第4話「雨粒と星粒」

文字数 10,713文字

 梅雨というには季節外れだが、夕方から降り続けた雨がまだ、しとしとと降り続けている。雨雲によって閉じ込められた外気、昼間の日差しによって熱せられたこの空気は、たっぷりと湿気を抱き込み、北国の初夏というものを、やたらに、蒸し暑いものにしていた。
 北国でもこの時期になれば、空には天の川があらわれ、田舎の寂しい夜を華やかなものにしてくれるのだが、空の様子は既に述べた通り。厚い雨雲が夜空の天井になっている。
 この暗い街から伸びる一本の農道を、タクシーが一台走っている。舗装も剥げて凸凹になった道を、ヘッドライトの灯りだけを頼りに走る。窪みに溜まった泥水を撥ね飛ばすとき、車体は大きく揺さぶられる。両脇の畑に植えられた茄子の黒っぽい葉が、ライトに照らされては、また暗闇に消えていく。

 タクシーの後部座席。セイラー服を着た少女は、頭の横にある窓ガラスをぼんやりと眺めている。ガラスについた雨粒が、走るタクシーの風に流されて、右から左へ、細長い水の筋を作る。しかしその筋も、新たに落ちてきた雨粒によって壊され、また、その雨粒が新しい筋を作っていく。眼前に広がる夜の畑よりも、少女は、ガラスの上で発生している、その有機的な営みを、ただ、ぼんやりと見ていた。
「ここの畑も、もう少しで収穫か。」
隣に座る女性が揺れる車内で、天井の手すりにつかまり呟く。クーラーが効いているにも関わらず、扇子で自分の首筋を扇いでいる。その首元には、真珠のネックレスがぼんやりと光っていた。
 「瑞希(みずき)ちゃん。今日、泣かなかったね。」
喪服に身を包んだその女性は、扇ぐ手も止めず、隣に座る少女に話しかける。「瑞希」と呼ばれたセイラー服の少女は、揺れる車体にされるがままになって、あやふやに小さく「うん」と、こたえる。
 タクシーが十字路に差し掛かり、運転手が喪服の女性に道を確認する。
「まだ、まっすぐ行ってください。丁字路にぶつかるまで、ずっと、まっすぐです。」
 運転手と女性の会話を気にもかけず、瑞希は背もたれに体を深く預けて、ただ、ガラスの雨粒の行方だけを目で追っている。
「叔母さん。叔母さんも今日は、泣いていなかったでしょ。」
女性は小さくため息をついて「叔母さんじゃなくて、優希(ゆき)お姉さんでしょ」と、訂正してから、続きを話す。
「私ね。あなたのお母さん、優美お姉さんのこと、そんなに好きじゃなかったのよね。嫌いって程ではなかったけど。」
喪服の女性、優希は扇子を動かす手を止めて、瑞希のことを横目で見る。彼女は相変わらず、窓の方を見ている。視線をまた前方に戻す。
「死んだお姉さんの娘の前で、言うようなことじゃないけどね。」
優希はまた扇ぎ始める。
「私も、お母さんのこと、そんなに好きじゃなかったのかな。」
瑞希も窓の方を見たまま呟く。

 真っ暗な車内。瑞希と優希の間に沈黙が流れる。お互いその沈黙を、決して気まずいものだとか、破らねばならないものだとか、考えることはしなかった。さも当たり前のように、たまたま乗り合わせた知らない人同士のように、瑞希は窓の雨粒を眺め、優希はフロントガラスの向こうを見つめる。そのまま、大きな段差や窪みの上を車が通り抜け、ガタンと大きく揺れた時にだけ、隣のことを気遣うように、一瞬、視線を配るのだった。
 ただタクシーの運転手だけが、やや前のめりに道路を見下ろし、「うわっ」とか、「あぶない」など、独り言を呟くのだった。

 タクシーは丁字路を右に曲がり、緩やかな坂を上っていく。道路は先ほどの農道よりは幾分か良くなった。濡れた路面に擦れるタイヤの音と、エンジンの周期的な唸りだけが聞こえる。しかし空は未だに、墨汁のような雨を地上にたらし続ける。
 タクシーは丘に上り、畑一帯を見下ろせるところを走っている。瑞希と優希が目指す家、瑞希の母親である優美、そして優美の妹である優希の実家はもうすぐそこだった。
 窓をずっと見ていた瑞希も、母親の実家が近づいてきたことに気づく。身体を少し起こして窓の様子、雨粒の方ではなく、外の景色をよく見ようとする。瑞希は母親の実家へ行く途中の景色、この小高い道から望む景色が好きだった。いつもであれば、手前に青々とした畑が広がり、奥に灰色の街並みが見える。夜であれば、くたびれたタイツから覗く地肌のような、ぼんやりとした夜景が見える、はずだった。今、車内から見える風景は、今の瑞希が例えるならば、水墨画のネガとポジを入れ替えたような、どす黒い風景だった

