第17話「読みかけの本」
文字数 10,195文字
恐らく、日本で最も有名な書き出しでしょう。ここで書かれている国境というのは、かつての
『雪国』ではこのトンネルを抜けた後、
さて、こちらはどうでしょう?
『雪国』の島村と一文字違いの名前、
浜村がこの小説を開くのは決して、今日が初めてではありませんでした。
年末に帰省する時、5月の連休に帰省する時、8月のお盆に帰省する時。浜村が地元に帰る時は必ずと言ってよいほど、この小説『雪国』を旅行鞄に忍ばせて、車内で開くのでした。今日も、年末の帰省の途中でした。
浜村が出発した街では、すっかり雪が積もり、道路には白くない所がありません。これから浜村が帰省する実家も、いわゆる雪国。小説の書き出しのように、「長いトンネルを抜けると…」ということは、残念ながらありません。
浜村はいつものように、雪国から雪国へ帰省するだけなのでした。
浜村はカバーの擦り切れた小説を開きます。小説の栞紐を持ち上げ、ゆっくりと開きます。
しかし栞紐があったところではなく最初のページから、あの書き出しから、所在なさげに読み始めます。
浜村はこの小説が好きでした。
果たして、何回この冒頭を読んだでしょう。
葉子が車窓から体を出して、駅長さんに声をかける場面を何度、頭の中で思い浮かべたでしょう。『あの悲しいほど美しい声』を、幾度ともなく想像し、幾度もなく頭の中で再生したことでしょう。
しかし、浜村が読み進めるのはいつも、ここまででした。駅で島村が葉子と別れてそれっきり。島村が物語の中で、葉子と再会することも、彼女のことを知ることもありません。
それは、浜村が本を読むのが遅いというのも原因でしたが、それ以上先を読み進めようとしないことが、一番の原因でした。
浜村は実家まで帰るまでの移動時間、その間にしか小説を読もうとしませんでした。そのため、途中まで、それも物語の佳境どころか、中盤に至るよりもずっと先で、読み捨ててしまうのです。
そうしてまた、帰省の季節になると、初めから読み直すのです。
浜村は10分も集中できずに、本を閉じてしまいます。小説を膝に置くと、着ぶくれたダウンコートをまとめ自分に引き寄せると、座席に深く座り直します。
浜村は、窓側の席に座っているので、そのまま窓の方を向きます。窓は手で拭く必要などないほど乾いています。それでも、浜村は手で拭う振りをしてから、窓の外を眺めます。ただ、窓の外を眺めるというのは恰好だけで、本当は窓に映る車内を見ていました。
列車は帰省ラッシュの真っただ中です。右側2列、左側2列のシートは、空いているところなどありません。
浜村の隣には、壮年の男性がスーツ姿で、腕を組んで寝ています。通路を挟んだ隣は、家族連れでしょうか。父母と子供二人が席を向かい合わせにしています。子供たちは寝静まり、両親も疲れたように席にもたれています。手荷物置き場には、大きなキャリーケースが一つと、お菓子の紙袋が二つ。
浜村は視線をもう一つ前へ、彼の座る席から斜め前の座席へずらします。
ただ浜村からでは、それも窓の反射越しには、座る人の左肩しか見えません。ふっくらとしたコートの肩。ここからでははっきりとしませんが、浜村が期待したような、人物ではないでしょう。
浜村は小説の島村がしたように、鏡のようになった窓を通して誰かを見ようとしました。しかし、その試みはいつも、帰省ラッシュで込み合った車内ではうまくいきません。彼が期待するような人物は、現れませんでした。それは今日も。
浜村はいつも、旅行には旅情というものがつきものだと考えていました。
駅のホームで乗り継ぎを待つ時間、特急列車の車内販売、込み合った車内の雰囲気、特に年末は頭がくらくらしてくるような暖房に、汗や溶けた雪によるまとわりつくような湿気、それらも、浜村には趣のあるものだと、感じました。
ただ浜村には、旅情もとい旅行というものに、もっと空想的な、いわば理想的な要素を求める節がありました。
