、普段しないような赤い蝶ネクタイをする。髪の毛をヘアゴムで止める。
焼けたチーズやチキンブイヨンの香りで店内は満たされている。その中をただ、いつものように業務をこなすだけだった。
夜勤の人達に引継ぎをおこなった後、挨拶をしてから更衣室に戻る。
制服を脱ぐと内ももが腫れている。仕事中は気にならなかったが、押すと痛い。軽いみみず腫れのようになっている。こうなるのであれば、駅員に声をかけて捕まえてもらうべきだったかもしれない。
溜息をついて外を見ると、雨は大分強くなっていた。ビルの外壁も隅々まで濡れて、真っ黒になっていた。空も真っ暗だった。
傘を開く。
バリッ、という粘っこい音がした後、うすぼんやりとしたビニールが開く。
みみず腫れのせいか体が、心が重い。傘を持つ手がだるい。
レジ袋も同じ手で持っているせいかもしれない。これには、まかないのBLTサンドが入っている。いやもしかしたら、夕食と昼食がサンドイッチで被ったせいかもしれない。
風はなく、ただ上から大きな雨粒が落ちてくる。ボトボトと音を立てる。歩くとスニーカーに雨が染みてくる。道路では車がゆっくりとした速さで走る。湿ったアスファルトをタイヤがこすりつける、独特の音を立てる。道路と歩道に落ちた雨粒は、人間には気づかないくらいの傾斜を流れ、ガードレール下の排水溝に落ちていく。ジャバジャバと流れ込む音は、雨粒が泣いているようでもあった。
電車に乗り込む。吊革につかまり、ぼんやりと薄暗い窓を眺める。車内の様子が窓に映っている。
先ほどの雨のせいか、濡らした傘を持つ人、ワイシャツやブラウスを雨に濡らした人がいる。触れ合うほど混んではいないが、湿気で車内が満員電車のようにこもっている。
空いたシートに座ると、向かいに会社員が来る。濡れた折り畳み傘をそのままに、右手でぶら下げるように持つ。雨粒が足元に落ちる。小さな水たまりを作り、雨粒が落ちるたび、さらに小さな雨粒を作って、放射状にとばす。
頭の後ろでも雨が激しくなっていることがわかる。今乗り込んだ人のほとんどが、傘やコート、何かしらを雨に濡らしている。
混みあってきた。
キュッ、キュッ、キュッ。
靴のゴム底が水たまりを踏んで音が鳴る。
ピチャ、ピチャ、ピチャ。
雨粒が車内に落ちる、溜まっていく。
ビシャ、ビシャ、ビシャ。
ホームの屋根から線路に落ちる雨音。
人が乗り込んでくる。大量の雨粒と雨の臭いを引き連れて、乗り込んでくる。
雨の臭いで車内は満たされる。会社員は車内の中央に押されていく。目の前には頭の先から胴回りまで雨でぐっしょりと濡れた、Tシャツの男だ。顔の雨粒を肩口で拭く。
膝に置かれたバックを強く握りしめる。腕に挟まれてレジ袋がつぶれる。サンドイッチのトマトがパンの間からはみ出る音が聞こえる。
においがする。雨のにおいだ。彼女のにおいだ。
ここにいる人間全員が、彼女のにおいをまとっている。恥ずかしげもなく、全身に彼女を浴びて、全身に彼女のにおいを染み渡らせて、全身で彼女のにおいを振りまいている。
耐えられない。嫌いなにおいだ。嫌いな女のにおいだ。
バックを抱く腕が震える。レジ袋を押さえつける左手の手首がベタベタする。
部屋でつけたアロマキャンドルだ。発作のように、顔に押し付ける。
においがしない。ラベンダーの香りがしない。あの、水っぽい柔軟剤のにおいもしない。するのは雨の臭いだけだ。
離すと裾口が、雨に濡れているのがわかる。キャンドルをこすりつけたところだけ、水をはじいている。雨の染みがキャンドルを取り囲んでいる。
彼女のにおいで取り囲まれている。
