第4話「雨粒と星粒」
文字数 10,713文字
北国でもこの時期になれば、空には天の川があらわれ、田舎の寂しい夜を華やかなものにしてくれるのだが、空の様子は既に述べた通り。厚い雨雲が夜空の天井になっている。
この暗い街から伸びる一本の農道を、タクシーが一台走っている。舗装も剥げて凸凹になった道を、ヘッドライトの灯りだけを頼りに走る。窪みに溜まった泥水を撥ね飛ばすとき、車体は大きく揺さぶられる。両脇の畑に植えられた茄子の黒っぽい葉が、ライトに照らされては、また暗闇に消えていく。
タクシーの後部座席。セイラー服を着た少女は、頭の横にある窓ガラスをぼんやりと眺めている。ガラスについた雨粒が、走るタクシーの風に流されて、右から左へ、細長い水の筋を作る。しかしその筋も、新たに落ちてきた雨粒によって壊され、また、その雨粒が新しい筋を作っていく。眼前に広がる夜の畑よりも、少女は、ガラスの上で発生している、その有機的な営みを、ただ、ぼんやりと見ていた。
「ここの畑も、もう少しで収穫か。」
隣に座る女性が揺れる車内で、天井の手すりにつかまり呟く。クーラーが効いているにも関わらず、扇子で自分の首筋を扇いでいる。その首元には、真珠のネックレスがぼんやりと光っていた。
「
喪服に身を包んだその女性は、扇ぐ手も止めず、隣に座る少女に話しかける。「瑞希」と呼ばれたセイラー服の少女は、揺れる車体にされるがままになって、あやふやに小さく「うん」と、こたえる。
タクシーが十字路に差し掛かり、運転手が喪服の女性に道を確認する。
「まだ、まっすぐ行ってください。丁字路にぶつかるまで、ずっと、まっすぐです。」
運転手と女性の会話を気にもかけず、瑞希は背もたれに体を深く預けて、ただ、ガラスの雨粒の行方だけを目で追っている。
「叔母さん。叔母さんも今日は、泣いていなかったでしょ。」
女性は小さくため息をついて「叔母さんじゃなくて、
「私ね。あなたのお母さん、優美お姉さんのこと、そんなに好きじゃなかったのよね。嫌いって程ではなかったけど。」
喪服の女性、優希は扇子を動かす手を止めて、瑞希のことを横目で見る。彼女は相変わらず、窓の方を見ている。視線をまた前方に戻す。
「死んだお姉さんの娘の前で、言うようなことじゃないけどね。」
優希はまた扇ぎ始める。
「私も、お母さんのこと、そんなに好きじゃなかったのかな。」
瑞希も窓の方を見たまま呟く。
真っ暗な車内。瑞希と優希の間に沈黙が流れる。お互いその沈黙を、決して気まずいものだとか、破らねばならないものだとか、考えることはしなかった。さも当たり前のように、たまたま乗り合わせた知らない人同士のように、瑞希は窓の雨粒を眺め、優希はフロントガラスの向こうを見つめる。そのまま、大きな段差や窪みの上を車が通り抜け、ガタンと大きく揺れた時にだけ、隣のことを気遣うように、一瞬、視線を配るのだった。
ただタクシーの運転手だけが、やや前のめりに道路を見下ろし、「うわっ」とか、「あぶない」など、独り言を呟くのだった。
タクシーは丁字路を右に曲がり、緩やかな坂を上っていく。道路は先ほどの農道よりは幾分か良くなった。濡れた路面に擦れるタイヤの音と、エンジンの周期的な唸りだけが聞こえる。しかし空は未だに、墨汁のような雨を地上にたらし続ける。
タクシーは丘に上り、畑一帯を見下ろせるところを走っている。瑞希と優希が目指す家、瑞希の母親である優美、そして優美の妹である優希の実家はもうすぐそこだった。
窓をずっと見ていた瑞希も、母親の実家が近づいてきたことに気づく。身体を少し起こして窓の様子、雨粒の方ではなく、外の景色をよく見ようとする。瑞希は母親の実家へ行く途中の景色、この小高い道から望む景色が好きだった。いつもであれば、手前に青々とした畑が広がり、奥に灰色の街並みが見える。夜であれば、くたびれたタイツから覗く地肌のような、ぼんやりとした夜景が見える、はずだった。今、車内から見える風景は、今の瑞希が例えるならば、水墨画のネガとポジを入れ替えたような、どす黒い風景だった
タクシーは家の前に着いた。
「瑞希。先に降りてクーラーの電源をつけておいてくれない。」