それは、普段は内向的で排他的な性格でも、旅先では社交的になり気さくな性格を演じてしまうように、浜村は旅行という行為やそれにまつわる出来事に限らず、自分自身もなにか、理想的なものにしたがるところがありました。
何か思案するように、『雪国』を読むというのも、それの一つでした。
そして、窓の向こうに映る美しい女性という存在も、浜村の帰省を理想的なものに変えるためには、どうしても必要な存在でした。
しかし、その様なものは願ったくらいで、目の前に現れるようなものではありません。
事実、彼があきらめて目を閉じてしまうまで、その様な存在は現れませんでした。
浜村は車内アナウンスで目を覚まします。
特急はもう少しで、実家の最寄り駅に着くようです。浜村はここからバスに乗り換える予定でした。長かった帰省も最後の乗り換えです。
浜村はシートで大きく伸びをした後、栞も挟まずに閉じられた小説を、コートのポケットにしまいます。
小説の進み具合はいつも通り。島村が駒子と再会したところまでしか、読んでいません。
浜村は隣の男性を起こさないように、男性の膝上を大きく跨ぎ、通路に出ると身なりを整えます。頭の上から小さなボストンバッグを一つ慎重に降ろし、肩にかけます。
浜村と同じ駅で降りる人は、あまりいないようでした。誰も立ち上がらない、寝静まった車内を、浜村はずんずんと歩きます。
さっき、窓の反射越しに見ようとした人。斜め前に座っていた人も、シートにもたれて寝ています。その人は、やはり男性でした。
浜村は車両の連結部のドアを開き出入り口のところまで来ると、奥の車両からこちらへ歩いてくる人影、女性の姿が見えます。
女性は明るい茶色のダッフルコートに、ムートンブーツを履いています。さらにキャスケットを目深に被っているので、素顔までわかりませんでしたが、背の低さと可愛らしい服装とが相まって、妙に幼く見えました。
また女性は、大きなキャリーケースも伴っています。海外旅行にでも行くような、腰ぐらいの高さのあるキャリーケースを、一生懸命に引きずっています。その不釣り合いが、より、女性の幼さを強調したのかもしれません。
浜村は大抵この駅では一人で降りることになるので、同時に降りる人がいることに驚きました。
試しに声でもかけてみようか。浜村の旅情がそのように提案しましたが、既に地元まで戻ってきていたことと、その女性の妙な幼さのために、その提案を心の中で退けました。
浜村はその女性を先に列車から降ろすと、途中まで後ろを付けてみようか、せめて顔だけでも見ようかと思いました。しかし女性は列車から降りるとすぐ、エレベーターの方に歩いて行ってしまいます。浜村の興味も、流石にエレベーターで二人っきりになる気まずさを踏み越える程ではありません。足の向きをくるりと変えて、階段の方へ向かうことにしました。
キンと張りつめた、冬の空気。
浜村は階段を小走りに登っているうちに、暖房でやわらいだ肺が、冬の空気に絞められるのを感じました。体の内側に霜がついていくような感覚です。
浜村が駅の改札を抜け、乗り継ぎのバスに乗ったとき、一度、外の空気にあてられて冷え切った肺が、また、バスのどんよりとした暖気であたたまります。浜村は、さっき見た女性のことは、凍り付いた霜が溶けて消えるように、頭の中から消えていました。
浜村はバスに揺られています。
列車とは打って変わり、閑散としていました。乗客は浜村とおばあさんが一人、それだけです。浜村はバスの奥に、ちょうど非常口のある席にいます。暖房の吹き出し口がちょうど足元にあるので、列車の時よりもずっと温かいです。列車では、頭の上にあるエアコンから温風が吹き付けられるだけでした。顔は温まっても、足元は意外に寒く、冬靴同士をすり合わせていました。しかしバスでは、足元から、感覚的にはお尻の辺りから、まるでお風呂に浸かっている時のように、じんわりと温まります。汗と外気で冷たくなった下着が、また、熱を蓄え始めるのがよくわかります。