膝がガクガクしてくる。降りる駅まではもう少しだ。今のうちにドアの方へ、少しでも彼女のにおいから逃れられる場所へ、逃げたい。すぐ降りられる準備をしよう。バックとレジ袋を抱く力をゆるめる。足元だけを見ていた顔をあげる。
窓の外、向こうを見るつもりだったが、目に入ったのはTシャツの男だ。
真っ赤なペイズリー柄のバンダナを広げて、頭を拭っている。髪の毛の水気を吸うと、バンダナは赤黒く染めあがり、白抜きされたペイズリーの文様が、あの今にも這いずり回りそうな、歪なしずく型の微生物が、くっきりと浮かび上がっている。
男が、頭を拭っているのか、バンダナの中の生物が、男の頭を這いずり回っているのか。
まわりの人など意に介さない。男はわしづかみにしたバンダナで頭をしきりに撫でまわす。水分を含んで重たくなったため、腕を振り回すたびにバンダナの四隅が、でんでん太鼓のように、振りまわる。
顔の前の方を拭き終え、首の後ろ、襟足のあたりに腕を伸ばした時だった。
振り回されたバンダナの隅が、男の頬に張り付いた。
男の頬にペイズリーの文様が、入れ墨されたように、はっきりとしていた。その音もはっきりしていた。
その瞬間、文様が男の肌に染み込んだのだ。
彼女が男に入り込んだのだ。
電車が止まった。ホームに駆け出した。
見てしまったのだ。
彼女は独りぼっちではなかった。
いや。
彼女は独りぼっちだが、一人ではなかった。
寄生?洗脳?遠隔操作?
彼女は独りぼっちでも、仲間を増やしていたのだ。
雨が彼女の一部だなんて、それは単なるセンチメンタリズムに過ぎない。
実際はもっとグロテスクなのだ。彼女は仲間を増やしていたのだ。
なぜ?
それは、彼を連れていくためだ。連れていくための手足を集めているのだ。
彼が危ない。早く知らせないといけない。
早くその場から離れなければならない。
早く彼の下へ。
バックとレジ袋を抱えてホームを駆ける。乗る人も降りる人もまばらなホームでは、やんわりとした人の流れができている。ドアが閉まるころ、散らばった人間が階段に向かって凝集する。空から降ってくる雨から体をかばいきれなかった人間たちが、たった一つの上り階段に群がってくる。出口はこれしかない。たった一つの出口に向かって駆ける。後ろから迫って来る。
階段をのぼる。
後ろの方で、早足に階段をかける足音、ヒールが地面をける音が聞こえる。
のぼっても、のぼっても、足音が離れない。
ずっと後ろをついてくる、階段をのぼり終えてもまだ聞こえる。
改札が見える。改札さえ抜ければ。
目の前に来た時、視界の外から女性が割り込んでくる。女性はコートから取り出した切符を改札に入れる。
足音が近づく。女性の後ろにつくしかない。足音がもうすぐ側だ。
ポーン、ガシャン。
ICカードを取り出した時、女性の目の前で改札が閉まる。
改札から出られない。
追いつかれてしまう。
前の女性はもう一度切符を改札に通すが、結果は同じだ。
もうだめだ、捕まる。
足音が近づく。
コツコツコツ。
足音が迫る。
ガシャン。
隣の改札が開く。
足音は通り過ぎ、隣を抜けていく。
ハイヒールの後ろ姿が、向こうに消えていく。前にいた女性が頭を下げながら、脇をすり抜けていく。
改札を抜けると駅の待合室には誰もいない。駅の通りでは、傘を差した人たちが行き交う。改札から出た人たちも、傘を取り出し、その人混みの中に加わっていく。
その中にTシャツの男も混じっていた。
アパートも雨に降られていた。昨日の夕焼けとは比べ物にならない。黒くどっぷりと濡れ、年老いた犬の様だった。