 タクシーは家の前に着いた。
「瑞希。先に降りてクーラーの電源をつけておいてくれない。」
 優希は明るくなった車内で、財布を取り出しながらそのように話す。瑞希ももう一度、身体を起こす。ドアを開けた途端、外からは雨粒と一緒に、その雨粒よりも湿っぽく、暑苦しい空気が彼女を包み込む。クーラーが効いた車内との温度差に、思わず立ち止まってしまった瑞希だったが、留まるわけにもいかない。人肌に温められた寒天の中を、まるでそのようなものは無いように、セイラー服からはみ出た手足は敏感に感じ取っていたが、瑞希の身体全体で見れば、物理法則を無視したように、玄関まで走っていく。
 優希もタクシーの支払いを済ませて、玄関に向かって走っていた。運転手から「ご愁傷様です」という言葉と一緒に、返された運賃の端数、その小銭を上着のポケットに入れたので、走るとチャラチャラと鳴る。その音に混ざって運転手の帰りがけの言葉、「余所の家の事情までは知らないけどさ。仏さんのこと悪く言うのは、やめてあげなよ」その言葉が、優希の頭の中をぐるぐると回っていた。

 優希が灯りのついた玄関まで来ると、瑞希が扉の前に立ち尽くしていた。
「優希さん。家の中に誰かいるよ。」
 玄関の灯り、それは外灯ではなく家の中の明かりが漏れていた。居間の方を見てみれば、きっちりと閉められているカーテンの隙間から、明かりが漏れているのがわかる。
 瑞希と同じように優希にも、家にいる誰かに心当たりはなかった。
 優希と瑞希は式場で通夜を終えた後、瑞希の父親と優希の両親、言い換えると瑞希の祖父母を式場に残して、二人だけで家に帰ってきた。帰った理由は、単純に式場の宿泊室が足りなかっただけだが、優希としては、あの「通夜ぶるまい」の雰囲気が耐えられず、早く抜け出せたのは好都合だった。それはともかく、優希と瑞希には、二人より先に家に来る人、式場にいる親族が二人より先に帰っているとは到底、考えられなかった。
 「どうしよう。警察呼んだ方がいいかな。」
瑞希がスマートフォンを取り出して準備している。優希にもどうしたらよいかわからなかった。だが、警察を呼ぶようなことではない、という奇妙な自信。いや、誰か他人に頼りたくないという気負いがあった。
「とりあえず、チャイム押してみようか。泥棒だったら、それで逃げるでしょ。」
瑞希も優希の提案にすんなりと同意して、郵便受けの横にあるチャイムを、ためらいもなく押す。
「はーい。いま、出まーす。」
 扉の向こうから聞こえたのは、二人の予想に反して、至極呑気な男の声であった。
 目の前で勢いよく開けられた引き戸。出てきたのは、シャツにトランクスという、下着姿のおじさんだ。
「お!久しぶりだな、優希ちゃん。それと君は・・・。優美ちゃんの娘さんかな?」
「あれっ!賞多郎(しょうたろう)くん?今、東京にいるんじゃなかったの。なんでここに?」
「それはもちろん、優美ちゃんのことを聞いたからだよ。本当は生きているうちに、会いたかったんだけどね。」
 瑞希はスマートフォンを持ったまま、あっけにとられていた。瑞希には、優希が「賞多郎くん」と呼ぶこの男性とは、会ったこともなければ、聞いたこともなかった。
 賞多郎は瑞希の様子に気づき、二人に家の中に入るように勧める。「俺の家じゃないけどな」と笑いながら、玄関の引き戸を閉めた。
 外の雨はまだ止むことはなく、屋根に降り注いでいる。真っ赤なトタン屋根を黒く塗り潰さんと打ちつける雨粒は、雨どいに流れこみ、(ひさし)の柱に据えられた排水管を通って、地面に落ちていく。その水勢のあまり、排水管は激しく震えていた。

 賞多郎は二人を居間まで案内する。
 きれいに塗り直されたトタン屋根といった、外観の整備具合に反して、屋内は黄ばんだ壁紙だったり、踏むときしむ床板だったり、それなりに老朽化が進んでいる。
 居間に着いた後、優希は賞多郎に近づいて、「女子中学生の前なんだから服ぐらい着なさいよ」と耳打ちする。それを聞いて賞多郎は、自分の下着姿を見て「失礼、失礼」と、奥の風呂場へと着替えを取りに行く。
 瑞希はというと、足早にソファの端っこに居場所を見つけ、お風呂場へかけて行く賞多郎の姿を見ていた。それを見て優希は立ったまま話す。
「瑞希もセイラー服を着替えたら?私も喪服を脱いじゃうから。」
瑞希はこそこそと立ち上がり、優希の後ろについて、二人の部屋へ歩いていく。