非常口と書かれた窓はじっとりと、それも落書きができそうな程、結露していました。
浜村はそれを見つけると、右手で少しだけ拭います。
拭うといっても小さく、手のひらを広げたよりも小さい丸です。本当は顔一つ覗き込めるくらい大きく拭うつもりでした。しかし、窓に右手をつけたとたん窓の結露が、それは、浜村が想像していたよりも、ずっとたくさんの水滴が、右手をぐっしょりと濡らします。水滴が腕をつたわり、肘まで濡らします。驚いた浜村は窓をそれ以上拭うのをあきらめ、濡れた右手を太ももとシートの間に入れます。
そうして、浜村は窓の小さなのぞき穴から景色を見ます。
道路沿いの街灯はぼんやりと、それも窓の結露を通してみると、滲んだように、街を照らしています。ただ、そのような街灯の灯りよりも、テールランプの灯り、赤っぽい光が通り過ぎる方が多いのでした。
ヘッドランプが窓の結露に乱反射し、光の粒をまぶされる対向車。バスとすれ違う瞬間、ちょうど浜村が窓を拭ったあたりに差し掛かると、まぶされた光の粒はたった一つの光に収束します。それは一瞬の出来事で、気づけば、車はバスのずっと後ろに、テールランプの光を窓の結露にまき散らして、過ぎ去っていきます。
ひろがって、しぼんで、またひろがる。
そうやって繰り返す光の拡散と収束は、浜村にはどうにも、夢のように感じました。
『夢』と言ってもそれは、幻想的に感じるという意味ではなく、現実感が薄くなったように感じている、それだけのことです。
浜村は窓の向こうを見ながら、光の本来の姿というのは、この拡散している時ではないか、そのようなことを考えていました。浜村には、窓の中で一瞬だけ収束する光というのが、夜道を一直線に照らす光というのが、現実感のない、奇妙なものに見えていました。そのような感覚は、窓の外の景色に限らず、窓の内側、車内にも延長されていきます。そういった感覚が、むしろ妄想というべきものによって、浜村は現実感が薄く、まるで夢のように感じさせました。
浜村はぼんやりと窓の外を見るのでもなく、もちろん何かを見ているのでもなく、ただぼんやりとしていました。目に入る光が全て、目の中で拡散してしまうように。
不意に、車内が赤い光で一杯になります。
もう一人の乗客が、降車ボタンを押したようです。バスはゆっくりと減速しながら、歩道に寄せていきます。
バス停はちょうどコンビニに面しています。コンビニの店内から漏れる蛍光灯の光が、ヘッドランプと同じように光の粒になっています。店内から漏れ出た光が、お店を外から包んでいるというのは変な話ですが、光の粒がお店のそれ自体を包んでいるようでした。
おばあさんはゆっくりと立ち上がり、バスの降り口の方に歩いていきます。ハンドバッグから財布を取り出し紙幣を両替機に入れると、機械の唸りに混じって、濁ったチャリン、チャリンという音が聞こえてきます。
小銭を数えるのに大分手間取っているようで、なかなか、おばあさんは降りません。浜村はその様子を見ていました。見ていると言っても、手間取るおばあさんのことを無言のうちに非難するような意味ではありません。
むしろ今の浜村の状態を考えると、その様子を見ていたと限定するのは間違いかもしれません。バスの前方を、歩道側の窓に映る光を、その光のもととなっているコンビニの方を、ぼんやりと眺めていました。そして浜村は、ここで降りようか迷っていました。
浜村が降りるつもりのバス停より、3つほど手前で、降りるには早すぎるかもしれませんが、バス停3つ分は、歩いても苦になるような距離でもありません。今は何より、あのコンビニが気になっていました。もしかしたら、知り合いがまだ働いているかもしれません。
誰もこのバス停で降車ボタンを押さなければ、ましてや、おばあさんがバス代の支払いに手間取るようなことが無ければ、このコンビニで働く知り合いのことを思い出さなかったでしょう。