優希は明るくなった車内で、財布を取り出しながらそのように話す。瑞希ももう一度、身体を起こす。ドアを開けた途端、外からは雨粒と一緒に、その雨粒よりも湿っぽく、暑苦しい空気が彼女を包み込む。クーラーが効いた車内との温度差に、思わず立ち止まってしまった瑞希だったが、留まるわけにもいかない。人肌に温められた寒天の中を、まるでそのようなものは無いように、セイラー服からはみ出た手足は敏感に感じ取っていたが、瑞希の身体全体で見れば、物理法則を無視したように、玄関まで走っていく。
優希もタクシーの支払いを済ませて、玄関に向かって走っていた。運転手から「ご愁傷様です」という言葉と一緒に、返された運賃の端数、その小銭を上着のポケットに入れたので、走るとチャラチャラと鳴る。その音に混ざって運転手の帰りがけの言葉、「余所の家の事情までは知らないけどさ。仏さんのこと悪く言うのは、やめてあげなよ」その言葉が、優希の頭の中をぐるぐると回っていた。
優希が灯りのついた玄関まで来ると、瑞希が扉の前に立ち尽くしていた。
「優希さん。家の中に誰かいるよ。」
玄関の灯り、それは外灯ではなく家の中の明かりが漏れていた。居間の方を見てみれば、きっちりと閉められているカーテンの隙間から、明かりが漏れているのがわかる。
瑞希と同じように優希にも、家にいる誰かに心当たりはなかった。
優希と瑞希は式場で通夜を終えた後、瑞希の父親と優希の両親、言い換えると瑞希の祖父母を式場に残して、二人だけで家に帰ってきた。帰った理由は、単純に式場の宿泊室が足りなかっただけだが、優希としては、あの「通夜ぶるまい」の雰囲気が耐えられず、早く抜け出せたのは好都合だった。それはともかく、優希と瑞希には、二人より先に家に来る人、式場にいる親族が二人より先に帰っているとは到底、考えられなかった。
「どうしよう。警察呼んだ方がいいかな。」
瑞希がスマートフォンを取り出して準備している。優希にもどうしたらよいかわからなかった。だが、警察を呼ぶようなことではない、という奇妙な自信。いや、誰か他人に頼りたくないという気負いがあった。
「とりあえず、チャイム押してみようか。泥棒だったら、それで逃げるでしょ。」
瑞希も優希の提案にすんなりと同意して、郵便受けの横にあるチャイムを、ためらいもなく押す。
「はーい。いま、出まーす。」
扉の向こうから聞こえたのは、二人の予想に反して、至極呑気な男の声であった。
目の前で勢いよく開けられた引き戸。出てきたのは、シャツにトランクスという、下着姿のおじさんだ。
「お!久しぶりだな、優希ちゃん。それと君は・・・。優美ちゃんの娘さんかな?」
「あれっ!
「それはもちろん、優美ちゃんのことを聞いたからだよ。本当は生きているうちに、会いたかったんだけどね。」
瑞希はスマートフォンを持ったまま、あっけにとられていた。瑞希には、優希が「賞多郎くん」と呼ぶこの男性とは、会ったこともなければ、聞いたこともなかった。
賞多郎は瑞希の様子に気づき、二人に家の中に入るように勧める。「俺の家じゃないけどな」と笑いながら、玄関の引き戸を閉めた。
外の雨はまだ止むことはなく、屋根に降り注いでいる。真っ赤なトタン屋根を黒く塗り潰さんと打ちつける雨粒は、雨どいに流れこみ、
賞多郎は二人を居間まで案内する。
きれいに塗り直されたトタン屋根といった、外観の整備具合に反して、屋内は黄ばんだ壁紙だったり、踏むときしむ床板だったり、それなりに老朽化が進んでいる。
居間に着いた後、優希は賞多郎に近づいて、「女子中学生の前なんだから服ぐらい着なさいよ」と耳打ちする。それを聞いて賞多郎は、自分の下着姿を見て「失礼、失礼」と、奥の風呂場へと着替えを取りに行く。
瑞希はというと、足早にソファの端っこに居場所を見つけ、お風呂場へかけて行く賞多郎の姿を見ていた。それを見て優希は立ったまま話す。
「瑞希もセイラー服を着替えたら?私も喪服を脱いじゃうから。」
瑞希はこそこそと立ち上がり、優希の後ろについて、二人の部屋へ歩いていく。
瑞希と優希は、居間から廊下を挟んで隣の和室で着替えていた。優希はスカートのジッパーを掴んだまま、隣で着替える優希に話しかける。
「優希さん、さっきの人って誰?」
優希は喪服の上下を脱ぎ終え、下着姿でボストンバックの中から、少しでも薄手の洋服を探していた。
「さっきのは賞多郎くん。私からすれば、
優希はボストンバックに手を突っ込んだまま、「はとこ?」「またいとこ?」と独り言を始める。