 瑞希と優希は、居間から廊下を挟んで隣の和室で着替えていた。優希はスカートのジッパーを掴んだまま、隣で着替える優希に話しかける。
「優希さん、さっきの人って誰?」
 優希は喪服の上下を脱ぎ終え、下着姿でボストンバックの中から、少しでも薄手の洋服を探していた。
「さっきのは賞多郎くん。私からすれば、従兄(いとこ)になるんだけど。瑞希ちゃんからだと、お祖父(おじ)ちゃんのお姉さんの子供だから・・・。それって、何て言うんだろうね。」
優希はボストンバックに手を突っ込んだまま、「はとこ?」「またいとこ?」と独り言を始める。
「その、賞多郎おじさん以外に、お母さんと優希さんの従兄っているの?」
「うーん。いるかもしれないけど、私が知っているのは賞多郎くん、一人だけだね。」
 瑞希は「ふーん」と相槌を打った後、着替えることも忘れ、ただジッパーを掴んだまま、考え事をしていた。今日、初めて会ったお母さんの従兄。きっと、お父さんも知らない。その存在を知ったことで、知られざる母親の顔、というのは大げさだが、何か未知なものに触れたような、不思議な気持ちになっていた。
 やはり瑞希は気になった。なぜ、母親は話してくれなかったのか。ただ、話すきっかけがなかっただけ、なのだろうか。瑞希はこの家にたった一人、知らない人がいると思うだけで、母親の実家が急に知らない誰かの家のように感じて、仕方がなかった。
 すると目の前に、ジャージに着替えた優希が現れた。瑞希はドキリとする。
「早く着替えなさいよ。明日も制服は着るんだから。シワになっちゃうよ。」
瑞希は自分がまだ、セイラー服のままであることに気づき、慌ててスウェットに着替える。

 瑞希と優希が着替え終えて居間に戻ると、スラックスにワイシャツをだらしなく着た賞多郎が、テーブルにスーパーの惣菜を並べていた。優希が「どうして喪服着ているの」と聞くと、賞多郎は「着替えがこれしかなくて」と、きまり悪そうにこたえる。「まぁ、明日の葬儀と告別式で終わりだからね」と、特に詮索せず、優希は賞多郎の向かいに座る。瑞希は、また、さっきと同じようにソファの端っこ、テーブルから一番離れたところに座る。賞多郎は、レジ袋から缶ビールを出しながら、優希と瑞希に視線をやりながら話す。
「二人はもう、夕飯食った?買いすぎちゃったから、良かったら食べて。」
「いいの?なら、ご馳走になるわ。」
優希は賞多郎から取り皿と割り箸を二つずつ受け取ると、もう一つを自分の隣に置く。
「瑞希ちゃん。そんな隅っこにいないで。ほら、唐揚げもあるよ。」
 瑞希はふてくされたように、ふてくされる理由はないのだが、仕方なく優希の隣に移る。
「初めまして。お母さんの従兄で、瑞希ちゃんからすれば従兄伯父(いとこおじ)にあたる、笹木賞多郎です。」
賞多郎はそう言って右手を差し出す。瑞希もおずおずと「殿田瑞希です」と、右手を出して握手をする。隣で優希が、
「そうそう、名前に人偏を足すと、(つぐ)多郎なんだよ。」
と冷やかす。
「やめろよ、優希。高校までいじられたんだから。」
 そうやって笑う二人を、瑞希は二人の間から見ていた。そして瑞希は、テーブルに並べられた惣菜を眺め、どれから食べようか、やはり唐揚げから食べようか、そのようなことを考えていた。