いや、もしおばあさんが降りなくても、今の浜村なら、あのコンビニの光を見つけた途端、すぐに思い出したでしょう。
原因がどちらにしても、思い出してしまったことには変わりありませんし、降りるかどうか迷っていることには、変わりありません。
知り合いに会うことは、絶対しないといけないことではありません。しかし、いざ目の前に機会が訪れてしまうと。それも、決断を下すのに十分すぎる時間があると、余計に判断が鈍り迷ってきます。
これくらい迷うくらいなら、降りてしまった方がいいかもしれない。
そう決断すると、浜村はバスの降り口へ向かいます。おばあさんは手すりにつかまりながら、バスの段差を降りている所でした。
浜村はバスから降りると、まっすぐコンビニへ向かいます。
駐車場には車は一台もないせいで、ガラス張りの店内がはっきりと見えます。さっきまで、結露した窓越しに見ていたせいかもしれません。コンビニがやたらはっきりした、存在として、浜村には見えていました。
暖房で温められた体が冷めないうちに、店内に入ります。
「いらっしゃいませー。」
入店音から少し遅れて、売り場の奥の方から若い女性の声が聞こえます。聞き覚えのある声でした。
しかし浜村は、すぐに声のした方には行かず、入口近くの雑誌コーナーで立ち止まり、何かを探すふりをします。
店内には、女性と浜村の二人しかいないようです。女性が商品の整理をしているのでしょう。お菓子か何かの袋を掴む音や靴と床が擦れる音だけが、店内に響きます。その音もすぐに鳴りやみ、女性がレジの方へ、様子を見に戻ります。
キュ、キュ、キュ。
キュ、キュ、キキュッ。
不自然に、足音が鳴りやみます。
女性が浜村のことに気づいたようです。
キュ、キュ、キュ。
キュ、キュ、キュ。
ただ女性は、特に声をかけるようなことはせず、また、商品の整理に戻ります。
浜村も雑誌の表紙を眺めるだけで、女性の方を見ません。それでも女性が自分に気づいただろうということは、わかりました。
浜村は女性に声をかけることはせず、女性も浜村に声をかけることをせず、時間が経っていきます。
浜村が雑誌コーナーを端まで眺め終えた頃、作業着を着た男性が店内に入ってきました。その男性はまっすぐレジに向かいます。
「オネーちゃん、タバコ。」
女性は小走りにレジに戻ると、男性が番号や銘柄を言う前に、棚からタバコを取り出し、会計を始めます。
浜村はその様子を横目に、男性が会計を終えるよりも早く、コンビニを出ていきます。浜村がお店を出る時、女性の声はしません。浜村は実家に向かって歩き始めました。
コンビニで働いていた女性は
なぜ、麻子は進学しなかったのか。浜村はその理由を知りません。ただ帰省する度にそのことを思い出して、ここへ立ち寄るのでした。立ち寄ると言っても、立ち話や、お互いの近況報告をするようなことは稀です。むしろ、相手の顔を見るだけで立ち去るというのがほとんどでした。そして今日も、レジで接客している姿を遠めに見て、コンビニを後にしました。
浜村は、麻子がコンビニで働くようになってどれくらいになったか、考えていました。浜村が大学に進学してから今日まで。つまり今年で6年目、来年で7年になります。大学に進学した同級生は、浜村も同様に、就職して働き始めています。そのような中で麻子だけ、彼女だけ、変わらずここで働き続けています。
大学に進学してから6年、浜村は地元を離れてから経った時間の長さに驚きました。そしてその長さは、浜村が麻子と知り合ってからの時間とも比例します。既に12年も経っていたことに、浜村は改めて気づきました。
浜村と麻子とは腐れ縁のようなもので、友人同士なだけで、恋仲になったこともなければ、もちろん、浜村もそのようなことを意識したこともありませんでした。高校もたまたま同じだっただけです。特別、仲が良かったわけではありませんでしたが、麻子というのは、今でも話ができる唯一の中学時代からの友人でした。そして、浜村が地元を離れた時から変わらない姿で、何時までも、同じコンビニに勤めている知り合いでもありました。