そして彼は廊下にはいなかった。
部屋に戻るとバックとレジ袋をリビングに置き、風呂場に向かう。
異様に新しいユニットバスでシャワーを浴びる。長くもない髪を洗い終え、後は身体を流すだけとなったとき、雷が鳴る。
大分近くで落ちたようで、風呂場も僅かに揺れた。真っ暗になった。
停電したようだ。
暗くても身体だけなら洗える。冷たいが水は出る。とりあえず、シャワーは浴び終えてから風呂場を出る。
頭にバスタオルを巻いて、リビングに戻る。リビングも真っ暗だ。カーテンを閉めていない窓も真っ暗だ。街全体が停電してしまったようだ。
濡れた髪を乾かすことができず、ソファに座る。電気が無ければ何もできない。これなら、まかないのサンドイッチを食べてしまおう。冷蔵庫から麦茶を取り出す。
真っ暗な空間で、ほとんど手探りでサンドイッチの包装を解いていく。パックに長方形型に切られたのが二つ入っている。
一つ取り出してかじりついてみる。
店長はBLTと話していたが、実際はキッチンの残り物で作ったようだ。肉がベーコンでなければ、トマトとレタス以外の野菜が挟まっている。
明かりが無いとどうしても、食事が味気なくなってしまう。サンドイッチは特に香りがあるわけでもない。
口に残ったブロッコリーの繊維質を噛みながら、明かりになりそうなものを探す。暗さに目が慣れてきても、あるかどうかわからない物を探すとなると、多少見えたところで、何の頼りにもならない。
目を瞑って、テーブルの上をカルタ取りのように、手をかざして探す。
指先に硬くてすべすべしたものが触る。
アロマキャンドルだった。
顔に近づけると、やはり、ラベンダーの香りがする。
このアロマキャンドルに火を点けてしまうのか。何度か香りを嗅いではテーブルに戻すのを繰り返す。決心がつかない。火を点けた時のことを想像してみる。
真っ暗な空間の中に灯るロウソクの火。部屋一杯に広がるラベンダーの香り。
もう一度、アロマキャンドルを手に取る。
使うためにテーブルに出していたのだ。気に入ったのなら、次はお金を出して買えばよい。なにより、今は明かりが欲しい。
決心はついた。テーブルには一式があったので、火を点けるまではすぐだった。
キャンドルの明かりが揺らめく。
しかし、ラベンダーの香りは想像したほどではなかった。長く外に出していたせいか、部屋いっぱいに広がることはなかった。
サンドイッチを食べ終え、ソファに座る。その時、窓に人影がある。
頭をよぎる。彼女の存在。
停電の夜に乗じて、彼の所に来たのだ。
キャンドルを持って身を隠すと、人影も消える。今度の決心は早かった。玄関からビニール傘を持ってくる。
キャンドルは物陰に置いてベランダに出る。彼の部屋へは非常用の壁を突き破ればすぐだ。彼のベランダまで来る。カギは開いている。ここからでは様子がわからない。彼もまだ帰ってきていない。武器らしいものはこの傘だけだ。振り回すだけでも威力はあるだろう。ガラスの引き戸を開ける。何かが光る。
誰かが屈んでいる。
彼女だ。
物陰に隠れて彼が帰るのを待っている。
やられるよりも先にやれ、だ。
わき腹に傘の持ち手を当てる。立ち上がると同時に突進する。体重を込めて突き刺す。
ガシャン。
硬い感触。刺さるよりぶつかる、だ。
パチン。
突如、停電が復旧する。
一瞬、真っ白になった視界が落ち着いてくる。見覚えのある部屋だ。床には鏡の破片が散っている。キャンドルの火が揺れる。
半開きのベランダに人影が写っている。
アロマキャンドルの火が消える。
それは雨に濡れた私だった。