 空っぽになった総菜のパックが、サイズごとに重ねられ、テーブルの端に寄せてある。真ん中には、助六寿司の残りが入ったトレーに、イカリングと焼き鳥の残りが盛り合わせられている。
 優希は片膝を立てて、その立てた膝を抱くように座る。コップを手に持ってはいるが、中身のビールをこぼしそうに、だらしなく持っている。
 瑞希も体育座りをして、膝にリンゴジュースの紙パックを挟んでいる。中身が無いにもかかわらず、ストローを吸い続け、ズズーと音を立てる。
 早い話、瑞希はふてくされていた。さっきまでの二人の会話、優希と賞多郎がする思い出話に、瑞希は全くついていけなかったのだ。ありきたりな近況の話だったものが、いつの間にか昔話になり、この家で過ごした夏休みのこと、裏山の秘密基地のこと、曾祖父の家に遊びに行ったこと、賞多郎の家にも遊びに行ったこと。そのように、瑞希が生まれる前の話を延々と聞かされたのだ。その思い出ごとに必ずと言っていいほど、母親の優美が登場し、瑞希の知らない母親の姿を知らしめるのだった。普通の息子娘であれば、親の昔話は面白がって聞くかもしれないが、瑞希には、少なからず今の瑞希には、孤独感というか、疎外感を、ただ強く感じさせるだけだった。
 一方、賞多郎は優希に言いつけられて、台所の冷蔵庫の中からビールを探していた。「ビールって、この瓶のを飲んでいいの?」と賞多郎が確認すると、優美は「いいの。いいの。全部昨夜の残りだから。あと、適当につまめるものも持ってきて」と、コップを持っていないほうの手を、ぐるぐる振り回しながらこたえる。振り回した手を瑞希の肩に回し、「どれ、お姉さんと一杯するか」と絡んでいく。瑞希は何も言わず、肩に乗せられた手をほどき、紙パックを吸い続ける。台所の遠くから、「未成年に飲ませるなよ」という賞多郎の声が聞こえる。

 不意に思い出したように、優希が話し始める。賞多郎はまだ台所から帰ってこない。
「そーいえばさー。あの時、お姉ちゃんとなに話していたのー。」
 瑞希は、また昔の話だと思った。ストローを吸うが、もう音は鳴らない。リンゴの味もしなくなっていた。
「優美ちゃんと話って、それだけじゃわからないよ。何時(いつ)の話?」
換気扇の音に混じって、賞多郎の声が聞こえる。ガス台の五徳にフライパンがぶつかる音。賞多郎はなにやら料理を始めているみたいだ。
「何時って、親族みんなで集まったじゃん。えーっと、お姉ちゃんが結婚する時?」
 瑞希は予想していたより、最近の話で意外だと感じた。ストローを吸うのを辞める。
 優希は酔いが回っているために、要領よく話ができない。だらだらと続ける。
「あれだよ。お姉ちゃんが彼氏連れてきたことあったじゃん。彼氏と言っても、今の旦那さんだけど。あのとき大分騒いだじゃん。『できちゃった婚』だーっ、て。」
 瑞希には初耳だった。両親が『できちゃった婚』だったということ。訊くまでもなく、その子供は自分であるということ。
 瑞希はストローから口が離れる。何度も噛んで、グチャグチャになったストローの先が、紙パックからはみ出している。衝撃を受けている瑞希のことなど気にせず、優希は話を続ける。
「その結婚報告は、なんとか丸く収まったけど。夕食の準備しているとき、お姉ちゃんはさ、賞多郎くんと出かけたじゃん。旦那を家に残してさ。二人っきりで。」
 賞多郎の方では、換気扇を止めて料理をフライパンから皿に移す音が聞こえる、賞多郎は黙っている。
 優希は意地悪くニヤニヤと笑う。「あんたは『でき婚』の娘だったのよ」と、瑞希が知らなかったことを嘲笑っているようだ。少なからず隣にいる瑞希にはそう見えた。それと、このように酔っぱらう優希の姿を見るのも初めてだった。
 優希は残ったビールを飲み干し、コップをテーブルに叩きつける。台所に向かって「早くビールと肴を持ってこい」と声を荒げる。