薄く雪の積もった道を歩き続けて、浜村は実家にたどり着きました。
実家は郊外の住宅街にあります。浜村は、12年という歳月を思い返しながら、実家のまわりを見回します。
ついこの間帰省した時、工事の幕がかかっていた斜向かいの家は、工事が終わり二階建てだったのが平屋になりました。6年前、浜村が進学した時と比べて、実家の外壁やガレージの塗装は暗い赤色から、暗い緑色に変わりました。12年前、中学校にまだ通っていたころは、まだこの辺りには空き地が目立っていました。
街灯が明滅します。
雪がすっかり止んだ今では、街灯の青白い光が頭の上から照らしています。ちょうど明りが浜村を後ろから照らし影を雪の上に投げかけています。うっすらと積もった雪は、アスファルトのぼこぼこした道を綺麗に覆い隠し、白くのっぺりとした平面に見せています。その上に出来上がる浜村の影は、やけに黒く見えます。雪の白さのせいでしょうか。夜空よりも黒い空間がそこにありました。
浜村はその影をじっと見た後、その雪を踏みしめるように歩くと、玄関フードに荷物を置きます。代わりに雪かきスコップに持ち替えます。玄関の前に薄く降り積もった雪を、簡単にかいてしまうと、浜村は満足したように実家へ入ります。
浜村が雪かきした後の歩道は、綺麗に雪をかき集めたというよりは、乱雑でムラがありました。街灯に照らされる歩道は、もはや平面ではなく、あちこちに小さな雪の塊ができたので、真っ白な平面にならずに影ができてしまいます。ただ、少し風が吹けばこのムラはすぐに均されて、また雪は平面になるでしょう。
翌日、浜村は夕方に実家を出て、街で友人と飲んでいました。大学の知り合いも帰省しており、近くに来ていました。
会ってする話は、普段の生活のことが中心です。生活の話と言っても、友人たちはみんな都心に勤めていたので、浜村にはなかなか話に入っていけません。
昨年会ったときは、そのようなことはありませんでした。むしろ、都会の愚痴ばかり話していました。満員電車が辛いということや、デパートばかりで安い食料品店が少ないということ。それらの話はいつも、都会は住むところではなくて地元が一番だ、という風に落ち着くのでした。しかしそれから一年も経つと、友人は都会の生活に馴染むようになっていました。行きつけのバーができたとか、社宅を出てデザイナーズマンションに引っ越したとか、そういう話ばかりになっていました。
夜中の10時頃まで飲み歩いたところで、友人の携帯が鳴ります。どうやら、緊急の仕事が入ったようです。それをきっかけに飲み会は解散になりました。浜村も一人、帰りの電車に乗り、昨日の夜と同じ駅にいました。
バス停の時刻表を見ましたが、既に終発は終わっています。実家まで歩くしかありません。
浜村は酔いが回り、火照った体を冷ますのに、上着のチャックを開け、フラフラと歩いていました。浜村はあまり飲みすぎるようなことはありませんが、今日は珍しく、酔いが回っています。折角、一年ぶりにあった友人との飲み会。彼らとの話について行けないのが寂しく、お酒ばかり飲んでいました。
浜村は、飲みすぎたことを後悔する一方で、友人達との距離を感じていました。その距離というのは、仲が良い悪いという精神的な距離ではなく、もっと物理的な距離です。友人たちが遠くに感じました。それは、同じ地元で、同じ場所で話しているのに、何処か遠くにいるような感覚。決してそれだけで、関係が無くなるようなことはないはずでしたが、浜村にはとても今まで通りには戻れそうとは、思えませんでした。
次回から誘われても断ろうか、ただそれは、自分から関係を断つことになってしまう、浜村は取り留めもないことを、酔いの回った頭では結論を出すのは難しいだろうことを、ぐるぐると考えていました。
浜村は麻子の働くコンビニの前に来ていました。浜村はさっきの問いの答えを求めるように、コンビニへ歩いていきます。