「その、賞多郎おじさん以外に、お母さんと優希さんの従兄っているの?」
「うーん。いるかもしれないけど、私が知っているのは賞多郎くん、一人だけだね。」
瑞希は「ふーん」と相槌を打った後、着替えることも忘れ、ただジッパーを掴んだまま、考え事をしていた。今日、初めて会ったお母さんの従兄。きっと、お父さんも知らない。その存在を知ったことで、知られざる母親の顔、というのは大げさだが、何か未知なものに触れたような、不思議な気持ちになっていた。
やはり瑞希は気になった。なぜ、母親は話してくれなかったのか。ただ、話すきっかけがなかっただけ、なのだろうか。瑞希はこの家にたった一人、知らない人がいると思うだけで、母親の実家が急に知らない誰かの家のように感じて、仕方がなかった。
すると目の前に、ジャージに着替えた優希が現れた。瑞希はドキリとする。
「早く着替えなさいよ。明日も制服は着るんだから。シワになっちゃうよ。」
瑞希は自分がまだ、セイラー服のままであることに気づき、慌ててスウェットに着替える。
瑞希と優希が着替え終えて居間に戻ると、スラックスにワイシャツをだらしなく着た賞多郎が、テーブルにスーパーの惣菜を並べていた。優希が「どうして喪服着ているの」と聞くと、賞多郎は「着替えがこれしかなくて」と、きまり悪そうにこたえる。「まぁ、明日の葬儀と告別式で終わりだからね」と、特に詮索せず、優希は賞多郎の向かいに座る。瑞希は、また、さっきと同じようにソファの端っこ、テーブルから一番離れたところに座る。賞多郎は、レジ袋から缶ビールを出しながら、優希と瑞希に視線をやりながら話す。
「二人はもう、夕飯食った?買いすぎちゃったから、良かったら食べて。」
「いいの?なら、ご馳走になるわ。」
優希は賞多郎から取り皿と割り箸を二つずつ受け取ると、もう一つを自分の隣に置く。
「瑞希ちゃん。そんな隅っこにいないで。ほら、唐揚げもあるよ。」
瑞希はふてくされたように、ふてくされる理由はないのだが、仕方なく優希の隣に移る。
「初めまして。お母さんの従兄で、瑞希ちゃんからすれば
賞多郎はそう言って右手を差し出す。瑞希もおずおずと「殿田瑞希です」と、右手を出して握手をする。隣で優希が、
「そうそう、名前に人偏を足すと、
と冷やかす。
「やめろよ、優希。高校までいじられたんだから。」
そうやって笑う二人を、瑞希は二人の間から見ていた。そして瑞希は、テーブルに並べられた惣菜を眺め、どれから食べようか、やはり唐揚げから食べようか、そのようなことを考えていた。
空っぽになった総菜のパックが、サイズごとに重ねられ、テーブルの端に寄せてある。真ん中には、助六寿司の残りが入ったトレーに、イカリングと焼き鳥の残りが盛り合わせられている。
優希は片膝を立てて、その立てた膝を抱くように座る。コップを手に持ってはいるが、中身のビールをこぼしそうに、だらしなく持っている。
瑞希も体育座りをして、膝にリンゴジュースの紙パックを挟んでいる。中身が無いにもかかわらず、ストローを吸い続け、ズズーと音を立てる。
早い話、瑞希はふてくされていた。さっきまでの二人の会話、優希と賞多郎がする思い出話に、瑞希は全くついていけなかったのだ。ありきたりな近況の話だったものが、いつの間にか昔話になり、この家で過ごした夏休みのこと、裏山の秘密基地のこと、曾祖父の家に遊びに行ったこと、賞多郎の家にも遊びに行ったこと。そのように、瑞希が生まれる前の話を延々と聞かされたのだ。その思い出ごとに必ずと言っていいほど、母親の優美が登場し、瑞希の知らない母親の姿を知らしめるのだった。普通の息子娘であれば、親の昔話は面白がって聞くかもしれないが、瑞希には、少なからず今の瑞希には、孤独感というか、疎外感を、ただ強く感じさせるだけだった。
一方、賞多郎は優希に言いつけられて、台所の冷蔵庫の中からビールを探していた。「ビールって、この瓶のを飲んでいいの?」と賞多郎が確認すると、優美は「いいの。いいの。全部昨夜の残りだから。あと、適当につまめるものも持ってきて」と、コップを持っていないほうの手を、ぐるぐる振り回しながらこたえる。振り回した手を瑞希の肩に回し、「どれ、お姉さんと一杯するか」と絡んでいく。瑞希は何も言わず、肩に乗せられた手をほどき、紙パックを吸い続ける。台所の遠くから、「未成年に飲ませるなよ」という賞多郎の声が聞こえる。