 賞多郎がチャーハンを盛り付けた皿を、テーブルの真ん中に置く。手でちぎったハムとレタスに、ふわふわとした大きな炒り卵が入ったチャーハンだ。優しいバターの香りが広がる。
 優希は「なんだ、もう締めのご飯か」と悪態をつきながら、立膝から胡座に座り直す。賞多郎は取り皿とレンゲを配りながら、「本人の前でそんな言い方するなよ」と諫める。当の本人である瑞希は、既に目の前のチャーハンに気を取られていた。賞多郎から皿とレンゲをもらうなり、早速取り分ける。優希は栓の開いていないビールの大瓶を抱いて、賞多郎に栓抜きを催促している。
 瑞希はチャーハンをレンゲの先に少しだけすくい、口に運ぶ。大雑把にちぎられたハムやレタス、大きな炒り卵はレンゲに乗せていないが、ご飯の味付けだけで分かった。
 このチャーハンは、母親が作ってくれたものと同じチャーハンだ。バターとコンソメの甘みに、焦がした醤油の香り。チャーハンというより、ピラフのようなチャーハン。学校が休みで、家でお昼ご飯を食べるときに、良く母親が作ってくれた料理だ。それは、父親が居ない平日、母親と二人きりのお昼に食べる定番だった。
 瑞希は夢中になって、二杯目をよそっていた。優希はようやく開いたビールをコップに注ぎながら、「それにしても、賞多郎くんが料理をつくるとはねぇ」とぼやく。「まあ、披露する機会が無かっただけだよ」と、賞多郎はごまかしながら、ビールを注いでもらう。
「もしかして、瑞希ちゃんの気を引こうっていう、つもり?」
優希はビール瓶を自分のすぐ近くに置く。
「そんなつもりなんてないよ。」
賞多郎はちびちび飲みながらこたえる。
「まぁ賞多郎くんは、年下が好きだからな。瑞希!気を付けろよ!」
と、優希はビールを飲ませようとした時と同じく、また左手を瑞希の肩に回す。それでも、瑞希はチャーハンに夢中だった。
「賞多郎さん。このチャーハンの作り方って、誰かに教えてもらいましたか?お母さんのチャーハンと、同じ味なんです。」
瑞希はレンゲに乗せたチャーハンを見つめながら訊く。今日初めて、瑞希が賞多郎にかけた言葉だった。賞多郎は、少し考えてからこたえる。
「僕は自分の母から教えてもらったけど。」
 瑞希はてっきり、母親が賞多郎に教えたものだと決めつけていた。ということは?
「はっきり、言いなさいよ。お姉ちゃんの元カレだって。ということは、付き合っているときに、賞多郎くんが教えたんでしょ。」
そっぽを向いて、ビールを飲みながら優希は話す。賞多郎はゆっくりとうなずきながら、自分の取り皿とレンゲをテーブルに戻す。瑞希にとって、また知らないことだった。

 「そうだ!あたしの質問!」
優希がテーブルから乗り出し、賞多郎の真ん前まで顔を突き出す。その振動のあまり、ビール瓶が揺れて瓶の口が円を描く。
「だから、あのとき、お姉ちゃんと何を話したのよ!この際だから、全部話しなさいよ。」
優希は、酔いに任せてまくし立てる。
「彼氏連れてきたとき、お姉ちゃんと賞多郎くんは、まだ別れていなかったでしょ!なんて、言われたのよ!」
 優希はさながら取り調べ室の刑事のように、瓶ビールをテーブルライトに見立てて、前のめりになる。賞多郎は両手を膝の上に揃えて、いつの間にか正座をしていたようだ。
 瑞希にはもう、訳がわからなかった。「母親は父親とできちゃった婚」で「賞多郎さんは母親の彼氏」だった。そしたら私は?瑞希にはわからなかった。

 三人の間に沈黙が流れる。
 優希にとってこの質問は、どうしてもはっきりさせたいことだった。今はっきりさせる必要がなくても、今しか機会が無いことははっきりしていた。姉の優美が賞多郎と別れた理由、それも不倫に近い形で強引に別れた理由。そのことを、姉の娘の前ではっきりさせることが、優希にとって最大の姉への復讐だった。あの頃、優希も賞多郎のことが好きだった。
 賞多郎が重そうに口を開く。
「優美からは、あの時に初めて別れを切り出されたよ。親族同士はよくないよねって。」
「それから!」
優希は睨みつける。
「それから・・・。お腹にいる子供が、瑞希ちゃんが、僕と優美の子供かもって。」
優美は、なんて答えるか予想がついていたのだろう。優美はわざとらしく呆れた顔をして、瑞希の顔を覗く。賞多郎は慌てて付け加える。
「あの時はそうだったけど、生まれた後、ちゃんと調べて大丈夫だったって。」
 瑞希は下を向いたまま動けなかった。賞多郎も瑞希の様子を見て、どう声を掛けたら良いか、わからなくなっていた。ただ、優希だけが満足したように大声で笑っていた。
 ひとしきり笑い終えると、「だから、アイツのことなんて嫌いだ」「アイツを可哀想なんて言う奴等なんて嫌いだ」と、独りで小さく叫ぶ。あとは黙々とビールを飲み続けるだけだった。