「いらっしゃいませー。」
聞こえてきたのは男性の声でした。
浜村は店内を歩いて回りますが、麻子の姿はありません。レジカウンターの向こうに男性が一人、立っているだけでした。いつも通りであれば、麻子がシフトに入っている時間帯のはずです。浜村はどうしても気になって、男性に聞くことにしました。
「すみません。藤原麻子さんって。今日はもう上がりましたか?」
「君、誰?」
レジの男性は訝しげにこちらを見ます。男性の名札には「店長」と書かれています。
今の浜村はどう見ても酔っ払いでした。そのような身元の分からない人が、従業員について訊いてきたら、怪しむのは当たり前です。それが、店長という立場であればなおさらでした。
「警察ならまだしも、誰だか分からない人に、スタッフの個人情報は教えられませんので。」
「いえ。僕は、彼女の同級生です!」
浜村はカウンターにもたれかかりながら、食い下がります。
店長はその姿を見て、相手をするのが面倒だと思ったのか、それとも話しても問題ないと思ったのか、少し考えてから口を開きます。
「彼女はもう、やめましたよ。」
「え?昨日まで働いて…。」
「ええ。だから、昨日一杯で退職したんです。もう、ここで働くことはありません。」
店長はため息をついて、続けます。
「4年くらい働いてくれて、頼りにしていたんだけどなぁ。」
店長の話しぶりを見る限り、酔っぱらいを追い払うための口実ではなさそうでした。
思いがけない店長の言葉に、面食らった浜村は、大きく息を吸った後、
「4年じゃなくて、6年です!」
と、店長に食って掛かってから、コンビニを飛び出しました。
衝動的にコンビニを出た浜村は、そのまま来た道を戻るように、駅に向かって走ります。
なぜ走っているのか、それは浜村にもわかりません。ただ、走らないと気が済まない、とりあえず、走ってどこかに向かわないといけない。得体の知れない焦燥感だけで、走っていました。
コンビニの駐車場を斜めに駆け抜け、歩道を突き進んだところで、向かいから来た人とぶつかってしまいました。浜村は下を向いたまま、無視をして走り抜けようと思いましたが、地面に落ちたキャスケットに見覚えがあります。
ベージュ色のキャスケット。
ついさっきまで忘れていましたが、特急列車で乗り合わせた女性の物でした。あの時は、帽子に隠れて顔が見られませんでした。
浜村は少し引き返してキャスケットを拾うと、謝りながら女性に渡します。
目の前ににゅっと、細い腕が伸びます。
その手は骨ばっており、深いしわが刻まれたものでした。
浜村は思わずキャスケットを引っ込めそうになりましたが、その細い手が力強くキャスケットを掴みます。
「ちゃんと、前を向いて歩きなさいよ!」
垂れた頬を震わせながら、そう吐き捨てます。女性はキャスケットを目深にかぶると、歩き去りました。
あまりの出来事に浜村は茫然となりました。
歩く姿は列車で見た時と同じ、妙に幼く、可愛らしく見える姿でした。しかし、実際は背の低いお婆さんでした。
我に返った浜村は実家に向けて歩こうと踏み出すと、何か硬い物を踏みます。見てみるとそれは小説、列車で読んでいた『雪国』でした。
浜村はそれを拾い上げてみると、ひどく泥だらけで、頁も濡れてくっついています。それでも持ち帰って、綺麗にすればもう一度読めそうでした。
しかし浜村は『雪国』をポケットに、もう一度しまわず道路に投げ捨てます。
浜村は夕方に母親に話したことを思い出していました。「今夜は帰りが遅くなる。もしかしたら、明日の朝になるかもしれない。」と。
浜村は少し安心したように、また、意を決したように。とりあえず、今夜はまだ家に帰らないと心に決めると、浜村は力強く走り始めました。
道路の街灯は明滅を繰り返しています。電球が切れかかっているようでしたが、歩道をがむしゃらに走る浜村の姿をちゃんと照らしています。まだ覚束ない浜村の足元を、まっすぐとした光で照らし続けています。