不意に思い出したように、優希が話し始める。賞多郎はまだ台所から帰ってこない。
「そーいえばさー。あの時、お姉ちゃんとなに話していたのー。」
瑞希は、また昔の話だと思った。ストローを吸うが、もう音は鳴らない。リンゴの味もしなくなっていた。
「優美ちゃんと話って、それだけじゃわからないよ。
換気扇の音に混じって、賞多郎の声が聞こえる。ガス台の五徳にフライパンがぶつかる音。賞多郎はなにやら料理を始めているみたいだ。
「何時って、親族みんなで集まったじゃん。えーっと、お姉ちゃんが結婚する時?」
瑞希は予想していたより、最近の話で意外だと感じた。ストローを吸うのを辞める。
優希は酔いが回っているために、要領よく話ができない。だらだらと続ける。
「あれだよ。お姉ちゃんが彼氏連れてきたことあったじゃん。彼氏と言っても、今の旦那さんだけど。あのとき大分騒いだじゃん。『できちゃった婚』だーっ、て。」
瑞希には初耳だった。両親が『できちゃった婚』だったということ。訊くまでもなく、その子供は自分であるということ。
瑞希はストローから口が離れる。何度も噛んで、グチャグチャになったストローの先が、紙パックからはみ出している。衝撃を受けている瑞希のことなど気にせず、優希は話を続ける。
「その結婚報告は、なんとか丸く収まったけど。夕食の準備しているとき、お姉ちゃんはさ、賞多郎くんと出かけたじゃん。旦那を家に残してさ。二人っきりで。」
賞多郎の方では、換気扇を止めて料理をフライパンから皿に移す音が聞こえる、賞多郎は黙っている。
優希は意地悪くニヤニヤと笑う。「あんたは『でき婚』の娘だったのよ」と、瑞希が知らなかったことを嘲笑っているようだ。少なからず隣にいる瑞希にはそう見えた。それと、このように酔っぱらう優希の姿を見るのも初めてだった。
優希は残ったビールを飲み干し、コップをテーブルに叩きつける。台所に向かって「早くビールと肴を持ってこい」と声を荒げる。
賞多郎がチャーハンを盛り付けた皿を、テーブルの真ん中に置く。手でちぎったハムとレタスに、ふわふわとした大きな炒り卵が入ったチャーハンだ。優しいバターの香りが広がる。
優希は「なんだ、もう締めのご飯か」と悪態をつきながら、立膝から胡座に座り直す。賞多郎は取り皿とレンゲを配りながら、「本人の前でそんな言い方するなよ」と諫める。当の本人である瑞希は、既に目の前のチャーハンに気を取られていた。賞多郎から皿とレンゲをもらうなり、早速取り分ける。優希は栓の開いていないビールの大瓶を抱いて、賞多郎に栓抜きを催促している。
瑞希はチャーハンをレンゲの先に少しだけすくい、口に運ぶ。大雑把にちぎられたハムやレタス、大きな炒り卵はレンゲに乗せていないが、ご飯の味付けだけで分かった。
このチャーハンは、母親が作ってくれたものと同じチャーハンだ。バターとコンソメの甘みに、焦がした醤油の香り。チャーハンというより、ピラフのようなチャーハン。学校が休みで、家でお昼ご飯を食べるときに、良く母親が作ってくれた料理だ。それは、父親が居ない平日、母親と二人きりのお昼に食べる定番だった。
瑞希は夢中になって、二杯目をよそっていた。優希はようやく開いたビールをコップに注ぎながら、「それにしても、賞多郎くんが料理をつくるとはねぇ」とぼやく。「まあ、披露する機会が無かっただけだよ」と、賞多郎はごまかしながら、ビールを注いでもらう。
「もしかして、瑞希ちゃんの気を引こうっていう、つもり?」
優希はビール瓶を自分のすぐ近くに置く。
「そんなつもりなんてないよ。」
賞多郎はちびちび飲みながらこたえる。
「まぁ賞多郎くんは、年下が好きだからな。瑞希!気を付けろよ!」
と、優希はビールを飲ませようとした時と同じく、また左手を瑞希の肩に回す。それでも、瑞希はチャーハンに夢中だった。
「賞多郎さん。このチャーハンの作り方って、誰かに教えてもらいましたか?お母さんのチャーハンと、同じ味なんです。」
瑞希はレンゲに乗せたチャーハンを見つめながら訊く。今日初めて、瑞希が賞多郎にかけた言葉だった。賞多郎は、少し考えてからこたえる。
「僕は自分の母から教えてもらったけど。」
瑞希はてっきり、母親が賞多郎に教えたものだと決めつけていた。ということは?