 どれくらい時間がたっただろうか。
賞多郎と瑞希は冷めきったチャーハンを挟んで、何も言わずに座っていた。優希は酔い潰れてそのまま眠りについていた。
 その沈黙を柱時計の鐘が破る。夜の12時を告げていた。賞多郎がテーブルの皿を集めながら話す。
「もう、遅いから寝る準備をしようか。」
 瑞希もゆっくりとうなずく。テーブルのゴミを瑞希が集め、賞多郎は取り皿と残ったチャーハンを台所に持っていく。賞多郎と瑞希はその後、テーブルに突っ伏す優希の所に集まる。賞多郎が優希の腕を掴んで持ち上げて「布団まで運ぼうか」と話すので、瑞希も優希の足を持つ。優希が半分引きずられるように、居間から向かいの和室へ運ばれていく。
「ねぇ。賞多郎さん。」
 和室の目の前に来て瑞希は立ち止まる。
「うん?」
賞多郎は顔をあげて瑞希の顔を見る。瑞希と目が合う。
「賞多郎さんは、まだ、お母さんのことが好きですか?」
「好きだよ。だからこうして、ここまで来たんだよ。」
「そう、なんですね。」
「それに今日、瑞希ちゃん、君と会えてよかったとも、思っているよ。」
「それは、私がお母さんの娘だからですか?」
「違うよ。“瑞希ちゃん”だからだよ。」
賞多郎はそう答えた。
 二人は和室に入り、優希をそのまま布団に寝かせ、居間に戻る。
「瑞希ちゃん。洗い物は僕がやっておくから、先に寝ちゃって。そうそう明日は式場に10時だっけ。」
 そう言って賞多郎は台所で洗い物を始める。残ったチャーハンをそのままゴミ箱に、
「賞多郎さん。待って。そのチャーハン。」
瑞希は賞多郎の腕に飛びつく。
「明日の朝、食べるから残しておいて。」
「一晩おいたら、硬くなっちゃうよ。」
「それでもいいの。お母さんの味だから。」
賞多郎はどのように返事したらよいか、困ってしまった。とりあえずお皿を台所の作業台に戻し、ラップを取り出す。その仕草を見ながら、瑞希が続ける。
「そのチャーハン、お母さんがよく作ってくれたんです。」
「そんなによく、優美は作ったの?」
「うん。メニューに困った時はいつも。」
「なんじゃそりゃあ。」
 二人は顔を見合わせて笑う。和室の方から、優希のいびきとも呻きともつかない寝言が聞こえる。二人はまた笑ってしまった。

 瑞希と賞多郎はおやすみのあいさつをした後、それぞれの部屋に向かう。賞多郎は居間の奥にある祖父母の部屋で寝るつもりで、瑞希は優希が寝ている和室で一緒に寝る。
 襖を開けると、居間からこぼれた明かりで、優希が大きく寝息を立てながら眠る姿が見える。さっき掛けてあげたはずのタオルケットが、もう蹴飛ばされている。
 賞多郎が居間の灯りを消すと、和室は障子から透ける光だけになった。窓の外の薄明るい光を、障子紙がいっぱいに吸い込み、ぼんやりと和室を照らしている。
 瑞希は雨が止んでいることに気づいた。
 障子に近づき、差し込む光の具合と優希の頭の位置に気を付けながら、少しだけ開ける。
 雨粒が瑞希の顔に映る。
 窓についた雨粒が上から下へ流れていく。その雨粒に滲んだ窓ガラスから、曇りがちな夜空が見えた。瑞希はその狭い隙間から星を探してみる。
 彦星と織姫。しかし瑞希には見つけられなかった。そもそも、それらがどのような星か知らなかったから、見つけようがなかった。ただ、雲の隙間から見える星々が、天の川だろうか、と考えるので精一杯だった。
 瑞希はゆっくりと障子を閉めて、自分の布団の中に潜り込む。隣で眠る優希の顔を見て、瑞希は驚いた。
 優希は泣いていた。
 瑞希には、優希が泣きながら何を呟いているのか、聞き取ろうとすれば出来た。しかし聞かなかった。ただ優希が泣いている、その事実だけで十分であった。

 瑞希は仰向けになり天井を見ていた。そして今夜のことを思い出していた。
 母親と優希と賞多郎の思い出、母親と賞多郎のこと、そして、母親のチャーハンのこと。瑞希にはどれも煩雑すぎて、自分の中でどう整理すればよいのか、まだわからなかった。
 ただ、今の瑞希にはっきりしていること。それは、明日の朝、あのチャーハンを食べられること。時間があれば、賞多郎に作り方を教えてもらえるかもしれないこと。そして、母親の葬儀と告別式があること。
 瑞希は、はっとした。賞多郎に明日の予定を伝えていない。10時に会場についてしまったら遅刻だ。賞多郎は弔問客として後ろの席に座るかも知れないが、瑞希と優希は親族席に座るから、遅刻するわけにはいかない。
 瑞希は自分のことを変に思った。母親の葬式だというのに、遅刻の心配をしてどうするのか、と。それでも気になる明日の予定は、自分が早起きすれば問題ないと、自分に言い聞かせて眠ることにする。

 目を瞑ったとき、瑞希は昔のことを思い出していた。昔のこと、それは優希や賞多郎は知らない、母親と瑞希との思い出だった。
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登場人物紹介

こんにちは!

『みかん箱』 執筆者の三柑八朔です。

「登場人物」の場所を使って、各短編の簡単なあらすじを紹介していきます。

興味のある作品を探す参考にしてください!

読んで面白かった作品には、「いいね」していただけると嬉しいです。

第一話 「本は巡っていく」

ジャンル:ドラマ、青春、ブックカフェ

吉田は、無人のブックカフェ”ABC”から金になる本を盗もうとしていた。高校生活を満喫するには金がいるのだ。しかし、彼を阻むように、自称:常連の女性はいつまでも「1万6千円」の本を読んでいる。早くその本を読み切ってくれ!果たして彼は、最後の高校生活を「せどり」で彩ることができるのだろうか。

第二話「私の無限なべ」

ジャンル:ドラマ、記憶、キムチ鍋

契約期間満了により、実質リストラされた藤村は、引越しを明日に控えたアパートで最後の晩餐をしていた。メニューはキムチ鍋。明日の朝まで気持ちよく飲み明かすつもりだったが、その気持ちとは裏腹に、真っ赤な鍋からチラつくのはあの忌々しい記憶ばかり。彼女は今夜のキムチ鍋を食べ切れるのか。

第三話「津山恋愛事務所」

ジャンル:ドラマ、恋愛?、パシリ

輸入雑貨の仕入れやら、ネットニュースの書き起こしやら、恋愛事務所の「恋愛」の二文字からは程遠い雑用・パシリを押しつけられる新人所員のリョーイチ。先輩所員サムさんの寿退所を受けて、トコロテン方式に所長ヌル子と「恋愛相談」の現場へ駆り出される。さすが、『恋愛成就率99%』は伊達じゃない!

第四話「雨粒と星粒」

ジャンル:ドラマ、お葬式、親族

「お母さんが死んだ」、瑞希はタクシーに揺られながら考えていた。熱気と湿気でむせかえる式場。お坊さんのお経を背景にして、知らない人たちがすすり泣く声、それとお焼香の香りと手に残るザラザラした感じ。なぜだろう、私だけ取り残された感じ。そういえば、叔母さんの優希さんも泣いていなかった。

第五話「チューブ・ルート・8」

ジャンル:ややSF、二人の男、ポテトチップス

オリオン座の三つ星が輝く冬の夜、サバンナの星空をプラネタリウムにしてレオとライオは歩いていた。二人の故郷へ繋がる全天候型道路「チューブ・ルート・8」。透明なトンネル状の道を歩くレオとライオの仲に一つの危機が訪れていた。ポテトチップスの『のり塩』。それが全ての始まりだった。

第六話「夜曜日の日」

ジャンル:実験小説?、交換日記、大学生

「僕はいつもね、そう、あれ以来、よく聞くレコードがあってね、レコードなんて君からすれば、ハイカラ気取りって言われるかもだけど、レコードというのはね、CDのように究極的には0か1かに変換されうる情報とは違って、0~1という幅があってでね。あぁ、ところでレコードのタイトルだけど、、、

第七話「エレベーターが動き出すまで」

ジャンル:ドラマ、タワーマンション、ハロウィン

ハロウィンの夜。希のマンションからは仮装行列が見える。今日に限ってテキパキと仕事を終える部下たちと、ハロウィンの人混みのおかげで、希は仕事帰りに夕食を食べ損ねていた。今から夕食を買い出そうと希がエレベーターに乗ると、運悪く緊急停止してしまう。見知らぬ”和服白ゴス”の女性と一緒に。

第八話「血のないふたり」

ジャンル:ドラマ、アンドロイド、夜のお散歩

夜行バスに揺られて、夜の街にやってきたアンドロイドの子供のルルとミル。雪が降る寒々とした街で、あてのない、探し物をしている。コンビニ、屋台、牛丼屋・・・。夜の街をめぐり、いろんな人とも出会うルルとミル。結局、探し物は見つからないまま、何を探しているのかもわからないまま。夜が明ける。

第九話「ココアは苦めで」

ジャンル:ドラマ、場所取り、他人のなれそめ

スキー同好会の山田たちは、明日のサークル勧誘会に向け、花見の場所取りを徹夜でしていた。何かと競技スキー部には見下されがちなだけに、イベントではそのパリピで存在感を示したい!そして今年こそ念願の女子部員を!そんな野望を抱く山田をよそに、同好会随一の草食系に彼女ができたとか?