「はっきり、言いなさいよ。お姉ちゃんの元カレだって。ということは、付き合っているときに、賞多郎くんが教えたんでしょ。」
そっぽを向いて、ビールを飲みながら優希は話す。賞多郎はゆっくりとうなずきながら、自分の取り皿とレンゲをテーブルに戻す。瑞希にとって、また知らないことだった。
「そうだ!あたしの質問!」
優希がテーブルから乗り出し、賞多郎の真ん前まで顔を突き出す。その振動のあまり、ビール瓶が揺れて瓶の口が円を描く。
「だから、あのとき、お姉ちゃんと何を話したのよ!この際だから、全部話しなさいよ。」
優希は、酔いに任せてまくし立てる。
「彼氏連れてきたとき、お姉ちゃんと賞多郎くんは、まだ別れていなかったでしょ!なんて、言われたのよ!」
優希はさながら取り調べ室の刑事のように、瓶ビールをテーブルライトに見立てて、前のめりになる。賞多郎は両手を膝の上に揃えて、いつの間にか正座をしていたようだ。
瑞希にはもう、訳がわからなかった。「母親は父親とできちゃった婚」で「賞多郎さんは母親の彼氏」だった。そしたら私は?瑞希にはわからなかった。
三人の間に沈黙が流れる。
優希にとってこの質問は、どうしてもはっきりさせたいことだった。今はっきりさせる必要がなくても、今しか機会が無いことははっきりしていた。姉の優美が賞多郎と別れた理由、それも不倫に近い形で強引に別れた理由。そのことを、姉の娘の前ではっきりさせることが、優希にとって最大の姉への復讐だった。あの頃、優希も賞多郎のことが好きだった。
賞多郎が重そうに口を開く。
「優美からは、あの時に初めて別れを切り出されたよ。親族同士はよくないよねって。」
「それから!」
優希は睨みつける。
「それから・・・。お腹にいる子供が、瑞希ちゃんが、僕と優美の子供かもって。」
優美は、なんて答えるか予想がついていたのだろう。優美はわざとらしく呆れた顔をして、瑞希の顔を覗く。賞多郎は慌てて付け加える。
「あの時はそうだったけど、生まれた後、ちゃんと調べて大丈夫だったって。」
瑞希は下を向いたまま動けなかった。賞多郎も瑞希の様子を見て、どう声を掛けたら良いか、わからなくなっていた。ただ、優希だけが満足したように大声で笑っていた。
ひとしきり笑い終えると、「だから、アイツのことなんて嫌いだ」「アイツを可哀想なんて言う奴等なんて嫌いだ」と、独りで小さく叫ぶ。あとは黙々とビールを飲み続けるだけだった。
どれくらい時間がたっただろうか。
賞多郎と瑞希は冷めきったチャーハンを挟んで、何も言わずに座っていた。優希は酔い潰れてそのまま眠りについていた。
その沈黙を柱時計の鐘が破る。夜の12時を告げていた。賞多郎がテーブルの皿を集めながら話す。
「もう、遅いから寝る準備をしようか。」
瑞希もゆっくりとうなずく。テーブルのゴミを瑞希が集め、賞多郎は取り皿と残ったチャーハンを台所に持っていく。賞多郎と瑞希はその後、テーブルに突っ伏す優希の所に集まる。賞多郎が優希の腕を掴んで持ち上げて「布団まで運ぼうか」と話すので、瑞希も優希の足を持つ。優希が半分引きずられるように、居間から向かいの和室へ運ばれていく。
「ねぇ。賞多郎さん。」
和室の目の前に来て瑞希は立ち止まる。
「うん?」
賞多郎は顔をあげて瑞希の顔を見る。瑞希と目が合う。
「賞多郎さんは、まだ、お母さんのことが好きですか?」
「好きだよ。だからこうして、ここまで来たんだよ。」
「そう、なんですね。」
「それに今日、瑞希ちゃん、君と会えてよかったとも、思っているよ。」
「それは、私がお母さんの娘だからですか?」