第十話「彼女は空になった」

ジャンル:SFホラー?、アパートの隣人、雨

彼が毎日夕日を眺め、大雨の夜は雨に打たれ、快晴の朝は日差しに焼かれる理由。それは、彼の彼女が空になったから、人工惑星の制御装置の生体コンピューターになったから。人間と機械の恋は、かなわない恋。彼を現実に引き戻すため、そして彼女の野望を食い止めるため、行動をしないといけない。

第十一話「小町ちゃんよ、永遠に。」

ジャンル:ドラマ?、町おこし、マスコット

『みなさん、こんにちは!今日古町の特別広報部長の京小町です!今日古町と言えばジャガイモ!夏の新ジャガは、ほっぺが落ちちゃうくらい美味しいんですけど、名産品はそれだけじゃないんです!魅力いっぱいの今日古町を今日からたくさん紹介していきます!みなさん、どうぞよろしくお願いします!』

第十二話「クリスマス・モーフィング」

ジャンル:ドラマ、掌編集、クリスマス

時代も場所も登場人物も違う、クリスマスな掌編集。四畳半で凍える青年、サンタを待ちわびる子供、独り身の女性、そして、クリスマスも仕事の男・・・。決してハートウォーミングしないけれど、これを読んだ皆さんのクリスマスが、作中のどの登場人物よりも、少しでも良いものであることを祈っています。

第十三話「ランドルトの環だけ残す」

ジャンル:ドラマ、青春、身体測定

学校へ行って帰ってくる、いつもどおりの毎日。ただちょっとだけ違うのは、全校生徒がアンドロイドなくらい。そして今日も始まる人間ごっこ。そんな生活にサトーは辟易し始めていたが、例えアンドロイドといえども高校生ならば、ティーンエイジャーらしい悩みはあるわけで。退屈な一日が始まる。

第十四話「『ままならない日々_近藤の場合』~とけない氷~」

ジャンル:ドラマ、ラムバック、ある人の日常

一人で呑むようになったのはいつからだろう。大学の失恋から?仕事を始めてから?目の前のグラスは答えてくれない。近藤は不確かな意識の中で、明日飲むための感情を製氷棚に入れ、今日飲んだ昨日の感情をトイレに吐き出す。そうやって今夜も、彼女のままならない日々が終わ(始ま)るのだった。

第十五話「川に落ちた日」

ジャンル:ドラマ、川の流れ、感傷

桃に、河童に、オフィーリア。川に流されるものは古今東西、幾らでもあるといえど、まさか私が流されるとは。晴天の青空に、心地よくかぶさる草木、そして、体の裏側をヒンヤリとさせる川の水。それらは心地よく、とても良いものかもしれない。ただ、どうして私は川に流されているのだろうか。

第十六話「黄金色の小判型でサクサクとした衣」

ジャンル:コロッケ、コロッケ、コロッケ

 「あれは確かにコロッケだったんだ。」「いや、間違いないね。」「まさかあれがコロッケじゃない、訳ないじゃないか。」「あれはコロッケなんだ。」「あああ。」「あれはコロッケコロッケ。」「間違いなくコロッケなんだ。」「ああああああ。」「何と言おうと幾ら否定されようと。」「あれは、あれは、」

第十七話「読みかけの本」

ジャンル:ドラマ、『雪国』、帰省

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」実家へと向かう特急列車の中で、いつものように浜村は『雪国』を開きます。帰省する時の習慣でした。読むといっても最初の十数頁、島村が駒子と再会する所まで。ただ、浜村にはそれだけで充分でした。故郷に帰るには、それだけで十分でした。

第十八話「三十三平米の荒野」

ジャンル:ドラマ、なんちゃって戦後、地下ボクシング

戦争の傷が未だ癒えず、柔らかな春雨からも、古いガソリンのような臭いがしてくる街で、肩寄せ合って生きる二匹の狼がいた。ボクサーの『タロウ撲師』と、その自称マネージャーのラン子。焼けた街で何かを探して生きる二人に、闇市を仕切るヤクザ達の抗争が、どうしようもなく巻き込んでくる。

第十九話「『ヤツは四天王の中で最弱』と仲間に言われながら、勇者に倒された悪魔四天王の一人である俺は、気が付くと異世界転生して女子高生と入れ替わっていた、まではまだよくて、その女子高生の友人が「エア神経衰弱を始めよう」とか言い始めて、仕方なく付き合っているんだけども、この状況を的確に表現できるいい言葉を教えてほしい」

ジャンル:ドラマ、転生もの?、トランプ

第二十話「記憶の暗がり〜序章〜」

ジャンル:SFもどき、記憶、プロローグ

人類は情報を保管する〈ROM〉人間と、その情報を活用する〈RAM〉人間の2種類に分けられていた。RAMとして生きていた山内は違法なROM人間オークションであるROMの女性と出会うが、脳には彼女の死んだ父の遺品が刻まれていた!これは山内と彼女がその父の謎に立ち向かうまでの序章。

第廿一話「」(更新予定日:4月13日7:00)

ジャンル:ショートショート?、戦争、一兵卒

→ごめんなさい!来週更新します。作品の形式をやや変える予定です(?)

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