「違うよ。“瑞希ちゃん”だからだよ。」
賞多郎はそう答えた。
二人は和室に入り、優希をそのまま布団に寝かせ、居間に戻る。
「瑞希ちゃん。洗い物は僕がやっておくから、先に寝ちゃって。そうそう明日は式場に10時だっけ。」
そう言って賞多郎は台所で洗い物を始める。残ったチャーハンをそのままゴミ箱に、
「賞多郎さん。待って。そのチャーハン。」
瑞希は賞多郎の腕に飛びつく。
「明日の朝、食べるから残しておいて。」
「一晩おいたら、硬くなっちゃうよ。」
「それでもいいの。お母さんの味だから。」
賞多郎はどのように返事したらよいか、困ってしまった。とりあえずお皿を台所の作業台に戻し、ラップを取り出す。その仕草を見ながら、瑞希が続ける。
「そのチャーハン、お母さんがよく作ってくれたんです。」
「そんなによく、優美は作ったの?」
「うん。メニューに困った時はいつも。」
「なんじゃそりゃあ。」
二人は顔を見合わせて笑う。和室の方から、優希のいびきとも呻きともつかない寝言が聞こえる。二人はまた笑ってしまった。
瑞希と賞多郎はおやすみのあいさつをした後、それぞれの部屋に向かう。賞多郎は居間の奥にある祖父母の部屋で寝るつもりで、瑞希は優希が寝ている和室で一緒に寝る。
襖を開けると、居間からこぼれた明かりで、優希が大きく寝息を立てながら眠る姿が見える。さっき掛けてあげたはずのタオルケットが、もう蹴飛ばされている。
賞多郎が居間の灯りを消すと、和室は障子から透ける光だけになった。窓の外の薄明るい光を、障子紙がいっぱいに吸い込み、ぼんやりと和室を照らしている。
瑞希は雨が止んでいることに気づいた。
障子に近づき、差し込む光の具合と優希の頭の位置に気を付けながら、少しだけ開ける。
雨粒が瑞希の顔に映る。
窓についた雨粒が上から下へ流れていく。その雨粒に滲んだ窓ガラスから、曇りがちな夜空が見えた。瑞希はその狭い隙間から星を探してみる。
彦星と織姫。しかし瑞希には見つけられなかった。そもそも、それらがどのような星か知らなかったから、見つけようがなかった。ただ、雲の隙間から見える星々が、天の川だろうか、と考えるので精一杯だった。
瑞希はゆっくりと障子を閉めて、自分の布団の中に潜り込む。隣で眠る優希の顔を見て、瑞希は驚いた。
優希は泣いていた。
瑞希には、優希が泣きながら何を呟いているのか、聞き取ろうとすれば出来た。しかし聞かなかった。ただ優希が泣いている、その事実だけで十分であった。
瑞希は仰向けになり天井を見ていた。そして今夜のことを思い出していた。
母親と優希と賞多郎の思い出、母親と賞多郎のこと、そして、母親のチャーハンのこと。瑞希にはどれも煩雑すぎて、自分の中でどう整理すればよいのか、まだわからなかった。
ただ、今の瑞希にはっきりしていること。それは、明日の朝、あのチャーハンを食べられること。時間があれば、賞多郎に作り方を教えてもらえるかもしれないこと。そして、母親の葬儀と告別式があること。
瑞希は、はっとした。賞多郎に明日の予定を伝えていない。10時に会場についてしまったら遅刻だ。賞多郎は弔問客として後ろの席に座るかも知れないが、瑞希と優希は親族席に座るから、遅刻するわけにはいかない。
瑞希は自分のことを変に思った。母親の葬式だというのに、遅刻の心配をしてどうするのか、と。それでも気になる明日の予定は、自分が早起きすれば問題ないと、自分に言い聞かせて眠ることにする。
目を瞑ったとき、瑞希は昔のことを思い出していた。昔のこと、それは優希や賞多郎は知らない、母親と瑞希との思い出だった。